巡り合わせは一歩の勇気
今日もあの子は誰かを待っているだろうか。
暁は思い切って、まだ何も知らない彼女と、向き合ってみることに。
時計の秒針が、這うように僕を責める。
死神も鎌を捨てて、泣いているような、そんな悲しみが闇を穿つ。
「暁、ちょっといい?」
階段の下で僕の名前を呼ぶ、お母さんの声。
まだ押し入れにしまうには早い、毛布を蹴飛ばして眠っていた僕は、ゆっくりと身体を起こす。
何か悪い夢を見ていたような気がするのだが。
脳裏の底にノイズが掛かって、それは一向に思い出せなかった。
「なあにー?」
大きな欠伸をしながら、一階に下りてきた僕。
お母さんが標的を捕えたと言わんばかりに、にんまりと笑って、バッグを突き出した。
緩めてあった靴紐を結び直し、僕は気だるげな土曜日の街を行く。
牛乳を買い忘れた、お母さんからのお使いを任された。
続けざまに家にいた家族に、ついでと称して、小腹を満たすためのスイーツやら何やら頼まれたから、『パシリ』のほうが正しいかもしれない。
僕は肌寒い空気を胸いっぱいに吸い込み、空を見上げた。
分厚い雲が、空いっぱいに渋滞していて。
まるで灰を被ったような色をしている。
「…あ。」
そのグレーに、僕は柔らかそうに風に靡いていた、その髪の毛を思い出していた。
待ちぼうけのあの子。
ポケットの中のスマホの、画面を指でなぞる。
「ちょうど、今ぐらいの時間だ。」
いつもの彼女の出没パターンが、しっかり頭に入っていることに、自分自身に対して、一抹の気持ち悪さを感じるが。
もしかして、今日も居るのだろうか。
気になって仕方なくて、僕は店に着いてからも、本来の用事は上の空。
レジでお釣りを受け取るのを、忘れそうになったくらいだ。
曇っているため、いつもより暗くなるのが早く感じる。
広場の舗装されていない、砂利道を踏みしめる頃には、夜が一足飛びに頭上を満たしていた。
「結局、来てしまった…。」
頭をポリポリと掻く僕の頬を、桜の花びらがふわっと掠めていった。
何だか「おいで」と言われているみたいで、それは迷っていた僕に、少しだけ勇気を与えてくれた。
桃色の欠片に誘われて、僕は一歩一歩、広場の奥に入っていく。
突風に一瞬の呼吸と、視界を奪われて。
そうっと目を開けると、見事な夜桜に寄りかかって座る、あの女の子がいた。
「え、えっと…その…。」
初めて、目と目が合って、僕はしどろもどろになっていた。
彼女もまた、突然の来訪者に、凛とした瞳を少し見開いていた。
「そこ…寒くない?」
触ろうとしたわけでもないのに、僕は何故か両手を変に上げて。
恥ずかしさからか、熱くなっていく顔で言葉を絞り出した。
女の子はフッと口元を緩め、顔に掛かった長い髪の毛を、指先で退けた。
「さっきまでは、寒かったですね。」
今は寒くないのだろうか。
僕は女の子のそばに、おそるおそる歩み寄る。
警戒されてはいないようで、彼女は僕から逃げたりはしなかった。
「僕、神田暁。
昔はこの街に住んでたんだけど、お父さんの仕事の都合で引っ越して。
最近、こっちに戻ってきたばかりだから、まだ近所のこととかもよく知らないんだ。」
「私は、小鳥遊美空です。
実は私も、この辺のことはあまり知らないんですよ。
身体が弱くて、入退院を繰り返してたので。」
この街でまともに話をしたのは、あなたが初めてかもしれない。
そう言って笑う美空ちゃんは、遠くから眺めてた時に感じた、冷たい目なんてしていなかった。
「いつもここで、誰かを待ってるの?」
「…そうですね。
待ってると言うよりは、私が勝手に期待しているだけなんですが。」
目を細め、遠くを見つめている美空ちゃん。
どれくらいの風と時間が流れただろう。
美空ちゃんは、白くて華奢な足で、静かに立ち上がる。
「私はそろそろ帰りますね。
お話してくださって、ありがとうございました…、暁くん。」
彼女に名前を呼んでもらうと、心の奥がじんわりと温かくなった。
また会いに来るよ。
そう言うと、美空ちゃんは小さく会釈をして。
桜吹雪と調和した、暗闇の中に消えていった。