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嵬空百鬼帖【第一部完結】  作者: EDA
嵬空山の巻

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四 責め苦

 楓丸と亜門寺とおきよの三名は、ついに嵬空山を眼前に迎えることになった。

 葵の身柄を奪われてから、七日目のことである。


「どうやら葵殿たちも、今日になってようやく嵬空山に入ったようでござるぞ。某どもよりも一日早く出立しておったのに、どこぞで道草を食っていたようでござるな」


 紫色の薄雲がかかった山々の威容を仰ぎながら、亜門寺はそのように言いたてた。

 刻限は、間もなく黄昏刻となる。近在の茶屋の人間に尋ねたところ、本日の真昼九つ頃に、四台の駕籠が総門に通ずる道へと分け入っていったとのことであった。


 通行手形の持ち合わせもなく、嵬空山の目を警戒していた楓丸たちは、主街道を避けて脇街道や山野を踏み越えてきた。それでも半日ほどの遅れで済んだのは、葵を連れ去った一行が佐倉藩にて三日の時を過ごしていたために他ならないが――そのようなことは、楓丸たちに知るすべもなかった。


「なんでもかまわぬから、とにかく乗り込もう。こうしている間にも、葵がひどい目にあわされてしまっているやもしれんのだからな」


 菅笠に引き回し合羽というなりをした楓丸は、焦燥もあらわにそう言った。もともとの旅装束は韮山玄水との戦いで台無しになってしまったため、亜門寺が新たに買い求めてくれたものである。この姿で、楓丸は何十里もの道を踏み越えてきたのだった。

 いっぽう亜門寺も、人目を忍ぶために同じ姿で道端に立ちはだかっている。自慢の金砕棒も大きな布で覆い隠して、傍目にはただやたらと大きな図体をした旅人の姿となっていた。


「まあ待て。闇雲に突っ込んでも、返り討ちにあうだけでござろう。何せここは、降魔師の巣窟であるのだからな。葵殿を救い出すには、入念に策を練る必要があろうよ」


「策とは? 何か考えでもあるのか?」


「それはやっぱり夜陰にまぎれて、こそっと忍び込むのが最善でござろうな。おぬしはその姿でも、獣なみに夜目がきくのでござろう? まずは某が山門のあたりで騒ぎを起こすので、それを合図に忍び込んで、葵殿の所在を突き止めるのだ」


 楓丸は小首を傾げつつ、亜門寺の巨躯を見上げた。


「わざわざ騒ぎを起こす必要があるのだろうか? 騒ぎを起こしたら、あちらに警戒させてしまうのではないか?」


「そこはそれ、あちらはおぬしが死んだものと思い込んでおるのだ。よもや伏兵がひそんでおるとは考えまい。……また、警戒したなら警戒したで、葵殿の身を守ろうとする。それらの人間の動きを追えば、葵殿の所在も容易く辿れるというわけでござる」


 あくまで陽気に笑いながら、亜門寺はそう言った。


「つまり、警戒されなければ自力で葵殿の所在を突き止め、救い出す。警戒されたならば所在だけを突き止めて、のちほど再びこそっと忍び込む。二段構えの兵法でござるよ」


「ううむ。所在だけを突き止めて退くというのは、どうにも我慢がならんのだが……しかし確かに手練れの降魔師などに囲まれてしまっては、どうあがこうとも勝ち目はあるまいな」


「うむ。葵殿をお救いしたいのなら、後先を考えよ。でなければ、先日の二の舞でござるからな」


 楓丸は懸命に激情をこらえながら、「うむ」とうなずいた。

 すると、やはり菅笠をかぶったおきよが、亜門寺の合羽の裾を引く。


「おきよは、どうしたらいいの? またあもんじにおんぶ?」


「いや。おきよは安全な場所で、某どもの帰りを待っていてもらいたい。このたびばかりは、あまりに危険が大きいのでな」


「え……」と、おきよはうつむいてしまう。

 亜門寺は大きな図体を屈めると、笑いながらおきよの顔を覗き込んだ。


「そんなにしょげるな。おきよとて、葵殿の身をお救いしたいのでござろう? 必ずや無事に戻るので、どうか大人しくしていてくれ」


「わかった……ここでまってればいい?」


「いや。あちらに打ち捨てられた草庵を見かけたので、そこを落ち合う場所としよう。某はひと騒ぎを起こしたらそちらに戻るので、楓丸もそのようにな」


「相分かった」と、楓丸はうなずいた。

 そちらは菅笠の下で、爛々と双眸を燃やしている。葵がさらわれた日から七日を数えて、ついにここまで辿り着けたのだ。楓丸の心には、かつてないほどの強い覚悟が備わっていた。


(おれは必ず、葵を救い出す。無事でいてくれよ、葵)


 楓丸は、夕闇に霞む山々を再び振り仰いだ。

 緑の深い、荘厳なる山々である。山は卑小なる人間の苦悩など知らぬげに、ただ悠然とそこに立ちはだかっていた。


                     ◇


 同じ頃――嵬空山の暁月堂である。

 月蓮の八葉には、それぞれ降魔刀の名を冠した堂が居住や修練の場所として与えられている。花房薫風に与えられた暁月堂は、広大なる境内の南東に位置した。


 この忌まわしき場所に連れ込まれてから、いったいどれだけの時間が過ぎたのか。葵には、もはやそれを判別する力も残されていない。

 裸に剥かれた葵は両腕を荒縄でくくられており、天井から吊り下げられていた。

 そしてその身は、しとどに濡れている。葵の足もとには水をたたえた槽が設えられており、ずっと水責めの拷問に苛まれていたのだ。



挿絵(By みてみん)



「くふふ……さすがにこれしきの責め苦では、音をあげることもないようじゃのう。まあ、そうでなくては面白みもない。其方には、もっともっと愉しませてもらわねばのう」


 高々と吊り上げられた葵の足もとで、花房薫風は嗜虐の愉悦にひたっている。もとより葵はこの女を苦手としていたが、その内側にはこれほどまでに禍々しい本性が隠されていたのだった。


「どれ、どんなぶざまな面相に成り果てたか、じっくり拝見してやろうかのう。……乙鶴」


「はい」と小さな声で答えて、花房薫風の伏士が葵の足もとに駆けつけた。

 そうして台車にのせられた水責めの槽を移動させると、壁に取り付けられた器具に手をかける。葵の両腕をいましめた荒縄は、滑車せみに繋げられていたのだ。


 軋んだ音色をたてながら、滑車は葵を地上へと下ろしていく。

 その爪先が床に触れようとした瞬間、花房薫風は「止めよ」と命じた。


 葵の身は、けっきょく宙に浮いたままである。

 ずっとこのような姿で拘束されているために、葵の両肩は熱く疼き、手首から先は感覚がなくなっていた。

 ほどかれた髪はぐっしょりと濡れそぼり、葵の裸身にからみついている。そんな葵の無惨な姿を見やりながら、花房薫風は毒蛇の貌で嗤っていた。


「おうおう。険が抜けて、ずいぶんかわゆらしい面がまえになったものじゃのう。殿方をたぶらかすときも、其方はこういう面相で閨に忍び込んでおるのかえ?」


「…………」


「知ったことか、という顔じゃのう。わかっておるよ。其方は殿方をたぶらかしたりはしておらん。しかし其方は大僧正ばかりでなく、あまたの殿方に股を開く阿婆擦れじゃという醜聞にまみれておる。……この乙鶴が、事あるごとに吹聴して回っておったからのう」


 伏士の乙鶴が、びくりと身をすくませた。

 彼は葵よりひとつ年少であり、やはり冬弥や寂静ともども同じ修行場で過ごした相手であったが――もはやその頃の面影はない。彼は花房薫風の伏士となってから、主人の言いつけで童女の如き断髪頭となり、唇には紅までさしていたのだ。乙鶴という女人そのものの新しい名を与えたのも、ねじくれた性根をした主人であった。


「そんな風聞を聞きつけた殿方の多くは、其方に同衾を願ったことじゃろう。そうして其方にすげなく断られたならば、深甚なる怒りにとらわれたはずじゃ。誰彼かまわず股を開くくせに、どうして自分にだけ勿体ぶるのじゃ、とな……存外、菱垣殿もそういった思惑があって、其方を恨んでいるのやもしれんのう」


「…………」


「其方は、妾を疎んでおったのじゃろう? しかしそれ以上に、妾は其方を疎み抜いておったのじゃよ」


 この一室は地下にあり、夜と同様の暗闇に閉ざされている。目の頼りとなるのは、床に置かれた灯籠の明かりのみだ。

 その灯籠が、花房薫風の美麗なる顔を妖異のようにあやしく照らし出していた。


「嵬空山の長き歴史の中で、女人の降魔師というものは数えるほどしか存在しなかったと聞き及ぶ……そうして月蓮の八葉にまで成り上がったのは、後にも先にも妾ひとりじゃ」


「…………」


「妾は腕を磨くために、数多くの八葉や蓮華衆に教えを乞うてきた。そのたびに、妾がどれだけの代償を支払ってきたか……どれだけの汚辱にまみれてきたか……清い身をした其方には、想像もつかんのじゃろうなぁ。それで其方はどのような殿方の秋波にもなびくことなく、おのれだけが清廉な存在じゃと言わんばかりに嵬空山を闊歩して……その高慢なるさまが、どれだけ妾の腹を煮えさせたか……其方の取りすました顔が恥辱に歪む今日という日を、妾がどれだけ心待ちにしていたか……其方にも、ようやく理解が及んだことであろうよ」


「…………」


「それと、もうひとつ……其方の運命は、嵬空山に戻る前から決せられておったのじゃ。其方を捕らえたという報告が根の衆から伝えられてすぐ、妾が大僧正と約定を取りつけておったからのう。……その頑迷なる心がへし折れたら、其方の身は大僧正の預かりとなるのじゃよ」


 花房薫風の指先が葵の乳房をわしづかみにして、爪を立てた。

 葵は奥歯を噛みしめて、痛苦のうめきを呑みくだす。


「大僧正はあの齢にして、悍馬の如き精強さじゃからのう。生娘の其方にはなかなかの試練じゃろうが……ま、これまで気楽に生きてきた報いなのじゃろうよ」


 葵は黙して、語ろうとしなかった。

 その切れ長の目に輝く瞳を覗き込んだ花房薫風は、たちまち激昂して葵の乳房をひねりあげる。その鋭い痛みにも、葵は耐えてみせた。


「なんじゃ、その眼は! 其方はまだ、自分が助かるとでも思うておるのか? たとえ其方に執心を燃やす菱垣殿でも、大僧正には逆らえぬぞ!」


「自分が助かるなどとは、露ほども考えてはいない……これもすべては、私の罪に対する罰であるのだからな……」


「ほう……では早々に、大僧正の閨に放り込んでやろうかのう?」


「好きにせよ……私はすべての罰を受け入れると決めたのだ……」


 花房薫風が腕を払うと、葵の乳房に幾筋もの傷口が走り抜けた。

 赤い血が、腹から股座までしたたっていく。


「くふふ……このような傷物を献上しては、大僧正に叱られてしまおうなぁ……その傷口が綺麗に消え去るまで、其方は妾のもとで苦悶にあえぐことになるのじゃ」


 葵が再び口を閉ざすと、花房薫風は獣のように舌なめずりをした。


「まずはその血を洗い流してくれよう。乙鶴、この痴れ者を引き上げい」


 乙鶴がその命令に従おうとしたとき、鐘の音色が響きわたった。

 これは――月蓮の八葉を招集するための警鐘である。

 花房薫風は「なんじゃ!」と地団駄を踏んだ。


「日に二度も八葉を呼びつけるとは、なんの騒ぎじゃ! 妾の愉しみを邪魔しおってからに!」


 花房薫風は鬱々と燃える眼で葵の裸身をねめつけてから、きびすを返した。


「まあいいわい。夜はまだまだ長いのじゃからな。この鬱憤はのちほど其方の身で晴らさせてもらうぞ、生娘の阿婆擦れよ」


「あ、花房様……滑車を下ろさなくてよろしいのでしょうか?」


 女人のようにかぼそく取りつくろった声音で、乙鶴がそのように言いたてた。

 花房薫風は毒蛇のように微笑みながら振り返り、乙鶴の頬を平手で張り倒す。


「何を寝ぼけたことをほざいておるのじゃ。其方はこのような痴れ者に、情けをかけようというのか? さては、この艶めかしき裸身に欲情しおったか?」


「い、いえ、決してそのような……ただ、あまりお帰りが遅くなられるようですと、血の通わぬ手首から先が死に絶えてしまうやもしれぬかと思ったまでで……」


「賢しげなことを……それで手首を切り落とすことになろうとも、伽の仕事に不都合はあるまいよ」


 邪悪な笑顔で言い捨てて、花房薫風は部屋の出口に向かった。


「そやつはそのまま吊るしておけ。ただし、妾のいない場で舌でも噛まれたら厄介じゃからな。さるぐつわを噛ましておくのじゃ」


「しょ、承知いたしました……」


 乙鶴は主人の命令に従って、葵の口もとに手をのばしてきた。

 その目は決して、葵の目を見ようとはしない。乙鶴は、寂静よりも柔弱な人間に成り果ててしまったようだった。


 そうして乙鶴も出ていくと、忌まわしき部屋には葵だけが残される。

 葵は瞑目し、その身に満ちた痛苦を噛みしめた。


 この痛みが、葵の罪に対する罰であるのだ。

 葵はそれを、余すところなく受け入れる所存であった。

 もはや、花房薫風に対する憎しみも生まれない。あれはただ罰を執行するだけの存在であり、憎むにも値しなかった。


(降魔刀で胸を断ち割られた楓丸の苦しみは……こんなものではなかったはずだ)


 楓丸が不当な苦しみを負うことになったのもまた、葵の罪ゆえであった。

 だからこそ、葵はもっともっと苦しめられなければならなかった。斬首の刑をまぬがれたのは、いっそ僥倖といえよう。そんなにあっけなく葵の苦しみが終わってしまったら、楓丸に申し訳が立たないところであった。


(誰が自害などするものか……凌辱したいなら、好きなだけするがいい……それでもまだ、楓丸の苦しみにはとうてい及ばぬことだろう……)


 そんな想念にひたりながら、葵は気を失うことになった。

 実のところ、葵は昼から日が暮れるまで、すでに半日も責め苦を受けている。その半日で、葵の身はとっくに力尽きていたのだった。


 それから、どれだけの刻限が過ぎたのか――

 きしきしと荒縄の軋む音色と、両肩に跳ねあがった熱い痛みが、葵を無情な現実へと引き戻した。


 何者かが、滑車をあやつって葵の身を床に下ろしている。

 乙鶴だけがこっそり舞い戻って、葵に情けをかけたのだろうか?

 いや――こちらに背を向けたそのものは、断髪頭ではなく禿頭であった。まるで本物の僧侶のように剃髪した、年若そうな男である。


(この嵬空山で……剃髪している人間など、何人もいないはずだが……)


 葵がそのように考えている間に、足の先が床についた。

 そうして両肩が下がってくると、新たな痛みが駆け抜ける。何か、両肩をもぎ取られるような激痛であった。

 あまりの痛みに葵が倒れかかると、背後から何者かが手を差し伸べてくる。葵が眠りに落ちている間に、もうひとりの何者かが背後に回り込んでいたのだ。


「両肩の骨が外れてしまっているようですね。半日も吊り下げられていたのなら、それも当然です」


 冷たい声音が闇に響き、葵の口からさるぐつわが引き剥がされる。

 葵は、おかしな夢でも見ているような心地であった。

 それは、嵬空山の戒律を破った葵を誰よりも疎んでいるはずの、大石慈安の声であったのだった。

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