旅5
小川の水は冷えていた。源泉が近いのだろう、澄んだ水をリゴベルトは喉を鳴らして飲む。
一息ついたリゴベルトは振り返った。厚い森が広がり、道のりを辿ることは出来そうになかった。
「ここからじゃ分かり辛いですがね、あそこにアーマ川が流れています。私たちは数日かけて森を抜けたわけですよ」
そう言ってリトゥーマは指し示すが、リゴベルトにはいくら目を凝らしてもどこに川が流れているのか分からなかった。
どうやら無事森を抜けられたらしい。らしいというのは、リゴベルトにはまだ森が続いているように感じられるからだ。道は登りになり、視界もようやく開けてきたが、依然木深いことには変わりない。それでもあれほどリゴベルトが希求していたワスカラン山は、彼の右手にそびえていた。頂には雪が積もり、その雄大な姿を見せている。
ワスカラン山はこの辺りに住む部族の霊山である。はるか昔、煙る黒曜石と呼ばれた神様が羽の生えた蛇に地上へ蹴落とされた。咄嗟にアーマ川へ飛び込んだ煙る黒曜石は一命をとりとめ、斑点のある獣へと姿を変え、水から飛び出した。それ以降この地を荒らしまわっているという。
リゴベルトの祖先がこの地を征服したさい、まっさきに止めさせたのが生け贄の風習だった。何か良からぬことがあるたびに煙る黒曜石の怒りが原因だとされ、部族の若者が犠牲になった。若者はワスカラン山の中腹にある祭壇へと連れていかれ、その命をもって煙る黒曜石の怒りを鎮めた。今でもその祭壇は残っているという。
リゴベルトは雄大な頂を眺めながら漠然と思いめぐらせていた。その内、そういえばとリゴベルトは気がつく。自分が今行こうとしているところは羽の生えた蛇が生まれた場所だとされるところだ。
(まさかな、馬鹿らしい迷信だ)
そう自身に言い聞かるが、リゴベルトは先ほどの獣の姿がちらついて嫌な予感がぬぐえない。あの斑点を持つ獣は、今もリゴベルトたちを伺っているのかもしれないのだ……
そんなリゴベルトをよそに、リトゥーマは何事もなかったように石に腰を下ろし泰然としている。リゴベルトにはそんなリトゥーマの態度が羨ましく思った。
(この人には恐怖がないのだろうか)
君に怖いものないのかい? ふとそう尋ねてみたくなったが、返ってくるのは皮肉だと分かり切っている。
リゴベルトは両手で小川の水を掬い、咽喉を鳴らして飲む。
(いずれにせよ、確かなものはこの水だ。訳のわからぬ神ではない)
ましてその怒りでもないとリゴベルトは思う。獣は獣で、人間は人間だ。
「先ほどから考えていたのですが」ふいにリトゥーマは言った。「獣が私たちを追っていている。これは不吉な前兆です。一刻も早くワスカラン山を離れた方がいい」
異論はない、リゴベルトも同意見だ。
小川で水筒を満たし、二人は出発した。日の入りまでまだ時間がある。
「明るい内に近くの村につければいいのですが」
急ぐリトゥーマにリゴベルトも遅れないようついていく。傾斜に足を取られ、何度も転びそうになる。しかし泣き言は言ってられない。こんなところに一人取り残されたくない。