第五十三章 二つの道。天使の決断
―― フィア、聞こえているでしょう。
困惑するフィアの耳に再び、声が響いた。鈴の鳴るような、軽くて優しい声が。
―― お前にしか、運命は変えられない。
続いて、重く、威厳のある、それでも優しい声が、響いた。
「誰……?!」
フィアはそう声をあげて辺りを見回し……気が付いた。
「時間が、止まっている?!」
驚いて、フィアもその場に凍りついた。
敵も味方も、まるで静止の魔術をかけられたかのように止まっている。剣を振り上げたまま、止まっている従兄の姿。必死に、仲間を魔獣の攻撃から守ろうと防御魔術を発動させている親友の姿。自分の言葉を遮ろうとしている相棒の姿。魔獣と戦うアレクやアネット、クオン、アンバー……全てが、止まっている。
フィアは、声の主を探した。これは一体、どういう状況なのか。
「誰だ?! 何処に……」
フィアは、この声を知らないはずだった。しかし、何故か、微かな懐かしさを感じた。
探せども、探せども、声の主の姿は見えない。探し続けるフィアに、男の声が、言った。
『私たちの姿は、お前には見えない』
静かに、そう告げる声。それを聞いて、フィアは顔を歪めた。
「何故?!」
辺りを見渡しながら、フィアは叫ぶ。見えない声の主を探して。
『フィア』
声が変わる。最初に聞こえた、優しい女性の声だ。優しく、暖かな声で、フィアの名を呼んで、彼女は言葉を続ける。
『私たちは、貴女のすぐ傍に居るわ。いつも、見守ってきたの。フィア、もう少し頑張って。貴女の兄の……フォルの過ちを正せるのは、あの子の計画を止めることが出来るのは、貴女だけなのよ』
―― 貴女の兄。
それを知っているのは、今この場にいた仲間だけのはず。それなのに、何故この女性は、自分のことを、そしてフォルのことを、知っているのだろう。
フィアははっとした顔をした。一つの仮定が、脳内に浮かんだのだ。そして、彼は震える声で、訊ねる。
「まさか、俺の本当の母親……なのか?」
フィアの問いかけに、女性の声はくすくすと笑った。嗚呼、やはりわかってくれたのね、と彼女は言葉を続ける。
『そう。私たちは、貴女の生みの親。そして、フォルの母親よ』
声は嬉しそうなトーンでそう言った。それを聞いて、フィアはゆっくりと、サファイア色の瞳を瞬かせる。
「俺の本当の……」
母親、とフィアは小さく呟く。初めて聞いた、母親の声。懐かしいと感じたのは、その所為だったのか。フィアは放心したように、母の声を聞いていた。
『フィア』
また声が変わる。最初に話していた、男の声だ。きっとそれは、自分の父親の声なのだろうと、フィアは直感した。
『フィア、時間がない。決断の時だ』
父の声は告げる。時間がないのだと。それを聞いて、フィアは、表情を歪めながら、弱弱しく首を振った。
「決断……? どうしたら良い? 俺は……もう誰も、失いたくない。俺の所為でこの国が亡ぶなんて、仲間が死ぬのなんて、嫌だ……!」
今にも泣き出しそうな声で、フィアは言う。ロシャに聞いた予言。フィアにとって残酷すぎる二つの運命。自分が生きて国が亡ぶか、自分は死んで、国が救われるかという、恐ろしい二つの道……――
「俺が死ねば、国は、仲間は、本当に救えるのか? それを俺が決めることが、出来るのか? ……俺が決めてしまって、良いのか……?」
フィアの悲痛な声。もうどうしたらいいのかわからない、と、震える声で訴えるフィアは、まるで迷子の幼子のようだった。
そんなフィアを慰めるように、優しい母の声が響く。
『貴女にしか、運命を決めることは出来ないわ』
優しく、静かな声で母が言う。ゆっくり瞬くフィアの頬を、優しい風がそっと撫でた。
『貴方がある魔術を使うことで、確かにこの国と、貴女の運命は定まるわ』
貴女にとっては、どちらも辛いものでしょうけれど。静かな母の声が、そう告げる。
『今お前が使うことが出来る魔術は、二つだ。どちらを使うも、お前の自由』
力強く、父の声が言う。そして彼は、フィアに二つの呪文を教えた。どちらの魔術も、フィアが知らない魔法だった。きっと、古い魔術なのだろう。それを行使した際の二つの道も、父は教えてくれた。
二つの魔術によって辿り着く、二つの道。運命を定めるための、方法。それを聞いたフィアは暫し目を伏せていたが……やがて、そっと息を吐いた。
「そうか……その二つなら、迷う必要はないな」
ふっと微笑んで、フィアは言った。
「最初から、答えは決まっているよ」
きっぱりと言ってのけるフィアの蒼い瞳にはもう、迷いも恐れもなかった。しっかりと、これから自分が定める運命を見据えている。
『そうだな。きっと、お前ならそう言うだろうと、わかっていた』
優しい声で、父が言う。もう一度優しい風が吹いて、フィアを撫でる。
「ありがとう、父さん」
姿の見えない父に言う。今まで父と慕ってきた人とは違うけれど、やっぱり彼も、自分の父親だから。
『私たちの可愛い娘……どうか、貴方の仲間に、天上の加護がありますように……』
優しく、暖かく。泣いているかのような声で、母が言う。フィアはその言葉に苦笑した。
「それを願う必要はない。俺も天使だ……でも、心配してくれて、ありがとう。母さん」
フィアは姿の見えない母に礼を言う。今まで母と慕ってきた人ではないけれど、やはり彼女も、自分の母親だから。
そして彼はふっと息を吐くと真っ直ぐに前を見据え、言った。
「俺が、守る。……ありがとう、父さん、母さん。俺が……」
―― 全てを、終わらせる。
そう呟いたフィアは固く、拳を握りしめた。
***
―― 次の瞬間、止まっていた時間が動きだした。
敵が、味方が、剣をぶつけ合う。高い金属音が響く。フィアは素早くフォルの方を向き、声をあげた。
「もうやめろフォル! 俺が貴様の元に行けば良いのだろう」
その言葉を聞いて、騎士たちは驚いたような、絶望したような顔をした。フィアの心が折れたのだと、そう思って。
「フィア、お前何を言って……!」
「僕たちの事は気にしないで、大丈夫だから……」
口々にそういう仲間たちを見て、フィアは微笑んだ。優しく、穏やかな声で、仲間たちに告げる。
「そんなぼろぼろの体で、よく言う。これ以上戦いを続けたところで、勝ち目はないだろう。全ての原因は俺なのだから俺が終わりにしないで、誰が終わりにする?」
呆然とする仲間たちに笑顔を向けてから、フィアはフォルの方に向き直った。そして驚いた顔をしている兄を見据え、静かな声で言う。
「俺はもう抵抗しない。最後まで魔術をかけてください……兄上」
フォルのことを兄と呼び、フィアは頭を垂れる。……それは紛れもなく、降伏の証だった。
フォルは彼の言葉に暫し驚いたように目を丸くしていたがすぐにその表情を緩めた。そして満足げに頷くと、ぱちりと指を鳴らす。その刹那、彼が使役していた魔獣たちは、元々存在などしていなかったかのように、全て消えてしまった。
残されたのは、傷だらけになった騎士たちと、二人の悪魔。フィアのしおらしい態度を見て、ノアールも、フォルも、勝ち誇ったように笑みを浮かべている。
「やっと素直になったんだね。やっぱり、君は賢い子だ。……良いよ。わかった」
優しい声で言って、フォルは目を細める。フィアはそんな彼を見つめると穏やかに微笑んで、頷いた。
信じられないという顔でそれを見つめていたルカは、はっとしたように叫ぶ。
「何言ってんだよフィア、性質の悪い冗談はやめろよ!」
ルカはそう叫ぶ。悲痛な声で、笑えない冗談は止してくれ、と。ルビーの瞳に色濃い困惑を滲ませながら。
「あぁもう、煩いなぁ」
フォルは顔を歪め、ルカを睨み付ける。ルカも負けじと睨み返し、フィアに駆け寄ろうとした。フォルが何かしたのかもしれない。一発殴りでもすれば、正気に戻るかもしれない、そう思って。
しかしそれを赦さなかったのは、フィアだった。
「その動きを止めよ、身体固定」
静かな詠唱と同時に、仲間たちは地面に倒れ伏した。そのまま、ぴくりとも動くことが出来なくなる。
「え?!」
「何、これ……?!」
「体が、動かねぇ?!」
困惑の声を上げながら、仲間たちは必死に、魔術をかけた張本人……フィアの方を見る。彼は仲間たちにを向けたまま、唇を引き結んでいた。海のようなサファイアの瞳で真っ直ぐに、仲間たちを見据えたままの天使。自分たちが助けようとしていた、かけがえのない仲間によって、動きを封じられている。その現実を理解して、騎士たちは茫然としていた。
「くそ、何すんだよフィア!」
自由の利かない体を必死に動かそうとしながら、シストはフィア睨み付ける。冗談も大概にしろと叫ぶ声は、微かに震えていた。フィアは彼の視線にも怯むことなく、シストのアメジストの瞳を見つめ返した。
「こうでもしなければ、お前たちは俺の元へ来るだろう。もう良い、と言っているんだ。俺が彼らのモノになるまで、お前たちはそのまま大人しくしていてくれ。これ以上、無意味に傷つく必要は、ないだろう」
何もかもを諦めたような声で、フィアは言う。それを聞いて、アルは顔を歪めながら、叫んだ。
「何を、言ってるの? フィア、こんなの……!」
まだ、信じられない。信じたくない。フィアが、自分たちの自由を封じるなんて。自分たちはまだ負けていない、諦めていない、それなのに、何故? そう問いかけるように、アルは大きな黄色の瞳で、フィアを見つめる。
そんな親友を見つめ、悲しげに微笑みながら、フィアは首を振る。
「仕方ないことなんだよ、アル。わかってくれ。これ以上、お前たちを巻き込むわけにはいかない……これは、俺の問題だから」
呟くように、彼はそう言った。その声が、覚悟が、あまりに悲しくて、苦しくて、痛々しくて……アルは唇を噛み締めながら、ふるふると首を振った。
フォルは地面に伏せたフィアの仲間を見てから、そっと一つ息を吐く。そして、ねぇ、とフィアに声をかけた。
「最後に挨拶くらいしてきたら? 世話になったのは事実みたいだし」
そう言いながら、フォルは緩く笑う。ちらりと仲間たちを見る蒼の瞳には、冷たい欲望が灯っていた。助けようとしていた仲間に裏切られ、地面に倒れ伏す騎士たちの絶望をもっと見たい、その声をもっと聞きたいという欲が。
意外な提案に、フィアは一瞬驚いた顔をする。しかし、直ぐに頷いた。
「そう、だな。それを許してくれるのなら……」
「良いよ。僕にだって、人並みの情はあるさ」
そう言いながら、フォルはわざとらしく肩を竦める。フィアは小さく頷いて、ゆっくりと、地面に伏せたままの仲間の方へ歩いていった。
まずは、自分のパートナーの前に屈んだ。そして少しすまなそうに微笑み、口を開く。
「シスト、俺の所為でたくさん怪我させてすまなかった。でも俺は、お前がパートナーになってくれて良かったと思っている。今までずっと、一緒に戦ってくれて、ありがとう」
裏切られた、とでも言いたげにフィアを見つめ、シストは震える声で言う。
「俺は、認めない。なんでお前は全部全部自分で何とかしようとするんだよ!」
彼とは、わかり合えたと思っていた。頼ってくれていると思っていた。……相棒として、支えることを赦してくれたと思っていた。それなのに、この仕打ちは酷すぎる。そう思いながら、シストはフィアを見つめる。
フィアはそんな彼を見つめ、微笑みながら言った。
「そうする他ないから、な。俺の性分でもあるし、何より……天使として、そうする他に道はないのだから」
フィアの強い意志を持った言葉。シストはもう何も言い返せなかった。
次にフィアが向かったのは騎士団のリーダーたちの元。フィアは静かに頭を下げて、口を開く。
「クオン様、アンバー様、アレク様……申し訳ありません。俺の所為で、ジェイド様を……助けに来てくださって、嬉しかったです。最後の最後まで、ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「うーん、そう思うのなら、この魔術を解いてくれると嬉しいんだけどな?」
頭を下げたままのフィアに、アンバーが困ったような顔をして、笑う。フィアは顔を上げると、緩く首を振った。
「それは、出来ません。これ以上、貴方方に迷惑をお掛けする訳にはいきませんから」
静かな、けれども有無を言わせない声でそう言うと、フィアはセラたちに背を向けた。
セラ達の元を離れたフィアは、アネットの前に屈む。そして、自分を睨み付けるアネットの真っ赤な瞳を見据えて、言った。
「アネット、お前の無茶苦茶な所、割りと嫌いではなかった。アリサのことを、守れなくてすまない。俺の所為でたくさんの人が傷ついてしまった。……こんな俺でも、まだ友だと思ってくれるか?」
そう言いながら、フィアは首を傾げた。アネットは顔を歪め、吐き捨てるように言う。
「……ふざけんな。お前の所為じゃないって言ってんのに……なんだよ、この状況」
自分が此処に来たのは、フィアのこんな顔を見るためではない。以前のように、いつものように笑い合うことが出来る日々を取り戻すために来たのだ。そのために、剣を振るったのだ。それなのに、何故彼は助けようとする仲間たちの手を振り払い、離れようとしているのだろう。そんな想いで、アネットはフィアを見つめる。フィアは目を伏せ、もう一度詫びの言葉を口にすると、くしゃりと軽く彼の頭を撫で、離れていった。
「アル!」
動けないままに自分を見つめ、涙を零す親友に、フィアは声をかけた。びくり、と肩を跳ねさせる彼の前に身を屈めると、フィアはそっと、何かを彼の前に置く。
「これを、返しておくよ」
フィアの手を離れ、アルの前で悲しく光っているのは、フィアが今まで大切に付けてきた抑制機。炎豹の任務の時、アルが渡したもの。フィアが肌身離さず、常に身に着けていた、大切な大切な、宝物。
アルが大きく目を見開いて固まるのを見据え、穏やかな笑みを浮かべたまま、フィアは言った。
「彼らのところに行くのに、これを穢したくないんだ。お前にもらった、大切なものだから……」
そう言いながら、フィアはそっとブレスレットを摘まみあげ、アルの手に乗せた。つい先刻までフィアが付けていたそれはまだ彼の体温を帯びていて、暖かい。
アルは呆然とそれを見つめた後、フィアに視線を向け、問いかけた。
「何、で? 僕、ずっとずっとフィアの傍に、居たいよ、居なくならないで、行かないでよ、フィア」
懇願するように、アルが言う。いつもなら、彼はこんな自分の我儘を聞いてくれた。一緒に遊びに行きたいだとか、一緒に食事に行きたいだとか。……幼い頃は一人で寝るのが怖いと言って、彼の部屋で一緒に眠りたいと頼んだことすらあった。そんな困った願いだって、彼はいつも、仕方ないな、と笑って聞いてくれていた。しかし、今回だけは、決して首を縦に振ろうとしなかった。
「……ごめんな、アル。でも、これ以上大事な人たちを巻き込むのは嫌なんだ」
そこで一度言葉を切ったフィアは、目を伏せる。そして、掠れた声で言葉を続けた。
「それに、ジェイド様のことも、本当に、すまない。俺がいなければ、あんなことにはならなかったのにな……幾ら謝っても、赦されることでは、ないが」
フィアはそう言うと、もう一度だけ柔らかな白髪を撫で、親友から離れた。アルは、もう彼を呼び止める術を持っていなかった。大きな瞳から零れ落ちる雫が、地面に幾つも斑な模様を刻んでいく。
「ルカ」
フィアが最後に歩み寄ったのは、従兄の元。大切な大切な、唯一の家族。その前に身を屈めたフィアはそっと、彼の名を呼ぶ。
「俺は、お前の従弟で良かった」
「…………」
「お前の部下で、良かった」
「…………」
「今までずっと、守ってくれて、ありがとう」
答えないルカに、一方的にフィアは自分の想いを伝えた。
いつも、そっけない言葉ばかりぶつけてきた。たくさん喧嘩をしてきた。時に、馬鹿にするような態度も取ってきた。それでも、いつも、いつでも心の中にあったのは確かな、感謝の気持ちだった。
「……俺の体が動けば」
沈黙を守っていたルカはフィアを見ることなく、口を開いた。掠れた声で、言葉を紡ぐ。
「俺の体が動けば、今お前を思い切りぶん殴れるのに」
そう呟く声は、微かに震えている。怒りを、悲しみを、戸惑いを宿した言葉に、フィアは苦笑を漏らした。
「ははっ。それはさせられないな。お前の拳は俺の障壁さえ崩せるものだと、ついさっき、証明されたのに」
殴られたら、痛そうだ。少し冗談めかした声音で、フィアは言う。ルカは顔を上げて、そんな彼を見た。いつも通りの……否、いつもよりずっと素直な表情を浮かべている従妹を見据えて、顔を歪める。
「俺の体が動けば、今、お前を殴って、正気に戻すことができるのに……ッ!」
馬鹿なことを言うなと殴りたかった。助けてほしいと、言わせたかった。それなのに、フィア自身の魔力によって、今は完全に動きが封じられている。それが悔しくて、悲しくて、堪らない。
守りたいと、ずっと思っていた。そのために強さを求めていた。それなのに……結局、この意地っ張りで大馬鹿者の従妹は、最後の最後まで、助けさせてはくれないのだ。それが、悔しくて堪らない。
フィアはそんなルカを見つめると、ふっと穏やかに微笑んで見せた。
「俺は、ちゃんと正気だよ」
―― ありがとう…………さよなら。
そう、最後の言葉を紡ぐと、彼は仲間たちの元を離れ、フォルの方へ歩み寄っていく。
「フィア! やめろ!」
「お前が悪魔になる必要なんてないんだよ!」
「僕たちが戦うから!」
フォルの要求を呑む必要などない。フィアが悪魔になる必要など無い。そうならないようにするために、自分たちは戦うから。
―― だから、戻ってこい。
響く、仲間たちの悲痛な声。それを背中で聞きながら、フィアは微笑み、首を振った。
「……忘れてくれ。全部全部……俺という存在を、忘れてほしい。今まで俺がしたことも、これから俺がすることも、全部」
フィアは呟くようにそう言うと、真っ直ぐにフォルの方へ歩いていった。
―― さぁ、行こう。
全てを終わりにするために。




