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26. 宵の市

毎日更新中


 翌朝、私は宿を出て、フレレクスの部屋を訪ねた。窓の前に外套を吊るして、日光を遮断した室内は朝だと言うのに薄暗い。部屋の主はというと、床の上で横になって羊皮紙を拡げていた。私は改めて彼の部屋を見渡した。初めて入った時に感じた違和感が何なのか私はようやく気付いた。塔の研究室に似ているが、決定的に違う点が一つある。


「フレレクス、君のことだから家に書架でもあるものかと思っていた」

「一度読めば事足りる。それより君はこの地図を見た事は?」


 彼は手にしていた羊皮紙を私に見せた。


「ある修道院跡で見つけたものの写しだ。恐らく200年ほど前のものだよ」


 羊皮紙には建物やうねる川が一杯に詰められていた。かつて使われていた地名が散り散りに書かれている。


「北側の山脈と地形はD国の南部に酷似しているのがわかると思う。だが、その南の川を見ろ。こんなものはどこにも無い」

「写しが間違っていると言いたいのか」

「いいや、そうだといいのだが。きっとこれは正しい地図だ。我々のいる今の地形が間違いなのかもしれない」

「フレレクス、君はまた因果塔みたいなことを言うな」

「なんだそれは」

「因果塔の魔術師さ。この世界の全てには理由があると考える集団だ。彼らも似た事を言っていた。いわく、かつて全ては今と違う形をしていたらしい。全てというのは君が指摘した川だとか山だとか、海の形だ。この100年ほどの間に何かが起きて、地理的・歴史的な大規模な離断が起きたと考えているらしい」


 フレレクスは言葉を失ったように静かだった。私は彼に地図を返した。


「……とはいえ、奇妙な科だ。校内で一番謎めいた科かもしれない。フィールドワークを殆どしないのに、失踪者が一番多い科でもある。この5年で何人の魔術師が前触れもなく消えていったか。彼らが言うには、魔物が現れたのもその離断の後だとか。到底考えづらい非現実的な話だ。そもそも、魔物がそれ以前に存在していなかったとしたら、200年以上前から紋章に使われているワイバーンやらグリフォンはどこから来たのだという話になる。魔物については目撃情報や詩が有史からある事を考えると……」

「驚いた。人間がそれほどまでに研究を尽くしていたとは」

「フレレクス、君は彼らの説を信じるのか?」

「ああ、僕も同じ考えだった!」


 彼は立ち上がるとナイフで壁に地図を縫い付けた。


「それを彼らに言ってやってくれ。因果科は喜んで君を歓迎するだろう」

「僕が人間なら今すぐにでも入学するんだが」


 彼は肩をすくめてから、私を振り返った。


「そうだ。依頼人の主人のことで、君に伝えたいことがある」

「名はクロエメアだったか」

「ああ、そのことだがね。ナプティア、依頼人が魔物だとは君も分かっただろう? けどあれは我々、つまり魔族や吸血鬼などとは大きく異なる存在だ。彼からは強烈な硫黄の匂いがしたと思う。それこそが彼らの特徴なんだが。君たちが最もよく使う言葉を使うなら、あれは悪魔と呼ぶべきかもしれない」

「確かに多くの伝承や伝説でその名は残っている。だが実在すると?」


 その伝承の多さに反して、まだ実在は確認されていない。少なくとも私のいた六塔の認識ではそうだ。


「非常に稀少だがそうだ。勿論君たちの伝説通りの存在ではない。人間の前に現れる事はほぼ無いだろうし、契約を持ちかける事もないだろう。だが、ここに存在していながら、どこにも存在していないという点では同じだ」

「つまり?」

「彼らは本来ここにいる存在じゃない。だが、強力な魔術を使う事で何者かが引き寄せ、それを維持することで存在している。魔族の間では致死魔術とも呼ばれているがね。これまで成功例がなかったのさ。試した者はことごとく命を落とした」

「だが彼が存在する以上、何者かが成功した」


 フレレクスは頷いた。


「ああ。そして厄介なことに、依頼人は悪魔だが、依頼人の主人も悪魔ときた」

「なに?」

「名しかないと言っていただろう。そして聞けば分かると」

「知っている相手なのか?」

「いいや、だが悪魔と仮定するには十分な情報だ。姓がないのは与えられた仮の名だからだ。少なくとも血統と名を重んじる魔族ではない。恐らく、召喚者は彼らに名付ける必要があった。この世界に固定するために。昨晩この街の出入記録を調べてみたら、彼女の名があった。数年前まで何度かね」

「この街の出入記録を見たのか?」

「ナプティア、君も入るときに名を記した台帳があっただろう。あれを少しばかり借りたのさ」


 彼の“借りた”というのが、本当に借りたのか夜中に忍び込んで持ち帰ってきたという意味か、私には判別がつかなかった。


「この場合、問題となるのは、彼らは先ほど述べた通り曖昧な存在だということだ」

「どこにもいないという話か?」

「そうだ。どこにでもいるが、どこにもいない。いかに追跡に長けても、彼らの居場所を特定することは出来ない。水面の月を取り出すようなものだ。彼らは存在が希釈されて各地に同時に存在しているのだ。ナプティア、僕たちがここに来るために使った馬を覚えているかい?」

「井戸から出てきた魔物か」

「そう、あれも似たような存在だ。だからこそ離れた距離を短時間で移動できた。あの二つの場所に同時に存在していたからね。つまりああいった存在と接触するには、向こうから来てもらうしか無い」

「だが、呼び寄せる魔術は致死魔術と呼ばれているんだろう」

「僕は魔術を使えない。だからといって君を犠牲にするつもりもない。つまり手詰まりだ」


 いつもの長い言い回しだろうと、私は辛抱強く彼の言葉を待ったが、彼はそれきり口を閉ざしている。私は半信半疑で問い返した。


「手詰まり? 君が?」


 部屋の中をうろついていたフレレクスは動きを止めた。


「……ところで、初めて魔族の街に泊まった感想は?」


 突拍子もなく彼はそんなことを切り出した。


「なに?」

「君の目にこの街はどう映った?」

「……酒場の店主が人間だった。あとは全部魔物だ。悪夢のようだ」


 私はフレレクスの意図が分からないまま答えた。


「そんな楽しそうな顔で言っても説得力がない。市場には行ったか?」

「市場だと?」

「毎晩、宵の市(ノクターン市)がある。君の好む希少品もあるかもしれない。生憎今は朝だが、夜目の効かない種向けにこの時間でもまだ少し開いている」


 彼が何を言いたいのか、ようやく私は気付いた。


「つまり気分転換ということか?」

「そうだ。行くかね?」


 我々は通りに出た。空は曇り始めている。昨夜と比べると街は閑散としていた。道の真ん中には巨大な蛞蝓ナメクジが這ったような透明な粘液が延々と伸び、屋根の上を半人半鳥ハルピュイアが片足にかごを提げて飛んでいる。


「随分静かだ」

「住人が夜の生き物だから、朝はいつもこうさ」


 石畳の下り道は急勾配のまま曲がりくねり、足元で途切れた視線の先で、また別の路地が空へ向かって伸びている。高低差の激しい迷路のような道を下りながら、フレレクスは眠そうに目頭を押さえた。


「私と行動してた時は平気そうだったじゃないか」

「横に魔術師なんていたら、眠気は飛ぶ」

「今は?」

「慣れとは恐ろしいものだ、ナプティア」


 ふと地面に光る何かを見つけて私は近づいた。握りこぶしほどの大きさの、光沢のある五角形の黒い板だ。日光に透かせば、薄っすらと虹色が混じる。赤黒い塊が端に付着している。触れれば柔らかい。固まりかけた血のようだ。


「これは……鱗か?」

「川喰み、君たちの言葉だと……大水蛇(ウォーターサーペント)か。温かくなってくると、たまに暗渠あんきょから出てくる」

「このサイズだとかなり大きいぞ。こんなのが水路にいると?」

「ああ。彼らは目が悪いから、この時期は魚を運ぶ商人が間違って呑まれる不幸が起きる。……とはいえ、下水のヒュドラの幼体を減らしてくれるし悪いことばかりじゃない。その剥がれ方だと、脱皮直後らしい。そこの壁に引っ掛けて怪我をしたか。彼らは狭いところが好きだから」


 フレレクスは側の壁を示した。狭い家屋がひしめく裏路地の石壁を何かが擦った巨大な跡が残っていた。私は曲がってしまった松明かけ(アイアンブラケット)と手の中の鱗を見比べた。


「まさか、そういう注意事項は他にもあるのか?」

「そんなに神経質になる必要はない。夏場の小道を生魚を持って歩かなければいいだけだ。簡単だろう? 細かく挙げれば、本になってしまう」

「少なくとも、ここに一人はそれを必要としている。この鱗は元の場所に戻したほうがいいか?」

「いや、好きにするといい。あっても治るわけでもないし、彼らも気にしない」


 私は鱗についた火山灰と土埃を手袋の甲で払って、リネンで包んだ。少なくとも六塔の暮らしでは容易に手に入らない素材だ。薬学塔傘下の商店に大水蛇ウォーターサーペントの死骸が運ばれてきたことは片手で数えられる程度だ。私がポーチにしまったのを見て、フレレクスは先を歩いた。


 居住区を抜け、商業区に近づくにつれ街は次第に活気づき始めた。狭い路地には布でできたひさしが飛び出し、木椅子や机で更に道を細くしていた。その合間を縫った先で急に視界が開けた。


 そこは広場だった。色とりどりの露店エタルが立ち並んでいる。魚屋や、果物屋、香辛料屋に混じって、得体のしれない干物店や、香水瓶を揃えた店が、魔物でごった返す中で所狭しと立ち並んでいた。香草と焼けた肉の濃厚な香りに私は圧倒された。


「これでは観光に来た気分だ」

「違ったのか?」


 吸い寄せられる私の後ろをフレレクスはついてきた。すれ違う魔物の中には私に視線を送るものもいたが、襲われるどころか話しかけられることもなかった。魔術師が魔術師の友人を連れてきた、という風に彼らの目には映っているのだろう。彼らは時折フレレクスに挨拶して去っていった。串焼き屋の前で目に入る見慣れないものに私の足は止まった。木串に刺さった肉に蜥蜴トカゲや昆虫が混じっている。


「これは……サソリか?」

「味が気になるならシーシャー嬢に訊くといい。彼女の好物だ」


 目を引いたのは、陳列台の後ろの床に無造作に置かれた陶器の壺だ。中で火蜥蜴サラマンダーやムカデがまだ生きているようだった。


「あれも売ってるのか?」

「調理前だから要交渉だ。手間が減るだけだから断られることはないだろうがね」

「フレレクス、この文字は値段か? これはどれくらいになる」


 私は値札と思しき文字列を見た。あの依頼人との契約書でもそうだったが、彼らは公用語とは別の文字を、話し言葉とは独立して使用しているようだ。奇妙だ。わざわざ書き言葉を別のものにするということは、その必要があったということだ。


「銅貨1枚で十分だ」

「信じられない。都の値段で20匹は買える。次からはここで仕入れることにしよう」


 串焼き屋から離れたのも束の間、隣の露店で私の足は止まった。陳列棚には無秩序にナイフや装飾品が転がっている。その商品棚の中に、ここにあってはならないものを見つけて、私は思わず声を潜めた。


「フレレクス、あれを見ろ。印章指輪だ」



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