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第五十四章 一つだけの我儘




 ゆっくりと、歩みを進めていく。眼前には自分と瓜二つの顔をした、兄の姿。フィアの歩みは、止まらない。真っ直ぐに、迷いなくフォルの前まで歩み寄ると、フィアはゆっくりと、首を傾げた。


「ちゃんと、来たぞ」


 そんな彼の言葉を聞き、フォルは満足げに頷く。そして、そっとと彼の亜麻色の髪を撫で付けながら、微笑んだ。


「良い子だね。でも、何でいきなり僕の言うことを聞く気になったの? それが、凄く疑問なんだけどなァ」


 教えてくれる? とフォルは優しく問いかける。フィアはそんな兄の言葉に首を傾げ、微笑んでいる。穢れを知らない、無邪気な子供のように。


「俺が嘘を吐いているかもしれないと、心配か?」


 そんな彼の言葉に、フォルは暫く黙りこむ。それから穏やかに笑って、首を振って見せた。


「いや、それはないな。僕は君の言動が真実か嘘かをある程度見極める力も持ってるからね。フィアが言ってるのは本当。本当に僕らの方に来るつもりでいる」


 無論、フィアの言葉が全て真実であると最初から信じていた訳ではない。フォルは自身の力を用いて、フィアの言動が真実であるかを探っていた。その結果、彼の言葉は真実であると判断したのだ。彼は本気で、自分たちのところに来るつもりなのだ、と。

 しかしそれでも、疑問は残るらしい。


「……だけど、知りたいんだよね。さっきまであんなに頑なだったのに、何でいきなり僕らの言うことを聞く気になったか。教えてくれないかな?」


 フォルは穏やかに微笑みながら、そう問いかける。優しく、フィアの髪を撫でつけながら。

 フィアはにこりと笑って、答えた。


「声がな、聞こえたんだ」

「声?」


 フォルは不思議そうに首を傾げる。どうやら、その返答は予想外だったようだ。フィアは小さく頷く。


「あぁ。俺が選べる道は二つしかない、という声が聞こえたんだ。一つは、お前の要求を飲むこと。もう一つは……」

「仲間もろとも死ぬこと、かな?」


 フォルはフィアの言葉を遮り、問いかける。フィアはそんな彼の言葉を肯定も否定もせず、ただ笑うばかりだった。

 フォルは緩く笑って、目を細めた。そして、なるほどね、と納得したような声を漏らす。


「声が示した二つの道の内、君が選んだのは前者だった、と。やっぱり、君は賢いね。流石は僕の弟だ」


 フォルはくすりと笑って、フィアに言う。彼を優しく抱き寄せながら、満足そうに目を細めて、口角を上げる。欲しかった玩具を手に入れた子供のように目を輝かせている兄を見つめるフィアの蒼い瞳には穏やかな光が揺れていた。


「フィア!」


 ルカが叫ぶ。何度も何度も、従弟の名前を。かけがえのない家族の名を。きちんとフィアには聞こえていた。でも、聞こえないフリを続けていた。

 アルはずっと不安げに、寂しそうにフィアを見つめていた。涙に濡れた黄色の瞳で、真っ直ぐに。フィアはそれにきちんと気が付いていた。しかし、気が付いていないフリを続けていた。

 シストが、アネットが、他の仲間たちが、どうにかしてフィアの魔術を解こうともがいていた。すぐにでも駆け寄って、フィアを守りたい、その思いで。仲間たちの思いにも、気が付いていた。しかし、気が付かないフリを続けていた。


―― 反応を返してしまったら……覚悟が揺らいでしまう気がしたから。


 だから彼は、仲間の声に、視線に、想いに気が付かないフリを続けていた。


「フィア!」

「フィア君!」

「戻って来い!」

「俺たちは、まだ戦えるから!」

「お前一人が、背負う必要はない!」

 響く、仲間たちの声。必死に自分を呼び戻そうとする、優しく、力強い声。フィアはそんな仲間たちを横目に、微笑んだ。


―― 大丈夫。俺はもう、迷わない。


 そう思いながら、フィアはそっと息を吐き出した。


「さてと。始めようか?」


 フォルは微笑んで、フィアを抱き寄せた。その頬に軽く口付けて、彼は目を細める。彼が放つ魔力は、強力な悪魔の魔力。フィアを悪魔に作り替えるための、魔力だ。


「やめろォッ!」


 ルカが悲痛な声で叫ぶ。フィアに触るな、と。怒りと、悲しみと、もどかしさを綯い交ぜにしたような表情で、ルカは叫んだ。

 フォルはそんな彼を一瞥して、冷笑した。


「煩いよ騎士様。往生際が悪いなぁ……見て解らない? もうフィアは僕の事を拒んでいない。それが全てだってことに」


 ね、と言ってフォルは嗤う。フィアはフォルに抱き寄せられても、何も言わなかった。抵抗もしなかった。フォルの腕に抱かれたまま、大人しくしている。それはつまり、フィアが完全にフォルのことを受け入れているということを示していて。


「何、で……? だって、フィアは、悪魔に触られたら……」


 アルは困惑したように呟く。それを聞いたフォルは緩く笑みを浮かべ、言った。


「あぁ、本当だ。僕に触れられても平気そうだね、フィア。まぁ、僕が途中まで魔術をかけたから、悪魔の魔力にも耐性が出来てるんじゃないかな?」


 そう言いながら、フォルは肩を竦める。それを聞いて、アルは少しだけ、安堵したような顔をした。


「フィアが、苦しくないなら、良かった。でも……」


 アルはそう呟いて、口を噤む。悪魔に負わされた傷や悪魔に触れられたことで苦しむ彼を見てきたから、その苦痛を彼が感じていないことには、安堵した。しかし……フォルの腕の中で微笑んでいるフィアは、いつものフィアではないように思えて、喜んでばかりもいられなかった。優しい笑みも、穏やかな声も、全て全て、いつものフィアのそれではない。このまま、フォルの魔術によって悪魔になってしまったら、自分が知っているフィアが、完全にいなくなってしまう気がして恐ろしかった。


「フィア、僕、嫌だよ……」


 小さく呟いて、アルは自分の手の中のフィアに返されたブレスレットを握り締める。その大きな瞳からは、未だにとめどなく涙が溢れていた。


「くそ、くそぉ……ッ」


 シストは、動かない身体を必死に動かそうともがいていた。無駄だとわかっている。フィアの魔力は強力で、幾らもがいたところで彼にかけられた魔術が解けないであろうことは、理解出来ている。嗚呼、それでも……


「もう一度、パートナーを失うなんて、絶対に嫌だ……!」


 シストは、掠れた声でそう叫ぶ。守るのだ、と。今度こそは、失わないように守るのだ、とそう思いながら、シストは必死にもがく。しかし、その努力も虚しく、その身体は動かない。


「馬鹿フィア! 戻って来いッ!」


 アネットは声の限りに叫んだ。鮮やかな赤い瞳が真っ直ぐにフィアを見据える。難しい言葉なんて要らないと、何度も何度も、叫んだ。帰って来いと、ただそれだけを。伝えたい思いは、それだけだから、と。大切な友人の名前を何度も何度も、叫び続けた。

 そんな騎士たちを暫し見つめていたフォルだが、やがて溜息を一つ吐いて、言った。


「さて、と。お喋りにも飽きた、君のお友達も煩いことだし、さっさと済ませちゃおうか」


 そう言って、フォルは目を細める。そしてフィアの髪を指先で弄りながら、囁くように言った。


「魔術は、僕が直々にかけてあげる」


 穏やかに微笑みながら、フォルは言う。フィアはそんな兄を見上げ、緩く首を傾げた。


「……どうやって?」


 先刻まで繋がれていた十字架にもう一度、繋がれるのだろうか? フィアがそんなことを考えていれば、フォルはくすりと笑って、首を振った。


「もう痛い思いはさせないよ?」


 そう言いながら、フォルはそっとフィアの顎を指先で支え、くいと顔を上げさせる。そして彼自身とそっくりなサファイア色の瞳を見つめながら、言った。


「天使と悪魔が接触して魔力を流し込めば、強い方の魔力に弱い方が染まるんだよ。この状況の場合、フィアが僕の事を受け入れてる訳だから、フィアが悪魔になるってこと。痛いことはないし……上手に、してあげるよ」


 くすり、と笑ってからフォルはそう言って、フィアに顔を近づける。離れたところで叫ぶ騎士たちのことは無視して。

 フィアはそっと、フォルの唇に指を押しあてた。目を丸くする彼を見つめ、フィアは目を細める。


「俺が聞いた声は、誰の声だと思う?」


 そう問いかけられて、フォルはぱちりと瞬きをする。それからふっと笑って、首を振った。


「さぁ? 興味もないしね」


 そう言いながら、フォルは肩を竦める。実際、少しも気にしていない様子だ。自分のほしいモノ……フィアが、手に入ったから、だろう。それ以上のことを考えるつもりはないらしい。フィアはそう考えながらふっと溜息を吐いた。


「そうか……興味を、持つべきだったな」


 静かに呟くような声が響く。フィアの言葉と同時、不意に凄まじい量の魔力が放出された。真っ白な光。フィアを包み込む、強大な白い魔力。


「うわ?!」

「な、何?!」


 あまりに強い魔力に圧倒され、騎士たちも、フォルも目を閉じる。


「まずは、お前からだ」


 小さく響いた声を合図に、光が弾ける。その光が向かうその先は、漆黒の青年……ノアールの元で。


「な、に……?!」


 ノアールは大きく、眼を見開く。そんな彼の瞳に映るのは真っ白い翼を持つ、美しい天使の姿のフィアだった。

 動くことが出来ずにいるノアールに、フィアはそっと手を向ける。鮮やかなサファイアブルーの瞳が、一度光を放ち……ノアールの姿は、消えていた。


「の、ノアール?!」


 姿の消えた自分の部下の名を呼び、フォルは後退る。気配が僅かに残るのみで、ノアールの姿は、跡形もない。


「……彼は、悪魔の魔力を持つ者なのだろう。貴様のような完全な悪魔ではない分、封じることは決して難しくなかった」


 静かに手を下ろしながら、フィアは言った。蒼い瞳が、兄の姿を捉える。強い天使の魔力を放つ彼は、すっと目を細めて、言葉を紡ぐ。


「先刻、お前がどうでも良いといった私が聞いた声は、私たちの本当の両親の声だ。貴様が殺した、天使のな……」


 フォルは彼の言葉に、大きく目を見開く。それを見つめながら、フィアは微笑み、言葉を続ける。


「私たちの両親が私に示してくれたのは、二つの道。一つは貴様が言った通り、私が貴様の配下に下ることだが……もう一つの道は、仲間と共に死ぬことではない。私の、この魔力を以て貴様らを浄化することだ。ノアールも、油断していたようだな。封じることは、簡単だった。私が貴様らの魔力に勝てなかったように悪魔も天使の魔力には勝てない」


 フィアはそっと、目を閉じる。脳内にはまだ、両親の声が微かに残っている。それを思いだしながらフィアはそっと、息を吐き出した。


―― 迷うまい。


そう思いながら、フィアは目を開ける。その次の瞬間には元いた場所……フォルの腕の中に戻った。


「な……!」


 驚き、眼を見開くフォル。彼が逃げないように捕えながら、フィアは目を細めた。


「貴様が愚かで助かった。この魔法は、貴様の近くに居ないと使えない」


 そういい、フィアは笑った。

 フィアに使うことが出来る魔術の一つは完全な悪魔化の魔術。完全な悪魔となり、全ての記憶を消去する魔術。もしそれを行使すればフォルの仲間となり、この世界を支配出来るだろう……そう父は語った。

 そしてもう一つの魔術は天使の魔力の完全開放。フィアが持つ天使の魔力を全て放出して、悪を全て焼き払い、封じるもの。その魔術を使えばフォルの狙いを打ち砕くことは出来るはずだと、母は言った。しかし、その魔術の行使には一つデメリットがあるとも、語っていて。

 両親に示された、悪魔になる道と、天使になる道。フィアが選んだのは、勿論後者。母に聞かされたデメリットも受け入れた上での選択だった。

 魔術の行使の直前にフィアが仲間たちを拘束したのは、フォルたちを欺くためであると同時、仲間に自分を止めさせないため。下手に動かれてしまうと、仲間まで巻き込んでしまう恐れがあったからである。悪魔の魔力は勿論、天使の魔力も普通の人間には強力すぎるのだ。此処まで自分のために戦ってくれた仲間たちを自分の魔力で仲間を傷つけるのだけは嫌だったのだ。

 アルにブレスレットを返した理由は二つ。一つは、魔力を完全開放する時にそれを身につけていたら、壊してしまうから。そして、もう一つは……自分の思い出を、大切な親友に持っていて欲しかったからだった。失って欲しくなかった。忘れてほしくなかった。自分という存在を。自分(フィア)という、騎士がいたことを。

 忘れてほしいなんて大嘘だ。記憶だけで良い。どんな形でも良い。自分の存在が消えてもなお、ほんの少しで良い。大切な、大切な仲間たちに憶えていて、欲しかった。


「天使……」

「これが、フィアの……」

「魔力を完全開放した姿……?」


 白い翼を持ったフィアを見て、仲間たちは言葉を失う。

 神々しいとしか形容出来ない、天使としてのフィアの姿。普段の騎士服とは違う、真っ白のドレスを身に付け、大きな純白の翼を広げているフィアは、穏やかに微笑んでいた。

 その姿を見られた今、フィアが今まで隠してきた真実は、仲間たちに露見した。柔らかなドレス姿のフィアは、誰がどう見ても、女性にしか見えない。彼女自身ももう誤魔化すつもりはないらしく、フィアは自分の兄を捕えたまま、仲間たちに視線を向け、申し訳なさそうに微笑んだ。


「今まで、嘘を吐いていて申し訳ありませんでした。俺……否、私は、自分の性別を偽り、騎士団に入隊していました。ルカに無理を言ったのは、私です。どうか、どうか、ルカを罰しないでくださいませんか。私の……たった一人の家族には、幸せになってほしいのです」


 それは、全てを捨てた天使の、たった一つの我儘だった。自分が女だと露見すれば、ルカもきっと罰せられる。ルカは、それを覚悟していると言っていた。それも覚悟した上で、フィアの選択を応援したいと言って、常に支えてくれていた。

 しかし、フィアは嫌だった。自分の所為で大切な家族が、唯一の家族が罰されるのは。


「私はどれだけ罵倒されても構わない。恨まれても貶されても構わない。だけど……どうか」


―― ルカの事は、責めないで。


 フィアはそう言うとフォルの腕を強く握った。そして穏やかに微笑んで見せながら、言う。


「さぁ兄上。そろそろ、時間だな。貴様のあるべき場所に、送ってやろう」


 そう告げるフィアの瞳には、強い光。決意の色だ。


「ッ、離せ!」


 フィアの手を振り解こうとするように、フォルはもがく。自身の状況を悟った彼は、先刻までの余裕をすっかり失くし、強い焦りをその表情に浮かべていた。

 力だけで言うならば、きっとフォルの方が上だろう。しかし、完全に天使化したフィアに勝てるはずはない。

 フィアは兄の腕をしっかりと掴んだまま、静かな、けれども確かな力の籠った声で、言い放つ。


「兄の過ちを正すのが妹の役目。そして、悪魔を滅するのが天使の役目だ」


 フィアはそう言って微笑むと、最後の呪文を唱えた。


「善なるものを救い、邪悪なるものを消し去れ、我が身に宿りし天使の力……――」


 母親に教えられた、全ての悪を消し去り、善を救う、究極の天使の魔術。その代償は……


―― この魔術を使えば、貴女は人としての生を使い果たし、完全な天使となってしまう。


 人間では、地上の存在ではなくなってしまう。つまりそれは、もう二度と……仲間と共に過ごすことが出来なくなるということを、示していて。

 母の言葉を思い出しながら静かに目を閉じる。そして、これで良いのだ、と心の中で呟いた。


「……さようなら」


 そう呟くフィアの蒼い瞳に涙が浮かぶ。

 最後の言葉を告げたフィアは、そっと微笑を浮かべた。大切な仲間たちのために、一つ、願いをかけて。

 どうか、この戦いに巻き込まれた全ての人々に、私にとってかけがえのない仲間たちに、天使の加護がありますように。

 そんなフィアの願いと同時、白い光が弾けて、全てが静寂に包まれた。




 

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