残酷と無情
「おい、お前見張っとけ」
男の1人が言った。
「了解しました」
誘拐を実行した2人とはまた別の男が返事をした。
私はとっくに諦めていた。
こんな逃げる算段も無い中で足掻くのは無駄だ。殺されて終わり。
死にたくはない。だが生きたいと願っているわけでもない。
生きることがどれほど残酷か、死ぬことがどれほど無情か、私にはわからない。
どちらが良いなんて選ぶことはできない。選んだ時は自分が死んだ時だ。
ほら、やっぱり死んだ方が良かった、
やっぱり生きた方が良かった、って。
死んだ後にようやくそれらの苦しみがわかるのだ。
わからないから死ぬわけにはいかない。そんな博打を踏んで失敗したら元も子もないじゃないか。
とりあえず生きる。生きれば少しは自分の生きる価値をいつか見つけられるかもしれないと。
「君、逃げようとしないでね。逃げられたら俺が叱られてしまう」
見張り役の男の声がした。
低くて安心できる声だ。
男は、言っていることとは裏腹に私を縛っている縄をナイフで切り始めた。
「なん…」
「しぃー…」
男は唇に人差し指を押し当て、口から息を漏らした。
何故こんなことをするのかわからなかった。
彼らにとっては私は人質か、奴隷にするための人員だろう。今この縄を切ったところでメリットは無い。
叱られるのは彼なのに、デメリットしか無いのは彼なのに、それでも人を助けようとする彼の心意気に私は感嘆した。
縄の繊維が切られていく音が止むと腕に開放感が伝わった。
「よし、向こうに行けば人のいる街がある。少し遠いかもしれないが、助かりたかったら走りなさい」
そう言って彼は獣道も何も無い、暗い森の中を指差した。
彼の言い慣れたような丁寧な言葉遣いは今の私の状況をより重くした。
彼が嘘をついているかもしれない。
こうやって味方だと信じ込ませるための罠かもしれない。
あの森の奥に入れば先程の男2人が待ち構えているかもしれない。
様々な憶測が脳裏をよぎった。
だが同時に、生きる道はここしかないかもしれないと、そんな考えも頭の中にあった。
そう思うと少し希望が見えたような気がした。
その希望だけで充分身体を動かす原動力になった。
地面に手を付き、足を起こす。
「いたっ」
足裏が地面に付いた瞬間、ほんの一瞬激痛が走ったように感じた。
そうだ、今の私は足を擦り剥いている。
血が地面に滲んでいるのが見える。これでは走ることなんて到底できない。
「怪我しているのか、気が付かなかった」
彼は足の傷口をまじまじと見た。
角度的に見えづらい位置だったため、今まで傷口を確認できなかった。
だが、今見ると酷いものになっていた。
傷口は砂や砂利、泥、土などで相当汚れ、土に染み込んだ血が固まっており、塊を形成していた。
正直見てしまったのを後悔した。知らぬが仏というのはこういうものか。見るのをやめても頭の中に残り続けてしまう。
男は皮でできた袋のようなものを腰に巻いているベルトから取り外し、蓋を開けて私の足にかけた。
おそらく水だろう。
決して多いと呼べる水量ではなかったが、それでも足の汚れを落とすのには十分だった。
それでもまだ血は滲んでいる。
男は服の裾を破り始め、細長い布状にした。
包帯代わりとでも言うのだろうか。
少し短い気もするが、布を半分にし、私の両足に巻いてみせた。
包帯のように長いわけではないため何周もぐるぐると巻けるはずもなく、2周巻いてから布の端と端を結んだ。
「すまない、今はこんなことしかできず」
男は私に憐れむような眼差しを向けた。
いつの間にか私は、彼が誘拐犯の一員ではなく、命の恩人だと思い込むようになった。
まだ足はジンジンと痛む。だがさっきに比べれば随分ましだ。
痛みに耐えながらも私は両足で体を支えた。
心の中では僅かな達成感があった。
「よくやった」そう言ってもらえるという期待をしながら私は男の方を見た。
だが男はどこか遠く、暗闇を凝視していた。
おそらく警戒しているのだろう。
先程の2人がいつ帰ってくるのかもわからないのだ。少しの油断でも命取りになる。
闇夜の中に廃墟の壁際に置かれた小さなランプが一つ、その微かな光で今いる場所全てを照らせるわけもなく、男の姿はほとんどわからなかった。
しかし、彼の紅に輝く瞳は光を反射して宝石のように輝いているのが見えた。
今の彼には私を丁寧に、優しく逃げられるように手配する余裕は無いように見える。
それならば、今の私がするべきことは今の状況を把握し、最善の行動をとることだ。
今でも頭の処理が追い付いていない。
なぜ私は森の中にいたのか、
なぜ彼が私を守ってくれているのか、
他にもわからないことはたくさんある。
だけど今はそんなことを考える余裕はない。そんなもの、後からじっくりと考えられるじゃないか。
そう思えば自然と足が動いた。
足の痛みなんて気にしなかった。むしろ痛みなんて感じなかった。
走るのに夢中だった。生きるのに精一杯だった。生が残酷なものでも必死に縋りたかった。
目一杯に腕を振った。
目一杯に足を動かした。
何度も何度も呼吸をし、喘ぎ続けた。
すぐに身体が疲れた。
疲れがなんだ。死ぬよりはましだろう。
疲れたと感じても身体を動かした。
もう限界だと思っても身体は止まらなかった。
身体が壊れるまで、壊れるまでなら身体は動くのだ。
なんなら壊れてしまえ。壊れて楽になりたい。
生きたいという選択をしなければこんなに苦しい思いをせずに済んだのに、どうしてだろう。
そんな考えが脳内を掠り、足を止めようとしたその時、光が見えた。
ちっぽけなランプの光ではない、地面を覆うような大きい、暖かみのある街の光が見えた。