渇望する二文字
ああ……負けたくない。
息を吸って吐く循環が限りなく臨界に近づく頃合い、踏み出されるべき双脚は、持ち主の意に反して次第に尻窄まり、勝者と敗者の境界線を延々と隔てていく。
かろうじて開く片目で、遠くなる背を意地でも視界に入れ歩く。必死に呼吸を整えながら、泥泥とした足元で噛みしめる敗北の味。
俺は意外に負けず嫌いだと、教えてくれたのはミミゼラブルの面々だった。
あの背に追いつきたい。追い越してやりたい。
一歩前に進めればそれでいいとした信条も、心から湧き出る欲求に合わせては形を変えていく。
弱い自分を鼓舞するために掲げていた勇気の旗印は、もうその役目を終え、新しい御旗を掲げる時だと告げる。
共に歩めるのはここまでだと。よしみだ。とうぜん名残惜しくはある。が機運は満ち満ちていた。
勝つ。
その二文字が書かれた旗を掲げ、俺は今この瞬間を生きている。
「クックッ、ポッポ」
「クックッ、ポッポ」
相変わらず走る際にこぼれる珍妙な息遣いからして愛らしいやつだ。
勝利への渇望など、つい忘れてしまいそうになる。
乗り心地も最高で、こんなフカフカな椅子が私生活でもあったらいいなと思うぐらいだ。
人間がとにかく大好きなククポは、手綱をつける時だって、なんの抵抗もしない。
だからククポへの騎乗訓練は、それほど理不尽な訓練ではないと言えるだろう。
幸い俺に懐いたククポは他のククポより活発で、今日はより気合いが入っている。
未だに脱落者は出ていないが、やっと俺にもつきが回って来たような気がする。勝てる予感がひしひしと湧いてきたぞ。
「にはは!! ついていくだけでいいんだから楽チンだな! ちーとケツが痛ぇけど!」
ガウが俺の隣にククポをつけいつもの軽口を叩く。
「私は前に一度、手綱もない時に乗っていますからね。程度は皆さんより心得てます! 一歩リードですよええ!」
返事をガウに軽く返した後、次はモッコが意気揚々と現れた。前に一度乗った時か……ディブタとゴラッソと初めて会った時のことか? ディブタがガウの足の骨を折りやがったんだよな、確か。
「僕これ得意かも……体重が軽い人の方が有利っぽいよ。結構いいところまで行けるかもね、僕たち」
マクの言う通り。最後尾には体重の重いディブタがいて、ずいぶんと苦しそうにククポが走っていた。1番体重の軽いマクとは対照的な光景だ。
「あ~ワシは苦手じゃ、この揺れがどうにも腰にくる。後の訓練に支障が出そうじゃから、少しスピードを緩めるぞ、先に行っててくれ」
そう言うとスタッドさんは、エスタ教官の真後ろを追随する俺たちの組から、ゴラッソのいる中関層へ後退していった。
確かに、初めて乗った時は足腰に力が入らなくなって、強制ガニ股歩き状態だったな。
1日寝れば次の日には痛みがとれたけど、スタッドさんはそうもいかないのかもしれない。
「あっ、みんな前! 障害物!!」
先頭を行くエスタ教官を乗せたククポが跳躍し気づく。ククポの腹を締める両腿を、パンッとタイミングよく打ちつけ、同じように跳躍した。着地の衝撃が身体を突き抜ける。
「大丈夫!? みんな!!」
「うう、なんとか……」
「きゅ、急に、ビ、ビビりましたよええ……」
「おいコラ! エスタ教官!! 今の絶対わざとだろ!!」
ククポの上で中指を立て噛みつくガウを一瞥し、エスタ教官はさらにスピードを上げた。本番はここから、と言わんばかりの鋭い眼光だった。
蛇行、曲線、旋回、屈折、徐行からの急進、エスタ教官の巧みなククポさばきに翻弄され、ミミゼラブルの面々がずいぶんと振り落とされる。俺たちはまだエスタ教官についていけるが、このしんどさじゃそれももう長くは持たいないだろう。
「はぁ、はぁ……くっ」
苦しい。長駆とはまた違う種類のしんどさだ。上下に激しく揺れるククポから振り落とされまいと常に神経を尖らせる神経疲労、普段使わない筋肉を長時間全開で使い続ける肉体的疲労、最初は何ともなかった揺れも、着実に腹筋と背筋を蝕んでいると理解させられる。少しでも気を緩めることができない緊張だった。
ククポの羽毛に汗が落ちた。ツルリとそれは雫となり逸れる。
「貴様ら!! 目的地まではもう少しだ!! しっかりと最後までついてこいよ!!」
まだ声を張り上げる余裕が見てとれるエスタ教官の怒号が響く。
次の瞬間、エスタ教官を乗せたククポの移動スピードが今までにないほど上がった。
風の抵抗を極力少なくする、低い体勢をとり皆がその後に続く。
限界は等に過ぎている。誰がこの横ばいの競争から飛び抜けるか、そういう勝負に差し掛かっていた。
勝つ。勝つ。勝つ。
ククポの背で祈るように目をぎゅっとつむり、ひたすらに暗闇のなかで、自身に誓った御旗を振りかざす。
ざっと20名ほどが先頭集団、未だ見ぬ1位の称号まで、これほどまでに近づいたことがあっただろうか。
しんどい。ほんとに。足が攣りそうだ。腰が折れる。腹と背中の感覚がない。呼吸すらままならない。
「ぐぎぎぎっ」
でも、でも! 負けたくない! ここで折れたくない!
振れ、振れ、もっと振れ。今の俺を突き動かす旗を。頬切る風に靡かせろ。自分を鼓舞するように、あの二文字が翻るように。
目前なんだ。8カ月も待ちわびた。誰もその先にいない景色を、後ろを唯一振り返ることが許される順位を。
知ってみたい。食わせてみたい。成長する喜びを知ってしまった。俺の暴走する希望に。
「……ク……クポ……」
「……!?」
不意に寂しげなククポの鳴き声が聞こえ、俺は咄嗟にクポの手綱を引いてしまった。とうぜん先頭集団からは離される。
何が起こった? 条件反射で動いたので、思考は後からだった。
現状を考える。一見絶望的に見えるこの状況、むしろ一歩引いた冷静な頭になれたのはラッキーだったかもしれない、俺は焦らずに先頭集団の少し後につけ、機を待った。
「グ……グボォ……」
「うわわっ! なんだ!? 急にククポが!」
流石というべきか、先頭を走っていたガウだが、俺の予想通り、訪れるべき時はきた。
そう、なにもしんどいのは俺たち人間だけじゃない。ククポだってしんどいんだ。さっき俺が覚えた違和感、それは、ククポのスタミナ切れ、その予兆だった。
まだまだ騎乗スキルがない俺たちの動きじゃ、エスタ教官のようなペース配分なんてできっこないんだ。
俺の考えを証明するように、次々と先頭集団から脱落者が生まれる。その合間を縫うように、俺は温存していたククポを全開で走らせた。
今先頭を走るのは……マク! モッコ! の2人!! 体重が軽い分、ククポの負担が少なかったか!!
一心不乱に駆ける両者の間に俺が割ってはいる。
喋る余裕なんてない。目線を合わせる暇も、ただ同じ姿勢を維持し、ただ死力を尽くす。それだけ。勝負は五分五分、誰が勝ってもおかしくはない。
三羽ククポが草原を疾走する。しばらく均衡が続いていると、数百メートル先、エスタ教官が手を挙げて静止しているのが見えた。
あそこがゴールか。
ラストスパート。急く気持ちが強すぎて、不格好に動作が崩れる。だが、それはみな同じで、まるで勝ちたいという意思が、むき出しになって野に現れているようだと思った。
頑張れククポ。あと少し。
頑張れ、俺。もう少し。
突き刺すんだ。この刹那にしか訪れない、成長の核に、あの二文字の言葉を!!
次の瞬間、頭が真っ白になる。身体から一切の力が抜け、俺はククポの背から地面へと転がり落ちた。
土の匂い。草の匂い。下半身の感覚は消えている。
朦朧とする意識の中、その声だけがはっきりと鼓膜を震わせた。
「一着!! ナイト!!」
切望した言葉。多幸感の絶頂に包まれながら、俺は、世界一幸せな気絶へと落ちていった。




