第三十七章 軋む歯車
「ん……」
朝が来た。いつも通りの、穏やかな朝。外では小鳥が囀り、朝陽が燦燦と降り注いでいる。
「……眠って、いたのか」
結局、あの後も暫くルカの涙の理由を考えていたフィアだが、答えは見つからず、いつしか、眠りについていたらしい。ほ、と一つ息を吐き出したフィアは、体を起こした。
「……直接、本人に会いに行くことにするか」
気になって、心配で、仕方なかったのだ。昨夜のルカの様子が。普段決して自分に弱った姿を見せないルカが泣いていた。弱弱しい声だった。そんな様子のルカをあまり見たことないだけに、不安だったのである。
***
駆け足でルカの部屋に辿り着いて、ドアをノックした……が。
「あれ」
返事がない。
「ルカ?」
いつもならばまだ部屋にいる時間なのに、と思いフィアはもう一度従兄の名を呼んだ。
「何かあったんじゃ……」
昨日の、今日だ。何か、あったのかもしれない。微かによぎる不安に、フィアは表情を強張らせる。
もう一度、ルカの名を呼ぼうとした……と、そのとき。
「何か用か?」
聞きなれた声と同時に不意に後ろから肩を叩かれ、フィアは驚いて振り向いた。
そこにいたのは無論、ルカ。何をしていたのか、汗をかいている。きょとんとして首を傾げているルカを見て、フィアは少し動揺した声で問うた。
「ど、何処に行っていたんだ? こんな、時間に」
「ん? 剣術の訓練だよ」
そういって、ルカは軽く自身の腰元の剣を叩いた。そして、小さく首を傾げて、逆に問いかける。
「そういうフィアは何でこんな所に居るんだ? いつもなら必要がない限り絶対に俺の部屋には来ないだろ?」
どういう風の吹き回しだ、と言いながら、にっとルカが笑う。
いつも通りの、表情だ。寧ろ、昨日のが本当に夢だったのではないかと思う程、いつも通りな笑みに、フィアは安心すると同時に、少し困惑する。
―― 忘れろ、ということだろうか。
腑に落ちない。納得いかない。それでもルカが何でもないというのなら、もうこれ以上、深く追求することはしない方がいい。フィアはそう思うことにした。そして、小さく咳払いをすると、”建前”を口にする。
「昨日の夜、面倒かけたみたいだから一応謝りに。それと、ずっと気になってたんだが俺は酔うと一体どうなるんだ?」
それも、実際気になっていた所ではあるのだ。フィアがそう問えば、ルカは小さく笑った。そして、軽く肩を竦めながら言う。
「んー? 昨日は大して飲んでないから大したことしてねぇよ。大丈夫」
気にするな、といってルカは笑う。その問いにも返答するつもりはないらしい。フィアはそう思うと、小さく溜息を吐き出して、言った。
「……とりあえず、もう二度と酒は飲まない」
そんな彼の言葉にくつくつと笑いながら、そうしてくれ、と笑うルカ。人懐こく笑う紅の瞳に影は見えない。きっと、此処から何かを追及しようとしたところで、彼は一切、答えるつもりがないのだろう。
「じゃあ、それだけだから。俺は、食堂に行くよ」
そう言って、フィアはルカと別れた。じゃあな、と見送るいつも通りの彼の声を聞きながら、フィアは思う。
―― ルカが話す気になるまで……
ただ自分は、待っていよう。そう決めて、フィアは歩いていったのだった。
***
「あれ、アネット」
食堂に向かう途中、フィアはアネットにあった。まだ朝早いのにもう任務に行くらしく、きっちりと剣を携えている。アネットはフィアの姿を見ると、一瞬驚いた顔をして、すぐに悪戯っぽく笑った。
「お、フィアじゃん。昨日は早々に潰れたんだってな。シストに聞いたぜ?」
揶揄うように、アネットは言う。フィアは眉を寄せ、あの馬鹿パートナー、と小さく舌打ちをした。口止めをする暇もなかったし無様を晒したのは自分なのだからパートナー……基シストに落ち度はないのだが。
「……余計なことを。まぁ、いい。アネットは今から任務なのか?」
羞恥に頬を赤く染めつつフィアが訊ねると、アネットはすっと真剣な顔をして、頷いた。そして、何処か緊張感のある声で言った。
「昨日魔獣が少ないって話をしたばっかりなのに、いきなり大量発生したんだよ。……多分、お前らもすぐに任務だと思う」
覚悟しとけよ、というアネット。その赤い瞳を見つめ返し、フィアは力強く頷いた。
「わかった。気をつけて」
フィアがそう言うと、アネットは少し嬉しそうに笑った。
「おう」
コンッと拳をぶつけ合い、アネットは任務に向かって行った。その後ろ姿は、とても頼もしい。それを見送って、フィアはサファイアの瞳を細めた。
「本当に、仕事の時と普段のギャップがすごいな、アネットは」
小さく呟く。
アネットの普段と任務時の変貌振りは、誰もが認めるものだった。普段の彼は魔獣を憎んでいる、という風でもないのに、戦闘が始まると誰かが止めないと、魔獣の血に汚れようとも魔獣を切りつけ続けるらしい。彼があそこまで躍起になって魔獣を狩るのにも理由があるのだろうな、とフィアは思っていた。他人に隠し事などそうしないアネットが進んで語らない辺り、進んで話したい内容ではないのだろうと、フィアから聞くことはしていないけれど。
―― それにしても。
ふと、思考を切り替える。実際、この時期に魔獣が大量発生というのは珍しい。夏場には暑さに弱い魔獣が動かなくなる分、仕事も減る。しかし、今年は様子が違うらしかった。
アネットが草鹿の騎士を連れて行かなかったところを見ると、相手の魔獣は大したものではないらしい。数が多いだけなら炎豹の騎士単独で任務に向かうのだ。それならば、そこまで心配することもないか、とフィアは自分なりに結論を出した。
「フィア」
と、その時。ぱたぱた、とアルが走ってきた。そのまま、いつものようにフィアの方へ飛びついてくる。フィアに抱き留められ、アルはじっとそんな彼を見上げる。じぃっと自分を見つめてくるアルを見て、フィアは首を傾げ、問うた。
「どうした?」
アルがこうして自分に飛びついてくるのは珍しいことではないのだが、こうして自分を見つめてくるのは珍しい。一体どうするのか、と問うてもアルは暫し彼を見つめていたが、やがてこてりと首を傾げた。
「……大丈夫?」
「何がだ?」
アルがフィアを見つめているのは、昨夜の彼の様子を覚えているからだ。無論、フィアにはその記憶がないため、こうして見つめられる理由が思いつかず、困惑した表情でアルを見つめ返した。
アルは暫しそんな彼を見つめていたが、やがてにこっと笑って、言った。
「……うん。いつものフィアだ」
良かった、といって笑うアル。そんな彼の様子を見るフィアの頭の上には疑問符がいくつも浮かんでいる。
「一体何をしたんだ、俺は」
思わずそうぼやくが、幾ら悩んでも答えが見つかる筈もない。フィアは諦めて曖昧に笑ったのだった。
「あ、そうだ。シストさんが呼んでたよ。任務だって」
一頻り笑った後、ふと思いついたように、アルは言う。朝早いのに大変だねえ、というアル。フィアはそれを聞いて、やはりかと溜息を吐きだした。アネットの警告通りだな、と。
「アネットも仕事だといっていた。今年は、妙な年だな」
こんな時期に魔獣が大量発生するなんて。そう呟くフィアを見て、アルも頷く。
「ジェイド様に、僕らもいつでも出動出来るように支度しておきなさいって言われてるよ。……危ない魔獣でも出るのかなぁ?」
ほんの少し不安げに、アルは呟く。フィアはそんな彼を安心させようとするかのように一度撫でて、パートナーが待っているという食堂に向かったのだった。
***
「やっと来たか。昨日は勝手に消えやがって……」
食堂に到着し、シストと合流すると同時にフィアは額を小突かれた。彼は大袈裟に溜息を吐いて、腰に手を当てている。びしりとあまりに良い音がしたものだから、一緒に食堂に来たアルが驚いたほどだ。
「すまない……」
飲酒も自分の所為ではないのだが、それは言い訳だろう。シストに心配をかけたのも事実だし、とフィアは彼に詫びる。シストは暫し眉を寄せていたが、すぐに笑った。そしてもう一度彼の額を小突き、言う。
「まぁ、良いんだけどな。もう大丈夫なのか? 昨日随分ぐったりしてたけど」
心配したのは、事実。フィアはかなり酒に弱いようだったし、体調を崩してはいないかと気にしてもいた。そんなシストの問いかけにしっかりと頷いて、フィアは応じる。
「あぁ。一晩寝れば治る。というか、そんなに大量に飲んだわけでもないしな」
問題ないよ、とフィアがいうとシストはほっとしたような顔をした。フィアはそんな彼を見て、少し冗談めかした声音で言う。
「シストは大丈夫か? 二日酔いとか勘弁してくれよ」
そう言ってフィアが眉を吊り上げれば、シストは軽く手を振って、応じる。
「俺、酔わない体質だから大丈夫だ」
シストがにかっと笑うのを見て、未成年の癖にとフィアは苦笑した。聞こえないフリをして視線を逸らす辺り、シストも多少後ろめたく思ってはいるようだが、飲酒の習慣を改めるつもりはないらしい。尤も、厳重な罰はないから自己責任、ではあるのだけれど。
「あぁ、ふざけている時間はないか」
フィアはちらりと時計を見て、テーブルの上のパンを一つ咥える。
「任務だろう? 行くぞ」
「は? お前飯まだじゃねえの?」
驚いた顔をするシスト。まだ朝食をとっていないだろうと思ったから此処で待っていたのだが、と彼が言うのを聞いてフィアは軽く首を振る。
「これでいい」
フィアはパンを指差し、少しずつ齧りながら、剣を腰のベルトに挿し直している。そんな彼の様子を見て、シストは苦笑まじりに言った。
「お前にしては珍しく作法がなってないな。飯くらい落ち着いて食えよ」
行儀が悪いぞ、というシストの指摘には少しきまり悪そうな顔をしながら、フィアは言った。
「抵抗はあるさ。作法的にいえば劣悪だしな。でも、こんな異常事態の原因を早く知りたい。こんな風に魔獣が出るのは奇妙すぎる。任務に行けば何かわかるかもしれないだろう」
行儀の悪さはわかっているし、任務の特質柄朝食はきちんととった方が良いだろう。しかし、一刻も早く魔獣の大量発生の謎を突き止めたいという想いの方が強いのだ。任務に行けばその原因が掴めるかもしれない。ならば、のんびり朝食をとっている時間が勿体ない、とフィアは言う。
「……まぁ、そうだな。確かに何か、変だ」
溜息をついてからシストも真顔で頷いた。
「そんなに、おかしなことなのですか?」
ジェイド様も緊張した表情だった、とアルは言う。しかし普段は非戦闘員である彼からすれば、どうして此処まで警戒しているのか、今一つピンと来ないのだろう。
「魔獣の発生率と気候にはある程度連動性があるからな。この暑い時期にやたらと魔獣が出ることはあまりない。それなのに、朝早くから炎豹が任務に駆り出されている状況というのは、異常だろう」
何事もなければ良いのだが、とフィアは呟く。そんな彼の説明にアルが頷いたところで、フィアはシストに訊ねた。
「で、討伐対象は?」
「チエル・ラビットだって。数が多いらしいから苦労するかもなぁ」
シストはそう言って、溜息を吐きだす。敵の名を聞いて、フィアも顔を顰めた。
チエル・ラビットはその名の通り、ウサギ型の魔獣。しかし通常のウサギのように可愛らしいものではなく、肉食の危険なウサギだ。獰猛で、人間を襲うこともしばしばある。今までも何度かその討伐指令は出たのだが、今回の任務にはやはり、奇妙な点があった。
「でも、チエル・ラビットは単独行動をする生物だろう? 何故群れなんか……」
フィアの呟きにシストは肩を竦める。
「さぁ、それも異常の一つだな。任務に行きゃあ多少なりとも原因はわかるだろ」
此処で考え込んでいても何もわかるまい。予想外のこと、わからないことは幾らでも存在するのだから。
「まぁ、そうだな」
フィアは頷くと水でパンを流し込んで、アルの方を見る。
「じゃあ、いってくる」
そう言いながら、いつもしているように、ぽんぽんとアルの頭を撫でてやった。それを受けて、アルはいつもの様ににこっと笑って頷く。
「いってらっしゃい。気をつけてね?」
「あぁ」
フィアとシストは食堂を出て行き、アル一人が食堂に残った。
「僕もごはん食べようっと……」
ぱらぱらと集まる騎士たちの話し声。明るい笑い声。食堂に吹き込む、柔らかな風。いつも通りの毎日が再開されたように見えた。
―― しかし、すでに歯車は回り始めていた。
***
食事を終えて、着替えた後アルはもう一度食堂に戻っていた。これから仕事だし、少し水を飲んでおいたほうがいいか、と思ったのである。
仕事と言っても、戦闘任務ではない。いつも通りの、薬の調合の仕事だ。ただ、もうあまり薬草が残っていない。摘みに行かなければならなくなった場合、喉が渇いた状態では辛い。そう思って、水を飲みに来たのだった。
グラスに水を入れ、席に着く。今日は任務に出ている騎士が多く、食堂にいる人間は少なかった。アルは足をぶらつかせながらその様子を観察していると、思う。
―― やっぱり、何かが変なのかなぁ。
此処まで人がいないと、不安にさえなってくる。きっと、彼と同じように城に残っている騎士たちも同じように不安を感じているのだろう。時折聞こえるひそひそとした声は、一層不安を煽るものだった。
フィアやシストが早く帰ってこないか、と思いながら椅子に座っていた、その時。
「わ?!」
不意に強く肩を掴まれて、アルは驚いた声をあげた。ふり向いてみてみれば、アルの肩を掴んでいるのは、黄色の髪、琥珀の瞳の統率官、アンバーで。
「アル君ッ! ねぇ、フィア君とシスト君は?!」
いつになく、大きな声で問われる。いつも穏やかな光を湛えている琥珀色の瞳に色濃く滲むのは焦り。アルは普段聞くことのないアンバーの大きな声に驚いてびくり、と身体を震わせた。
「え? あ、アンバー様、どうしたんですか一体……」
困惑気味にアンバーを見つめ返す。しかし困惑するアルを気遣う余裕もないのか、アンバーは矢継ぎ早に質問を重ねた。
「いいからっ! 何処行ったの?!」
「あ、あの、二人とも、任務だって……魔獣が大量発生して、それで……」
さっぱり状況がつかめないアルはしどろもどろになりながら、答えた。それを聞いたアンバーは顔を覆って、小さく呻く。只事でない雰囲気に少し緊張しながら、アルは訊ねた。
「何か、あったんですか?」
彼の剣幕を見るに、きっととんでもないことが起きている。動揺が嫌という程に伝わってくるのだ。恐る恐る問うアルの声に、アンバーは、はっとした後、これでは駄目だというように首を振った。
「説明してる時間ないんだ。二人が……」
その後の言葉は紡がず、一瞬俯くアンバー。しかしすぐに顔を上げたかと思うと、強く、アルの手を握った。驚き目を見開くアルを見つめ、真剣な顔をして、言う。
「アル君も一緒に来て。君の力が必要になるかもしれない」
全く状況が掴めない。今説明するつもりは、アンバーにないらしい。しかし、それでも大変なことが起きているということが伝わってくる。それに、自分の力が必要になるかもしれない、という。それならば。
「僕で、力になれるのならば、一緒に行かせてください」
真剣な瞳で、アンバーを見つめ、アルは頷く。それを見て、アンバーはやっといつものように表情を綻ばせた。
「君が傍にいれば、助かるよ。事情は、移動しながら、説明する」
「はい」
アルは表情を引き締め、頷く。
何が起きているかはわからない。実際に自分が役に立つかもわからない。それでも、大切な友人……フィアやシストに何か危険が迫っているのなら、自分が、守って見せる。そんな思いで。
「行くよ、アル君。しっかり僕の手を掴んでいてね」
そう言ったアンバーはアルの手を取り、空間移動の魔法を発動させる。
―― こんなに早く始まるなんて、思ってなかった。嗚呼、どうか間に合って。
心の中で、そう考えながら……




