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3. 瘴気の沸点

毎日更新


 冷え込んだ神智塔の地下室。ナプティアは白い吐息を両手を当て擦り合わせてから、釜に蜂蜜酒ミードを注いだ。


「ベースが蒸留酒でもエールでも、蜂蜜酒ミードでも多少材料が変わる程度で大きな違いはない。蜂蜜酒ミードを使うのは、口当たりがいいからだ。薬にせよ、毒にせよ、楽しく飲めるに越したことはない」

「控えめに言って危険な思想だ」

「そうか? 評判はいい」

「危険だからだろ」


 彼は木盆で冷やしていた小瓶を取り出した。先程まで空だった中には透明な蜜が現れていた。コルクを捻って、ナプティアは中の匂いを嗅いだ。僕にしてみれば、こんなところで平気で暮らしている人間の鼻なんてほとんど飾りだ。鼻を近づけずとも、ほのかな甘さと青臭さが交じったハッカに似た清涼で湿った香りがした。

 ナプティアはため息をついた。


「信じられるか。この瓶1つで、都のそれなりに豪華な宿に半年は泊まれる。栽培できればと考えたこともあったが、上手くいかなかった」

「栽培できたら価値は下がるだろうな」

「そうならないよう、私用の温室をこっそり使ったんだが、温度管理が難関でね。願わくばもう1度挑戦してみたいものだが……」


 薬学塔に立ち入れない身分では夢のまた夢だ。と彼が内心で呟いたかはわからない。小瓶の蜜を天秤で測りながら、ナプティアは思い出したように言った。


「そういえば聖水を使うんだが、君は部屋を出た方がいいか?」

「お気遣いどうも。だが、聖水が魔物にだけ効くというのは君たちの幻想だ」

「でも実際効くだろう?」

「火傷をそう呼ぶなら。君たちだって同じだろう、硫酸を浴びて平気だと?」

「平気じゃないから準備がいる。留まるなら、吸い込まないよう口を覆え」


 ナプティアは肩をすくめて、僕に長い麻布を投げつけた。彼が首や口元に巻くのを見て僕も倣った。


 釜の蜂蜜酒ミードに、薬匙一杯の霜百合の蜜を垂らして、ナプティアは棚から聖水を取った。印章の入った蜜蝋で封をされている。翼の生えた乙女と水瓶、そして調合師のイニシャルを示す2つの英文字。神智塔の魔術師の印章だ。


「一言に聖水と言っても、質は様々だ。原理は単純だから、地方の小さな教会でも作れる。各地のも試したが、やはりここの聖水が1番だった。神智塔には神秘室という部屋があってそこで作られるらしい。私も部屋の前を歩いたことはあるが、神癒治療科に所属しないと中を教えてもらえない。なんでも中には巨大な大理石の像があるらしい。彼らの紋章、乙女の像が持つ水瓶から聖水が常に溢れてくるなんて噂が、私が学生の頃は流行っていた」

「もしそうなら、神癒治療科の魔術師の仕事は少なそうだ」

「残念ながら、彼らの顔を見る限りそうではなさそうだ。そんな噂が出回るくらい、製造方法は極秘という訳だ。我々は彼らの良き客を続けるしかない」


 ナプティアはナイフで蜜蝋を切って、中身を釜へ注いだ。2本目も同じように半分を注ぐ。釜の中が僅かな光を帯び始める。


 ナプティアは釜の下の床に羊皮紙を広げた。既に魔法陣が書き込まれている。人間の魔術師が使う書式で、火の強弱を操る内容だ。その程度から効果時間、反復回数まで詳細な指示が書き込まれていた。


「さてここからは時間が勝負だ。息を止めて、目も閉じた方がいい」


 荷台から大きな瓶を取り出しながらナプティアが言った。瓶の中には白く濁った液体が入ってる。石灰水か。彼らが聖水を使う場合、これで中和する。


「肝心な工程は秘密か。良い先生だ」

「音で視れると伯爵は言ってただろう」


 彼はこちらを見据えたまま動かない。忠告を聞かないと次に進まないつもりなのだろう。僕が目を閉じれば、彼の手が空気を払う音がして、薪が爆ぜる小さな音がした。


 すぐさま釜の煮立つ音ともに、微かな熱気とともに腐卵臭と金属の焼けるような鋭い異臭が鼻を突き刺した。強烈な刺激に呼吸など出来ようはずもない。


 そこからの彼の動きは素早かった。水面に水滴の落ちる音。恐らくはさっき抽出した毒だ。続いて何か小さな固形の落ちる音。これはあの爪か。服用者の体の一部を使うのはよくある手法だ。僅かな気泡の音を掻き消すように釜をかき混ぜる音。何度も鳴る発火術の音が薪の焼ける音が重なる。衣擦れの音からこんな毒霧の中で、彼が平然と動く姿が見えてくる。釜の周りを歩く落ち着いた足音。紛れて紙の擦れる音。これは新しいスクロールか。僕に見せたくない秘蔵があったらしい。


「『Verba(白き) candida(言葉), voce(失われし) perdita(),

Surgant(口に) in ore(上れ), sicut(暁の) aurora(ごとく).』」


 彼の詠唱とともに、空気がひりついた。周囲に漂う毒が一層濃くなる。聖水に含まれていた魔素が反応したのだろう。バチバチッと釜から鋭い破裂音が立った。大量の液体が注がれる音とともに焼けた骨のような匂いが広がる。やがて釜の蓋を閉じる音、足音と小窓が開く音。


「ゲホッゴホッ……」

「ナプティア、扉を開けよう」

「喋るな、喉を焼く……」


 匂いが薄まるのを感じて薄く目を開ける。ズキリと目に痛みが走る。とても人間の耐えられる環境ではない。ナプティアを引きずって扉の外に出る。彼は咳き込みながら、口を覆う布を脱いで低く笑った。


「はぁ、たまらないな……さて、あとは濾して、ふた晩月光の下に置けば完成だ」

「大丈夫か?」

「なにがだ? 見ていただろう、実に順調だ」


 目元を拭いながら彼は閉まった扉を見つめた。


「こんなことをして、君がまだ神智塔から追い出されていないのが不思議でならない」

「注意はされてる。だが、私は長年彼らの良き顧客だから……げほっ、失礼。それに、彼らだって聖水の気に喉を焼かれるのは慣れてる」


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