始まりの悲劇
幸福とは、雨に濡れないことだと思った。
厭わなくなるから。
元より濡れたこの身体に、多少の雨など。
あれから、いったいどれほどの耐え難い夜を過ごしただろうか。
ザーザーと、身体を濡らす雨に関心すら持たず、俺は、あの日に起きた悲劇を追憶する。
あの日はやけに月明かりの綺麗な夜だった。
ぽうっと、夜空にまーるい月が輪状の光を携え輝き、透き通る空が遠くの山々の樹木までもを鮮明に写す。
ただ、その澄んだ明かりがまざまざと照らしたのは、額から足先まで赤々とぬらつかせた、親父の血みどろになった姿だった。
あまりアクティブに外に出るタイプではない俺は、留守番を進んで請け負い、ピクニックに出かけた親父、母さん、リアの、3人の帰りを何の気なく待つ直中だった、が、
戸外から俺の名を何度も呼びかける気味の悪い上ずった声に、家から引き出され、門口で親父の惨憺たる姿を目の当たりにすることになったんだ。
ナイト……ナイト……と、か細く消掛る感情のない声に、何事が起きたのか、聞く前から肝が冷えきっていたのを覚えている。
死んだ。その言葉は、はっきり聞こえた。
殺された。その言葉もはっきりと聞こえた。
それ以外は、混迷に早口でまくしたてるので、聞きとることが困難だった。
今年で25歳になるが、親父のあんなに取り乱した姿は見たことがなかった。無情なことに、その訃報には説得力が余りあった。現場を見ていない俺にですら。
そうして親父は、震えが収まった頃に、思わず耳を疑ってしまうような戯言を言い放つ。
チョラビに母さんとリアが殺されてしまった……と。
チョラビ――どこにでもいる小動物だ、人間によく懐きペットとしても人気がある寿命は3年ほどの生物。
あの時、俺はたまらず真意を問い正したが、親父は壊れたようにその戯言を繰り返すばかりだった。これは後で判明したことだが、親父その当時既に、精神的ショックから頭が正常に働かなくなっていたんだ。
この場所で殺されたんだ! 絶対に間違いない!
歩けるまで回復した親父と、母さんとリアが襲われたという現場まで向かっていると、唐突に、親父が何もない野原を指差し喚いた。
まだ途中だろ? って、反射的に言葉を返したが、
断として親父はそこから動かなかった。ここだ。ここだ。と、2人の返り血を浴びたのはここなんだと、再び声を震わせ始めて。
何を言ってんだよ親父! どこにもいないじゃないか! しっかりしてくれよ! 母さんと、リアはどこに行ったんだよ!
今思えば、あんなに声を荒げることはなかったんじゃないかと反省している。あの頃はまだ、頼れる親父の面影が残っていたんだ。だから、イライラをぶつけてしまった。
なんの変哲もない場所に向かって叫び続けていた親父の姿を、今でも鮮明に思い出せる。遺体どころか、血の一滴すら見当たらない野原を、必死で指差す姿を。
どうしてないんだ……どうして……と青ざめた顔でごにょごにょとつぶやいた後、親父は、こめかみを両手で抱え、しくしくとむせび泣いてしまった。
これでもかというほど卑屈に丸まった親父の姿を呆然と眺めていると、急速に足に力が入らなくなって、膝がカクンと折れる。それから、どちらが先に動いたのかは覚えていない。家に帰った時、もう朝なんてとっくに過ぎていた記憶はある。
死んだ。昨日まで、なんてことない会話で笑いあっていた母さんと、妹のリアが。死んでしまった。
胸をつんざくような、いまもなお、俺たち親子を苦め続ける現実だけが、漠然として突きつけられたあの日の夜。
苛酷な現在にいたる悲劇の追憶。
俺たち親子の時間は、損壊して折れ曲がった時計の秒針のように、いびつに同じ刻を刻み続けていた。