第六章 明朗快活
「ん……」
ふ、と目が開く。フィアは目を擦りながら、ぼんやりした頭を整理する。そして、今の状態に気付いた。
「……眠っていたのか」
どうやら、剣の手入れの途中で眠ってしまったらしい。それに気が付いて慌てて飛び起きると、フィアはベッドを見た。そこに寝ていたはずの従兄はおらず、彼の剣もなくなっている。綺麗に片付けられた剣の手入れの道具。そしてフィアの体には毛布が掛けられていた。どうやら部屋を出るときにルカが掛けていったらしい。
「気障なことを」
そう呟きながら体を起こしたフィアはベッドの上にメモを見つけた。
『剣の手入れありがとな。フィアがやると切れ味が良くなるから助かるよ。俺、こういう作業苦手だしさ。でも、男がいるときに眠るのは感心出来ないな。俺に襲われても文句は言えないぜ? 男として生活してるから大丈夫、なんて思わないように。この世にはそういうモノ好きもいるから(騎士には居ないと信じたいけど)。
じゃあ、俺は自分の部屋に帰るから。
追伸 今日の夜、七時半にオルフェウスの塔で』
少し走り書きの、ルカの字。フィアはその手紙を読み終えると、ポツリと呟いた。
「……忘れていた」
オルフェウスの塔。そこに全てを知っている者がいるとルカはいっていたが……一体、誰のことだろう。そして何故わざわざ夜に、そんなところで? そんなことを考えながら、フィアは小さく息をつき、ショートカットの髪を掻きあげた。髪を掻きあげるのは、困った時のフィアの癖でもあった。腕に付けた抑制機がシャラと鳴る。
訳がわからないことが多すぎる。常人以上の魔力。自分では理解出来ない、抑制機を壊してしまうほどの魔力……それだけでもキャパシティオーバーなのに、全てを知っている人、というルカの言葉が引っ掛かっていた。『全て』とは?そして、それを知る人とは誰なのか?自分自身がわからないこと。自分自身が知りたいこと。それを知っている人物がいるという。その相手を、ルカは知っており、フィアは知らない。考えれば考えるほどに、謎が増えていく。
暫し考え込む表情でいたフィアだが、やがて諦めたように溜息を一つ吐いた。
「……悩んでいても仕方ないか」
フィアはそう呟くと、ルカのメモを服の中に入れて、毛布を畳んだ。剣を腰のベルトに挿して、部屋を出る。部屋でぐだぐだと考え込んでいたら、永遠に悩み続けてしまうような気がしたのだった。
***
部屋の外に出て、空を見上げる。外は夕焼け色に染まっていた。鮮やかな夕焼けの色。ともすれば不安を煽るような空の色。黄昏の空を見て、フィアは目を細める。
フィアは正直、この色が好きではなかった。目に痛い程鮮やかな夕焼けの色は、”あの日”の、竜の炎を彷彿させる。全てを焼き尽くす、恐ろしい炎。響く竜の咆哮。ただ恐れ、震えていることしか出来なかった幼い頃の無力な自分を思い出してしまう。
嫌な記憶を頭から振り払って、フィアは溜息を吐いた。こんな夕焼けを見ているとどうしても、言葉で表せない不安に駆られてしまう。
家族が死んで、騎士を目指した。その頃はこんな人生を送ることになるなど少しも思っていなかった。ごく普通の女として生きていくものだと何の根拠もなく思っていた。父がいて、母がいて、従兄がいて、村の仲間がいて。一緒に笑い、一緒に生活し、幸せな日々が続くと思っていた。それが幸福で、それが”当たり前”だと思っていた。
しかしある日、突然いつも傍にあったものが全て壊れた。壊されてしまった。本当に、一瞬だった。突然現れた火竜の所為で、村は破壊され、父が殺され、母が殺され、村の子供もたくさん死んだ。弱かった自分は何をすることも出来なかった。それが、とてもとても悔しくて。辛くて。
―― 強くなりたい。
そう思い、騎士になった。
騎士になったことを後悔などしていない。しかし……女としての生活を捨てることに何の未練もなかったと言えば、嘘になる。同じくらいの年の町娘たちが綺麗に着飾って出かけていくのを見たときに何とも言えない切ない気持ちになることもあった。フィアだって、十七歳の少女なのだ。騎士になったばかりの頃は、女に戻りたいと願ったことは、何度もあった。彼女たちのように穏やかに暮らしていけば良かったと一瞬頭をよぎることもあった。男として生きることも、秘密を持って生きることも、もう嫌だと思ったこともあった。全てを捨てて逃げたいと思ったこともなかったわけではない。
しかしその度に、甘えたことをいっているわけにはいかない、と何度も何度も自分を奮い立たせた。此処にいる以上は一人の騎士。ルカに止められても諦めず、此処に来たのは自分の意志だ。騎士になることで自らが失うものはよくわかっていた筈だ。全てを捨てる覚悟で、全てを失う覚悟で、フィアは騎士になったのだ。そのために従兄まで巻き込んだというのに、いまさら中途半端でやめるわけにはいかない。最後まで、戦い抜かなければならない。それが、本当の覚悟だった筈だろう? フィアは、自分自身にそう問うた。そして、真っ直ぐに前を見る。
「俺は強くならなければいけないんだ」
フィアは言い聞かせるようにそう呟くと、自分の頬をぴしゃりと叩いて、歩いていった。
***
気が付けば夕食の時間になっていた。夕食は、騎士の棟の中にある、大きな食堂で自由にとることになっている。任務の時間によって食事を取れる時間はまちまちなため、基本的にそろって夕食を、ということは滅多にない。皆で揃って食事をとるというのは、せいぜい時折開かれる宴会くらいのものだろう。
食堂につくと、フィアは空いている席を探した。いつもこれくらいの時間には、食事に来る騎士で食堂がいっぱいになる。なかなか座ることが出来ないことも、しばしばあった。どうにも今日もそうなりそうな雰囲気である。
さて、どうしたものか、という顔をしていたとき。
「フィア!」
明るい声で、名を呼ばれた。声がしたほうを見れば、アルが明るく笑いながら手を振っている。そんなに大きな声で呼ばなくても、と苦笑しながらアルに向かって軽く手をあげ、彼の方へ行こうとした。
と、その時。後ろから強い衝撃を受けて、フィアは前に転んだ。そのまま背に、ずしりと重みが乗る。くっ、とフィアは思わず呻いた。
「わわっ?! 悪い! 大丈夫か?!」
慌てて叫ぶ声が、背中から聞こえる。どうやら後ろからぶつかってきた人間がいるらしい。多めに抑制機をつけておいて良かった、とフィアは溜息を吐いた。今の状況で抑制機なしだったら間違いなく相手を凍死させてしまったことだろう。
フィアは自分を落ち着かせるために、ふぅと息をついた。そして、やや苦しそうな声音で、言う。
「大丈夫、だが、早く下りてくれ。重い」
フィアは華奢だ。通常の女性に比べたら力がある方とはいえ、大の男一人を押しのけるだけの力はないし、乗っかられたままでは苦しい決まっている。
「あ、ああ」
ごめん、と言いながら声の主はフィアの上から退いた。
鮮やかな赤い髪の少年だ。人懐っこいガーネット色の瞳の、体格の良い少年。鮮やかな赤色の刺繍が、制服に施されている。それを見てフィアは呟いた。
「炎豹の奴か」
炎豹の人間はそそっかしい者が多いとルカから聞いている。なるほど納得だ、とフィアは思った。
「ごめんな。いきなりぶつかって。前ちゃんとみてなかった」
彼はそういいながらフィアの手を取って、引っ張り立たせる。痛みに顔を顰めるフィアを見て申し訳なさそうな顔をしていた。……のだが。
「って、お前」
彼はそう呟いた後、そのままフィアの手をじっと見つめた。特に何も言わず自分の手を見つめる少年を見て、フィアはきょとんとして首を傾げた。
「どうした?」
「……ぎ」
どうかしたのかと問いかけると、少年は、ぼそりと何かを言った。しかし声が小さすぎて、何を言ったのかわからない。フィアは一層怪訝そうな顔をした。
「聞こえないんだが……」
「お前……細すぎ」
「は?」
一応その声を聞きとることが出来たが、その言葉の意味がわからず、尚更きょとんとするフィア。と、同時、彼はがしりとフィアの手を握った。フィアは唐突過ぎるその行動にぎょっとした顔をする。
「ちゃんと飯食ってんのか?! さっき上に乗っちまった時も思ったけど、手も体も細すぎ! 俺が蹴っ飛ばしたら折れそう!」
少年は素っ頓狂な声で、しかし真剣な顔でそういう。そのテンポについていけず、フィアは蒼の目を大きく見開き、ぽかんと口を開けた。
体格の良い戦闘部隊の騎士である彼からすればフィアのように華奢な騎士は驚きなのだろう。しかし、あまり細い細いと連呼されては困る。女性であるフィアが男性のように逞しくなれるはずがない。体格に関しては誤魔化すに誤魔化しきれないのだから。しかも、目の前にいる彼は勢いのままに服を捲るくらいしてきそうだ。一応胸はサラシで潰しているものの、ウエストラインの括れだのなんだのを見られたら、流石にまずい。羞恥心以前の問題で、隠していることが露見してしまう。
どうしたら誤魔化せるだろう? フィアは必死に頭を回転させて言った。
「し、小食なんだ。体質的にあまりたくさん食べられないし、筋肉もつかない。心配してくれるのはありがたいが、大丈夫だから、気にしないでくれ」
強ち嘘でもない。フィアが小食なのは事実だ。フィアの必死の言い訳に少年はそうか? というと渋々フィアの手を離した。良かった、どうにか誤魔化せたようだ。一つ安堵の息を吐いたところでフィアは訊ねる。
「ところで、お前は……お前の名は?」
大丈夫か、と問おうとしたところで、彼の名を知らないことに気が付く。フィアがそう訊ねると、彼はにぱっと笑って、名乗った。
「ん? あ。自己紹介してなかった。俺はアネット、アネット・ホークルス! ご覧のとおり炎豹の騎士だ。ヴァーチェで年は十九! お前は、あれだろ、噂の雪狼の美少年」
ぱちぱち、と赤い瞳を瞬かせて人懐こく笑う少年、アネットに向かってフィアは頷く。
「美少年云々は無視するとして……そうだ。俺は雪狼のヴァーチェ、フィア」
「へぇ」
そう声を漏らすと、アネットはフィアをじっくりと見つめた。そして、不思議そうな顔をしながら問うた。
「本当にルカの従弟? 魔力が桁違いだけど」
ルカは一応セラという地位。それなのに敬称をつけないとなると、きっとアネットもルカの同期生なのだろう。彼の同期生はどうにも、彼を呼び捨てで呼んだりする癖があると、ルカ本人から聞いている。敬ってほしいよなぁ、などといいながらも彼自身も気にしていない様子なのが原因なのだとフィアは思っている。
まぁ、それは置いておくとして……気になったことを、フィアはアネットに訊ねた。
「……魔力、感じるか?」
彼の質問に、アネットはこくこくと頷いた。
「あぁ。すっごい冷たい魔力。お前にぶつかった瞬間が一番すごかったけど。このまま凍って死ぬのかなってちょっと思ったくらいだ」
少し興奮したような声色でそう言うアネットに、フィアは驚いたような、困ったような顔をした。
「……すまない。怪我はなかったか?」
やはり、驚いた拍子に魔力を放出してしまっていたようだ。自分の魔力を抑えられなかったことに、ショックを隠せず、フィアは俯いてしまった。その様子を見て、アネットは驚いた顔をした後、にかっと笑った。そしてぽんぽんとフィアの頭を撫でて、言う。
「何でお前がそんな顔すんの? 平気、平気。お前は氷、俺は火だろ?」
怪我なんてしないよ、といって、アネットが笑う。励ますようなその表情に少しホッとするフィア。彼に怪我がなかったのならば、何よりだ。
そんなやり取りをしていると、アルが駆け寄ってきた。
「フィア、大丈夫?! 怪我してない? 何処か打ってない?!」
真剣な顔をして、フィアに怪我がないかと確かめるアル。どうやら、アネットにぶつかられて倒れたところから見ていたらしい。
「え、あぁ。大丈夫。平気だ」
過剰反応するアルに若干苦笑しつつ、フィアがそう答えると、アルはほっとしたように破顔した。そんな彼らの様子を見てアネットが笑顔でいう。
「そいつがお前の騎士か? 可愛い護衛だな」
アネットの発言にむっとしたアルがフィアを庇うように抱き寄せる。……が、フィアと身長差もあまりないため、子供が親に抱きついているような感じになってしまっている。騎士と姫、というよりは親子だ。
「僕とフィアは友達なの! フィアは強いから、護衛なんていらない!」
怒ったようにそういうアルをみて、アネットはまぁまぁとアルを宥めた。
「わかってる、わかってる。そんなにムキになるなって」
「……子供扱いしないでくださいよ」
アルはそういって頬を膨らませる。その仕草が子供っぽいのだが、とフィアは思ったが、それもアルの可愛さだと思い、言葉にはしなかった。
そうしてアルをひとしきり揶揄った後、アネットは改めてフィアの方を見た。そして、小さく首を傾げながら、言う。
「まぁ、いいや。そうやってムキになるとこも可愛いし。……さ、お前らも飯食いに来たんだろ? どうせだから、一緒に行こうぜ」
アネットは膨れたアルの頬をつついてフィアの手を引っ張った。
「むぅ。僕がフィアと一緒にご飯食べようと思ったのに」
アルは不機嫌そうにもう一方のフィアの手を握った。その力はいつもよりも、やや強い。どうやら、フィアを取られてしまったような気分になっているらしい。未だむっすりしているアルの様子を見て、フィアは溜息混じりにアルに言った。
「アル、そんな顔をするな。せっかくの可愛い顔が台無しだぞ」
フィアがそういうと、アルは不満げな視線をフィアに向けて、いう。
「あのねぇフィア、僕も男だよ? 可愛いよりもカッコイイって言われたいなぁ」
確かに勇ましくはないかもしれないけれど、と拗ねたようにそう言う彼を見て、フィアは目を細める。
「かっこいいって……見た目が、か? 勇ましいと見られれば、格好良いと見られればそれで良いのか? 俺はそうは思わないな。見た目が良くても中身が伴わないのでは意味がない。俺はアルの素直な所と素直な笑顔が可愛らしくて好きだけどな」
アルはそう言われて、少し視線を揺るがせる。褒められたのは嬉しいしフィアの言葉の意味は理解しているのだろう。けれども若干腑に落ちないところがあるのか、ぼそぼそという。
「それはわかるけど、僕だって大きくなりたいし逞しくもなりたいよ」
確かに彼は同年代の少年たちよりかなり小柄だ。女性であるフィアよりも若干背が低い。挙句大きな金目にふわふわの髪……可愛らしい、としか形容できない容姿である。それは彼なりにコンプレックスらしく、可愛いといわれるのは複雑なようだった。フィアはそんなアルの頭に手を置いてくしゃりと撫でた。
「焦ることはないさ。成長の早さは人それぞれ。俺も背が伸びるのを気長に待つよ」
「そうだね。フィアはフィアだし、僕は僕だもん。いつかもっとしっかりした騎士になれるよね!」
アルはそういって、笑みを浮かべる。彼の言葉にフィアが微笑んで頷こうとした時、彼の肩を後ろから誰かが叩いた。
「行くぞ、フィア。時間だ」
彼の肩を叩いたのは、ルカだった。時計を見れば午後七時過ぎ。
「あぁ、そうだったな。すまない、ルカ」
約束の時間だったことに、ようやく気付いたフィアは小さく頷いて、きょとんとしているアルとアネットに今日は一緒に食事をとれないことを詫びたのだった。