夢を見た人魚のお話
どこかで聞いたことのある、人魚姫の物語。人魚ならば、なおさら知っているだろう。
人間と人魚には大きな違いがある。
まずは、住む場所が違うこと。海と陸では大きく異なるだろう。足があるか尾びれがあるか、というのも大きな違いだろう。
次に、死にかた。人間の多くは病気や事故で亡くなるが人魚は違う。大抵の人魚は寿命を迎えると急に泳げなくなり、溺れてゆっくりと海の底へ沈むのだ。
前に一度、寿命を迎えて溺れる人魚を見たことがある。一人の男の人魚だった。彼は老いてシワシワになっても、凛々しい目をしていた。
ある日、彼が隣で泳いでいたかと思うと、急にぐらりと揺れ、口からはゴボゴボと泡が溢れた。最初は苦しそうにもがいていたが、突然もがくことをやめ、暗い海の底へと落ちていった。──最期に彼がうっすらと笑みを浮かべたのが印象的だった。なぜ彼はあのとき笑ったのだろうか。
幼い私は手を伸ばして彼を追おうとしたが、周りの大人たちに黙って止められた。人魚の間ではそれが礼儀なのだろう。不思議なものだ。
海の底には人魚の死体が落ちているのではないかと、私は思っている。
そして最後に、決して結ばれないこと。
人魚姫の物語は、これらのことを教える教訓となっている。でも実際人魚が人間と恋に落ちるなんて、あり得ないだろう。そもそも人間と人魚が会うことなんて、ほとんどない。それに人間と出会ってしまったら、怖くて逃げるだろう。人間は恐ろしい。環境を汚すだけでなく同じ生き物同士殺しあうなんて、全く何を考えているのか理解できない。
人魚よりもずっともろいくせに。すぐに死ぬくせに。
◯ ◯ ◑
人魚は成人すると、一日だけ人間になれる薬をもらう。
私にこんなものは必要ない。ずっと平和な海にいよう。どこよりも美しい海に。あんな危険な世界に行ってたまるか。
幼馴染みの娘たちは明日陸へ行くと言う。
「貴方も一緒に行かない?」と聞かれ、「私は行かなくていいの」と答えた。
人魚姫の話を聞くたびに思う。人魚姫はなんて愚かなのだろう、と。皆が「ロマンチックな話」と言うのを、ずっと馬鹿馬鹿しいと思っていた。
狭くて少しつまらないけど、私はこの世界がいい。
次の日、人間の世界を堪能してきた娘の話を聞いた。
「陸は美しいところよ」
彼女は目を輝かせてそう言った。
「それに、陸から見る海はとても美しいの」
彼女は陸から持ち帰った〝花〟というものを見せてくれた。
「これはひまわりっていうの。海のすぐそばにこの花がたくさん咲いていたわ。海よりもずっと太陽が近くて、眩しかった。少しだけ、暑かったけどね」
彼女の持っている〝ひまわり〟は、〝向日葵〟と書くそうだ。彼女は白い手で木の棒を持ち、砂へその字を書いて見せた。とある人間に教えてもらったと言う。
人間と話をするなんて、と私はぎょっとした。そんな私に、「人間が皆悪いわけじゃないのよ」と彼女は言った。
幼い頃からずっと一緒にいる彼女は、早く人間の国に言ってみたい、と口癖のように言っていた。長年の願いが叶ったのだ。彼女は黄金に輝くその花を見て、「まるで太陽みたいね」と言って笑った。
確かに、その花は太陽のように美しかった。彼女の話を聞いて、私は陸に少しだけ興味を持った。
◯ ◯ ◑
彼女の持って帰って来たその花は二日で枯れてしまった。彼女はとても残念がって、ますます人間の世界への憧れを持った。
「また行きたいわ」と彼女は太陽を見て言う。だが、その表情からわかった。彼女はまた行きたいと言いながらも、どこかでそのことを諦めていた。
日が経つごとに、彼女は変わって言った。普段から自然を讃え、何気ない風景にも美しい、綺麗だと言っていた彼女はもういなかった。彼女がもう海のことを褒めることはなかった。陸への憧れを捨てない彼女への周囲の目は、まるで異様な物を蔑むような目であった。
「もう、海を褒めてはくれないの?」
ある日私は彼女にそう尋ねてみた。
彼女は小さく首を振ってうつむく。「一度、人間を知ってしまうと貴方もこうなるわよ」
他にも陸へ行った人魚はいたが、誰も彼女のようにはならなかった。他の皆は、もう陸の話なんてしない。陸への憧れなんて持たない。──彼女は陸で何かあったのだろうか。
「世界はずっとずっと広いのね。私の知らないことで溢れてた。私も人間だったらなぁ。それならいつまでも、あの人と……」
彼女は口を閉ざす。私は「ねえ、『あの人』って……?」と聞いた。
彼女は慌てて口を押さえたが、もう私は聞いてしまった。私はもう一度彼女に問う。
「あの人って誰?」
すると彼女は悲しそうに視線を落とし、そっと自分の尾びれを撫でて言った。
「私──人間に恋をしたのよ」
まさかそんなはずない、と思わず叫びそうになったが、彼女の表情は本当に恋をしている者の顔だった。
「人魚姫は、本当にいたのかもね」と彼女は呟く。「私、ずっとただの作り話だと思っていたのだけど、本当かもしれないと今は思うわ。だってこんなに辛いのですもの」
そう言って、彼女は涙を流す。いつも明るい彼女が涙を流すところを、私は見たことがない。だからこそ、不思議でならなかった。まさか本当に、人魚と人間の恋が存在するとは。
彼女は陸を知る前よりもずっと、美しく見えた。
◯ ◯ ◑
次の日の朝、目が覚めると彼女はいなかった。いつもより早く起きたつもりだった。私よりも起きるのが遅い彼女の姿が見えなくて、私は不安で仕方なかった。
不安を書き消すために私は彼女を探しまわった。彼女が行きそうな場所を彷徨った。これだけ探してなぜ見つからないのだろう。海はそんなに広くないのに。
ふと彼女の言っていたことを思い出す。
──また行きたいわ。そう言って彼女はいつも遠い太陽を見ていた。
まさか、と私は水面へ顔を出した。勿論彼女の姿はどこにも見当たらない。
そもそも彼女はもう、あの人間になる薬を持っていなかったはずだ。ならば、どこへ行ったのだろう。
それから、彼女が帰ってくることはなかった。彼女は、もう二度と行くことのできない場所へ行ったのだろう、人魚の姿のまま。向こうで生きていくことなんてできやしないのに。それでも、彼女は行こうとしたのだろう。
彼女を変えた陸を知りたくて、私はついにあの薬を使って陸へ行くことへした。
◯ ◯ ◑
私は陸へ向かって泳いでいく。今までこんなに近付いたことはなかった。彼女もこうやって陸を目指したのだろうか。
ある程度陸の近くまで来て、私は薬を喉へ流し込む。味はない。ただの水のようだった。
すると、急に息が苦しくなった。早く陸へ着かなくては、と私は急いで泳ぎ出す。──うまく泳げなかった。水が重かった。
抱えていた人間用のワンピースに腕を通す。服は水を吸って重い。
気づけば私は溺れていた。溺れるというのは、こんなにも苦しくて怖いものなのか。あの、底へ沈んでいった老いた人魚は苦しくはなかったのだろうか。自分の最期を悟って、むなしくはなかったのだろうか。
失敗した──と私は苦笑した。もっと陸に近付いてから薬を飲むべきだった。いや、そもそも陸へ行こうと思ったのが間違いだったのか?
私は人魚なのに、人魚なのに溺れるなんて。なんて滑稽なのだろう。私が全てを諦めかけたその時だった。
一人の青年が、こっちへ向かって泳いで来る。手を掴まれ、ぐっと引き寄せられる。やっと海の上へ顔が出て、私は必死に息を吸った。
ようやく砂の上へたどり着く。お日さまに照らされた砂は、海の砂よりずっと暖かかった。
私は初めて、助けてくれた青年の顔を見る。まるで女の子のような長い睫の青年は私を見ると、「無事でよかった」と言って笑った。
なぜ彼はこんなに眩しく笑うのだろう。少しだけ、胸が苦しかった。
「あ、……ありがとう」
やっとのことで絞り出した私の声に青年は「綺麗な声」と言った。
人魚はよく歌うから、声が綺麗なのだ。
当たり前のことなのに、青年にそう言われると私は嬉しくなってしまった。困ったものだ。
私は立ち上がろうとして砂へ足をつけたが、ふらりとよろけてしまった。まだ足に慣れないのだ。大丈夫? と青年は私を支えてくれた。
まったく。これでは迷惑をかけてばかりだ。
私は「ごめんなさい」と青年に謝る。すると青年は、「君はどこから来たの?」と聞いた。
「私は、ずっと遠いところから来たの」
すると青年は「それなら僕がこの国を案内してあげるよ」と言った。
初めて足で立ち、私は海を見る。陸からはこんな風に見えるのか。確かにあの子の言う通り、美しかった。
◯ ◯ ◑
青年へついて歩くと、向日葵が咲いていた。
「本当に太陽みたいね」と私は息をつく。陸で見る向日葵は本当に太陽に似ていた。
「向日葵、好きなの?」と青年は私に聞いた。
私は「いや、」と首を降った。
「私の友達が、好きだったの」
「そっか」と青年は朗らかに笑う。
「なら、これをその友達に持っていってあげなよ」
そう言って、青年は私に向日葵を持たせようとしたが、私は受け取れなかった。
「もう、その友達は」
私がそう言うと、青年は「ごめんね」と悲しそうな顔をした。
いつの間にか、高かった太陽は沈みかけていた。海はオレンジ色に染まる。
「私、もう行かなきゃ」
「そっか」と青年は返事をする。
不意にまた彼に会いたい、という思いがこみ上げてきて。でも、もう会えない。
「ありがとう」
そう言って、私は海へ向かった。もうすぐ薬の効果が切れる。別れにはちょうどいい時間だった。
再び一人になって、静かになった砂浜。私は足を冷たい海につけた。
全身海に潜り込むと、さあっと姿が変わる。尾びれを使って、日の沈む海を泳いだ。
すると、後ろの方で何か音がした。何かが海に落ちたような音だった。私ははっと振り返る。すると、先程の青年がバタバタともがいていた。
彼は私が溺れたと思って、追ってきたのだ。
風のような速さで、私は青年のもとへ泳いでいく。人魚は本気になると魚よりも速く泳げる。集中して、ぐっと速度を上げる。
青年のもとへたどり着いた私は、青年の顔を海上へ出した。
「ゴホッ」と咳き込んでいるところを見ると、青年は無事のようだ。
青年はぐったりした目で「君は……」と呟いたが、すぐに気を失ってしまった。
「人魚なんかを助けて──馬鹿な人ね」
私は青年を抱いて、砂浜へと送り届けた。さっきとは逆だ、と笑った私の目から涙がこぼれたのはなぜだろうか。
◯ ◯ ◑
海へ戻った後も、私はあの青年のことばかり考えていた。もっとあの笑顔を見たい、もっとそばにいたい……。
はあ、とため息をつく。陸へ憧れて、姿を消した彼女もこんな気持ちだったのだろうか。
また陸へ行きたい、という思いは消えない。
私はまだあの薬を持っている人物を探した。──どうしても、また彼に会いたかったのだ。
自分の変わり様に、自分で驚く。ついこの間まで、人魚姫の物語なんて馬鹿馬鹿しいと思っていたのに。
これが、恋なのだろうか。
◯ ◯ ◑
あれから二週間ほど経った頃、私はもう一度陸へ行った。彼はまたいるだろうか、会えるだろうか。すると浜辺に見慣れた姿を見つけた。
彼だ。
鼓動が速くなる。喉がカラカラに乾いていた。
「あの……」
彼は私を振り返る。
「君は……?」
しばらく彼を見つめていたが、彼は私を覚えてはいなかった。
それもそうだ。
どうしてこうなることが予測できなかったのだろう。どうして期待してしまったのだろう。彼が私を覚えている確証なんてどこにもありやしないのに。そもそも、また会えるかもわからないのに。
ああ馬鹿だ。本当に私は馬鹿だ。なぜこんなに甘い考えで……。
「大丈夫?」
やさしい声で彼は言った。
「えっ?」
「だって君が泣いているんだもの」と彼は優しく微笑む。
「あ……」
彼に言われて、私は自分が涙を流していたことにやっと気がついた。どうしようもないほど恥ずかしかったが、私は涙を拭うこともできないほどに胸が高鳴っていた。
二人の沈黙を波の音が埋めてくれる。
「ねえ、僕たち、どこかで会ったことなかった?」
彼はそう言った。
こんなとき、なんと答えればよいのだろう。本当のことを言ってもよいのだろうか。
私は、すう、と息を吸った。
「──貴方のことは、知らないよ」
声が震える。
会うのはこれが初めて──と、そう言って私は笑って見せた。こうしないと、彼のことをずっと忘れることはできないだろうから。
すると、足に鋭い痛みが走った。もう人魚に戻ってしまう。
前よりも人間でいられる時間が短くなっていた。この薬は、使うほど効果が薄れていくのだ。
「帰りたくない」
それは、本心だった。でも、もうきっとここへは来ることはできない。二度と彼には会えない。
私はゆっくりと海へ歩き出す。足で歩くのって大変ね、と泣きたい心を覆い隠した。
「どこへ行くの?」
彼はそう言ったが、私は振り返らなかった。彼の顔を見ては駄目だ。今振りかえれば、戻れなくなってしまう。
◯ ◑ ◯
「わたしは」
君は何か言いたげに口を開くが、その次の言葉を発することはなかった。君は何と言おうとしたのだろう。一体何を続けようとしたのだろう。
あの日海に溺れてから、その前の記憶が曖昧になってしまっている。何か大事なことを忘れているような気がするのだ。
ザブン、と大きな波が上がる。君は抵抗することもなく、そのまま波に飲まれる。
ふと、目が合った。海を隔てて君の青い瞳は僕を見る。海を通した君の目はどこまでも透き通っていた。
揺れる波の中で、君の姿はゆっくりと崩れていく。
色の白かった足は、もうない。鱗一枚一枚がガラスのように細かい光を放っていた。銀色の弧を描く、長い尾びれ。──ああ、僕はこれを知っている。
その姿を、僕はどこかで見たことがある、と思った。
君は、僕のことを知らないと言った。会うのはこれが初めてだと。
──それならば、どうして君は。
二人を隔てるものは海しかない。月明かりに照らされた海のなか、君は沈んでいく。遠ざかっていく。もう二度と君と逢うことはないだろう。
僕は君の消えていった海を眺め続ける。視界が滲んでいることにようやく気がついた。
「どうして、きみは」
ぽつりと呟いた言葉は波の音に描き消される。
──なぜ君は、泣いていたんだろうね。
読んでくださった方、ありがとうございました。