20. 魔物の街
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──黒樹海。
そこは私が幾度も到達を夢見た幻の草木の茂る伝説の森だ。誰もが物心ついた時からお伽噺で繰り返し聞く場所。多くの魔物がこの森から現れる。中へ足を踏み入れた者で帰って来た者はいない……とされている。
「この目で見る日が来るとは。とても嬉しいのに、気分が悪くなってきた。眩暈がする」
「安全とは言えない場所だ。早く行こう」
空気が厭に重く、全身に纏わりついて吐き気が込み上げてくる。まるで高濃度の魔素を吸ったときのようだ。
彼は真っ暗な森の中を先導した。私にはまたもや彼が同じ場所を行ったり来たりしているように感じた。だが確かめようにも私の羅針盤は止まることなく揺れているだけで、一点を指し示さなかったので、実際の我々の道筋がどのようなものだったのか私には最後まで分からなかった。
私の不調は悪化の一途を辿った。こんなところにいては、魔物に襲われずとも命すら危うい。ぐらぐらと視界が揺れ始めた時、私は彼に問わずにはいられなかった。
「まさか迷ってないだろうな?」
「この程度で迷ってるようなら僕はもっと昔に廃業してた。例え目隠しされても問題ない。ちょっと厄介な住人を避けたり、まいたりしてるだけさ」
「厄介な住人とはなんだ?」
「挨拶するなら僕とは別に護衛を雇ってくれ」
やがて我々は森を抜けた。その先には高い石壁を持つ巨大な城塞都市があった。石壁は見慣れない黒色をしている。玄武《火山》岩か。奥に聳える火山から白煙が立ち上っている。
フレレクスは思い出したように眼鏡をかけた。森を出ると私の不調は嘘のように回復した。国外と思われたが、印象指輪は一度も反応しなかった。
「ここは一体?」
「君たちの都と同じだ。住んでいるのが魔物というだけで」
「魔物の街か?」
「そうだ。彼らは自分達の事を魔族と呼ぶがね」
「私は魔物のふりをした方がいいのか?」
「いいや、ナプティア。人間の魔術師もいるから気にしなくていい。ここは人間と魔物が共に暮らす停戦区だ」
検問は呆気ないものだった。フレレクスの顔を見た門番は、特に私に質問することなく扉を開けた。魔物の街という言葉で想像していたものとは違い、そこは我々の住む街と大差ないように見えた。一見人間に見えるものに混ざって、時折明らかに人間でないものが闊歩している以外には。巨人や半身が透けているもの、鱗に覆われたもの。秩序と無秩序が混じる異質な場所だった。
火山灰の散った石畳の大路。先を歩くフレレクスは黒い石造りの背の高い家屋の前で足を止めた。扉を開けると階段と広い廊下に複数の木製の扉が立ち並んでいる。
階段を上った先の廊下には、巨大な灰毛のイタチが寝そべっていた。顔の中心に白い線が走った特徴的な模様で、牛ほどの大きさだ。不吉な月のような真っ赤な目をしている。どう見ても普通の個体ではない。私はぎょっとして立ち止まった。
「彼女は隣人だ。名はシャールヴ・シーシャー」
「どうも……」
彼は大真面目にそんな事を言ったが、悪い冗談としか思えなかった。床を這う長い尾がパタリと揺れる。当然、返事は帰ってこない。
その後、我々は階段を5回上り、扉を7回くぐった。明らかに奇妙であった。私が入る前に見た家屋は多くても3階建てが限度の高さであったし、扉を開けた先がまた廊下で扉が並んでいるというのも普通では考えられない。まさに迷宮だった。
やがて彼は最後の扉を開けて、壁にかけた灯芯草に火を灯した。どうやらここが目的地のようだった。中は乱雑としていた。
真っ先に目を引いたのは、部屋の奥の囲炉裏と、その上の天井から吊るされた月桂樹の葉と蛇だ。壁沿いに収納棚が多く置かれ、瓶が所せましと並んでいた。中身は液体のものもあれば、空のもの、生きた蝶や蛍が飛んでいるものまである。
棚の上の展示品箱には鉱石や竜鱗が飾られ、木製テーブルの上には水球儀《拡大鏡》、馬の頭骨、羊皮紙と羽ペン、薬瓶、インゴット、皿が転がっていた。
扉をくぐった私のすぐ隣からフクロウの鳴き声がした。ような気がした。振り返ってもそこには何もいない。彼の外套がかけてあるだけだ。
「ようこそ、魔物の巣窟へ。案外普通だろう?」
「君は普段ここにいるのか?」
「そうだ」
「気づいたんだが、君は捜し屋なんだろ」
私は部屋を見渡しながら言った。
「依頼するために、君を探す方が難しいんじゃないか?」
「冴えてるな、ナプティア。事務所は畳んだんだ。退職したのさ」
「私が君について書いたからか?」
「違う。辞めたのは何年も前だ。だが、まだ依頼が来る。だからここに住んでる」
彼の声はどこか暗く沈んでいた。怪訝に思う私に彼は椅子を勧め、ワインを入れた銀盃を振舞ってくれた。伯爵邸の出来事が脳裏をよぎるが、芳醇な葡萄の香りが私の杞憂を払拭した。ちょうどその時、開きっ放しの扉から小柄な体躯が入ってきた。
「おかえりなさい、フレレクスさん」
「ただいま。ナプティア、彼女がさっき紹介した隣人だ。“人間のかたち”はあまりお好みではないが──そこはご覧の通り、今日に限って我々のために特別なご配慮をいただいている」
「ふふ、こうしないとお話出来ないので。あなたがナプティア先生ですね、ご令名はかねてより」
私は驚き、彼女の姿をまじまじと見詰めた。ここに来るまでに見た巨大なイタチの姿を思い出す。全身をすっぽり包むローブに、フードを深く被っているために、その顔は少しも見えない。彼女は独特なアクセントをしていた。非礼にならぬよう、私はどうにか平静を装い挨拶を返した。
「初めまして。私を知っているのですか?」
「フレレクスさんが、あなたのお話をよくしてくれましたから。ここ最近は、口を開けばあなたのお話ばかり。とても心優しく勇敢で誇り高い魔術師の方と」
「記憶と違うな……。いささか私も“感傷的”になっていたらしい」
フレレクスの呟きに、彼女は鈴を転がすような声で笑った。
「彼女は私が家を空けている間、この部屋の管理をしてくれている。彼女がいなかったら、この部屋は今ごろ蛍と毒虫と私の服で埋まっていただろう。ああ、また奴が来た」
フレレクスがドアを振り返る。すぐに長身の若い青年が現れた。深紅の頭巾を被り、毛皮で裏打ちしたガウンを纏っている。
「フレレクス、やっと帰ってきたと思ったら手ぶらか? 相変わらず薄情な奴め」
「ナプティア、彼はイロル・イブラヒム。この街の占星術師だ。もっとも彼のまともな予言を私は聞いたことが無いが。イブラヒム、こちらはノアーグ・ナプティア。魔術師で、物好きにも私の友人をしてくれてる」
ひび割れた低い声、艶のある尖ったブラウンの髪。違和感はどこにもない。あまりにも人間らしい人間だ。だからこそ、見たことのある魔物が脳裏をよぎった。
「君はもしかして人狼か?」
「ご名答。正確には“ちょいと血統のいい”上位種だ。でアンタはまた人間か。ま、歓迎するぜ、トラブルを起こさない限りは。フレレクス、俺の代わりに占ってくれ」
「イブラヒム、私は捜し屋だ。未来を探す仕事じゃない。“なくした道具”や“なくした信用”を探すのが専門だ」
「昔よくやってたろ。ケチ言わねえで得意の魔術でちょちょいと見てくれよ。俺の信用が今まさに沈みかけの月だ」
「自分で見るのはやめたのか?」
「仕事道具盗まれたんだから仕方ねえだろ。探してくれって言っても受けてくんねえし。なあ新顔の魔術師さんよ、ダチならアンタからなんとか言ってくれ」
急に話を振られた私はフレレクスの方を見た。彼は呆れた様子で首を振った。
「彼は自分で売ったんだ。サイコロ遊びに賭けて負けた。探すまでもない。彼の星図は酒場の主人の寝室のインテリアになってる。天体観測には不向きかもしれないが、夢見にはちょうどいい場所だろう。ナプティア、君の会いたい人物は直にここを訪問する。それまで好きにくつろいでほしい」
フレレクスは席を立つと我々に背を向けて棚を物色し始めた。私はワインを飲みながら2人の訪問者を観察した。孤高の吸血鬼がこんなに友人を持っているというのは意外だった。私は彼らとこの街やこれまでについて話した。彼らは紛れもなく魔物だったが、友好的だった。
「しかし驚きました。あなたのような魔物を見たのは初めてです」
「ナプティア先生、こちらへいらしたのは初めてでしょう? この街には私のような魔族も珍しくありませんの。少々風変わりですが、案内人としては悪くないつもりですわ。もしご興味があれば、ぜひ一度ご一緒に」
「そいつは結構。けど、頭の片隅に置いといてくれよ。ここじゃ人間を食っちゃいけないなんて立派な張り紙はないし、気を抜いたら後ろから頭をガブリ!」
「まあまあ、いやだわ。誰も先生を食べたりしませんよ。少なくとも、紅茶くらいはお出ししてからですわ」
聞き逃がせない言葉に思わずシーシャーを見れば、柔らかな笑い声が返ってきた。フードの下で彼女が悪戯っぽく微笑んでいるのが私には想像できた。フレレクスが羊皮紙を手に戻ってきて、机の上を片付け始めた。
「ナプティア、そろそろ幕が上がる。支度は済んでるかい? ちょっと風変わりなお客様でね。君が学校にこもっていたら、一生すれ違わずに済んだ相手さ。君がなにを言っても、なにをしても、私は口を挟まない。互いに干渉しない、という契約でね。もっとも、君が丸焼きにされそうになったら水くらいはかけるが、それだけだ。あとは君自身で観察してみるといい」
「どういう意味だ? 開演早々、戦闘の予定か?」
「脚本をどう演じるかは君次第さ。あちらは私の“雇い主”でね、仕事に際して“互いに口出し無用”という固い契約を結んでる。勿論、口だけじゃなくて手も。だが、君は違う。契約の枠外、つまり──舞台袖から乱入して主役を掻っ攫っても、誰も止められない」
「それでは、これにて失礼しますわ。魔術師の先生、良ればまたお話しましょう、今度は紅茶でもご一緒に」
「ちょっと待てよ! まだ教えてもらってねぇだろ? ちょっと視るだけでいいんだ、頼むってば!」
「転職を考えてはどうだい」
「うっせえ。そんな裏切り、月の冥府のご先祖さまが枕を濡らすっての。せめて明日の天気だけでも教えろ。森に狩りに行く連中に顔が立たねぇんだ……これ以上外したらまずいんだよ、頼むお願いだ!」
「狩りはやめるように言っておけ。今夜は君の耳でも町中のドアノッカーの音が聞こえるだろう?羽虫も低く飛んでいる。運が良ければ明後日の朝、西空に虹。運が悪ければ、墓標が増える」
「ほんとだろうな? お前を信じるからな? 間違ってたらそこの奴共々喰ってやる」




