前編
読んでいただいてありがとうございます。
婚約者からの手紙を読んで、ミュリエルは大きくため息をついた。
そのまま窓の外をぼーっと眺めていると、不意に声をかけられた。
「どうしたの?そんな憂い顔をして」
「お姉様?いつの間に部屋にいらしたのですか?」
そこにいたのは、侯爵家の当主である姉のロクサーヌだった。
「侍女が、ミュリエルが部屋でずっとぼうっとしていておかしいと報告してきたのよ。一応、ノックはしたけれど、反応がなかったから勝手に入らせてもらったわ。可愛い妹が心配だったんだもの」
ふふふ、と笑う姉はミュリエルのことを幼い頃から可愛がってくれていた。
それどころか、滅多に家にいなかった両親に代わってミュリエルを育ててくれたのはこの姉だ。
少々妹に対して心配性な姉だが、ミュリエルはロクサーヌに全幅の信頼を置いていた。
「手紙?もしかして、ファビアンから?」
「はい。……お姉様、私、ファビアン様がよく分からなくなってきました……」
「ミュリエル、もしかしてまたメロディ絡みなの?」
「はい。メロディさんに、一人で買い物に行くのが怖いので付いてきてほしいとお願いされたそうです。ですから、私とのお出かけは行けなくなったそうです」
ファビアンは伯爵家の青年で、ミュリエルの婚約者だ。
だが、最近の彼はいつもミュリエルより幼馴染である子爵令嬢のメロディを優先する。
今まで二人でしていたお茶会にある日突然メロディが来て、その日からずっと彼の家でのお茶会には、必ずメロディがいる。
抗議したこともあったが、伯爵家の人たちは、皆、メロディはただの幼馴染だと言うだけで、一向に改善しようとする様子はなかった。
「ミュリエル、婚約破棄してもいいのよ?別にあの家と親しく付き合っていく必要もないのだし。そもそもこの婚約も、あちらが打診してきたことだもの。たとえそれで、あちらとの共同事業の予定がなくなってもかまわないわ」
家格はこちらの方が上だし、経済面でもこちらが上だ。
一応、ファビアンとミュリエルが婚約しているので、共同事業の話はしているが、侯爵家としてはあまり旨味のない事業なので、正直潰れようが支障はない。
「……もう少しだけ、待ってくれませんか?」
同じ年齢のファビアンと婚約したのは、二年ちょっと前だった。
学園でのファビアンは、常に上位の成績をキープしているし、お互い婚約者として、誰が見ても文句のつけようのないきちんとした振る舞いをしてきた。
お出かけもお茶会も二人で仲良くやっており、周囲にもこのまま結婚まで順調にいくのだろうと思われていた。
陰りが出たのは、メロディが入学してからだった。
メロディはミュリエルたちと同じ年齢だったが、訳あって遅れて学園にやってきた。
そのこと自体は別に珍しいことではない。
基本的に貴族は王都の学園に通うことになっているが、地方の貴族だと家の都合で多少遅れて入学する者もいる。
そういった者たちは、当然その勉強が遅れていることになるが、余裕がある家だと家庭教師に教わっているので、そのまま同じ学年の者たちと学ぶことになる。
余裕がなくて学力が足りないと判断された者は、下の学年の者と一緒に学ぶことになる。
ただ、まぁ、それだと体裁が悪いので、学園側も色々と考えて、なるべく同じ年齢の者と学べるように工夫をしている。
たとえば、通常授業後に特別授業時間を設けたり、同じ学年の成績優秀者に付いてもらって分からない部分を教えてもらったり、といったことをして何とかぎりぎりやっていた。
中には、堂々と年下の学生と共に学ぶことを選択する猛者もいるが、そういった者はどちらかというと変わり者が多く、誰か手綱を握ってくれ、と本気で先生たちが願う人間ばかりだった。
ちなみに、今の宰相もそうなのだが、彼の場合は再入学の上、年下どころか二十代にして十代の学生に交じって勉強をしていた。
文官の試験を受けたいので、もう一度勉強をしたい、という大変断りづらい理由だったのだが、ちょうど彼が護衛していた姫君、今の女王陛下が入学した時だったので、同級生兼学園の中での護衛という複雑な立場の人だった。
無事に卒業した時には、これで後は何があっても飼い主(姫君)の責任ということで、と先生一同でほっとしたものだった。
メロディの実家の子爵家はそれほど裕福ではなく、兄の結婚式や領内でのごたごたなどがあり遅れて入学したのだそうだ。
当然、家庭教師もいなかったので、勉強も遅れていた。
そこで放課後の補習だけでは間に合わないと判断した学園側が、ファビアンに面倒を見るように依頼したのだ。
ファビアンを選んだ理由は、メロディが幼馴染で色々と聞きやすいからと教師にお願いしたからだ。
地方から出てきて友人もいない中、唯一知っている幼馴染にお願いしたい、そう願われて学園がファビアンに押しつけたのだ。
それだけなら、別によくあることで済んだ。
今までもそういった事例はよく見てきたし、別に問題になることもなかった。
ファビアンは婚約者のミュリエルと仲良くやっていたし、女性に手を出すような男性ではない。
だから、学園側は特に何も考えずに、ファビアンと同じクラスにメロディを入れて、彼女を託したのだ。
だが、いざ始まってみると、ただの幼馴染というには、メロディのファビアンに対する距離感はとてつもなく近かった。
最初は距離の近さに戸惑っていたファビアンだったが、そうやって幼馴染の女の子に頼りにされるのが心地良かったのか、一週間もすればファビアンもメロディに近寄っていった。
そんな状態が一ヶ月、二ヶ月と続き、周りの人間が、ちょっとおかしくないか、と思い始めた頃に友人の一人がそれとなくファビアンに注意したところ、一緒にいたメロディが、
「ひどいです!わたしが田舎者だからそんなことを言うんですね。ファビアン様しか知り合いがいなくて心細くて……都会になかなか馴染めないわたしに、ファビアン様は傍にいて励ましてくださっているだけなんです。田舎ではこれくらいの距離感は当たり前ですのに、親しくしているだけでなぜそんな風に言われないといけないのですか!?わたしは、ファビアン様をお兄様のように慕っているだけです!」
そう言って涙を流したので、ファビアンが慌ててメロディを慰め、注意した友人を怒るということがあった。
誰の目から見ても、絶対違うということを、ファビアンだけが信じていた。
それ以来、友人たちはファビアンとメロディから距離を置き、ファビアンの方も近寄ろうとしなくなった。
クラスが違っていたミュリエルにも噂話は届いており、友人に、放っておいていいの?、と聞かれたので注意はしようとした。
けれどファビアンと二人きりで話そうとしてもすぐにメロディが付いてくるし、メロディがいるところでさりげなく注意しても、兄妹のような関係なのに邪推しないでください、とメロディに言われ、ファビアンもミュリエルを咎めるような視線を送ってくる始末だ。
ファビアンの家に行っても、出掛けているか、メロディが遊びに来ていたので、絶対に二人きりにはなれなかった。
ファビアンは友人たちにメロディのことを言われて、むしろ意地になってしまっているようで、ミュリエルまでそんな風に言わないでくれ、と言うばかりだった。
ミュリエルはファビアンに秘密で、彼の父である伯爵と夫人にメロディのことを聞いたことがあった。
メロディの実家の子爵家と伯爵家は領地が近いところにあるので、両家は昔から何代にも渡って交流があるのだそうだ。ただ、婚姻関係になったことは一度もなく、伯爵家では子爵家から妻を娶ることはないと言っていた。その中でもメロディは特に伯爵家の一家に懐いていたらしく、領地に帰るといつもファビアンと遊んでいた妹みたいな存在なので変な心配はいらないのだそうだ。
伯爵家の人たちは本気でそう思っているが、二人の学園内での振る舞いを知っている者からすれば、鼻で笑ってしまうような言葉だ。
最近のメロディは、伯爵家でのお茶会ではファビアンの隣で女主人のように振る舞い、わざわざミュリエルに向かって、妹としてお兄様のお嫁さんと仲良くしたいだけです、と言って可愛らしく笑っている。
そのくせ話す内容は、いつもメロディとファビアンの幼い頃の出来事ばかり。
そして最後に必ず、ミュリエル様の分からない話ばかりしてすみません。こうしてお兄様と一緒にいられるのが嬉しいのです。そう言って謝るのだ。
それをファビアンが、そんなことないよ、と慰めるからさらに調子に乗る。
ファビアンに見えないようにして勝ち誇る笑顔を何度見たことか。
それでも見捨てられないのは、メロディが来る前は確かに心が通じ合っていたと思っているからだ。
メロディが離れれば、元に戻ると信じたかったからだ。
けれど、ファビアンのまんざらでもない態度を見ていて、彼を信じたいと思う心に亀裂が入ってきたのは確かなことだ。
「……ミュリエル、あなたの気持ちも分からないことはないけれど、私にはファビアンが元に戻るとは思えないわ」
「……信じたいと思うのは、愚かなことなのでしょうか?」
「いいえ、あなたの心は尊重するわ。そういうところも私の愛する妹の良いところだもの。でも、下手にあの二人に近付いてほしくないわ。あの二人、特にメロディにとって、あなたはファビアンに対する障害でしかない。どんな手を使っても排除したいと思っているでしょうね。物語ではないけれど、あなたを真実の愛を貫こうとしている二人を引き裂く悪役令嬢とでも考えているのかしら」
「悪役令嬢になるには、私では少々無理があるかと……」
そんな策略家タイプじゃないし、扇子を持って高笑いとかも出来ない。
「そうね、ミュリエルでは無理ね」
冗談よ、と軽やかに笑う姉ならば出来そうな気がする。
それもしっかり周りを固めて証拠も握って、正論で愛に酔いしれる二人の頭を殴るタイプだ。
「あまり近寄らないことね。本当にメロディがファビアンをほしいのなら、どんな手を使ってくるのかわからないもの。それと、なるべく誰かと一緒にいること。それも出来れば、先生や生徒たちから信頼のある方で、証人になってくれた時に信じてもらえるような方」
「あ、でしたら、アンジェラがいます」
「アンジェラ?」
「はい。最近、他国からいらした方で、この国のことに不慣れなので、私が面倒を見るように言われたので、一緒にいることが多いのです。独学で我が国の言語を身に付けたそうで、とても頭の良い方なんですよ。何というか、すごく芯のある方で、お姉様も会ったらすぐに好きになると思います」
「最近いらしたのに、先生や生徒たちからの信頼があるの?」
「アンジェラの後見人は、宰相閣下なんです。それだけで先生たちに緊張感が漂っていたんですが、こちらに来て初めての試験でいきなり三位になったんですよ。勉強はともかく、私は先生に頼まれて、主にこの国での常識や生活面での相談に乗っているんです。でも、本当に良い方ですし、お友達になったんです」
「そう、よかったわね。お友達は大切にするのよ」
「はい」
アンジェラは頭も良く冷静な子だが、家族とは上手くいっていないらしく、家出同然にこの国に来たのだそうだ。
勉強は申し分ないが他国から来たばかりなので、一年間は学園に通ってこの国のことを学ぶように宰相閣下から言われており、卒業と同時に王宮勤めも決まっているのだそうだ。
「ミュリエル、ファビアンとメロディについて、どうするかある程度は決めておきましょう」
「決めるって何をですか?」
「期限とか何をするか、とかよ。あなた、そういうのをきちんと決めておかないと、ほだされそうなんですもの。でも、私とこう!って決めておけば破れないでしょう?」
「お姉様」
少しふくれっ面をしたミュリエルを見て、ロクサーヌがくすくす笑った。
「あなたは昔から私との約束をきちんと守る、良い子ですものね?」
「……だって、お姉様との約束ですから」
ミュリエルはロクサーヌを信じている。ロクサーヌとの約束を破ることなんて出来ない。
「本当に良い子ねぇ。こんなに可愛い私の妹よりも、性悪などこぞの幼馴染とやらがいいなんて、ファビアンは本当に愚か者さんねぇ」
姉の目が笑っていなくて怖い。
けれど、大方の意見はそれだ。
「ミュリエル、まずは期限だけど、二ヶ月後に七日間ほど学校が休みになる時があるわよね?」
「はい、あります」
「じゃあ、そこまでを期限としましょう」
「二ヶ月ですか?少し短いのではないでしょうか?」
「ミュリエル、あなたとファビアンが婚約したのが、二年ちょっと前。メロディが学園に来たのが二ヶ月前。その二ヶ月で、あなたたちの二年が崩れようとしているわ。だから見極める期間も二ヶ月よ」
姉の言い分も分かる。
たった二ヶ月。そのわずかな期間で、ミュリエルとファビアンの関係は変わってしまった。
ファビアンの中で、優先順位が変わってしまったのだ。
悲しいと思う。今まで二人で築いてきた関係は、砂上の楼閣だったのだろうか。
たった一人の女性の出現で、こうまで脆く崩れ去る絆しか結べていなかったのだろうか。
お互い好意を持って見つめ合い、笑い合った日々は何だったのだろうか。
家同士の間で決まった婚約だったとはいえ、尊重しあえていたと思ったのに。
「いいことミュリエル、最初の一ヶ月は、二人に苦言を呈しなさい。それも、出来れば人が大勢いる教室とかがいいわね。ファビアンのクラスメイトなら普段の二人のことを見慣れているだろうし、婚約者のミュリエルがそのことに対して注意するのは当たり前のことだもの」
「人目があるところじゃないとダメなの?」
「えぇ、そうよ。人目が多くないと、もし暴力を振るわれたら大変でしょう?」
ミュリエルは素直に頷いているが、暴力云々もそうだが、ロクサーヌの狙いとしてはファビアンの有責による婚約破棄に正当性を持たせるためだ。
婚約者がどれだけ忠告しても話を聞かなかったファビアンと、当たり前のことを注意されてもファビアンから離れなかったメロディ、という構図を多くの人に見てもらって、いざという時には証人になってもらうためだ。
「そういう時は、絶対にそのアンジェラ嬢に一緒にいてもらってね」
宰相閣下が後見についている娘の言葉は、信憑性も増すというものだ。もし嘘でも言ってそれが後にバレた場合、宰相閣下に迷惑がかかる可能性を熟知している娘なら、下手な嘘は吐かない。
「それからその後の一ヶ月は、何もしなくていいわ」
「え?見てるだけってこと?」
「何なら、彼らの前に姿を現す必要もないわね」
「どういうことですか?お姉様」
「その残り一ヶ月の間に、ファビアンがどう動くのかを見たいの」
ロクサーヌは、ミュリエルが何も言わなくなった一ヶ月の間に、ファビアンがどう動くのかを見たかった。
もし、自身を省みて反省し、ミュリエルとの関係を構築し直すのなら、ミュリエルの気持ち次第で婚約を継続させてもいい。
けれど、これ幸いとメロディとずっと共にいるのなら、あちらの有責で婚約破棄をさせてもらう。
当然、ファビアンとメロディの家にも正式に抗議する。
兄妹みたいな関係だと言われようが、すでに学園内だけとはいえ、これだけ噂になっていて、周囲の言葉に耳も貸さないような婚約者はいらない。
家と家との間で結ばれた正式な婚約者を蔑ろにして、幼馴染の女を優先する男が周囲からどう見られるのか、あの二人は考えたことなどないのだろう。
貴族の中で婚約は、家同士の契約でもある。
それを蔑ろにするのならば、誰もが納得するような理由が必要になる。
今回の場合は誰がどう見ても、幼馴染だという女に引っかかった人を見る目のない男、という図だ。
契約を履行出来ない者など信用出来ない。
二人で好きなだけ兄妹ごっこを楽しんでいればいい。
それにこちらにも、侯爵家としてのプライドがあるのだ。
何より、大切な妹を蔑ろにされて、許せるロクサーヌではなかった。
メロディがこれだけ明確に侯爵家にケンカを売って来たのなら、正々堂々と貴族らしいやり方で買ってやるのが礼儀というもの。
メロディだって、田舎の子爵家とはいえ、この国の貴族に生まれた存在だ。
子爵家の方も、貴族のやり方を分かっているはずだ。
「お姉様、その……二ヶ月はお姉様の言う通りにやってみます。ですが、婚約をどうするかは、もう少し待っていただけませんか?」
「もう少しってどれくらいなの?」
「お姉様が私を思ってそう言ってくれているのは、わかります。ですが、私はまだ気持ちの整理がつかなくて……」
「……ごめんなさい、ミュリエル。そうね、あなたの気持ちを考えるべきだったわね。ファビアンがあの人と同じだと決めつけたのも悪かったわ。違う可能性だってあるのに」
「お姉様が、自分と同じように苦しんでほしくないと思っていることは分かっています。正直、私だってファビアン様が戻ってくるとは思っていません。ですが……!」
「分かったわ。でも、あまり待っても良いことはないわよ?自分たちに酔ったままの者たちは、己こそが正義なのよ。誰の忠告だろうが、耳を貸さないわ。最終的にどうなるか、まるっきり理解してないのよ。そのまま突き進んだところで、自分たちの理想通りにいくはずないのにね。かけ離れていくだけよ」
実感のこもったロクサーヌの言葉と何とも言えない表情に、ミュリエルは姉の手を取った。
姉はそれをすでに経験している。
ロクサーヌの元婚約者は他の侯爵家の次男だったが、ファビアンとは逆に学園で出会った男爵家の娘と恋に落ち、婚約を解消した。
幼馴染だったロクサーヌでは、近すぎて新鮮さというか、刺激というか、とにかくそういうのが足りなかったそうだ。
男爵令嬢は、今まで出会ったどの令嬢とも違う、これこそが真実の愛だ、と叫んでいたそうだが、ロクサーヌにしてみれば、侯爵家の令息と令嬢として生まれ、それに相応しい教育を施された者と、名ばかりの男爵家の令嬢では違って当たり前なのに、何を叫んでいるの?という感じだった。
ロクサーヌや周りの似たような教育を受けてきた者たちが色々と言ったのだが、最終的に彼は婚約破棄を選び、ロクサーヌではなく男爵家の令嬢を選んだ。
良くも悪くもロクサーヌたちは貴族だ。
貴族として、ロクサーヌたちが優先すべきことは何なのか、元婚約者は理解していなかったようだった。
今、元婚約者がどんな生活をしているのかは知らない。
噂によれば、侯爵家から出されて、社交界も出入り禁止になったとは聞いている。
何の関係もなくなったロクサーヌは、詳しく調べてなどいない。
それは、もはやロクサーヌの問題ではなく、あちらの家の問題だ。
他家の問題に首を突っ込む気などなかった。
多少の違いはあるが、状況的にはミュリエルとロクサーヌは同じようなことだ。
婚約者が、他の女性に想いを寄せている。
ロクサーヌだって、婚約破棄された日は悲しかった。他者の目がある場所ではけっして愚痴も涙もこぼさなかったが、部屋に帰って落ち込んだ。
ミュリエルは、そんなロクサーヌを一人にしてはおけないと言って、夜中にロクサーヌのベッドにもぐり込んできた。
悲しい時、傍にいてくれる妹がいる。
何も言わずに、寄り添ってくれる家族がいる。
あの日、ミュリエルの温もりにロクサーヌは癒やされたのだ。
だから、今度はロクサーヌがミュリエルを守る番なのだ。
「……貴族としては、ファビアンの行動はいかがなものかと思うわ。忠告も聞かなくなっているし、婚約者としては最低よね。私の時は真実の愛とやらだったのだから、偽物である私を放置するということは、百歩譲ってまぁ、理解出来なくもないわ。だけど、ファビアンとメロディは、ずっとただの幼馴染だと言っているのでしょう?婚約者より優先するただの女性の幼馴染って何よ?社交界ではあなたを正妻に迎えて、彼女を愛人にでもするつもりだと見做されるわよ」
「誰かが、彼女を愛人にするのか?って聞いたそうです。その言葉にファビアン様は激怒して、その方と絶縁したと聞きました」
学園内でもすでにファビアンの友人関係は崩壊しかけている。
ファビアンは、メロディのために全てを捨てる覚悟を持っているのだろうか。
……そんな覚悟は、きっと持っていない。
それどころか、周囲からどう見えているのかも気付いていないのかもしれない。
メロディはきっと違う。
彼女は、周囲からどう見えているのか分かっていて、ファビアンの傍に居続けているのだ。
だからといって愛人になりたいわけではないだろう。
狙っているのは、ファビアンの正妻の座だ。
多少ごたつくだろうが、ファビアンの正妻になるという都合の良い夢を見ている。
そんな簡単なことではないのだ。
特に今回は、このままではファビアンとメロディの有責による婚約破棄になる。
失うであろう信用を、これから先どう回復していくつもりなのだろう。
ミュリエルは、せめてファビアンがその全てをきちんと理解してから、これからのことを話し合っていきたかった。
それが、ミュリエルからの最後のプレゼントになるだろう。
そこまでやれば、ミュリエルも自分の心の整理をつけることが出来る。
「いいでしょう、ミュリエル。一応期限は二ヶ月としておきますが、状況次第では延長します。けれど、そう長くはないわよ。我が侯爵家にとっては、ファビアンとメロディの関係などどうでもよいことです。婚約者であるあなたを蔑ろにされた、それは許せることではありませんから」
「はい、お姉様。分かっています」
「ミュリエル、今回のことであなたはほんの少し傷ついて、悲しみと苦しみを味わうでしょう。でもあなたの周りには、私やお友達がいるわ。一緒に乗り越えていきましょうね」
ロクサーヌは、ファビアンが失敗する前提の言葉をミュリエルにかけたのだった。
アンジェラは、「どうせ私はいなくなる」のアンジェラです。お友達が出来ました。よかった。