宛無し
空回った怖がりな雨上がり。
そこで暁は、美空の大事にしてた、物悲しい心に触れる。
アスファルトから立ちこめる、雨の匂い。
確かペトリコールって言うんだっけ。
昼休みの頃に降った雨が、止んでからも、名残惜しそうに尾を引いているのだ。
酸素に混じって、目も眩むような惚けた透明色に、僕が同化されているような感覚を覚えた。
出番の無かった傘を片手に、僕はいつもの広場を目指す。
『桜の木の下には、死体が埋まっている。』
あの怪談話が、頭の中で木霊する。
足元をくすぐるように、ビニール袋のゴミが地面を転がっていく。
魔物の手に撫でられたように感じて、挙動不審に縮こまってしまった。
天気があまり良くないせいか、人もそこそこ疎らな広場の中。
堂々たる佇まいの桜の木は、少しだけ寂しそうに見えた。
「桜に憂いを見たのは、初めてだよ。」
僕も何とも言えない気持ちになって、思わず木に話しかけた。
いつも美空ちゃんが凭れている、木の幹にそうっと触れる。
仄かに暖かいその場所から、手を這わせるように根元に下げていって。
「掘って…みようか。」
土に指先が掠めると同時に、背後で砂利を踏みしめる音がした。
振り向きながら、言葉にならない声を上げて、尻餅をつく。
「そんなにびっくりしなくても。」
美空ちゃんだった。
左手に落ち着いた紫色の傘をぶら下げて、静かに佇む姿は、何も変わらない。
僕の過剰な反応に、頭上にハテナを浮かべている。
「何かあったのですか?」
僕の前にスッと屈んで、目線を合わせる。
そんな彼女に、本で出てくる幽霊みたいな怖さなど、微塵も無かった。
「う…、実は…。」
僕はお母さんの怪談話に怯えていたことを、正直に彼女に話した。
頷きながら、その話を黙って聴いていた美空ちゃんだったが、やがて声を上げて笑った。
「ふふ…っ、私がおばけだと思ったのですか?
意外と怖がりですよね、暁くん。」
「ごめんね、失礼なこと考えてて…。」
いえいえと、顔の前で手をひらひらと振って。
美空ちゃんは、僕が恐れていた木の根元に、視線を投げかける。
「此処には、何もありませんよ。
…もう、何も無いんです。」
その瞳は優しいのに、何処か哀しげな熱を帯びていた。
「美空ちゃん…?」
彼女はスカートのポケットに、そっと指先を入れると。
中から青い何かを取り出した。
大事そうに手のひらに乗せているそれは、折り紙で作られた鶴だった。
「バイト中に窓から眺めていた時、美空ちゃんは時計を見ているんだと思ってた。
もしかして、ずっとこの折り鶴を見つめていたの?」
その青い鶴は、折り目もバラバラで、とてもぶきっちょな出来だった。
手先が不器用な人が折ったのは、一目瞭然で。
だけど美空ちゃんは、慈しむように折り鶴を指で撫でた。
「昔、大事な人が折ってくれたんです。
慣れない折り紙で、私のために千羽鶴を作るんだって。
そのうちの一つを、お守りとして私が持ってるんですよ。」
薄桃色の花びらは、涙の代わりのように、はらはらと落ちていく。
「…私は愚かですよ。
届く宛てもない思いなのに、こうして今日も、いつまでも変われずにいる。」
美空ちゃんに言葉を伝えたいのに、何を言えば彼女の幸いになるのか分からなくて。
だけど、言わないと意味が無いみたいで。
僕はただ、彼女の手をそっと握った。
伝われ、伝わってくれ。
「…美空ちゃん…。」
美空ちゃんは僕の手をキュッと握り返した。
互いの熱が、チープな言葉より深く、互いを繋ぎ止める気がした。
しばらくそうしていた後、美空ちゃんは僕の手を離した。
「…しばらく、此処には来ません。
また入院することになってしまって。」
身体の調子があまり良くないらしい。
季節の変わり目だし、いろんな不調が起きても仕方ないのかもしれない。
寂しいけど、こればかりはどうしようもない。
「また帰ってきたら、此処でお話しよう。」
せめてもの気休めにでもなればと、僕は自分が持ってる笑顔を全て渡すように、彼女に笑ってみせた。
美空ちゃんは、白い頬をほんのり桜色に染めると。
僕のその言葉に、子どもみたいに頷いてみせた。