第三十四章 月夜の絆
「フィア、大丈夫?」
アルが心配そうにフィアに声をかける。フィアは机に突っ伏したままこくり、と頷いた。大丈夫だ、と言いたいらしいが、彼の口から紡がれるのは言葉にならない声である。挙句、顔を上げないのでは、全く説得力がない。
「何処が大丈夫だよ……」
シストはそんなフィアを見て苦笑すると、水をもらってくる、といって、席を立った。
「フィア?」
アルはフィアの頭を撫でながら、溜息を吐いた。頭を撫でても背中を擦っても、反応がない。相当参ってしまっているようだ。
「やっぱりジェイド様を呼んできた方がいいかなぁ」
今すぐ吐きそうだとか意識がないだとか、異常事態というほどのことは起きていないが、フィアが此処までぐったりするのはやはり異常である。薬を飲ませてどうにかなる問題ではないと思うが、容体が急変する可能性もなくはないし念のためジェイドに診てもらった方が良いのかもしれない。アルはそんなことを考えながら、もう一度フィアの頭を撫でてから、声をかけた。
「フィア、僕やっぱりジェイド様を呼んでくるよ」
少し待っててね、と言い残してテーブルを離れようとしたアルだったが、それはできなかった。ぱしり、と細い手で腕をつかまれ、引き留められたからだ。
「え……?」
アルは目を見開いた。アルの手を掴んでいるのは、紛れもなく、フィアで。普段の彼ならば、絶対にこんな……まるで、甘えるような、縋るようなことはしない。
「いいよ……行かないで」
いつもよりも若干上ずった声でフィアが言う。アルは戸惑った。行かないで、と言われても、このまま放っておいても辛そうだし、何よりフィアがそんなことを言ったことに驚いて。
アルが反応できずにいると、フィアは悲しげに眉を下げた。
「……”私”を、ひとりにするのか……?」
涙で潤んだサファイアの瞳がアルの目を捉える。普段と明らかに違うその視線と言動で、アルはフィアが酒を飲んではいけないと言われていた理由がわかった気がした。
―― フィアが、いつもより女の子っぽい。
いつものフィアならば、任務以外で”私”という一人称を使ったりしない。従兄であるルカに対しても、本当の性別を知っているアルに対しても。
「もしかして……」
フィアの反応を見て、アルは一つの仮定を導き出した。もし、それが真実だとしたら、ルカがフィアに酒を飲まないように言いつけた理由もわかる。実際、こんなフィアの姿を他の騎士に見られるわけにはいかない。今は一人称だけだが、そのうち、ボロを出してしまうかもしれない。一緒にいたのが自分でよかった、とアルは安堵した。
「此処にいたのがシストさんだったら、洒落にならなかったよねぇ……」
アルは一つ息を吐いてそう呟く。アルはフィアの秘密、基本当の性別を知っているため然して驚きもせず(否、別の意味で驚いてはいるが)対処出来ているが、シストだったらきっと困惑しただろうし、場合によってはフィアの秘密が露見してしまっていたことだろう。そうならなかったことは幸運、と考えるべきだ。
とはいえ、フィアをこのまま此処に置いておく訳にもいかない。かといって、部屋に連れて帰った後に誰かが探しに来たりするのも困る。どうしたものか、とアルは暫し悩んで……
「そうだ。フィア、ちょっと来て」
何か思いついた顔をして、アルはフィアの手を引いて、立ち上がった。つられたように立ちあがったフィアはきょとんとして瞬く。
「大丈夫、僕に任せて」
そう言って微笑んだアルはフィアの手を取って走り出した。フィアは困惑気味に手をひかれるままに走っていく。
***
アルがフィアを連れ出した先は、中庭だった。綺麗な満月が夜空で輝いている。フィアは突然のアルの行動に驚いているらしく、何度も瞬きをした。きょろ、とあたりを見渡して、不思議そうに問いかける。
「なんで外に?」
当人は酔っぱらっている自覚も、自分の秘密が露見しかねない行動、言動をとっている自覚もないのだろう。ゆっくり室内に居たいのに、と言いたげな顔をしている。
「いいから。暫く外にいよう? ね?」
アルはきょとんとしているフィアを必死に説得した。そして、そのまま彼に促して、一緒に中庭にある大きな木に上る。ともすれば落っこちそうな彼を魔術でサポートしながら、一緒に枝に腰かけた。
―― 宴会に夢中だから此処には誰も来ないよね。
そう思いながら辺りを見渡し、一息吐くと、アルは隣に座ったフィアを見た。
フィアは月を見上げていた。見た目はいつも通りのフィアのはずなのに、アルには一瞬、長い髪の少女が見えた気がした。昔の……”女の子であった頃の”フィアの姿が。アルはその姿を、写真でしか見たことがないというのに。
「綺麗だね、アル」
ふっと笑って、フィアが言う。優しい、穏やかな声で。
「そうだね」
月を見上げるフィアの横顔は儚くて、アルはそれに暫く見惚れていた。
昔から、天使の子と呼ばれていただけあって、フィアの顔立ちは整っている。騎士としての凛々しい姿は男女共に人気があることを、アルも知っていた。しかし今のフィアは、それとは少し違う魅力を湛えているように見えた。
穏やかで、静かで、美しい。ともすれば消えてしまいそうなほどの儚さ。月明かりの下で緩く微笑む彼は、まるで精霊か何かのようにも見えて……
「……アル、憶えてる?」
ふと、声をかけられて、アルは我に返った。
「何を?」
いつものような、憶えているか、という、男らしい言葉でなく、少女のような口調で問いかけるフィアに少し緊張しつつ、アルは訊ね返す。フィアはぽそり、と言葉を紡いだ。
「ノト時代に、こうやって二人で月を見たことを」
そんなフィアの言葉に、アルは大きく目を見開く。
「憶えてたの?」
アルは驚いた声音で、そう言った。フィアが憶えているとは思っていなかったのだ。”あの日”のことを。そんなアルの態度に、フィアは、失礼だな、と言って、笑った。
「憶えてるよ。あの時にも言ったよね。アルとの思い出は、何一つ忘れない。今までも、これからも」
いつもの、男のように凛々しい声とは違う、優しく柔らかな少女の声で、フィアは言う。穏やかに、微笑みながら。
アルは親友の言葉を聞いて、思い出していた。以前、フィアと一緒に月を見た日の事を。鮮明に。
***
―― 今から七年前。
フィア達が騎士団に見習い騎士として入隊したばかりの頃。
「はぁぁ……」
当時十歳だったアルは一人、木の上に居た。運動が苦手なアルだったが、魔力を使って何とか上った、中庭の木の上。風が通り抜けるそこは、居心地が良い。誰か他の人間が来ることもない、穏やかな場所で、アルのお気に入りでもあった。
そんな場所に腰かけたまま、遠ざかっていく他の騎士たちの声を聞きながら、小さく溜息を吐き、呟いた。
「……僕、此処に来たのは間違いだったかなぁ……」
木の上では、誰にも声を聞かれることはない。そんな弱音をこぼしても咎める上官も、嘲る同期生も居ない。だからこそこぼせる、本音の呟きだった。
ちらりと目をやれば、小さな手に残る、剣を握った痕。それを見ていれば、先刻の訓練の様子が嫌でも思い出された。
人並み以下の握力の所為で、剣を満足に振るうことさえ出来ない。力任せに振るってしまえば、剣がすっぽ抜けて飛んでいってしまう。何度も何度も叱られて、練習してきたはずなのに、今日もうまくいかなかった。……いつになったら、強くなれるのだろう。アルはそう思いながら、何度も溜息を吐くのだ。
元々アルの家は魔術道具を作る小さな店で、そこそこ裕福な家だった。故に騎士になる必要があったわけではなかった。この国に兵役の義務はない。親の跡を継いで、職人になるという道もあった。
それでもアルが騎士になろうと思ったのは、誰かのために働きたい、誰かを守りたいと思ったからだった。いつか、大切な人ができた時、その人を守る力がほしい、と。
アルが住んでいた街にも、しばしば騎士がパトロールで来ていた。城にも近い平和な街だったため、物騒な事件も、魔獣の群れに襲われることも滅多になかった。街中を警備して回る騎士たちは、気さくに町の子供たちと話したり、大人たちと世間話をしたりしていた。
殊にアルは、町の騎士と仲が良かった。親しくなった騎士たちから、様々な話を聞いた。普段の任務のこと、城での暮らし、アルたちは遠目にしか見たことのない女王のお転婆なエピソード……それらを聞くのが楽しくて、また、それを話している騎士たちも楽しそうに見えていた。
そんなある日、アルは街の騎士が酷く落ち込んでいるのを見つけ、どうかしたのか、と声をかけた。その騎士は声をかけられて初めて気が付いたかのように驚いた顔をしてから、アルの頭を撫で、力なく笑った。一体どうしたのだろうと不思議そうな顔をしていたアルに、彼は語った。
『少し……任務で、色々あったんだ』
首を傾げたアルに、その騎士は遠い目をして、話した。いつも話してくれる幸せな、楽しい話ではない。悲しくて痛ましい、とある村の話を。
此処から少し離れた村が火竜に襲われたこと。大勢の人が死んだこと。大勢の子供が、アルたちとそう年も変わらない子供たちが死んだこと。大勢の大人が、子供を失ったこと。凄惨な現場。響く怒声と、泣き声と……
『……あ、すまない。アルには少し、怖かったかな』
いつの間にか話に夢中になっていたその騎士は自分が話している相手が子供だったことを思い出し、はっとした。そして、申し訳なさそうにアルの頭を撫でて詫びた。そんな騎士の様子を見て、アルは小さく首を振った。
アルはそっと目を閉じて、考えた。平和な自分たちの街と、竜に襲われたという村のこと。自分が今暮らしているこの街のように平和だったはずの村で起きたという悲劇。そこで救えなかった人たちを思い、落ち込んでいる、目の前の騎士のことを。
『少しでも多くの人を救いたい。そのために、俺たちは……だから』
守れなかった人のことを思うと、たまらなく悔しいのだと、その騎士は言った。
『俺が救助に入った家ではな、アルと同い年くらいの女の子が一人、棚の中に隠れていたよ。彼女のご両親は竜の炎で燃えた家で、亡くなっていた。あの時の、あの女の子の顔が、泣き声が……忘れられないんだ』
そう言いながら、悔しげに拳を震わせる騎士。その瞳には悲しみと無念の色が灯っていた。
アルや街の子供たちにとって、城の騎士は無敵の戦士だった。しかし、そんな彼でさえも、守りたいと願ったものを守れないことがあるという。ならば、力を持たない自分では、何一つ守ることなんて、できないのではないかと、アルは思ったのだ。
―― 僕も、強くなりたい。大切なものを、この手で守りたいから……
大切なものを自分の手で守る。そう決意したアルは十歳になるとディアロ城騎士団の入団試験を受けたのだった。剣術や体術に関しては落第点だったが、辛うじて得意の治癒魔術が認められ、試験はぎりぎり合格。しかし、合格したのは良いものの、毎日の訓練で剣術が苦手なアルはいつも苦労していた。
―― 下手糞!
同期生や先輩騎士に叱られることもしばしば。センスがない、やめてしまえと言われたこともあった。追いつこうと頑張っても空回りするばかりで……
「もう、やめちゃおうかなあ」
木に座ったままに、アルはぽつりと呟いた。俯いたその拍子に、手の甲に涙が一粒落ちる。
それまでにも訓練の厳しさに耐えきれず、退団する者もいた。しかし、そうしてしまうと、騎士になるための試験を受ける資格を剥奪される。つまり、二度と騎士になることはできなくなる。
―― 僕には、無理だったんだ。騎士なんて、憧れだけでなれるものじゃない……
大人しく両親の店を継ごうかなぁ、と自嘲気味に呟き、アルは苦笑した。それもそれで、道かもしれない。こんな自分が騎士団に居たところで仲間や先輩の迷惑にしかならないかもしれない。そんなことを考えて肩を落とした、その時。
「だーかーら、適当に斬りこんでも駄目だって!」
不意に、耳に声が入ってきた。今までぼんやりしていたために気がつかなかったが、ずっと下に人がいたようだ。呆れたような男性の声が響く。
「適当じゃ、ない!!」
それに答える、やや幼さの残る、高い声。アルは声がした方を見た。アルのお気に入りの木の上からは下の様子がよく見える。そこに立つ人物を見て、少し驚いたような顔をした。
「あれは、雪狼の、ルカ様と……」
見えたのは、交わる二つの剣。一人は背が高く、一人は低い。鋭い剣戟が、何度も響いた。
ノトのアルでも、雪狼のルカの事は知っていた。彼が剣術の名手であることも。そして、そのルカに斬りかかっているのは……
「確か、フィア君って名前、だったかな……」
自分と同期で入隊した少年、フィアだった。亜麻色の髪と蒼い瞳で人目を惹いていたな、とアルは思い出す。
―― そう言えば、ルカ様の従弟なんだっけ……
その所為であるはずのない噂を……ルカの権限で試験を免除されたとか……立てられていたことも知っていた。
そんな噂を歯牙にもかけず、フィアは直向きに訓練に臨んでいた。アルはそんな彼を、凄いと思っていた。
暫く剣をぶつけ合った後、ルカが溜息を吐いて剣を収めた。
「フィア、もう終わりにしようぜ。もう遅いし」
流石に俺も疲れたよとルカが言う。そんな彼の言葉にまだ若干不満そうにしつつ、フィアは頷いた。
「……次は負けないからな」
「おう」
また明日な、とフィアに言って歩き出すルカ。フィアも、部屋に戻るかと思われた。しかし予想に反して彼は反対方向に歩きだす。そう、アルのいる木の方に。そして、彼は木の下で立ち止まり、木を見上げた。
「ん……?」
何をするつもりだろう、とアルは不思議そうな顔をして木の下に立つフィアを見つめた。
何か、小さい声でフィアが呟いている。それにアルが気付いたその瞬間、木が大きく揺れた。当然、しがみつく余裕などなく、アルは木から落ちた。
「わぁぁっ?!」
「うわ?!」
どさり、と派手な音を立てて、アルはフィアの上に落ちた。まさか木の上に人間がいるとは思っていなかったらしく、フィアは驚いたように目を白黒させていた。慌ててアルは彼に詫びた。
「あ、あぁ! ごめんなさい! 痛くなかったですか?!」
アル自身はフィアの上に落ちたため、痛みもなく、怪我もしていなかった。しかしフィアはそうではないかもしれないと、アルは慌てて彼に問うたのだった。
急に頭上から降ってきた人間にフィアは心底驚いたように何度も瞬きをしていたが、すぐに小さく頷いた。
「俺は平気だ。……こっちこそ、すまない。まさか人がいるとは思っていなくて」
どうやら、怪我はないようだ。そんなフィアの返答に若干ほっとした様子で頷いた後、アルは彼に問うた。
「僕が言えた立場じゃあないかもしれないんだけど……何をしていたの?」
アルがそう訊ねると、フィアはスッと白い指で木を指差した。
「魔術の練習」
アルが見ると確かにフィアが指差している場所は綺麗に凍りついている。彼が得意とする、氷属性の魔術のようだった。
「そっかぁ……すごいね」
先程の木の揺れはフィアの魔法の反動によるものだったらしい。そんな反動が起きるほどの魔術をこの年で使いこなすことが出来る彼はやはり凄い。そう思いながら彼を見たアルは、大きく目を見開いて、声をあげた。
「あ、怪我してる!」
フィアの掌に血が滲んでいる。さっきアルが落ちてきた時、地面についた所為だろう。フィアは彼の言葉にきょとんとして自分の手を見た。しかし、大して気にとめる様子もなく、首を振った。
「平気だ、これくらい」
「駄目! 僕の所為なんだから、僕に治療させて」
アルはそう言うと、そっとフィアの手を自分の手で包み込んだ。少し魔力を集中させれば、みるみるうちにフィアの手の傷が癒える。その様を見て、フィアはサファイア色の瞳を大きく見開いた。
「凄いな。ノトでこんなに早く治癒術が使えるなんて。これからが楽しみだな」
感嘆、といった表情で見つめられ、アルは照れ笑いをしながら首を振った。
「……そんなことないよ。それに」
もう、騎士になるのを諦めようと思ってるんだ。そうアルが言葉を紡ぐより先。
「見て」
フィアは、アルが紡ごうとした言葉を遮って、言った。そしてそのまま、空を指差し、微笑む。
「綺麗」
アルは彼の発言に一瞬面食らったような表情をした後、つられて空を見上げた。
「え……あ。本当だ」
見事な、満月だった。彼の言う通り、とても美しい。ほ、と息を吐くアルを見て、フィアは問うた。
「この木の上、良く見えるか?」
「うん。僕のお気に入りの場所なんだ」
そうか、といい、フィアは微笑んだ。
―― あ、綺麗。
アルは思った。フィアの笑顔が綺麗だ、と。月のような人だ、とも感じた。太陽のような華やかさではない。しかし静かで、凛とした光を放つ月の光はフィアの雰囲気によく似ていると思った。
フィアを暫く見ているうちに、アルは良いことを思いついた、というように顔を輝かせた。そして、彼に提案した。
「ねぇ、一緒に月を見ようよ。この木の上で」
「……良いのか? お気に入りの場所なのだろう?」
申し訳なさそうに言うフィアを見て、アルは首を振った。
「良いんだよ。だって僕ら、もう、友達……でしょ?」
言ってからアルは少し後悔した。フィアが普段ノトの誰とも仲良くしようとしないことを思い出したからだ。馴れ馴れしすぎたかな、と弁解しようとした時。
「そうだな。ありがとう……アル」
フィアが嬉しそうに笑って、そう言った。
「僕の名前、知ってるの?」
ただ同期生というだけで今まで言葉を交わしたこともなかったために、名前を知られているとは思わなかった。そうアルが言うと、フィアは小さく頷いて、言った。
「知っているし、いつも見ていた。剣術が苦手だってことも知っている」
フィアはそう言うと、驚いているアルを置いて、ひらりと木の上に飛び乗った。……身軽なものである。アルは慌ててそれを追いかけて、木に上った。
フィアの隣に座って、アルは溜息を一つ。やっぱり知ってたんだな、と少しショックを受けながら。
そんな彼を見て目を細めたフィアは、そっと口を開いた。
「……騎士をやめるのは、簡単だと思う」
フィアが何でもないような口調で不意にそう言った。一瞬何の話だろう、と戸惑ったアルだが、すぐに自分に対する言葉なのだと気付いた。
「やめてしまうことは、簡単だ。でも、俺はアルが此処で諦めてしまうのはもったいないと思う」
特に慰める訳でもなく、励まそうとする様子もなく、フィアは淡々と言う。その言葉を聞いてアルは微かに笑って、呟いた。……泣きだしそうになるのを堪えながら。
「僕には難しいことだったんだよ。剣術は苦手、攻撃魔術は出来ない。何が取り柄なのか、僕でさえもよくわからない。僕が居なくなっても、騎士団は成り立つし、僕が居なくなったことで困る人も、哀しむ人もいない。きっとすぐに皆忘れるよ、僕の事……早く、忘れてほしいなぁ。僕の失敗の数々」
自嘲気味にそう話して、アルは肩を竦めた。そんな彼を何もいわずに見つめるフィア。アルもそれ以上は何も言わず、二人はただ月を見上げていた。
どれほど沈黙の時間が流れただろう。
「……俺は、さ」
沈黙を破り、先に口を開いたのはフィアだった。
「忘れない。アルの姿。剣を落として、先輩たちに叱られていたことも、魔術が上手く発動しなくて半泣きになっていたことも」
彼の言葉を聞いて、そんなにはっきり覚えているのか、とアルは苦笑した。それは本当に早く忘れてほしいな、などと思いながら。そんなアルの様子に気がついていないかのように、フィアは相変わらず淡々と言葉を紡いだ。
「泣きそうになっても必死に堪えている姿も、一人で一生懸命素振りの練習をしていた真剣な顔も、俺は忘れない。……お前にはお前にしかできないことがあると思う。だから、諦める前にもう少しもがいてみてほしい……と、思うぞ、俺は」
フィアはそこまで言うと、照れくさくなったのか、顔を伏せてしまった。耳が赤くなっていた。
まさか、今までろくに会話をしたことのない人間にそうまで言ってもらえるとは、とアルは驚いていた。それと同時に、嬉しかった。……自分を気にかけてくれていたことが。
「……ありがとう、えっと、フィアさん……」
少し間を空けて、アルはフィアに言った。途端にフィアが不快そうな顔をして、溜息を吐いた。
「やめろ」
「あ、ごめんなさい……」
いきなり名前を呼ぶのは流石にまずかったかと、アルは慌てた。が、フィアは首を振って、アルの額を突いて、言った。
「俺は堅苦しいのが嫌いだ。呼び捨てで呼んでくれ。俺もそうしているだろう」
フィアが不愉快に感じたのは、アルが自分のことを”フィアさん”と呼んだことらしかった。しかし、アルは戸惑ったように視線を揺らした。
「でも……」
まだ、出会ってすぐなのに、そんな馴れ馴れしくはできない。そう思ってまごまごする彼を見て、フィアは一つ咳払いをして、言った。
「……友達に、そういう態度取られるのは、もっと嫌なんだよ」
友達。フィアはきっぱりと、そう言い切った。その言葉にアルは驚き……泣きだした。その顔を見て、今度はフィアが慌てる。
「ちょっ、なんで泣くんだよ……」
泣かないでくれ、と困った顔をして言うフィアに、アルは泣きながらぶんぶんと首を振り、弁解した。
「僕、初めてで、こんな……ごめんなさい、すぐに泣きやみますから……」
騎士団に入ってから、そんな風に言ってもらえたのは、初めてだった。友人らしい友人もできてはおらず、一人で過ごすことが多かった。それが寂しいと思っていたのも事実で……だから、フィアが自分のことを友達だ、といってくれたことが嬉しかったのだ。そう言って泣きじゃくる彼を見て、フィアは何度も瞬きを繰り返し、ふっと笑った。
「……言っていることが支離滅裂だ」
フィアは苦笑してアルの頭に手を置いた。そして、何をするでもなく月を見上げ、綺麗だな、と呟く。それを聞いたアルは涙を拭い、微笑んだ。
「フィアって、月みたいだよね」
「は?」
流石に、予想外の発言だったのだろう。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、フィアはアルを見つめた。アルはそれを見つめ返し、言葉を続けた。
「月みたいに、綺麗で、静かで……」
そう言いながら、アルは照れたように笑った。アルだって、そうそうこんな言葉……口説き文句のような言葉を使う訳ではないのだから。
「……初めてだよ。そんなこと言われたのは」
フィアは困ったような、嬉しいような顔をして、アルを見た。アルはにこりと何処か吹っ切れたように笑って、言った。
「僕、もう少し頑張ってみるね?」
アルの返答を聞いて、フィアは力強く頷いて見せた。
「あぁ。何かあったらいつでも相談してくれ。俺で力になれることなら、何でもするから」
「頼もしいなぁ」
フィアとアルはその後は何も言わず、静かに月を見上げていた。新しい絆の始まりを、月だけが見ているようだった。




