第四十五章 血の契約
ロシャが姿を消し、フィアはシルヴァと名乗った青年と二人きりになった。形的には自分を助けてくれた存在ではあるが、敵であることに違いはない。乱れた呼吸を整えながら、フィアはシルヴァを見据えていた。
「……まったく、あの人も不幸な人だよな」
シルヴァはそう呟いた後、フィアの手首の枷についた鎖を握る。そして、視線を彼の足元に向けて、小さく息を吐き出した。
「歩かせるわけにはいかないな。まったく、こんな状態の子をどうやって連れていくんだ」
そうぼやいたシルヴァはひょい、とフィアを抱き上げた。あまりに迷いなく唐突な彼の行動に、フィアは蒼い目を見開く。
「なっ?! 何をする?!」
下せ! と叫び、フィアは必死で暴れる。が、シルヴァの華奢な体格の割には力が強く、手枷や足枷があることもあって、フィアはシルヴァから逃げることは出来なかった。シルヴァはしっかりとフィアを抱いたまま、苦笑する。
「暴れるなって。その手足で歩かせたら日が暮れる。君にとって最後の三日のうちの一日を処刑台まで歩くことで終わりにしたくないだろ?」
処刑台、という言い方にフィアはびくりと体を震わせた。怯むまい、恐れるまいと思いはすれど、あの十字架が自分を苦しめるためのものであると自覚してしまえば、流石に恐ろしくもなる。フィアがおとなしくなったのを確認するとシルヴァは歩き出す。
フィアは反撃を諦めた。こうして敵に抱きあげられるのは二度目。そんな屈辱的な状況だが、命を落とせば仲間を待つことすらできなくなってしまう。殺されないだけ、マシだ。そう自分自身に言い聞かせながら、彼はきつく唇を噛み締めたのだった。
***
十字架の前に辿り着くと、シルヴァはフィアをその場に座らせた。
その際、彼の白い指にはまる指輪に、ふと視線が止まった。涙水晶という石がはまっているのだということに気付いた時、フィアは首を傾げた。
涙水晶は希少価値の高い魔術石の一種だ。身につけていることで、その人物が最も得意とする魔術の魔力を最大限に引き出すものだと、魔術石の加工にも精通しているアルから聞いたことがある。しかし、涙水晶は悪魔族の魔力と相性が良くないと聞いた記憶があるのだけれど……一体どういう、ことだろう? 彼は、悪魔属性の者ではないのだろうか?
フィアがそんなことを考えていた、その時。
「えぇ?! シルヴァ、わざわざ此奴抱いてきてやったわけ?!」
不意にそんな声が響いた。フィアはその声の方へ、視線を向ける。
フィアの前に立っていたのはロシャよりもなお幼く見えるの少年だった。嫌悪感をむき出しにしてその少年は言う。
「穢らわしい。天使なんか、無理矢理にでも歩かせれば良いんだよ」
くりくりとした黒の瞳を歪めながら、吐き捨てるように少年は言う。そんな彼の言葉に苦笑して、シルヴァは言った。
「まぁ、そういうわけにもいかないでしょう? 俺たちの主人の命令なんだしさ」
シルヴァが少年を宥めるように言うが、少年は呆れたように溜息を吐くと、フィアの鎖を蹴っ飛ばした。
「こんな奴、捕らえる前に殺しちゃえば良かったんだよ。わざわざ僕らの住処にまで連れてきてから契約を実行する必要、あったの? 体だけでもあれば、十分だったんじゃない?」
ねぇ、そう思うでしょ? そう言いながら、少年は周囲にいる仲間の方へ、視線を向けた。その少年やシルヴァを含め、影猫のメンバーは四人。恐らく……否、絶対に、此処にいる全ての人物が悪魔の魔力を持っている。フィアは警戒を色濃く瞳に灯し、彼らの様子を注視していた。
「それくらいにしておけ。ブランシュ。将来の仲間に嫌われていたのでは居心地が悪くなるぞ」
低い声が響く。ゆっくりと歩み寄ってくる気配。その人物を見てフィアは体を固くした。
歩いてきたのはノアール。フィアを撃ち、シストを斬った張本人。そんな彼を見て表情を険しくする。そんな彼を見て、ノアールは漆黒の瞳を細め、緩く口角を上げた。
ノアールの言葉に、ブランシュと呼ばれた少年の表情が一転した。先程までの生意気な表情は何処へやら。
「はーい! ノア兄様!」
少年……ブランシュは返事をする。まるで飼い犬のように従順に笑顔を浮かべて、ノアールはフィアの前にまで歩くとフィアを見下ろして、嗤った。
「良い気分だろう? 宿敵に見下されるのは」
どうだ、と言って笑うノアールを、フィアは無言で睨みつける。ノアールはそれを見ると小さく鼻を鳴らして、彼から視線を外した。そして、そこに集まっている仲間であろう少年たちを見て、言う。
「今から此奴を悪魔に作り替える”契約”の準備をする」
「悪魔に……?!」
フィアは大きく目を見開き、動揺の声をあげる。ノアールは喉の奥で笑い、言った。
「ロシャから聞いていなかったのか。お前はこれから三日後、我が主の魔術により、天使から悪魔に変わるのだ。”天使の力を持った悪魔”にな。そして、我が仲間となる。そして共に、イリュジアを支配する」
ノアールはそう言って、漆黒の瞳を猫のように細める。フィアはそれを見つめ、強く拳を握った。
「それが貴様らの目的か」
フィアが叫ぶ。揺らぐサファイアの瞳を見据え、ノアールは緩く頷いた。
「ロシャの予言によると、天使を悪魔に作り替えることで我らの目的は達成されるという。だから貴様に目をつけた。貴様は天使の中でも優秀だと我が主が仰っていたからな」
そう言った彼は、ふっと息を吐く。
「無駄話はこの辺りにしておこう。間に合わなくなっては、面倒だ」
ノアールがそう言うのと、同時。腕に嵌められていた枷が壊れた。しかし次の瞬間には両脇から腕を強く、掴まれる。彼の腕を掴んでいるのは、二人の少年だ。片方は小柄な長髪の少年、もう一人は幾らかしっかりした体格の少年だが、その見た目にはそぐわないほど、強い力で腕を引っ張られる。
「離せ……ッ!」
フィアはそう声をあげて、もがこうとする。無駄な抵抗であることはわかり切っていたが、されるがままになることは、プライドが許さない。
そんな彼の反応を見て、フィアの腕を掴んでいた短髪の少年が眉を寄せる。小さく舌打ちをして、唸るように言った。
「あんまり暴れるんじゃねぇよ。わざわざ手袋付けてやってんだから」
彼の言葉通り、影猫の面々は皆、手袋をはめている。恐らく、フィアに自分が持つ悪魔の魔力が干渉しないようにするため、なのだろう。気遣いと言えばそうなのだろうが……だからといって大人しくする道理はない。フィアが少年を睨みつけると、一層不機嫌そうに眉を寄せた彼はもう一人の少年に言った。
「なぁ、ぺル。この生意気な天使、少し痛めつけたら駄目か?」
うんざりしたように言う彼を見て、長髪の少年はふるふると首を振った。
「シャム、会話は要らない。……それに、主人の命令、あまり此奴に傷をつけないこと。守らないと……」
何処か眠たげな声の少年にそう言われ、シャムと呼ばれた短髪の少年は空いた手でガシガシと頭を掻き、唸った。
「ち……っ面倒くせぇな」
吐き捨てるようにそう言った彼は、ぐいとフィアの腕を引いた。そして凄むような声音で言う。
「おら、おとなしくしろよ。俺が我慢していられる間に」
「……余計な労力使わせないで」
ペルと呼ばれた長髪の少年も、感情の籠らない声で言う。その様子をノアールとブランシュが、何処か楽しむように見つめていた。
暴れ、もがくフィアに構うことなく、彼らはフィアの体を十字架に縛りつけた。その姿を見て、ブランシュが黒い目を細めながら、言う。
「ほー、いい眺めだね」
ブランシュはそう言って、にやりと笑う。子供らしからぬ残忍な笑み。フィアと口をきくことすら穢らわしいと思っているようで直接言葉を投げてくることはないが、フィアの今の状態を楽しんで見ているようだった。
と、ブランシュが何かに気が付いたような顔をした。そして、怪訝そうに首を傾げながら、シルヴァに声をかける。
「シルヴァ、何でそんな顔してんの? 全然楽しそうじゃないね」
ブランシュの指摘通り、フィアを見つめるシルヴァは何故か、複雑そうな顔をしていたのだ。元より面白がる様子はなかったのだが、今の彼はまるで、フィアのことを案じているような……?
シルヴァはブランに声をかけられるとはっとしたように手を振った。そして、笑みを浮かべながら、言う。
「何でもないですよ。ただ、ロシャさんが一番これを楽しみにしてたのに、居ないなぁ、と思って……」
シルヴァの言葉を聞いて、ノアールはそう言えば、と呟く。辺りに視線を巡らせた彼は怪訝そうに眉を寄せ、問うた。
「ロシャは何処に行った?」
そんなノアールの問いかけに、シルヴァは軽く肩を竦める。そして苦笑まじりに、事情を説明した。
「この天使の顔が見たくないとかっていって、出ていってしまいましたよ」
ノアールはそんな彼の説明に大きく目を見開く。それから、軽く額に手を当てて唸った。
「……手のかかる奴だ。まぁ、良い。ロシャなしで始めよう」
ノアールはそう言うとフィアを磔にした十字架の前に立つ。自分を睨みつけるフィアに頓着することなく、一つ息を吸うと、朗々とした声で詠唱を始めた。
「我、忠誠を誓う者なり。我に力を。堕天使ルシファー様の名の下に、目の前の憎き敵の血を浄化し、主の支配下とする血の誓いを……」
ノアールが呪文を唱えると、フィアの足元の黒い魔法陣が光り始めた。渦を巻くように、魔力が迸る。
「う、あぁあ……ッ」
それと同時にフィアは凄まじい痛みを感じ、悲鳴を上げた。痛みなんて生易しいものではない。その痛みで、気を失おうにも失えない。フィアの端正な顔が歪む。揺らぐ意識を必死に繋ぎ止めようとするフィアを見て、ノアールは満足げに息を吐いた。
「この魔術は一度に多くの悪魔の魔力が流れる。いきなり”契約”を実行すると貴様の体が耐えられない可能性があるからと、少しずつ、こうやって悪魔の魔力に慣らしておけばいいと我が主が仰せだ。貴様には、三日間、此処に居てもらう」
この十字架は、フィアを繋ぎ、悪魔に作り変えるための機関。三日の猶予の間この場所で、じわじわと、悪魔の魔力を流し込むのだと、ノアールは冷淡な声でそう言った。そして視線を周囲でその様を見つめていた部下たちに、言う。
「今日の所は解散だ。騎士団の奴らとの取引の条件上、ディアロ城周辺には魔獣を送り込むな。それ以外は好きにして構わん」
「え、でも……」
シャムが、ふと声をあげる。何処と無く不安げな表情をして見つめてくるシャムに、ノアールは首を傾げる。すると、彼と一緒にいたぺルも頷いて、口を開いた。
「見張りは、居た方が、良い。此奴、天使だから、逃げられるかもしれない」
彼らが危惧したのは、フィアの逃亡。十字架に磔にしているとはいえ、相手は天使だ。人間ならばいざ知らず、強い力を持つ天使ならば、どうにかして逃げるかもしれない。そうなれば此方が一度に不利になるだろう。そう彼らは指摘する。
しかし、ノアールは迷いなく首を振り、言った。
「見張りの必要はない。此奴は自力では動けまい。貴様ら操り人形と違って、此奴は純粋な天使の血を引く人間だ。俺たちの魔力には弱い。俺や主の言うことが信じられないというのならば、此処で見張っていれば良いが、時間の無駄だろう」
鼻を鳴らして、ノアールはそう言う。それを聞いて目をきらきらと輝かせながら、ブランシュが何度も頷いた。
「じゃあ、必要ないですね! ノア兄様のいうことは絶対ですから」
ブランシュがにこりと笑ってノアールに甘えるようにすり寄った。ノアールはそれを引き剥がして、溜息を吐く。
「ブランシュ、仕事の邪魔だ。くっつくな」
「えー? というか、ノア兄様はいつになったら憶えてくれるんですか? ブランシュって呼ぶのやめにしてくださいよ。ブランって呼んでください」
頬を膨らませながら、ブランシュは言う。先刻までの残忍さ、冷酷さは欠片ほども感じられない、年相応の、子供らしい表情で。ノアールは呆れたようにひらひらと手を振り、彼に言う。
「わかったわかった。じゃあブラン。邪魔だ。離れていろ」
「はーい」
ブランシュは素直にノアールから離れ、一緒に歩き出す。影猫のメンバーたちはそのまま連れ立って、フィアを磔にした十字架から離れていった。魔法陣から十字架を通じて流れ込む魔力に耐えながら、フィアは遠ざかる敵の姿を見つめる。
最後まで十字架の前にいたのは、新入りだというシルヴァだった。その口が、小さく言葉を紡ぐのが見えた気がした。
***
―― しんと静まり返った、城の会議室の中。
ルカは通信機を手に、誰かと会話をしていた。その表情は、酷く険しいもの。一つ溜息を吐き出した彼は、通信機の向こうの人間に、低い声で言った。
「……そうか。なら、少し急いだ方が良いな。わかった。お前も気をつけろよ」
ルカは手に持った通信機をきつく握りしめる。通信が切れた後、小さく机を殴り、毒づいた。
「くそ……彼奴ら、殺しはしないと言っただけで、痛めつけないとは言ってなかったな……誤算だった」
ぐしゃ、と自分の髪を掻き揚げて、呟くルカ。そんな彼の表情を見て、アルが心配そうに問いかける。
「何かあったんですか?」
「彼奴ら、フィアを悪魔に作り変えようとしてるんだとさ」
吐き捨てるように、ルカは言う。悔し気に、拳を握りしめながら。
「悪魔に?」
アルは驚いたように目を見開く。ルカは額に手を当てて、俯いた。ルカの悔いるような、焦るようなその表情に、アルも不安げな顔をする。悪魔に作り変える、という言葉が今一つピンと来ないが、恐ろしいことが起きようとしているということは、否が応でも理解出来てしまった。
「今、悪魔の使う魔術、血の契約を発動させているらしい」
「ブラッディ……?」
アルはその魔術を聞いたことがなく、首を傾げた。
「血の契約……それは禁断の魔術です。ある生き物を別の生き物に作り変えるための魔術」
静かな声が響いた。難しい顔をした緑髪の青年が、そっと溜息を吐く。
「あ、ジェイド様……」
アルがその名を呼ぶと、彼……ジェイドはアルに微笑みかけてから、すっと真剣な顔をして、言った。
「強力な魔術です。それも……魔力の波長が違うモノを作り変えれば、その副作用で死んでしまうこともあるような、危険な魔術。それを使って彼らはフィアを悪魔にしようとしているのです」
そうですよね、とジェイドがルカに問えば、彼は眉を寄せ、頷く。
「そんな……」
アルの黄色の瞳が、涙に潤む。大切な、かけがえのない親友が命を落とすかもしれない。その想像だけで、酷く胸が痛い。ルカはそんな彼の頭を少し乱暴に撫でると、笑った。
「馬鹿。そんな顔しなくて良い。大丈夫だ、絶対に俺たちが助ける。そうだろ?」
そう言って、彼は明るく笑う。周囲を、そして自身をも奮い立たせるように、力強く。その言葉を聞いて、アルはごしごしと涙を拭い、頷いた。
「はい……ッ」
絶対に、助ける。フィアを殺させたりしない。そうしないために、今各々が、精一杯に動いているということを、アルもよく知っている。仲間を、信じよう。そう思いながら、精一杯ルカに笑いかける。
ルカはそんな彼の頭をもう一度撫でると、ルカはドアの近くの壁に寄りかかっている人物に声をかけた。
「……シスト。準備は出来てるか?」
声をかけられた紫髪の少年……シストはにっと、笑った。
「あぁ。俺はいつでも行けるぜ?」
借りを返さないとな、と言って彼は剣に手をかける。それを一瞥したジェイドはそっと溜息を吐き出して、言う。
「怪我人なんですから、無茶はいけませんよ。わかってますね?」
「はい」
念を押すようにそういうジェイドを見て、シストは苦笑まじりに頷いた。彼が心配する理由はわかるし、いつものように自分の実力全てを発揮することは難しいかもしれない。それでも、自分の大切な仲間を助け出す作戦には、精一杯貢献したいと考えていた。
それを合図に、ルカは自分の通信機を使って、各地に散っている仲間たちに告げた。
「計画変更! これから作戦を実行に移す!」




