7. 魔都の1番長い1日
我が友ナプティアにとっては初歩中の初歩だから、記すという発想すらないのだろうが、魔術師が魔術を使う場合、彼らが用意するのは魔法陣と詠唱詩、そして十分な休息により得る魔力だ。魔法陣は注いだ魔力を変換し形態を変えるための錬金炉であり、詠唱詩はその威力や精度を高める触媒となる。
詠唱魔術と彼らが呼ぶそれは、先の三要素から魔法陣を簡略化したものだ。スクロールに描く代わりに即興で掌の上に魔法陣を構築する。その際、錬金炉である魔法陣から発される熱から身を守るために彼らは手袋を愛用する。そして理論上、高度に習熟すれば、その精度と威力を代償に詠唱は省略可能だ。そうなると、彼らの魔術は我々魔物の多くと同じ予備動作に乏しいものとなる。
「実を言うと、いつまで経っても牙を見せない君が本当に吸血鬼なのか疑い始めていたところだ、フレレクス。少しばかり偏食家でひねくれた、ただの人間なんじゃないかってね」
「光栄だよ。本物の吸血鬼はあの忌々しい書を開いた瞬間に死んでいる、ナプティア。誇りとともにね。ここにいるのはその亡霊、君がしたためた物語の登場人物だ。人を襲わないと君が信じて記すなら、友情に免じ付き合おう。だが、それは舞台の上だけだ。君が筆を置くと言うなら話は変わる」
「随分と都合がいい。君のような難解な登場人物は、たいてい物語の中盤で死ぬ。書き手のために、ね。そしてこう続けようか。──以後の章は“善なる魔物”ではなく“大呪木の花弁”へ捧ぐ。君の名は脚注にでも小さく記しておこう」
「その出来では遺稿にするほかあるまい。後世で晒されぬよう、友として責任を持って焚べてやろう。君の灰を添えて。幸いここは墓地だ。撒いても咎める者はいまい。万物は還元されるとは、君たち魔術師の教えだったろう?」
ナプティアの目が苛立ちに鋭く光った。返答は魔素が震える微かな音。一歩横へ移動する。次の瞬間、獰猛な発火音とともに仄白い火が弾ける。つい先まで僕の立っていた位置だ。火は寄る辺を見つけられず、勢いを失い消えた。
「……惜しいな。君があと少し遅ければ、埋葬と改稿の手間が省けただろうに」
ナプティアは冷笑とともに平静を取り戻し、こちらを見据えた。
「まるで予知だ。だが君にそんな力はない。そうすると音か? 耳がいいのも考えものだな」
「君がいかに優れた魔術師といえど、時と場所は選ばなければいけない、ナプティア。忌まわしい日光がなければ、この程度造作ない。たとえ魔術がなくとも」
「次は避けられると思わないことだ」
「いいや、次は来ない」
彼が次の魔術を使うよりも先に、その懐に飛び込んだ。彼の手袋をその手から抜き取ろうとした瞬間、ぐるりと彼の手が翻った。人間では有り得ない反射速度だ。彼の目はまだ僕が先程いた場所を見ている。こちらの動きについてきたわけではなさそうだ。あたかも手だけが独立した生き物のように勝手に動いた。
翻った彼の手が僕のナイフを掴む。躊躇いなく刃を掴むその掌に、手袋の表面には傷1つつかない。これはただの黒手袋ではない。再び空気が乾き、慄くように震える。彼の魔術の予兆。掴まれたままのナイフを手放す。退いた矢先に目の前で光が弾ける。確かに避けた。だが、熱風とともに目の前が白で塗りつぶされる。閃光だった。それも視界を焼き尽くすほどに眩い。曇天の日光でも厭わしいというのに。焼かれた目を手で覆った。
「よくも。考えたものだ、ナプティア」
「暗がりの獣は光を嫌う。吸血鬼も例外ではないらしい」
ナプティアは植物と調薬を専門とする魔術師だ。戦闘は本分ではない。だが、薬師にそぐわぬ勇猛さと彼が専ら調合に用いるために会得したであろう火の威力、精密さを鑑みれば、彼と正面から対峙するのが賢い選択でないことは多くの魔物が合意するだろう。
「獣か。正気を手放したものをそう定義するならば、この場でどちらをそう呼ぶべきかは明白だ。その手袋は人狼革か。趣味の悪い呪具だ。知っているかい、ナプティア。うまく狩れば人狼の死体からは2種の革が採れる。狼の部分と人の部分だ。その手袋は外側を狼の部分で、内側を人の部分で作っているようだ。脱げなくなっても知らないぞ」
「そうか、道理でよく馴染む」
人狼革は鋼鉄のナイフでは切れない。加えてあの防御は人間の速度から逸脱している。彼の意志の外で手袋が動き反応したようだ。そうなると、彼を傷付けずに黒手袋を奪い無力化することは手持ちの武器では困難だ。ナプティアの相手をするよりも、大呪木を優先すべきだ。
間髪なく上がる彼の火を避けながら、部屋を照らす明かりの松明を取る。かつて彼から譲られた火浣布で火を上から覆う。燃えない布の下で火は息絶え、周囲が心地よい闇に包まれる。消えた松明を窓から放った。火を操る魔術師が、火しか攻撃魔術を扱わない魔術師が、これを譲った意味を見失う訳にはいかない。
「こちらも同じ手を使わせてもらおう。これで君の目では何も見えまい、ナプティア。そこでじっとしていろ。根で足を引っ掛けて、窓から落ちても助けない」
「卑怯な。出てこい、フレレクス」
彼は手近な枝に火をつけ暗がりの中で周りを見回していたが、人の目には暗すぎる。彼がむやみに火を放つことはなかった。ただでさえ、この小屋は木製でいたるところに乾いた根や蔦などの可燃物が覆っている。大呪木に延焼するかもしれないと考えているようだ。そんな思考力が残っていなければ幾分か簡単だっただろうに。
ナプティアに背を向け、月光の届かない暗がりへ潜みクロスボウを構える。夜闇でこそ研ぎ澄まされる我々の感覚の前では朽ちかけた大呪木の急所は明白だった。引き金を引く。命脈に撃ち込まれた2本目の矢に幹は大きく割れ、白い葉が一斉に枯れ落ち辺りに舞った。小屋は大きく傾き、崩壊間際だった。
遅れて状況に気付いたらしいナプティアが悲鳴を上げた。
「フレレクス、なんてことを! 彼女が死んでしまう!」
「そのつもりだ。正直なところ気は進まない、ナプティア。僕だって何度も花見を楽しませてもらった。だが、枯れかけた木1本と友の命、天秤にかけるまでもあるまい」
天井を覆っていた葉が剥がれ落ちたことで、屋根に空いた穴から淡い月光が部屋を照らしていた。3本目の矢を用意していると、何かが足に当たった。根だ。床を這う根が動いている。まるで生き物かなにかのように。その瞬間、確かにナプティアの目が闇の中でこちらを真っ直ぐ射抜いた。
「……まさか」
思い至った結論にそんな言葉しか口に出せなかった。
床を這っていた足元の根が、滑らかに湾曲し、靴先へ向けて弧を描くのに気付き、距離を取る。見れば他の気根も土を探るように螺旋を描きながら伸張していた
空気が再びパチリと音を立てる。弾ける白光を避けた先、天井の裂け目から垂れ下がった蔦が重力に従って落ちてきた。鈍く脆いそれらを避けるのも引き裂くのも容易いが、不自然だった。まるでナプティアの魔術と示し合わせたような連携だ。
「ナプティア、間違っても君が動かしてるなんて言わないでくれ」
蔦を切り落とし根を避ける。
「大呪木ほどの大木になると、着生や寄生をする植物も多いようだ。これらはただのヤドリギやカズラ、イチジクの一種だが、大呪木の魔力を共有した共生関係にある。要するに、家主が倒れそうになって、同居人たちが揃って引っ越し阻止に動き出したわけだ」
「君の指揮で動くとでも? 植物と心を通わせたつもりかもしれないが錯覚だ。彼らに心などない。君がまだ人間のうちに目を覚ませ!」
聖水の滴る矢をつがえる。命脈の走る幹を守るように、無数の植物が表面を覆い始めていた。
「いいや。私の指揮ではないが、動きが頭の中に流れ込んでくる。まるで彼らの1本1本が何を考えているか、出来の悪い生徒のように逐一報告してくる。奇妙だが……悪くない」
「良くない傾向だ。耳を傾けるな。今に君自身が蔦の1本だと思い込むことになるぞ」
ナプティアは薄く笑って首を振ると、片手を上げた。その手の先で 根がひとりでに持ち上がり、棚に並んだ竹筒に巻き付く。ひとつをナプティアの手元へ運び、同時にもうひとつを根の先が封を外し部屋の中央の傾いた鍋の中に注ぐ。
「訂正しよう。私の声にも応じるようだ。……彼らの望みは明白だ。彼女の回復と家主の帰還。ささやかながら、私には前者が可能だ。こんなに切実に訴えられては叶えてやらない道理はない」
ナプティアは瓶代わりに竹筒を手に、僕に向けてではないなにかを呟きながら鍋の周りを歩きはじめた。鍋の下で火が色を変え揺れる。彼の気が逸れている隙に、のたうつ根を踏み、幹を守る植物を切り払う。その奥へ照準を向け、引き金を引いた。矢の刺さる鋭い音とともに、小屋が震える。周囲の植物の動きがぴたりと止まり意志を失ったように地面に落ちた。
「これで目は覚めたか? ナプティア」
彼は小屋の中央で背を向けて立ち尽くしていた。長い沈黙の後、彼はこちらを振り返ることなく、頭上を見上げた。その先で大呪木の枝が風に揺れていた。先端には淡い光が芽吹いている。なにかがおかしかった。そのなにかに気付いたのは、芽が膨らみ始めてからだった。釜の中にはいつの間にか何本もの根が伸び、水嵩が減っていく。
「間に合ったようだ。これを目にすれば、風情のわからない君でもきっと気が変わる」
ゆっくりと折りたたまれた花弁が開く。大きな白花の向こうで、幾つもの芽が光り始めている。強烈な甘い芳香に目眩がした。




