柔軟思考と硬直思考
私の尊敬するある人は、思考方法について、柔軟思考と硬直思考の二つに分けていた。またその方は優れた人物は必ず重層構造になっているともよく言っていた。
教養のある人なら言わなくてもわかるだろうが、重層構造を単層に、柔軟思考を硬直思考に捉えるのが現在というものである。
一般の、普通の人と話していると、話が通じないという感情に襲われるのだが、それはこちらからするとある多様な物体の一側面を話しているつもりでいるのだが、相手にとってはその一側面が全てでしかないという事である。
だから私が「神聖かまってちゃんが好きで…」と言うと、もうその「好き」を固定化し、絶対化して「この人は神聖かまってちゃんが好きな人」と捉える。
まあそれはそれで間違っていないのだが、私が「神聖かまってちゃん」というバンドが好きなのは、フロントマンの「の子」が表現という構造を持っているからである。ステージの上で額をカミソリで切って血を出す行為も、彼なりの理由、根拠があるとわかるから別にそういう行為にもそこまで嫌悪感を抱かないというような話である。
しかし一般の人間からすると「神聖かまってちゃん」=「奇矯な事をする人達」というイメージでしかない。これは例えば、メルヴィルの「白鯨」を「つまらない海洋冒険小説」と捉えるのに似ている。物事の捉え方が単層的だという印象を受ける。
現代の行き詰まりは、この表層的な構造が絶対化され、神聖化されている故と言えるだろう。仮に重層的な構造のものがあらわれてもそれはすぐに単層化して捉えられる。「超訳 ニーチェ」なんてそのいい例だろう。
ゲーテは真実は光を幾方向にも放つと言っていたが、それを一方向から見て、別の方向を切り捨てるのが単層的・硬直思考という奴である。こうした人達は右往左往するのだが、いつまでも一面的であるので、本質をつかめない。
私自身で言えば、例えば日本という国を褒める事も批判する事もあれば、日本という枠組みを外したり逆にその枠組みを利用して自分の考えを述べる事もある。
しかし虚心坦懐に世界を眺めれば、我々は(仏教の言うように)概念でいろいろなものを区切っているだけに過ぎない。仏教思想などは柔軟思考の極限であり、あまりにも柔軟すぎて現代人からはさっぱりわからないものになってしまったものの感すらある。
また、柔軟思考というものは、一見、矛盾のように見える事もままある。論理では捉えられないものを言語という論理で掴もうとするから、外見は矛盾のような形を取ったりする。そこで、科学的唯物論に浸されている人間は「これは間違っている! 主観的だ!」と腹を立てるわけである。
こういう風に書くと「お前は科学を否定するのか?」という人もいて…めんどうなのでやめておこう。
それと硬直思考は、確定した答えを欲しがるから「客観的」「科学的」という外形と相性がいい。科学も「客観」もよく見ていくと、そんな紋切り型なものではない事がわかってくるが、そこまで突っ込まない人にとっては、一面的に答えを与えてくれる科学者もどきとは相性がいいという事になる。この科学者もどき、また人工知能研究者とかいうあやふやな人も最近はいるが、科学者・研究者の方でも一流になってくると、哲学的、芸術的な風貌を帯びてくる、と自分は確信している。
こう言うと科学者や研究者を揶揄しているように見えるかも知れないが、私が問題にしているのは、メディアの上に出てきていい加減な事を言ったり、出版社の誘いに乗って通俗本を書く二流以下の人達である。一流の人、岡潔のような人であれば、私よりももっと精神的だったりする。
まあこんな風に偉そうに言う権利がお前にあるのかと言われると、私も困るのだが…本当はもっとちゃんとした人が言えばいいと思っている。ただそういう人が仮にいても少数派で、大して声が広がらないというのも確かだ。
この間、ノーベル賞を取った科学者が、現代の教育について疑義を呈していた。その人は「自分は科学を専門にしているが科学だけ勉強していたのではダメ」とか「試験の点数をありがたがりすぎ」とか言う事を言っていた。
別にノーベル賞の権威を借りたいわけではないが、その人の言う事はどれも「ですよねー」と思わせるものだったが、しかし、ノーベル賞取った人間がそう言おうが誰も聞かないのが現状である。代わりに、テレビに出ている大衆に迎合している学者もどきが出した本は売れたりする。そういう現状である。
そういう水平化、単層化が極まっている。しかしこの水平化に抗するにあたって「ですよね、やっぱり水平化はダメですよねー」といくら言っても仕方ないし、そういう同意はどれも水平化に資するものでしかない。ここで問題としている事は、意見の一致・不一致ではなく、その底にある深層構造なのだから。
ちなみにこういう文書を書くと「どうやったら柔軟思考になれますか?」と聞きたくなる人もいるかもしれないが、その質問が硬直思考である。そういう人には「柔軟思考なんてありません」とでも答えるしかない。
しかし思えばこんな問答も、禅問答なんかではそのままやっていたんですよね。禅問答が柔軟思考の果ての矛盾の内包だと考えると、ここで書いた事は全て先人が全部やり遂げていた事になる。まあ、私は現代人よりも昔の仏教思想の方を取るという事です。結論からーー結論だけを言えば。