人生
季節は初夏、春の涼しい風が薄れかかってきた頃だ。
身体を動かすことはできず、ゆっくりと視界が氷に包まれていく。
悔いは無いと思っていた。
「……い………のか……おい………ほのか…」
声が聞こえると同時に肩を揺すぶられる。
「おいほのか!お前早くおきろ!」耳をつん裂く声で完全に眠りから目覚めた。
声の主へと目を向けると黒い髪に、黒い目、更に鋭い目つきでこちらを睨んでくる人物がいる。
「なんだルイトか、びっくりさせないでよぅ」寝ぼけて声が裏返る。
大きなあくびを1つしたところでカインがキレてきた。
「何がびっくりさせんなだ、俺が本探しに行ってる間にすやすやと寝やがって」
そんなほのぼのしたように見える会話が静寂な本屋に響く。他に客の姿はなく、店員が1人いるだけだ。外を覗くと歩道のコンクリートがオレンジ色になりかかっている。
そろそろ帰ろうとした矢先、店員さんから呼び止められた。
「待ってください」
透き通る声が聞こえた。振り向くと金髪に染められた髪に、紫のカラコンが入っているのがわかる目が特徴的な男性が立っている。
「よければこの本、貰ってください」
彼の手には私が寝ていたときに下敷きにされていた本。皮肉のつもりだろうか。
「いいのか?貰っても。支払いならできるが」
ルイトは放課後はほぼ毎日この本屋へ通っているため、相対的に店員さんと仲が良い。
私は今日そのことを知り、好奇心でルイトについてきたが、案の定、難しい本だらけだった。とりあえずで選んだ本を読もうとするも頭が追いつかず、すぐに寝てしまったのだ。
「えぇ、どうせ今日限りで処分されますから。誰にも買われないんですから、どうせなら無料で渡す方が良いと思いましてね」爽やかな笑顔がこちらに向く。
どうせならと断れずにそのまま素直に本を受け取った。本の表紙が陽光を反射し、光っている。
サンタからもらったプレゼントを大事にする子供ようにしっかりと持って帰った。
小学6年の四月、同学年の間で話が盛り上がっていた。
「ねぇ、今日来る転校生ってあんた見たんでしょ?」
「登校のとき遠目だけど見えたんだよね!あの雰囲気はイケメンって感じ!!」
クラスの真ん中で女子達が集まって話している。話しているというより騒いでいる。
きゃー!という悲鳴をところどころ上げながら特定の人物について興奮していた。
憂鬱な気分にさせるチャイムが鳴る。だが今日はさほど嫌ではなかった。私もその転校生について少し興味があるのかもしれない。
真新しいドアがガラガラと開く。
「ほらみんな、席について!みんな知ってる通り、今日は転校生が来ますよ〜!」
ハツラツとした女性先生が教室に入ってきて、教卓の前に立つ。自分のお気に入りの先生だ。
するとドアがもう一度開いた。
黒い髪に、黒い瞳の男の子。転校というものはどうしても緊張してしまうことが多いのだろうが、あの子の顔からは緊張というよりも警戒しているように見える。
入ってきた瞬間に教室内がざわつく。
あの子の顔は世間一般的にはイケメンというのだろうが、私には普通の顔に見えて仕方がない。
「東瑠絃です。趣味は料理です。よろしくお願いします」とても端的な自己紹介だ。
やや下を向いており、気まづさが感じられる。
「読み方難しいね、あずま…るいとだっけ?逆に覚えられそう。」
前の席に座っている紗菜ちゃんが後ろを向いてコソコソと話しかけてきた。そばかすが特徴的な元気な子だ。このクラスでは一番の仲良しで、6年になってようやく同じクラスになれた。
「お母さん、ただいま…」少し強張る声だ。
返事がないまま靴を脱ぐ。リビングの方を少しチラ見すると険しい顔でキッズテレビを見ていた。
懐かしい、お父さんとよく一緒に見ていたアニメだ。
彼女はおそらくテレビを見てないだろう。あの顔の時はいつも、なにか不機嫌なことが起こって頭の中でいろいろ考えているのだ。
母ははっきり言って美人だ。長いまつ毛に、小さい顔、鼻は高く、スタイルも良い。きつね顔の女優さんのようだ。
今は触れないでおこうと、2回に続く階段を登る。
上がった先は目の前にお姉ちゃんの部屋、その隣が私の部屋だ。
お姉ちゃんの部屋のドアが開いている。そろっと中を見るとブランド品のコスメを並べて一つずつ付けたりして試している。
よく見ると、どうやらお母さんの部屋からくすめた物ばかりだ。
お姉ちゃんはお母さんにとてもよく似ている。
大きな目に、長く艶のある髪、整えられたまつ毛に、芸能人でも羨ましがるほどの美脚。
今はメイクに集中しており、今話しかけたり邪魔をすればたちまち鬼のように怒り出すだろう。
私はなるべく音を立てないように自分の部屋へと戻った。
特にやることも無いため、店員さんから貰ったばかりの本を読むことにした。
1ページ目を開けて永遠とも思える文字の羅列に目を通す。意外にも内容に集中できている。
30分、1時間が過ぎた頃、かなり大きな音を立てて勢いよくドアが開けられた。
「あんた早く来なさいよ、ご飯いらないの?」少しキレ気味な声が耳に刺さる。
本を急いで片付け、すぐにリビングへ降りた。
良い匂いと共に陽気な話し声が聞こえる。
「お父さん?」普段あまり見慣れない父が姉と仲良く話している。ここだけ見れば普通の、暖かい家族のようだ。
「ほのか、久しぶり。元気してたか?」
この家では感じられない温もりは父親の笑顔で心の中までいっぱいに満たされた。
父は大手企業の社長だ。多忙なため、普段は家にいない。1ヶ月か2ヶ月に一度会えるか会えないかという頻度だ。
父と母は政略結婚だという。2人共仲は良い。お父さんはお母さんを愛しているらしいのだが、お母さんはお父さんの持つお金を愛している。
娘としてそういう事情があるのはかなり複雑だ。お姉ちゃんはそれほど気にしていないようだけれど。
「今回はしばらくいるの?」ほとんど諦めたような声が出た。
「明日までいるよ」
「そっか」と言いたかったが音が出ず、詰まった息だけが流れた。
皮肉にも、父が作った夕ご飯はレストランかとも思えるほど絶品だった。
食べ終わると逃げるようにして部屋へと戻った。
ベッドの上には本が置いてある。それを机の上に移動させてからベッドに横になった。
複雑な心境をどうにかしてくれるだろうと夢に縋った。
起きるとそこにはいつもと何も変わらない一日があった。