6. 大呪木の魔術師
毎週月曜更新中
(『33.星図奪還』の続きです。)
『 ──大呪木。
学名をArboris mortiflorens。この魔樹の目撃例は国内では片手で数えられる程度しか残っていない。薬学塔の偉大なる先達の長年に渡る根気強い駆逐による成果と言えるだろう。それがどれだけの命を救い、国益に貢献したかはここで論ずるまでもない。しかしながら、それ故にその生態や植生は謎に包まれたままだ。どのようにして、我々人間を魅了し、我々から生気を吸い上げ、屍の堆肥を積み上げるのか。その葉は、花は、実はどのような見た目をしているか。その芳香のいかに魅力的で、蠱惑的なことか。この樹は美しい。恐ろしいまでに美しく、狂おしいまでに儚い──
(以下、数項におよぶ大呪木への偏執的な賛美および礼賛)
』
僕は彼の手稿を畳んで深く息を吐き出した。冷たい血が流れていると言われる我々といえど、あまりの動揺や困惑に見舞われれば平静を失いそうになる。
「フレレクス、私は正気だ」
「残念だが、そうは見えない。ナプティア、君はなにをしている?」
「剪定だ。この樹は病にかかっている」
「確かにその通りだが、治すつもりか? それは本当に君の意志か、それともその樹の意志か」
「さて。しかし確かめる術はない」
夜更けの帰宅早々に、尻尾から煙を上げる人狼の慌てふためく姿に迎えられ、案内された先は墓地だった。
──いわく“先生がおかしくなった”。
我が友、ナプティアがおかしいのはいつものことだが、これ以上おかしくなったというなら問題だ。
果たして彼は大呪木が支える遥か樹上の小屋の中にいた。ここはかつてこの大呪木を世話していた樹人の薬師が所有していた小屋だ。彼女は去年姿を消したまま帰ってきていない。彼女のものと思しき所有物が黒犬の露店に並んだきりだ。放棄された小屋は、いたるところに大呪木と共生する植物の蔦や根が伸び朽ちつつある天井や壁の代わりを成していた。壁際にはずらり植木蜂が並び、天井からも無数の植物が溢れる鉢が吊り下がっている。奇妙だ。1年放棄された小屋の植物がまだ枯れていないというのは。
小屋内は四方を植物で完全に覆われた空間と化し、濃密な大呪樹の香りで充満していた。熟れすぎた果実のような、腐りかけた屍肉のような甘い死臭。
そんな場所で、当の本人であるナプティアはというと、火にかけた釜でなにかを温めながら、平然と小斧で大呪木の枝を落としていた。壁掛け松明の光が彼の手元を照らしている。
「イブラヒムから聞いたよ。夜通しはしゃいでいたようだね、ナプティア。人狼に火のついたナイフを投げて遊び、酒場の真ん中で火柱を上げて、店中の蝋燭を蒸発させたとか。挙げ句、自作の白舌薬で大呪木の花見酒か。実に思慮深い夜の過ごし方だ、先生」
「羨ましかったのなら素直に言えばいい、フレレクス。もっとも、花見酒と呼ぶにはまだ早い。彼女を咲かすにはもう少しの時間と手間が必要そうだ」
「君は正しかった。僕は黒塗りの地図を用意しておくべきだったらしい」
今この小屋にいるのはナプティアと僕の2人だけだ。元凶となったらしい人狼や、状況を知ったシーシャー嬢やハリスティーナ嬢も大呪木の周りに集まっていたが、彼らには下で待機して貰っている。穏便に解決できる見込みは低いからだ。
「気にする必要はない。おかげで彼女と出会うことができた。長い間孤独だったらしい。フレレクス、見ろこの白い葉を。わかるか? 全てカビだ。ここは灰の舞う火山地帯。彼女の好む低温低湿からは程遠い。積もる火山灰で樹勢は衰え、長く放置され茂った葉により通気性は悪くなった。根本に積もる落ち葉と灰は誰にも片付けられず多湿を生み、この有様だ。どうして誰も気付かなかったのか。よくもこんな残酷なことを。こんなになるまで放っておかれたのが信じられない」
ナプティアは切り落とした枝の断面を、小刀で削り滑らかにしてから、薬液を浸したセーム革で拭った。
「治した後にどうなるかは考えているかい」
「フレレクス、大呪木の性質を知らないのか」
魅了を操る魔物は、我々や大呪木の他にも複数いるが、いずれにも共通していることがある。一度かかってしまった魅了を第三者が解く手段は存在しない。基本的には解けるのを待つしかない。しかし、大呪木の誘惑は永続する。犠牲者がその根本に斃れ養分となるまで。この呪いを解く手段は2つだけだ。術者自身が解くか、術者が息絶えるか。
「開花に殉ずると? いや、答えなくていい。植物学者が植物に喰われる最期とは笑い草にしかなるまい。それも本望と今の君は答えかねないが、酩酊と魅了下の人間の言葉は無効、というのは我々吸血鬼が狩りの前に覚える初歩的な規則でね」
「私の邪魔をするつもりか、フレレクス」
「君が愚かにも他の選択肢を剪定するなら」
「帰ってくれ。君と争うつもりはない」
ナプティアは僕に背を向けて、鍋の中身を覗き込んだ。彼は片手にしか手袋をしていない。もう片方は、離れた机の上に焦げて穴の空いた残骸が投げ出されている。彼ほどの魔術師が術の加減を間違うとは考えにくい。そうする必要に駆られるまで追い詰められたか。彼自身の手も無事では済まないだろうに。
大呪木を見上げる。彼の言葉通り死にかけた木だ。しかし枯死の間際にして、幸運にも献身的な贄を手に入れたらしい。ナプティアは枯れ木の肥料にするには少しばかり惜しい魔術師だ。大呪木に血は流れていないが、魔力は流れている。たとえ大木だろうと、その流れが途絶えれば枯れる。
鏃を聖水を浸す。以前ナプティアから拝借したものだ。痩せこけ、ひび割れた幹の中に通る命脈に照準を合わせる。
「ナプティア、君たち魔術師は大呪木を燃やして処分していたらしい。君らの流儀に準じてもいいが、ここは街中の墓地、火遊びに興じるには地面の下が少々騒がしい。そもそも、この木は一応街の所有物でね。自然に枯れるのが最も誰も困らない。大呪木といえど、魔力に依存する生き物ならばそれを失うことがどれほど致命的か。今後のために見ておくといい」
「待て、やめろ! フレレクス!」
真っ直ぐに飛んだ矢は、幹の裂け目から深々と突き刺さる。次の瞬間、小屋全体が大きく揺れた。木そのものが悲鳴を上げるように軋み、頭上から白い葉が降る。次の矢を番えていると、彼が動く音がした。背を向けていても、彼の動きは音で視える。紙の擦れる音。スクロール、彼がよく使う制圧用の高温の発火術だろう。狙いはクロスボウか。周囲の魔素が彼に反応してひりつく。
「『Per nodos septem
ligavi flammam──』」
「行儀良く詠唱を待つのは魔術師だけだ、ナプティア」
振り返ると同時に、地面を蹴って距離を詰めた。彼は状況のまずさに気付いたようだったが、人間の動きは遅い。彼が後ずさろうとするのが見えた。だが、その足が動くより先にスクロールをナイフで裂き、彼の背後に回り込む。
「君の前では人間のふりをしなくていいから楽だ。そこの特等席で見ているといい。すぐに終わる」
奪い取った黒手袋をポケットにしまいながら、彼の襟首を掴んで横へ投げ飛ばした。彼は壁際の長椅子に倒れ込んだ。どこかをぶつけた音はない。周りに生い茂る植物が緩衝材となったらしい。
次の矢の照準を定めると、再び小屋が揺れた。周囲を支配する花の香りが一層深くなる。次の瞬間、空気が微かに震えた。違和感に反射的に後ろに下がれば、先まで立っていた場所の側に眩い炎が弾けた。吹き荒れる熱風に咄嗟に息を止める。振り返れば、ナプティアが白煙の中で立ち上がるところだった。彼の左手には魔術師の武器である黒手袋がある。見たことのないものだ。これまで彼が同じものしか使っていないからと、予備を携帯していないと予測したのは浅慮だった。彼の後ろで無数の蔦が揺れる。
「なら行際の良い詠唱は抜きといこう、フレレクス。魔術を使えない君にこんな手法を使うのは気が引けるがね」




