第十二章 覚悟
アルがフィアを治療し終わって暫くすると、シストがジェイドを連れて帰ってきた。
部屋にはいってきた背の高い白衣の男性こそ、草鹿統率官、ジェイド・シレーネ。翠緑色の長い髪を後ろにおろし、眼鏡の奥の瞳も美しい翡翠色。いつでも、どんな相手にでも穏やかで柔らかい話し方をする男性だ。時間が有るときは街に行き、子供たちに医療や魔術を教える彼は、街でも人気の魔術医。優しいだけではなく、医術、治癒魔術の腕も超一流。患者への態度は真摯で真剣。アルを含め草鹿の騎士たちはそんな彼を尊敬し、師と仰いでいる。現に、アルはジェイドが目標の騎士だといっていた。
「アル、様子はどうですか?」
ジェイドはゆっくりとフィアのベッドの方へ歩み寄りながら、低く柔らかい声で、アルに問うた。アルは姿勢を正し、上官である彼に、報告をする。
「ジェイド様、毒ではありませんでした。魔力弾を受けたらしくて。傷はもう完全に塞ぎました。あとはどうしたらいいでしょうか」
一通り自分の診察の結果を述べた後、アルはジェイドの翠緑色の瞳を見つめる。少し、緊張した面持ちで。
ジェイドはそっとフィアに歩み寄り、額に触れた。その冷たさに驚いたのか、一瞬顔を顰めたものの、ジェイドはそのままフィアの頭を撫でている。全く状況がわからないシストが心配そうにその様子を見つめていた。服を脱がされてしまうのではないかとひやひやしていたアルだが、ジェイドはアルの言葉を信じているらしく、肩の傷には触れただけだった。
暫くフィアの様子を診ていたジェイドは眼鏡にかかった翡翠色の前髪をそっと退けるとそっと息をついて、アルの方を見る。そして穏やかに、微笑んだ。
「アル、貴方の診断や処置は正確でした」
今の様子を見るに、命に別状はないと思いますよ。アルの白い髪を撫でてジェイドは言う。人の良さそうな翡翠の瞳が柔らかく細められていた。そんな師の言葉に、アルは安心したように笑みを浮かべる。診察を間違っていたらどうしよう、処置が違っていたらどうしようという不安もなかったわけではなかったのだ。処置を間違えれば、最悪、状況を悪化させてしまうこともあるのだから。しかし、アルの診断は正確で、とるべき処置も間違ってなかったとジェイドは言った。そのことに、一先ずは安堵した。
「しかし……」
ふと、ジェイドは少し表情を曇らせる。顎に手を当て、考え込むような素振りを見せた。
「何故こんなに弱っているのか、僕にもよくわかりません。アルの言う通り、毒ではないようですし……シスト、彼は一体何に攻撃されたのですか?」
顔を上げて、訊ねるジェイド。小さく首を傾げれば、長い緑色の髪がさらりと揺れた。
「悪魔族の魔力を使うものだと思います。尤も、攻撃してきたのは奴らの中でも弱い奴だと思いますが……」
シストは不安げな顔をしながら、そう答える。彼らが追っていた”謎の人物”が悪魔の魔力を有しているらしいという情報は事前に得ていた。フィアにあれだけのダメージを与えた原因を考えれば、思い浮かぶのはそれくらいだ、とシストはジェイドに話す。
ジェイドはシストの言葉を聞いてなるほど、と頷いた。
「悪魔、ですか。それならば、この状況も頷けますね」
ジェイドの言葉にシストとアルは首を傾げた。ジェイド自身は納得しているようだが、魔術にそこまで詳しいわけではない二人には、さっぱりわからない。
「どういうことですか?」
アルがジェイドに問いかける。ジェイドはどうしたら二人にも伝わるだろうか、と暫し言葉を考えてから説明した。
「時々いるんです。悪魔族の魔力と相性が悪い者が。水と火の魔力が対立するように、悪魔の魔力と相性が良くない魔力を持つ者がいるようで。細かい理由までは僕もよく知りませんが、きっと波長が合わないのでしょうね。
尤も、悪魔の魔力を持つ魔獣も、魔物も少ないので、それに対立する魔力を持つものも少ないのですが。今まで僕が見たのは一人だけですし……」
そこで一度、ジェイドは言葉を切る。それから少し迷うように一瞬目を伏せた後、ぽつりと言った。
「……その一人は、悪魔の魔術を受けて、亡くなりました」
彼の言葉に、二人は目を見開いた。穏やかな翡翠色の瞳に悲しげな光がともっている。医療従事者として、命を救えなかったという記憶は、きっといつまでも心に残る傷なのだろう。常に冷静沈着な彼でも、その表情に滲む悲哀を隠すことは、できないようだった。
ジェイドは目を伏せたまま、話を続けた。
「今の彼、フィアのような状態だったそうです。
どういうわけか、酷く体温が低下し、その割に呼吸は早い。
出血が酷かった訳でもない。毒かと思えば、そうでもない。
誰一人、その症状の理由に気付けたものは、いなかったのです。
その時は適切に診断できた者がいなかったらしく、僕がいった時にはすでに手遅れでした」
静かな声での説明に、アルとシストの表情が少しずつ強張り始める。フィアに万が一のことがあったらどうしよう、という不安。アルに至っては、泣き出しそうになっている。そんな二人に気付いたのか、ジェイドははっとして、慌てて言葉を続けた。
「しかし、フィアは大丈夫ですよ。今はもう、大分落ち着いているようですし。
きっと、彼自身の強さと、アルの適切な処置の御蔭ですね。
アル、貴方はきっと素晴らしい魔術医になれますよ」
ジェイドは穏やかに微笑んでから、もう一度アルの頭を撫でた。それは世辞でも慰めでもなく、アルのことを純粋に褒める言葉だ。しかし、アルは不安げにジェイドを見上げる。
「でも、さっきからずっと魔力を送り続けているのに、少しも反応してくれないんです……」
ジェイドはその表情を見て、困ったような顔をしつつ、いった。
「幾ら治療をしたとはいっても、魔術による傷や損傷は簡単に癒えるものではありませんからね。後は……そうですね、フィア自身の精神力にかけるしかないでしょう」
そういいながら、彼は一度、フィアの方へ視線を向けた。そして、真剣な表情のままに、言う。
「きっと大丈夫ですが、絶対とは言えません。
あと、僕たちに出来るのは魔力を送ることくらいです。魔力を送る、と一口に言っても、魔力の波長が合わないことにはそれも上手くいきません。
先程から触れている限り、残念ながら僕ではあまり力になれそうにありません。しかしアルの魔力は、適応性の高いものですから、きっと力になれるでしょう。ですから、アル……後は任せました」
何か困ったことがあったらいつでも僕のところに来なさい。ジェイドはそういうと穏やかに微笑み、部屋から出ていった。
***
アルとシスト、そして眠ったままのフィアだけが残された部屋は酷く静かだ。先刻までに比べて幾らか落ち着いた様子のフィアの呼吸だけが響いている。シストもアルも、口を開こうとしなかった。
アルはゆっくり歩いて、フィアの隣に椅子を置き、座った。フィアの手を握り、魔力を送る。魔術で受けた傷やダメージを癒すことが出来るのは魔力だけだ。魔力を送ることですぐに回復するというものでもないのだけれど、何もしないよりは余程良いだろう。アルはそう思って、フィアの手を握り続けていた。相変わらずに冷たい手。その冷たさに泣きそうになりつつ、アルは魔力を送り続ける。早く目を覚ましてほしい。そんな想いを込めながら。
「なぁ、アル」
不意に、シストが弱弱しい声でアルを呼んだ。
「何ですか?」
アルは一度手を休め、シストを見た。何処か、泣くのを堪えているかのような紫色の瞳と視線がぶつかる。ちりちりと、胸の奥が軋むような痛み。アルは感じてとっていた。“精神共鳴”で、シストが感じている思いを。後悔。懺悔。悲しみ。悔しさ。やるせなさ……シストのそんな苦しい感情。それを感じ取って、アルは少しだけ、顔を歪める。
シストは顔を伏せて、消え入りそうな声で言った。
「俺、フィアにとんでもない無茶をさせちまった。あの時、フィアの異変に気付いてやれたのは、俺だけだったのに」
微かに震える声で、シストは言う。その声には強い後悔が滲んでいて、彼が言葉を紡ぐのと同時に、胸の痛みが強くなる。それほど彼が悔やんでいることが、アルには伝わっていた。
「ずっとずっと、苦しいのを我慢して、俺と一緒に走ったり、戦ったりしてたんだぜ? もっと早くに気づいて、此処に送り返すべきだったのに……馬鹿だよな、本当」
自嘲を含んだようなその口調。微かに震えているシストの手。早く気づいてやれなかったという後悔に、悲しさに震える、シストの心。それを感じとりながら、アルは表情を歪めて、首を振った。
「シストさん、貴方が責任を感じることじゃないですよ。フィアの事だから、絶対に貴方に気づかれないようにしていたんでしょう? 仕方ないですよ」
宥める声音で、アルは言う。
「でも」
なおも悲しげな顔をするシスト。アルは一つ溜息をついてから優しく微笑んで、シストに言う。
「僕らも、助けを求めてもらえないと助けることができないんですよ。僕ら草鹿は力が強くないから、拒絶されてしまったら治療することが出来ないんです。
例え目の前で人が死にそうになっていても、もしその人が僕たちの治療や魔術を拒否したら、見ていることしかできない。
それと同じことですよ、フィアがシストさんに気付かれないようにしていたから、シストさんは気が付けなかった、それだけのことです。
それに、今フィアは生きている。それだけで十分じゃないですか?」
そういいながら、彼は穏やかにアルは笑った。シストを元気付けようとするように。その表情を見て、シストは何度か瞬きをした。ぽつりと一粒、涙が落ちる。それを指先でそっと拭ったアルは、明るい声で言った。
「終わり良ければすべてよし、ですよ。フィアが元気になったら、僕が叱っておきます。医師として。そして、友人として!」
きっちりお説教するんですから!などと明るく言い放つアル。シストは暫しそれを見つめた。そして、ふっと笑う。
「……そうだな。二、三発殴ってやらないと」
冗談交じりにシストがいうのを聞いて、アルはだめですよ!と言って頬を膨らませた。シストはその様子を見て、声を立てて笑う。少し元気になった様子のシストに、アルもほっとした表情を見せた。
ひとしきり笑った後、シストは軽く伸びをする。それから、アルに言った。
「さて。俺は自分の部屋に戻るよ。今回の仕事の報告書も作らないといけないし」
苦笑まじりにシストは肩を竦める。まだこなさなければならない仕事がある。フィアがこの状態な以上、護衛任務の報告はともかく、あの襲撃についての報告は自分がしなければならない。
「えぇ、しっかり休んでください。シストさんまで体調を崩さないように」
眉を下げ、アルは心配そうに言う。その言葉に声は返さず、ひらりと手を振ると、シストはそのまま部屋を出ていった。
シストの背を見送り、アルはふっと息をついてフィアの亜麻色の髪を梳いた。まだ親友は目覚めない。先程よりは呼吸も穏やかになってきたのが、せめてもの救いだ。優しく、優しく、その髪を撫でる。
「早く目を覚ましてよ、フィア……」
ぽつり、とアルは呟いた。早く、優しい声を聞きたい。早く、蒼い綺麗な瞳を見たい。早く……その優しい手で、触れて欲しい。
「君に、伝えたいことがあるんだ」
アルの小さな手が触れているフィアの手はまだ冷たい。
「フィア」
名前を呼ぶ。何度も、何度も。確かめるように。そうしないと、フィアが消えてしまいそうな気がして。
大丈夫だとジェイドはいっていたが、それでも不安だった。人形のように美しい顔をしているフィアだから、尚更。もう、二度とフィアが目を覚まさないのではないか、と。考えたくもない、考えてはいけない”もしも”であることは、アルが一番よく理解していた。でも、それでも、考えずにはいられなくて……
涙がこぼれそうなのを必死に堪えていた時だった。
「アル、ありがとうな」
「え?」
不意に聞こえた声にアルは振り向いた。ドアの前に立っていたのは、雪狼統率官であり、フィアの従兄、ルカで。いつの間にか、部屋に来ていたらしい。ノックをせず部屋に入ってくるのは彼奴の癖だ、とよくフィアが愚痴っていたことを思い出す。
彼がこの部屋に来ることは、珍しい。アルは少なからず驚いて、おどおどと答えた。
「あの、ルカ様……僕、草鹿として当然の事をしただけで、お礼を言われるようなこと……」
アルの言葉にルカは首を振った。暫く悩むような顔をしてから、そのことじゃなくて、と言葉を紡ぐ。真剣な紅の瞳が、アルを見つめていた。
「フィアの秘密を、黙っててくれて、ありがとう」
静かな声で、ルカは言う。その言葉にアルは目を見開いた。秘密……その言葉に、酷く驚いて。一瞬、反応が遅れた。その様子を見て、ルカはふっと笑う。
「気付いたんだろ? フィアが女だってこと。肩の傷ってことは嫌でも服を脱がさなきゃならない。フィアが他人に肌を見せるのを嫌がっているのを知ってるお前でも、診察のためならば服を脱がせるだろう?」
それでわからないはずが無い。そう呟くように言ったルカは注意深く廊下に視線を走らせてから、かちりと鍵を閉めて、ふっと息を吐きだした。
「フィアが怪我して、アルが治療してるって聞いて慌ててきたんだ。万が一……他の奴にバレたらまずい、と思ってさ」
今までずっと自分だけが知っていた、フィアの秘密。それが誰かに露見することは避けたかった。折角騎士として働くことが出来るようになったというのに、性別が露見してしまえば、追い出されてしまうかもしれない。それ以上の処分だって、ありうる。そう思って、ルカはこうして走ってきたのである。
「バレないようにしたかったし、バレたらバレたで、その人間以外に広まらないように、口封じしなきゃいけないって思って……慌てて、来たんだ。口封じだなんて、物騒な話だけど、俺とフィアにとっては、フィアのことが広く知られちまうのが、何より怖かった」
そこで一度言葉を切った彼は、穏やかに微笑んで、言った。
「でも、お前は黙っててくれた。だから、ありがとうな」
いつものように、にかっと笑うルカ。ルカの声に、アルは一瞬瞬きをして、すぐに表情を綻ばせた。
「フィアは僕の友達ですから。例え、フィアが女の子でもそれは変わりません。フィアが女の子でも騎士として働きたいと思っているのなら、その秘密をわざわざ誰かにバラしたりはしませんよ。僕もフィアの事を守ってあげたい、応援したいって思ったんです」
アルがにこりと微笑む。そして、まだ眠っているフィアに視線を移した。
かけがえのない親友。女の子だと思ってみれば、確かにそうなのだけれど……彼が誰よりも強く、勇ましい騎士であることを、アルは知っている。その強さを手に入れるために、一体どれほど努力してきたことだろう。
「フィアはすごいなぁ。女の子でも、こんなに一生懸命頑張って、こんなに強くなった。僕も負けてられないなぁ」
アルは呟くような声音でそう言う。それから、ふと思い出したようにルカに訊ねた。
「あの、ルカ様、フィアは悪魔の魔力と相性が悪いんですか?」
その問いかけに、ルカは一瞬言葉に詰まる。言うか、言うまいか……暫し悩んでから、ルカは小さく頷いた。
「あぁ。それにもちゃんと理由がある、……知りたいならお前の覚悟が必要だな」
「覚悟?」
アルはきょとんとする。ルカは紅色の瞳でアルを見据えた。普段のルカの、社交的で人懐っこい瞳とは違う、真剣な……大切な家族を守ろうとしているような、そんな表情で、彼は言う。
「フィアが抱えているモノは重い。それを一緒に背負ってやる覚悟はあるか? 途中で投げ出すなら、聞くな。フィアを傷つけるようなことは……許さない」
ルカの真剣な声。眼差し。アルは小さく息を飲んだ後、強く頷いた。その黄色の瞳には、紛うことなき、真剣な光が灯っていた。親友を思う、大切な人を思う、優しい、強い光が……
―― フィアのことを支える覚悟は、できている。
かけがえのない友人を守りたい。だから、彼女が背負うものが、どんなに重いものであっても、自分も一緒に背負ってみせる。そんな感情を湛えた金色の瞳を見つめて、ルカは少しだけ、表情を緩めたのだった。