卵
「ど、どちらさまでしょうか……」
だんだんと声が小さくなり、弱気になっているのが自分でもよくわかる。
そんな私にきづいたのか、女性は歯を剥き出して豪快に笑った。
「あはははっ!『気まずい』みたいな顔してるね!私はイリーン。心配しないで、アンナの友達だよ。あの子、早朝に仕事行っちゃったから、私が代わりに来ただけだよ」
女性はまだ火にかけられている鍋をかき混ぜながら答えた。
台所には2つの大小の鍋と1つのフライパンがある。
小さい方の鍋は蓋がされていて、火は止められている。
もしやと思い、女性に尋ねてみる。
「さっきの破裂音ってもしかして…」
恐る恐る聞いてみる。
相変わらず内気な喋り方だと自分でもつくづく思う。
「ああ、これね」
そう言って小さい方の鍋の蓋を取って見せた。
「びっくりしたでしょ、水鳥の卵は殻が柔らかいから食べれるんだよ」
まだ湯気が立っている鍋の中を覗くと、1つ1つが大きくバタフライ型をしており、外側が黄色、内側に白色の異様な物体が幾つもあった。
これが卵だと言われるまでこの物体の正体は初見ではわからないだろう。
「今から朝食だけど、食べる?」
「食べます!」
人は欲に忠実だ。
時間が流れた。
彼女が目覚めるまであと一週間。
俺の役目はただ順序よく終わりを迎えること、それだけだ。
順序が正しければどんな手も使うだろう。
先ほどもそうだったように。
時計の奴には感謝している。
奴には何か渡さねばと思っているがずっと出来かねている。
これから先も渡すことは無いだろう。
俺の眼中に奴はいない。
いたとしてもそれは追い風のような存在なだけだ。
それに、めんどくさい。
そう思いながら足を進める。
いつものことながら足は必ずある場所へと向かう。
通路を通り、扉を開き、中へ入る。
「久しいな、エクレア」
幼くなってしまった自分よりも遥かに高い彼は、椅子に座り、めんどくさい政治事の書類を片付けているようだ。
俺がエクレアを呼んだ人物は俺を見てから少し笑った。
「話には聞いてたが、お前そんなに小さくなったのか!一体何歳だ?」
「…9」
そう答えると彼は倒れそうなほどに大きく前屈みになった後、勢いよく上を向き、大声で笑った。
いや、この場合は嘲笑った、の方が正しいのではないだろうか。
なんとも癪に障って仕方がない。
憤る感情を抑えながら俺は要件を伝えた。
暖かいシチューにパンを付けて食べる。
決して豪華ではないが、空腹である私にとっては目の前の料理たちが宝のように感じて仕方がない。
私はあっという間に注がれた分のシチューを食べ終わった。
残っているのは二口ほど残っているパンに、バタフライ型に爆発した卵だけだ。
正直あまり「食べたい」とは思わない。
通常の卵のような水々しさはなく、スナック菓子のようにサクサクとしている。
イリーンさんは何の抵抗もなくおやつ感覚で食べている。
それを見て少し、食べる勇気が出た。本当に少しだけだ。
バタフライ型の爆発した、サクサクしている卵の方へと手を伸ばす。
触感は、第一印象はやはり水分がない。
ふわふわだろうか、サクサクだろうか、その中間と言えるぐらいの触感になっている。
このまま持とうとすればずぐにぼろぼろと崩れてしまいそうだ。
だがそれは私の、ただの妄想だった。
爆発したサクサク卵は崩れることはなく、形を保ったまま持ち上がった。
その爆発した卵に対して一瞬感動さえも覚えた。
そのまま口へと運ぶと、齧った瞬間はしっかり歯応えがあった。
だが舌の上で転がした途端に、溶け消えてしまったのだ。
その初めての食感に、私は子供のように驚いた表情をした。
ただ卵が爆発しただけで、味はあまりしない。
強いて言うなら黄身の味がほんのりとするだけだ。
でもそこがむしろ美味しい。
味に集中してあるかないかぐらいの味を感じるのもまた一興ではないだろうか。
「子供なのに、あんた通だねぇ!」
爆発卵を黙々と齧り続ける私に対してイリーンさんは大声を荒げた。
「アンナはソースをかけないと美味しくないって言うんだ。この控えめな味が良いのになぁ」
私はただ、何も付けずに食べているイリーンさんを真似て食べているだけだ。
確かにこんなに味が薄ければ満足しない者もいるだろう。ソースをかけて当然だ。
だからと言ってソースをかけたい訳ではない。
私はこの薄味で満足できる身体のようだから。
「そういやあんた名前は?アンナから聞きそびれちゃって」
名前?自分の?
自分の名前はある。持っている。
持っているはずだ。
持っているはずなのに。
思い出せない。
自分の名前がある感覚はするのに、その名前がなんなのか思い出せないという不思議な感覚に囚われる。
なにも、そこまで忘れなくてもいいだろう。
記憶まではおろか、名前まで奪うなんて。
こうしている間にもイリーンさんは私の返事を待っている。
早く答えなければ。
流れに任せて口を動かせば自然と名前も出てくるだろう。
そう思い、口を窄める。
そのまま声が出るよりも先にドアからノック音が響いた。
コンコンコンと3回鳴る。
アンナさんかとも思ったが、女性のノック音にしては明らかに力強く聞こえる。
それに、家主ならばわざわざノックなんてするだろうか。
私は無意識に身構えていた。
なにか、敵がくるわけでもないのに。
「はいはーい」
イリーンさんが席を立つ。
無警戒に聞こえる声とは裏腹に、彼女の右手はどこかを指さしていた。
右手の人差し指は上を向き、その向きを辿ると階段の奥だった。
つまり部屋に戻れ、と促しているように見えた。
私はその意図を理解した瞬間に身体を動かした。
だがノックした者はイリーンさんの声が聞こえると瞬時に、少し強引にドアを開けた。