さようなら
桜の季節も影を消し、無常な夏の中。
久しぶりに再会した暁と美空だったが、美空が告げたのは…。
美空ちゃんがあの場所に来なくなってから、どれぐらい経っただろう。
いつの間にか、桜の花はその気配を失くして。
攫われるように、誰の意識にも残らず、全て散ってしまった。
「神田くん、こっちもお願い!」
「はい!」
いつもひっそりとしていた、この喫茶店にも、足しげく通ってくれるお客様が一人、また一人と増えていき。
忙しない時間が、僕を呑みこんでいた。
世界ってこうやって変わっていくものなのだと、時々、一歩退いてボンヤリしたくなる。
美空ちゃんの身体の具合はどうなっただろう。
病院の名前くらい聞いておけば、時間を見つけてお見舞いに行けたかもしれない…と、ちょっとだけ悔んだ。
無情にも時は流れていき。
風にさざめき、青々と茂る木の葉と、その音を掻き消すような、けたたましい蝉の声。
世の中は、茹だるような夏に移ろっていた。
「暑いなあ…。」
陽炎が揺らぐような、炎天下。
一学期の総まとめのテストも終わり、何処か気の抜けた調子で歩く僕がいた。
じくじくと膿を出すように、跳ね返った日差しが立ち上る広場を、なるべく木陰に入って突っ切る。
もはや鼓膜への暴力とも取れる声を上げる、アブラゼミを睨むように見上げていた。
「暁くん。」
一瞬、空気の色や温度が遠のいて。
それでも脊髄反射で振り返ると。
薄手の上着を、天使の羽根みたいにひらりとさせた、美空ちゃんが立っていた。
「わっ…美空ちゃん!
良かった、退院できたんだね!
もう身体は平気?」
話したかったことが、後から後からあふれて。
僕は興奮気味に、美空ちゃんを見つめた。
そんな僕に、美空ちゃんは困ったように微笑む。
「…実は、お別れを言いに来たんです。
今日をもって、もう此処には来ない。」
木の葉の音が、やけに冷たく残響していた。
意地を張るような猛暑も、プールの底で聞く声みたいに、現実味が無い。
「…え?
な、なんで…?」
「まあ、いろいろあって。」
理由は何故か、煮え切らない口調で暈していたが。
もう此処に来てくれないことを、彼女ははっきりとした口調で告げた。
すごく寂しいけれど。
美空ちゃんにも、何か事情があるのだ。
それに駄々をこねるようなことは、してはダメだ。
「さよなら…なんだね。」
「ええ、さよならです。」
逆光のシルエットになり、その姿は黒く黒く。
美空ちゃんの在り処が、塗り潰されていく。
もう、その表情も見えない。
「……のに。」
ただ生ぬるいだけの風が、何処かの家の風鈴を鳴らして。
美空ちゃんの言葉は聴こえなかった。
聞き返す間もなく、彼女は影法師に吸い込まれるように、足音のひとつも無く、その場を立ち去った。
取ってつけたような夏と、僕だけが取り残されて。
「…さようなら…。」
この虚無感の対価に見合うような、僕の声は、すうっと消えていき。
そうして、美空ちゃんは二度と現れることは無かった。