中編
読んでいただいてありがとうございます。
翌日の昼、ミュリエルはアンジェラを昼食に誘った。
人気のない静かな場所でご飯を食べながらファビアンとメロディのことを伝えて、なるべく傍にいてほしいと頼み込んだ。
「……なるほど。確かに、ここに来たばかりの私の耳にも入ってくる程度には、噂にもなっていますね。ミュリエルの話を聞く限り、常識外れの行動をしているのはあちらの方です。分かりました。なるべく傍にいるようにします。ですが、もしミュリエルが間違っていると思った時は、あなたを止めますよ?」
「ええ、むしろお願いしたいわ。私が間違っていると思ったら、すぐに教えてほしいの」
「ですが……ミュリエルは、本当にそれでいいのですか?」
アンジェラは、ミュリエルを心配そうな顔で見ていた。
本当にファビアンとの婚約がなくなってもいいのか、結果的にメロディに取られる形になってもいいのか、何よりミュリエルの気持ちはどうなのか。
アンジェラの表情が、それら全ての言いたいことを伝えてきた。
「……本当は……嫌よ……」
出来ればファビアンとこのまま結婚したかった。
メロディさえいなければよかったのに。何度かそんな風に思ったこともある。
けれど、メロディがいる状態で結婚したところで、結婚後も何かとメロディが絡んで来ることは十分予想出来るし、最悪、結婚後にファビアンとメロディが関係を持って愛人という形で囲う可能性だってある。
婚約の段階ならまだしも、結婚までしてしまっては簡単に離婚出来るものではない。
ミュリエルとファビアンの結婚は、家同士が繋がることでもあるのだ。
今はまだ共同事業の話なども計画段階なので、変更が利く。
ロクサーヌも、無理にファビアンの家と結ぶ必要はないと言ってくれた。
「でも、私は侯爵家の娘なの。お姉様を手助けしたいのに、私の結婚がお姉様の足を引っ張るようなことになってほしくない」
ただでさえロクサーヌは、侯爵としての仕事に追われているのだ。
ミュリエルとファビアンのことで、ロクサーヌの心を煩わせたくないというのも本心だ。
「お姉様にこれ以上、心配をかけたくないの。ファビアン様のことは好きだけれど、幼馴染とばかりずっと一緒にいるファビアン様は嫌い。婚約者である私を優先してくれないファビアン様は嫌いなの。……わがままかな?」
姉には言えなかった本心だけど、不思議とアンジェラには隠すことなく言えた。
彼女の持つ雰囲気がそうさせたのかもしれない。
アンジェラは、どこか達観した雰囲気を持っていて、時々同じ年齢だというのを忘れてしまうくらいだ。
「いいえ。ただの幼馴染より婚約者を優先するのは、当然のことだと思います。婚約者が他の女とずっと一緒にいて、気分の良い女性などいないでしょう。ミュリエルとファビアン様がこれまできちんと婚約者としての関係を築いてきたのに、それを引っかき回しているのはメロディ嬢です。そして、その状況を享受しているのがファビアン様です。婚約者としての責務を忘れ他の女にうつつを抜かす男を嫌うのは、わがままなどではありませんよ」
アンジェラの言葉にミュリエルは、うん、と頷いた。
「……家族や婚約者との関係というものは、それぞれに色々とあるものですね」
アンジェラがしみじみとため息をついた。
「ごめんなさい。私の問題に巻き込んでしまって。アンジェラがご家族とあまり上手くいっていなかったことは、知っていたのだけれど」
あまり詳しくは聞いていないが、アンジェラが家出同然でこの国に来たことを知っていたので、ミュリエルは素直に謝った。
「かまいませんよ。私にとって家族は煩わしい存在でしたが、それが世間一般的ではないことも理解しています。私にも婚約者はいましたが、私がその方に抱いた思いは、可哀想な我が家の犠牲者ということでした」
「アンジェラの家の犠牲者?」
「はい。私との婚約は解消されるのが前提のもので、その後は妹と婚約する予定になっていました。今だから言えることですが、私の姉と妹は二人とも夜遊びがひどく、知っている方は絶対に婚約者に選ぶことのない人たちでした。家族から疎まれていた私は、まともに婚約者と顔を合わせたこともなかったので、ミュリエルのような関係を築くことは出来ませんでした」
築けるとも思っていなかったので、無駄な時間を取られるよりも、その時間を使って勉強をしていた。
まさか、その勉強のために通った図書館で、何も知らない婚約者と妙な関係を築くことになるとは思ってもみなかったが。
すでに縁が切れている婚約者は、アンジェラの心を揺さぶることなどなかった。
なので、こうして婚約者との関係に悩むミュリエルが、とても新鮮なものに感じる。
「でも、せっかく築いた関係も、たった一人の女性の出現であっさりと崩れてしまったわ。アンジェラ、あなたの後見人が宰相閣下だということもあって、私たちはあなたを利用しようとしているの」
「綺麗事だけで生きてはいけませんし、それも含めて、今の私という存在です。あなたの傍にいて、見聞きしたことを正確に報告する。私がやるのはそれだけですよ。それに今まで私は存在しないも同然の扱いを受けてきました。正直、頼られるのは初めてなので、少しワクワクしています」
アンジェラはミュリエルにくすりと笑いかけた。
アンジェラが生まれた国で彼女のことを気にかけてくれたのは、ほんの数人の友人だけだった。
……そして、最後の最後で妹のことを正面から見た兄が、たった一晩だけ気にかけていた。
アンジェラが常に身に着けているスターサファイアのネックレスは、生まれて初めて兄からもらった誕生日プレゼントだ。
「アンジェラ、これでもうちは、それなりに権力を持ってるわ。もし困ったことがあったら、いつでも言ってね。絶対、力になるから」
「いいのですか?そんな約束をして。お姉様に怒られませんか?」
「むしろアンジェラが困った時に力を貸さなかったら、お姉様に怒られるわ。自分は助けてもらったのに、なぜあなたを助けないのかって」
言い方は悪いかもしれないが、何も持たない他国の人間であるアンジェラの後見に、宰相だけでなく侯爵家もなる。アンジェラ自身の価値は、さらに上がるだろう。
「難しく考えることはありませんよ、ミュリエル。あなたはこの国に来て初めての友人です。私は友人の傍にいるだけですから」
「……うん、本当にありがとう、アンジェラ」
もし本当にアンジェラが困るような事態が起きたときは、絶対に助けようとミュリエルは心に誓った。
その日の授業が終わった後、ミュリエルとアンジェラはすぐにファビアンのいる教室へと向かった。
さすがに授業が終わってすぐなので、教室内には彼のクラスメイトたちがたくさん残っていて、二人が入っていくと、一斉にミュリエルたちの方を見た。
途端に教室内が静かになり、誰かがごくりと喉を鳴らした音が小さく響いた。
誰もが、ついに正面から来たのだと確信していた。
これから先の出来事次第では、ファビアンとの付き合い方や伯爵家そのものとの付き合いも考えなければならない。
メロディの子爵家とは、すでに付き合い方を考えている家もある。
メロディは、教室内で誰に聞かれてもいいような大きな声で、ファビアンとのことは家族も応援していると言っているのだ。
ファビアンは、それを友情だとでも思っているのかもしれないが、メロディは友情だなんて一言も言っていない。
他の誰かに何か言われたら、ファビアンとは幼馴染で友人だ、と言うけれど、ファビアン自身に向かっては、一度も友人だと言っていないのだ。
ファビアンと親しくしていることを家族も凄く喜んでいる、そう言ってファビアンにひっついている姿を見て、クラスメイトたちはそのことを家族に伝えた。
各家が、娘の行状を知らず、止めることも出来ていない子爵家のことを不安に思うのは仕方がないことだ。
第二、第三のメロディが生み出されて自分たちに付きまとわれたら困るのだ。
クラスメイトたちが無言で見つめる中、ミュリエルはいつも通り一緒にいるファビアンとメロディの目の前に立ち、アンジェラは少し下がった場所から状況を見ていた。
「ごきげんよう、ファビアン様、それにメロディ様」
「ごきげんよう、ミュリエル様。今日はどうされたんですか?」
無邪気を装ってそう答えたのは、メロディの方だった。
それだけで、メロディの常識のなさが窺い知れるというものだ。
出遅れたファビアンが、慌ててミュリエルに話しかけた。
「ど、どうしたんだ?ミュリエル。教室に来るなんて珍しいじゃないか」
メロディの言葉をさくっと無視して、ミュリエルはファビアンににっこり笑いかけた。
「ファビアン様。本日は、お伺いしたいことがあります」
「な、何?」
「ファビアン様、私の認識では、私たちは婚約者同士のはずですが、間違いはありませんか?」
「もちろんだよ」
今更何を言っているのだろう、という顔をファビアンはしていた。
それだけで、事態の重さを認識していないのだと分かった。
それに、ファビアンからは見えない後方で、メロディがミュリエルを睨み付けているのがよく見える。
「では、お尋ねしますが、最近、二人で出かける予定を立てても、必ず当日になると断りの手紙が届くのはなぜでしょうか?理由が、毎回メロディ様のことなのはなぜでしょうか?」
「え?いや、だってメロディがまだ王都に慣れていないから色々と困ってて、買い物も怖いって言うから。友人を助けるのは、悪いことじゃないだろう?」
ミュリエルの質問に、クラスメイトたちは固まった。
それに対するファビアンの回答に、クラスメイトたちはさらに固まった。
ファビアンは、テストの成績は上位だが、それ以外はダメなやつだったんだな。
普通に考えれば、そんなの有り得ないだろうということを平気で婚約者に言っている時点で、もはや婚約破棄まで一直線上にいる。
王都に慣れていない?買い物が怖い?
ただの幼馴染がそう言ったからって、婚約者との予定を毎回断る理由になんてならない。
それも当日に手紙で断っているなんて、信じられない。
それってつまり、ファビアンの予定をメロディがしっかり把握していて、わざわざその日にファビアンに泣きついているということだ。
クラスメイトたちは、ファビアンに対する見方をさらに厳しいものにしなければ、変なことに巻き込まれるかもしれないと危機感を抱いた。
「そうですよ、ミュリエル様。私、田舎から出てきたばかりでまだ怖いんです。当日になってしまったことは謝りますけど、ファビアン様は私のことを気にかけてくれてるんです。それのどこが悪いんですか?」
メロディの言葉を訳すと、「ファビアンが、婚約者よりも幼馴染を優先するのは当然のこと。何も悪いことなんてしてない」、そんなところだろう。
アンジェラは今までメロディのことを噂でしか知らなかったが、この言葉を聞いただけで、この人は自分の感情を最優先にする自分都合の強い人間だ、と認識した。
言葉の端々に、ミュリエルに対する悪意を感じる。
ミュリエルは、表情を変えることなく、二人を見ていた。
「そうですか、メロディ様は、どこが悪いのかお分かりではないのですね。では、私とファビアン様の交流の場であるお茶会に、いつもメロディ様がいらっしゃるのはなぜですか?」
ミュリエルの質問に、クラスメイトたちはさらに衝撃を受けた。
お茶会にも行ってるの?そういえば、ファビアンの家のお茶が美味しいとか、二人で見た庭の花が綺麗だったとか言っていたけど、まさか一緒にミュリエル様もいたの?え?ファビアン、そんなことやってるの?
どうやら現在進行形で婚約者とのお茶会に関係のないメロディが同席している事実に、クラスメイトたちは呆れた。
「あら、偶然ですわ。ファビアン様の家に行くといつも美味しそうなお菓子が用意されてて、ファビアン様がお茶会に誘ってくれるんです」
「そうだよ、偶然だよ。それに、ミュリエルにはメロディの友達になってほしかったんだ」
「お友達ですか?そのわりには、いつもお二人の幼い頃のお話ばかりされて、お二人で盛り上がっていますが?」
「だってメロディとの共通の話題って、どうしてもその頃のことになってしまうから」
……マジでファビアン、ヤバイわ。そんなの端から見たら、幼馴染の男女二人の邪魔をする婚約者にしか見えないじゃん。
正確に捉えているクラスメイトたちと、そうなるように意図してやっているメロディと違って、ファビアンは自分たちがどう見えているのか分かっていない様子だった。
「最近はいつもお二人でいらっしゃるのに、どうしてわざわざ私とのお茶会でそういう話をするのか、意味が分かりません」
「いい加減にしてくれ、ミュリエル。メロディはまだ学園のことにも慣れていないし、勉強だって遅れているんだ。それをサポートするように頼まれているだけだ。幼馴染なんだから当然だろう?君だって、そっちの彼女のことをサポートしているから分かるだろう?」
そう言ってファビアンは、アンジェラを指した。
「あら、私ですか?もちろん、他国から来た私に色々と教えてくださるミュリエルには感謝しています。メロディ様と同じ立場の者として言わせていただくなら、勉強は一人でも出来ます。分からないことは聞きますが、この学園の図書館は充実していますし、先生方も親切に教えてくださいます。勉強が遅れていることは、己の努力次第で何とでもなると思いますよ。私生活においても、王都は昼間ならそれほど治安が悪いわけではありませんので、私一人でも買い物くらい出来ます。ミュリエルが最初に色々と詳しく教えてくれたので、次からは迷うこともありませんでしたし。他国から来た私がそう感じるくらいですから、この国に生まれた方ならそれほど怖くはないのでは?それともお二人は、夜の王都でも出歩いているのですか?」
「な!夜に出歩くなんてしていない!」
「それにメロディ様には、子爵家の使用人がいるはずですよね?一人でここに来た私と違って、頼れる存在は他にもいるのでは?」
買い物は使用人と行けばいいだけで、わざわざ幼馴染に頼る必要などない。
この国の生まれでもないアンジェラにそう言われて、メロディは、余計なことを言うな、という感じでファビアンに見えないようにアンジェラを睨み付けた。だが、そのすぐ後にファビアンに甘えた声を出した。
「ファビアン様、確かに家の者はいますが、ファビアン様の方が頼りになるんです。家の者たちも王都にはあまり慣れていないので、ファビアン様がいなかったら、私……どうすればいいのか分からないんです」
「ほら聞いただろう!?メロディは困っているんだ。ミュリエル!君も君だ。前にも言っただろう?君までそんな風にメロディのことを言わないでくれ!分かったな!!行こう、メロディ」
アンジェラの問いかけを無視して、ファビアンとメロディは急いで教室を出て行ってしまった。
その様子を見て、ミュリエルはふぅと息を吐いた。
「皆様、お騒がせをいたしました。ですが、もう少しだけお付き合いください。ファビアン様とメロディ様のことは、はっきりさせておかなければならないことなのです」
成り行きを見ていたファビアンのクラスメイトたちに、ミュリエルは頭を下げた。
こちらの都合で、こんな茶番に付き合わせるのだ。
「頭を下げる必要などありませんよ、ミュリエル嬢」
集団の中から出てきたのは、公爵家のジェラールだった。
「ジェラール様」
「ミュリエル嬢、我々もファビアンには苦言を呈しているのですが、あの通りの状況なので、あなたのことを心配していました」
「申し訳ございません。すでに姉からは、何度言ってもファビアン様が変わらないようならば、婚約を解消することを考えるように言われております。ジェラール様、それに皆様、これから一ヶ月ほどの間、皆様に今回の様なことをお見せすることになると思いますが、お許しください」
「……それはつまり、この一ヶ月でファビアンを見限るということですか?」
「見限る……そうなるのかもしれません。一ヶ月の間はファビアン様とメロディ様に言い続けます。うっとうしいと思われようが、言い続けたいと思っております」
「なるほど、言われ続けたファビアンがどうするかで、侯爵家としては方針を決めるのですね?」
「はい」
「ミュリエル嬢は、それで納得しているのですか?」
気遣わしげな視線を向けてくれたジェラールに、ミュリエルは泣きそうになった。
姉もアンジェラもジェラールも、ミュリエルのことを心配してくれている。
……幼馴染にかまけているファビアンとは、大違いだ。
こんな風に、皆を心配させてはいけない。ミュリエルはそう思い、そしてこの状況を全く理解していないファビアンに、怒りさえ湧いてきた。
「ジェラール様、確かに私の気持ちは揺れておりました。ですが、今、決めました。このままファビアン様がメロディ様と一緒にいたいというのならば、私たちの関係は解消した方がいいでしょう。婚約者か幼馴染か、どちらを優先するべきかは、皆様もお分かりになるでしょう?」
「了解しました。皆、分かっていると思いますが、この状況をファビアンたちに伝える必要はありません。ミュリエル嬢、あなたがわざわざこの教室に来てファビアンに言うのは、私たち全員を証人にするためですね?」
「はい。皆様を巻き込んで申し訳ありませんが、私がファビアン様たちにきちんと言っていたということを、いざという時に証言していただきたいのです。そのために、アンジェラにも付き合ってもらっているのです」
「確かにあの二人の振る舞いは、婚約者がいる者のそれではありませんからね。ああいうことを許していたら、それこそ、収拾がつかなくなります。こそこそと陰で助言したとて、聞いていないと言いそうな二人でもありますからね」
そこかしこで、クラスメイトたちが頷いている。
すでにファビアンとメロディは、ここまで信用を失っているのだ。
「ではミュリエル嬢、一ヶ月間、あなたはこの教室に通われることになるのですね」
楽しそうにそう言ったジェラールに、ミュリエルは申し訳ない気持ちで頷き、アンジェラとクラスメイトたちは、あれ?ん?……まぁ、それならそれで!、という気持ちになったのだった。