22. 灰毛の麝香猫
毎日更新中
──黒樹海。
不幸にもこの大陸に生まれた者なら誰でも、その名は知っているだろう。歴史書のどこにも記載の無い空白の領域。あたかもこの50年か100年の間に突如出現したかのような秘境の地。その向こうに存在する城塞都市での出来事を記そうと思う。
階段状の大路には馬車が走り、我々の知る都市と同じように、山羊や犬が放し飼いされ、広場の隅では豚がゴミの山を漁っていた。間口の狭い家が隙間なく立ち並んでいる。シーシャーと私は北区域に向かった。
「シーシャーさん、こちらに住んで長いのですか?」
「いいえ、まだ6年ですわ。火炙りからフレレクスさんに助けてもらいまして」
「なにがあったんです?」
「ご想像に難くないことかと。疫病の魔を撒いたと疑われました。黒死病の酷い東のI国でしたから……。どこへ行けども瘴気と石灰の匂いがついて回って、道には布を被った亡骸が溢れておりました。路地で亡くなる方もいましたけれど、家の中で亡くなる方はもっと沢山おりました。朝が来るたび墓堀人が、家の中から遺体を玄関先へ引きずる音がする、そんな場所でしたから、運悪く人間に見つかり……。当時の私は人の姿を繕うことができませんでした。とはいえ今も上手くないので、このような失礼な恰好でお話している訳ですが」
「いえ、私は気にしません」
「まあ、本当に?」
彼女はローブの中から何かを出した。私がそれが手と気付いたのは、暫しそれを凝視してしまった後だった。長い灰毛にびっしりと覆われたそれは指ではなく指球を持ち、手というよりは前足と表現すべきように見えた。ふわりと鼻先を擽るのは、古い革鞄に頭を突っ込んだときのような獣の匂いに、焦げた蜜のような湿っぽい甘さの混ざる匂い。言葉にできなかった私の前から、彼女はそれを引っ込めた。
「ご不快になられたでしょう。これでも、お洒落してるつもりなんですけれど」
「驚いただけです。彼にも初めは慣れませんでした」
「ふふ、成獣になれば、きっともう少しうまく振る舞えるかと」
今の彼女のセリフなら違和感はないが、あの巨体が脳裏をよぎると私は曖昧な相槌しか打てなかった。
通りは薄暗くなり始めていた。彼女は暫く黙り込んでいたが、小さな声で語った。
「先生といるとなんだか昔のことを思い出してしまいますわ。大昔の事ですけれど、私人間と暮らしてました。畑の葡萄を食べた私を追い出さず、それどころか鹿の骨まで下さった優しいお方。その時の感動と言いましたら。なんと寛大で、なんと愚かな……いえ、愛すべき方でしたこと。一度賊を追い払ったらご主人は大層喜んで褒めてくれて。ふふ、人間って困ったものですわよね。怯えるくせに、助けられると嬉しがるのですもの」
彼女の声は寂しげに響いた。
「私、人間が嫌いですのよ。牙を見せた途端、“害獣”の烙印ですもの。それなのに時にとても優しかったりして。ねえ……先生、教えてくださいません? あなたが、どんなふうに人間で、どんなふうに……そうでないのかを」
「シーシャーさん?」
私はどうしてか薄ら寒い心地を感じた。
「ナプティア先生、私鼻だけは利くんですのよ。目はあまり……でも、森を歩くには不自由しないくらい。ですからここの保安官も仰せつかっておりますの。さて先生、その薬についてお尋ねしても?」
「薬ですか? 私は魔法薬の研究をしていますので、いくつか持ち歩いていますが__」
「ええ。ええ、もちろん、承知しておりますわ。でも先生、あなたの腰のポケットに忍ばせている、小さなガラス瓶のことを申し上げているのです。とても甘くて良い香りがするので、私てっきり初めは人間の香水かと。でもそれは毒薬ですね」
シーシャーは声を潜めた。フードの奥であの赤い目が光っていた。
「とても強力な毒薬。ねえ、先生。それを何に使うおつもり?」
私は答えに窮した。彼女の言葉は正しかった。私は3カ月前に退職し薬学塔を去った時から、この一瓶の秘薬を後生大事に持ち歩いていた。
「シーシャーさん、これは私の最高傑作です。ダチュラの花と種から精製したものに、ヒ素を少量と糖蜜を加えたもので、仰る通り強力な毒薬です。あなたが怪しむのも無理ありません。ですが私はこれを誰かに盛る為に持ち歩いている訳ではありません。そんな勿体ないこと、とても出来ません。これは私の研究の大切な成果であり、……“最終章”の栞です」
それは紛れもなく事実だったが、何の弁明にもなってなかった。しかしそれ以上私はうまく説明することが出来なかった。
「まあ。では先生にとって、毒は人を殺めるものではなく、“人生を完成させる”ものなのですね。ナプティア先生、私はその薬の匂いを覚えました。ですからその宝物がもし無くなってしまったら、フレレクスさんを煩わせるまでもありません。私が探して差し上げます。地の底でも、墓の中でも」
「心強いです、シーシャーさん」
彼女の強かさに私は不快感は感じず、好感を抱いた。彼女は私がこの薬で誰かを殺めた場合、それを明らかにすると牽制したのだ。その時フレレクスがいなかったとしてもだ。彼女はどうやら命の恩人であるフレレクスを私が毒殺することを懸念しているようだった。毒薬を持った客が現れたなら、彼女がそう考えるのももっともな話だ。
「シーシャーさん、あなたは優秀な保安官なのでしょう」
「まあ。褒められ慣れていないものですから、尻尾が跳ねてしまいそうですわ。先生のような方がここにいてくださるなら、私ももう少し張り切って働けるのですけれど」
「いいえ、私がここに住むのは難しいでしょう。この街は魔物の街ですから。……私と同じような魔術師がこの街に住んでいると聞きました。どちらにいらっしゃるかご存知ですか」
「昔はともかく、今は一人しか」
「その方はどちらに?」
「え?」
彼女は頓狂な声を上げた。
「フレレクスさんですけれど」
私は胸の底がしんと冷えていくのを感じた。親しい相手を欺くような生き物が、自分に対してだけ誠実であるというのは──夢想でしかない。
「……もし良ければ、私が付けた名前の前に彼が名乗っていた名を聞いても?」




