宇宙クラゲ
3年の夏休み、私とエリは海へ遊びに行った。
お互い塾やら何やらで、なかなかスケジュールが合わなかったけど、8月の25日だけはカレンダーが空白だった。
受験が終わればまたいつでも会えるし。
「高校最後の思い出になったら良いな」くらいに思っていた。
地元近くの海に自転車で集合して、「帰ろう帰ろう」って言って、なんだかんだ暗くなるまで遊んで。
マイの被ってきた麦わら帽子は、いつの間にか貝殻入れになっていた。
「日焼け止め、塗らないの?」
「ん~、私はいいや。昔からこうだし。年取ってシミになるのも諦めてるし」
「でもエリちゃん、肌すごいモチモチしてるよね。私なんかすぐ荒れちゃうのに」
「マイの肌は繊細なんだよ。大事にしなよ」
「えへへ。なんかエリちゃん、お母さんみたいだね」
私はマイの笑顔を見つめながら、拳をギュッと握った。
それで勇気が出ると信じていた。
「…ねえ、マイ」
「なに?」
マイはビーチサンダルを脱ぎ、足を砂浜に埋めていた。
嫌になるくらい青く澄んだ空と、白い雲。
そのどれもが霞んでしまうくらい眩しい輝きで、マイは振り返った。
「…いや、何でもない」
私は何も言えなかった。
◇
チクタクと、時計が進んでいた。
グラスの下にできた小さな水溜まりを、私は指でなぞり、テーブルに広げた。
なぞってなぞって、すぐに乾いて。
またなぞってを繰り返す。
永遠に続けられるようで、いつかは全て消えてしまうことを私は知っている。
それなのに私は、自分から何も伝えられずにいる。
俯いていた私に、マイは明るく尋ねた。
「ねえ、覚えてる?宇宙クラゲの話」
唐突な質問に私は一瞬戸惑ったが、すぐに記憶をかき集めた。
「…ああ、うん。私が国語の授業で書いたやつだよね」
「そうそう。あれ、どんな話だっけ」
「あれはね…」
私はゆっくりと唱えるように言葉を紡いだ。
サンマはクラゲの夢を見る。
宇宙へ行ったクラゲの夢を。
だけどクラゲは見なかった。
地球に残ったサンマの夢を。
「…みたいな。こんな感じだった?」
「うん。私も詳しく覚えてないけど、そんな感じだった。クラスの子たち、みんな褒めてたもん」
「私も気に入ってるよ」
「…実は私、あんまり好きじゃないんだ」
「どうして?」
「だって、サンマが可哀想なんだもん」
「そうだけど、それが良いんじゃん」
私がそう答えると、マイは唇をギュッと閉じた。
「…そうだよね、好きにならなきゃだよね」
ふと見ると、テーブルの水溜まりは綺麗に消えていた。
・・・
「今日はありがと。色々話せて楽しかったよ」
マイはそう言うと立ち上がり、伝票を持ってレジへ向かった。
「あ、いいよ、私が払うから」
「…じゃあ、甘えちゃおうかなあ」
そう言ってマイは微笑んだ。
彼女の笑顔には、同性も魅了する魔性の力がある。
私も、そんな彼女の魔力に魅せられた1人だ。
―――カランカラン
喫茶店を出ると、優しい風が頬を触れた。
「じゃあまたね」
「うん、またね」
マイは手をパタパタと鳥のように振りながら、青く光る空へ消えていった。
私は、その後ろ姿をしばらく見つめていた。
振り返ると喫茶店は消えていて、そこには苔に覆われた、小さな祠があるだけだった。
その日以来、あの喫茶店が私の前に姿を現すことは二度となかった。