19. 世界の裏道
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(『18.再会』の続きです。)
「で、その依頼人はどこにいるんだ? ここにいるのか?」
帽子を目深に被って出ていこうとする彼を、私は引き止めた。
「もちろん僕の家だ。依頼の報告を聞きに来る」
「つまり私は君の家に行くという事か?」
「その通り!」
「で、君の家はどこなんだ? まさかこの街に住んでる訳じゃないだろうな? だとしたら生類科の連中の目の節穴具合に頭痛がしそうだ」
「君の言えた事じゃないだろ。確かに魔術師の往来する街で暮らすのも、スリリングで楽しそうだがね。ここではない街だよ。言ったところで君は知るまい。馬でひと月かかる」
「また旅に出るという意味に聞こえたんだが?」
「まさしく。なにか問題があるのか?」
数カ月ぶりに見た彼は、最後に会った時と変わらず、人の都合など考えない傲慢さを見せた。しかしこの時の私には、それが暗く淀んだ水底にようやく差し込んだ光のように思えた。
「問題ならある」
私は暗澹たる心地で彼に印章指輪を見せた。前回の亡命では置いていったものだが、ここに戻ってきた際に再び着けることになったものだ。卒業とともに与えられるこの指輪は、魔術師としての特権を示す勲章であり、魔術師を国益に添うよう使役するための鎖だ。
「これがある限り、許可なく国外に出られない」
「仕組みは?」
「わからない。恐らく国境付近に反応する付呪が施されている」
今まで着脱に制限がなく、外して出かけていた私はこのことに疎い。あんな文書を出した私に課される制限が重くなったのは当然のことだった。
「反応するとどうなる?」
「多分熱くなるだけだ。火傷する前に戻れば問題ない」
「それでも戻らなければ?」
「それは……」
私の口角は自然と上がっていた。
「指が焼け落ちる程度で済めばいいが。いっそ試してみるか?」
「国境を通らなければいい」
「国境を通らずにどうやって国の外に出ると? それにこの指輪が無くても、そもそも私はこの学校から出られない。少なくとも契約上は、だが」
「少し考えがある。それと、これを君に」
羊皮紙の蜜蝋には見たことのある紋章が押されている。我々が屋敷を爆破した伯爵家のものだ。
「開けないとだめか?」
「いいから開けろ」
それは招集状だった。内容は事務的で簡素なものだ。私が爆破に関与した疑いがあり、説明のために来るように要請している。宛先は私ではなく、この学校宛だ。
言葉を失う私を見て、彼は得意げに口角を吊り上げた。
「伯爵は君の所業に大変ご立腹だ。この学校も止められまい。さあ来てもらおうか」
「あれをやったのは君だろ。しかし考えたな。確かにこれがあれば……堂々とここを出られる」
「少し名前を貸してもらった。彼女もようやく悪事に懲りたらしい」
「彼女? まだ生きているのか?」
「初代伯爵が殺すとでも?」
「去り際に当代伯爵に瀉血の件も含めて“挨拶”をしにいくと言っていただろ。……まさか、本当にただの挨拶をしただけだと?」
「今度会いに行ってやるといい。さて、君は僕と来なければいけない。そして門番をうまく誤魔化してくれ。君のせいで眼鏡をつけてるだけで怪しまれるようになった。その責任を取るべきだ」
我々は数日後に落ち合い都を出た。荷造りの必要もなかった。都へ帰って来て、3カ月が経つが私は荷解きすらしていなかった。
3カ月──それは十分に長い期間の筈だが、私はその間何をしていたか禄に思い出せなかった。初めの1か月は彼の死を記録するのに夢中だったような気がする。だがその後は覚えていない。
山道の途中でフレレクスは、御者に下ろすよう頼んだ。そして街道を逸れ、山中へと歩を進めた。この時我々が実際にどのあたりにいたのか、私には分からなかった。道中私は何度も同じ木々や看板を見た。どうやら彼は森の中を巨大な円を描くように時計回りに歩いているようだった。彼が方向を変えるのに合わせて丁度1回転する羅針盤がそれを裏付けている。3度目に同じ場所に戻って来た時、私はとうとう口火を切った。
「フレレクス、一体何を探してる?」
「なにも。分からないのか? 我々は順調に近付いているよ」
「こんな山中を徒歩でどうしようっていうんだ? 君は馬でひと月かかると言ったじゃないか」
「そうだ。だが馬で行くとは言ってない」
5度目に同じ場所に戻ってきた時、そこには高い屋根に滑車の付いた井戸があった。今まで無かったものだ。私は混乱した。
「どういうことだ?」
「これが今の我々に必要なものだ」
彼は井戸に近寄ると中を覗き込んだ。私も彼に倣った。中は暗く底は見えなかった。
「ダメかもしれないな。最近は使用する人も少ない」
「どうダメなんだ?」
「見ろ、かなり濁ってる」
彼はロープを引っ張り滑車を回した。巨大な井戸の中から現れる太い麻縄は次第に黒ずみはじめ、最後には真っ黒なヘドロを並々と湛えた木桶が姿を現した。腐った卵に似た異臭が辺りに漂った。フレレクスは手が汚れるのも構わずその桶を掴むと、天地をひっくり返した。地面へ汚泥をぶちまけると彼はその側にしゃがんだ。
「あった、これだ!」
彼は汚れた何かを取り上げた。腐臭を放つそれは真鍮製のカウベルのように見えた。だが内側に音を鳴らすための舌が無い。しかし彼がそれを振ると、驚くほど重厚な音が辺りに響いた。私には何が起きているのか全く理解できなかった。
「悪い夢を見てるみたいだ」
「なら醒めないでくれ」
やがて、井戸の中から答えるように彼の鳴らしたベルと同じ音が鳴った。音の間隔は次第に短くなり、大きくなっていった。井戸そのもの慄くように震えはじめ、次の瞬間何か巨大なものが中から飛び出した。それは魔物のように見えた。しかしこれまで報告された魔物のどれとも異なるように思えた。全身がてらてらと不気味に光る鱗で覆われ、獅子に似た頭部を持っている。大量の藻のような鬣を蓄え、二本の前肢には蛙のような四本の指と水掻き、後肢の代わりに長い尾と鰭が伸びている。そして太い首にはフレレクスが鳴らしたベルと同じものが一つぶら下がっていた。身構える私の前で、フレレクスは都を出る際に食糧として買った雉を3羽地面に並べた。
「ン・ルギエへ行きたい」
魔物は動かなかった。フレレクスが更に3羽地面に置くと、魔物は身を屈めて長い赤い舌でそれらを全て巻き取って口の中へ収めた。
「交渉成立だ。ナプティア、行くぞ」
彼は魔物に近寄るとその背に跨った。
「まさか」
「そのまさかだ。半月かかる方が良かったかね? そのキジは我々2人の命の代わり。本来なら2人移動するには3人で来る必要がある」
「残りの1人はどうなる?」
「彼女の胃はかなり大きいようだ」
私は彼の後ろに跨った。彼に倣ってその鬣を掴んだが、冷たくぬるつく感触は生魚を掴んでいるようで、鳥肌が立った。魔物からは潮の匂いと腐った魚の混じった匂いがした。なにより最悪な事に、私が最も恐れていた通り、その魔物は我々を乗せて井戸へと飛び込んだ。私は酷い悲鳴を上げていたと思う。だが予期していた泥水に浸かる感触は無かった。どこまでも真っ暗で何も無かった。まるで夜空の中を浮かんでいるかのような錯覚に陥った。フレレクスが唐突に言った。
「ナプティア、君なら3大遺失魔術を知っているだろう」
「ああ。かつては存在したが、今は再現できない失伝の魔術か。物を複製する魔術、傷を癒す魔術、瞬間移動の魔術だな」
「その通り。その3つ目の魔術、ではないが……これは少々この世界の理の裏をついた移動だ。注意してくれ、落ちると二度と戻れなくなる」
「それはどういう__」
突然目の前で弾けた光に私は息を呑んだ。足元一杯に灰色の空が見えた。空へと落ちていく。やがてぐるりと視界が回転して、下から衝撃が伝わってきた。どうやら地上へ出たようだった。地面に降りるフレレクスを追って、私は魔物から離れた。そこは丁度先ほど我々が立っていた森と似ていた。ただ一つ違う点は、木々は異様に大きく高く、周囲は薄暗く鬱蒼として赤い霧がかっている事だ。私は急に強い吐き気を感じた。ここにいてはいけないと根拠は無いが確信した。
「ここはどこだ?」
「ン・ルギエ、君たちは『黒樹海』とか『不帰の森』と呼んでるらしい」
「ああ! まさか! 本当に実在したのか……」




