第1章 *4*
ユウファ中央想伝局を出たサミルが、トボトボと薄暗い路地を歩いて街外れに向かっている時――。
サミルは不意に誰かに呼ばれた気がして、足を止めて振り返った。
「…………」
じっと目を凝らすと、薄闇の中に見えてきたのは、路地の片隅に座り込んでいる一人の老人だった。
「おじいさん、どこか具合でも悪いんですか?」
サミルが駆け寄って声をかけると、老人は首をゆっくりと横に振った。けれども、その呼吸は荒く、どう見ても苦しそうだ。
「あの、大丈夫ですか?」
老人の脇にしゃがみ込み、老いて丸まった背中を優しく撫でてあげようとした次の瞬間、サミルは急に力強く右腕を掴まれて硬直した。
凍ってしまいそうなほど冷たい骨ばった手の感触に、ようやくその老人の正体を知る。
只人の目には映らず、すでにこの世の者ではない存在――死霊だ。
(あー……私ってば、また全然、気がつかなかったよぅ……)
サミルは一瞬驚いたものの、すぐ冷静に状況を受け止めた。というのも、小さい頃からこの手の存在にはよく遭遇していたからだ。
「うーん、こうして関わっちゃったからには、もう話を聞いてあげないと解放してもらえそうにないわよねぇ……」
掴まれた腕から否応なしに流れ込んでくる、霊が持つ強い想いの波に取り込まれそうになるのを堪えながら、サミルは苦笑する。
別に、死霊と関わるのが嫌なわけではない。ただ、疲れている時に大荷物を背負わされるようなもので、体力的に厳しいというだけなのだ。
額にじわじわと滲んできた冷たい汗を拭おうと、掴まれていない方の左腕を動かそうとするだけでも辛かった。それでも……。
(ごめん、母さん……やっぱり、私には無視することなんて、できないよ)
幼い頃、サミルの持つ能力に気付いた母親は、無闇やたらと霊に関わってはいけないと告げた。他の人に見えないモノ、死霊や精霊などが『見えてしまうだけなら、無視すればいい』のだと。
けれども実際のところ、見えてしまうものを無視することは難しく、また、他の人にも見えている存在なのか否か、とっさに判断できないことの方が多かったのだ――ちょうど、今のように。
そして、サミルには霊を見る能力だけでなく、地上に留まり困っている霊を、その苦しみから解放してあげる術も備わっていた。
その術を持つ者の名は『彩逢使』と呼ばれていた――。
この世界の誰もが、自分の『想い』を『種』に込めることはできる。しかし、彩逢使だけはその能力が突出しており、目に見えない存在や他人の想いを、その者の代わりに種に込めることができるのだ。
そしてその力を応用することで、霊の思い残したことや、誰かに伝えたい想いを種に変え、あるべき所や人に届けることで想いを昇華させ、霊を解放させられる。
伝えたい想いがそこにあると知ってしまったら、またそれを伝える能力が自分に備わっているのなら、サミルはどうにかして『伝えてあげたい』と思ってしまう。
「ねぇ、おじいさん……どうしてこんなところにいるの?」
一応、周囲に人がいないのを確認してから、サミルは霊に向かって問いかけた。
しかし、いつもそう簡単に想いを教えてくれるとは限らない。
永いこと、こうして地上に留まって、嘆き苦しみ続けていればいるほど、死霊は頑なに心を閉ざしていくらしい。
「うーん、困ったなぁ。教えてくれないと、どうにもできないよ……」
「何が?」
「えっ!?」
その声は死霊からではなく、サミルの背後から聞こえてきた。
(――やだ、誰もいないと思ったのにっ!? どうしよう!)
まさか聞かれていると思わなかったサミルは、瞬時にパニックに陥った。
ただでも、霊から流れてくる想いの波を制御するのに苦労しているのに、この上、誰かにバレて騒ぎにでもなったら、もう収拾がつけられない。
ぐるぐると思考が混乱し、あやうく意識が遠のきかけた時、サミルの背後で再び、声がした。
「お前……こんなとこで何してんだ?」
(その声は……)
聞き覚えのあるその声に反応して、かろうじて意識を保つことはできた。
(セオ、だよね?)
サミルはすぐにでも確かめたかったけれど、振り返りたくても体が動かなかった。うまい言い訳も思いつかないし、声をかけてきたのがセオだというのも、果たして運が良いのか悪いのか……。
「……って、おい、お前、顔色真っ青じゃねぇか。大丈夫か?」
異変に気付いたセオの手が、霊に握られていない方の腕を掴んで、屈みこんでいたサミルを引っ張りあげる。が、足に力が入らなかったサミルは、そのままセオにもたれかかるようにして倒れ込んだ。
「お、おいっ!?」
「……あの、えっと、ごめんなさい。これは貧血みたいなものだから……しばらくすれば治る……から、平気……」
「はぁ? 何言ってんだ? この状態で平気なわけないだろ……」
とその時、右腕に縋りついていた老人の霊の声が、サミルの脳内に響き渡った。
『――お願いじゃっ! ワシはあの娘に逢いたいだけなんじゃっ!』
そのあまりに強烈な想いの波に、サミルはぎゅっと目を瞑り、歯をくいしばる。
(あの娘? あの娘に何を伝えたいの?)
溢れんばかりの想いのその先には何が――?
『――逢って、謝りたいのじゃ。あの娘に、自信を持たせてあげたいのじゃ!』
(……わかったわ。その想い、必ず伝えてあげる。だから、あの娘がどこにいるのか教えてくれる?)
『――……リルカ。ああ、ワシの可愛いたった一人の孫娘。『オーベル』の後を継げるのは、あの子しかおらんのじゃっ!』
(『オーベル』の、リルカさんね。じゃあ、貴方の名前は?)
『――リムザン。ああ、頼む、どうかあの娘に伝えてほしいのじゃ……』
(わかりました。リムザンさん、貴方のその大切な想いは、サミル=シルヴァニアが責任を持って必ずリルカさんに伝えます――)
サミルが心の中でそう応えるや、おじいさんの透けた体からまばゆい光が生まれ、やがてそれは一粒の小さな種へと姿を変えた。
サミルは空中に浮かんでいるキラキラと白く輝く小さな種を握りしめると、閉じていた瞳をそっと開いた。
「うわ、えっと……セオ!?」
目を開いた瞬間、自分がセオに抱きとめられていた状況を思い出して、動揺する。
この状況は、一体何と説明すればいいのか。わずかな時間だったとはいえ、おじいさんとの会話は聞かれていないはずだし、光も種も見えていないはずだとして……気を失っていたことにすればいいのだろうか。
「あの……ごめんなさい、その、寄りかかってしまって。多分もう大丈夫、だから」
しどろもどろになりながら、サミルはセオから一歩離れようとして――失敗した。
霊から想いの種を受け取るのに精神力を使ったせいで、まだ足に力が入らない。 ぐらりとふらついたところを再び支えられる羽目になってしまったのだが……。
「今のは一体……何だ?」
呆然とした様子でつぶやかれたセオの言葉に、サミルは息をのんだ。
(まさか、セオには見えていたの!?)
「……え、ええと、何のこと?」
慌てて誤魔化し、しらばっくれたサミルに対し、セオは思いっきり眉を寄せる。
「今、誰かと話してただろ、お前……」
(やっぱり、バレてる? でも、なんで見えてるの?)
「というか、その手の中のモノは……何だ?」
「ちょ、ちょっと待って! 触ったら『想い』が消えちゃうから触らないで!」
「消える? ……よくわからんが、それは一体……」
セオは険しい表情のまま、サミルに問いかける。
「これは……『想いの種』よ。早くコレを、『オーベル』のリルカさんに届けてあげないといけないんだけど……」
自分の役目を思い出して、焦り始めたサミルだったが、悔しいかなまだ身体が言うことを聞いてくれそうになかった。
「どうしよう、早く……早く届けないと……想いが消えちゃう前に」
「……わかった。いや、やっぱりよくわからんけど、とりあえずそれをリルカって人に届ければいいんだな?」
「そ、そうだけど……きゃっ、セオ!? 何すんのよ!」
軽々《かるがる》とサミルを抱き上げたセオは、周囲の視線など気にした風もなく、そのまま路地を出て歩き始めた。
「ちょっと、どこ行くのよ?」
暴れる気力がないので抱えられたままになっていたサミルは、躊躇いもなく歩き続けるセオに首を傾げた。
「どこって、リルカって奴がいる『オーベル』って店に決まってんだろ。届けたいんだろ、その『種』とやらを」
「う、うん。でも、お店の場所、知って……?」
セオは知ってるから、こうしてどこかへ向かって歩いているのだろう。
夕方にも同じような会話をしたことを思い出して、サミルは慌てて口を噤む。
「ったく、ホント、お前に関わるとロクな事態にならねぇのな。なんなんだ、一体?」
「ごめんなさい……」
それからほどなくして、宿屋や泉湯などの建ち並ぶ繁華街にある『オーベル』という店に辿り着いた。
しかし、夕食時の最も賑わう時間帯であるにも関わらず、その店に客が入っている気配はまったくなかった。
小さな窓の奥からは、ただぼんやりとした蛍石の光が漏れている。
「とりあえず、中に入ってみるぞ」
「うん……あ、多分もう立てるから、大丈夫」
「おう……」
そっと下ろしてもらったサミルは、まだわずかにふらつきながらも何とか自分の足で立つことができてホッと息をつく。
そしてドアを開けると、チリチリーンという鈴の音が、誰もいない店内に響き渡った。
その音を聞きつけたのか、カウンターの奥から女性が一人、驚いたように出てくる。
「い、いらっしゃいませ……?」
腰まである長い黒髪と、紫色の瞳を持つ女性に、消え入りそうな声と引きつった笑顔で迎えられ、サミルとセオは思わず顔を見合わせた。
その自信がなさそうな様子では、客足が遠のいても無理はない。店主がこんなに不安そうでは、出される料理にも期待などできようはずもないではないか――。
サミルはふとそう思ったものの、食事しにきたわけではないことを思い出して気を取り直すと、静かに微笑んで、女性の前に歩み出た。
「ええと……貴女がリルカさんでしょうか?」
「そう、ですけど? あの……あたしに何か用、ですか?」
サミルはその答えにホッと小さく息をつきながら頷くと、彼女の前に『想いの種』を差し出した。
「……これは?」
「リルカさん、この種には貴女のお祖父さまから託された『想い』が込められています。どうか、受け取って頂けますか?」
「おじいちゃんから……託された?」
サミルは頷き返すと、リルカが伸ばした手のひらに種を置き、その上に自分の手を重ねる。そして目を閉じ、心の中で種に向かって呼びかけると、再び先ほどのようなまばゆい光が生まれた。
小さな種が芽吹き、みるみるうちに青い葉を広げていったかと思うと、ポンッと弾けるような音とともに白い蕾を付けた。そしてその蕾は、ゆっくり花開いていくと同時に、ある日の様子を蜃気楼のように宙空に映し出した。
幻想的なその光景に、何が起きるのかと不思議そうに見つめていたリルカとセオは息をのんだ。
唐突に、ガシャンと食器が割れる音が響き、続いて若い娘と老人――リルカと生前のリムザンが言い争っている声が聞こえてくる。
『一度くらい賞を獲ったからってなんじゃ、偉そうにしおって。この店にそんなチャラチャラした見た目だけの料理なんぞ、必要ないわい!』
『何よ、あたしだってこの店のために色々考えてるのに! おじいちゃんの古くさい料理じゃ、そのうちお客さんなんて飽きて来なくなるに決まってるわ!』
『おうおう、来なくて結構。わしゃ、このままの店がいいんじゃからな! 大体、お前のような未熟もんにゃ、この店を譲るつもりはないわ!』
『何よ! あたしだって、こんな古くさい店なんか、頼まれても継いであげないんだから! おじいちゃんなんか、大っ嫌い!』
――それは、リムザンが亡くなる直前の出来事だった。
ひどい言い合いの後、一人で出かけていったリムザンは、途中で心臓発作を起こして倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
それからというもの、自信を失ったリルカは、生活費を稼ぐためにと店を開けても客がこない日々に落胆し続けていた。
次々と映し出されていった過去の光景に、リルカの瞳から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちてくる。
「おじいちゃん、ごめんなさい。私、ずっと謝りたかったのに……」
その言葉に反応したかのように、真っ白だった花びらが色付き始める。
やがて、ヒマワリのように鮮やかな黄色に染まった大輪の花から、声が聞こえてきた。
『――リルカや、もう泣くでないよ。ワシも大人げないことを言うてしもた。この店を継げるのはお前だけじゃ。どうか、もうワシのことは気にせんで、自由に……リルカらしい店にしておくれ』
「おじいちゃん! 嫌よ、もうどこにもいかないで!」
『――ああ、いかんよ。ワシはずっとここで、お前を見守っておるからの』
満足そうな笑みを浮かべたリムザンはそう言うと、光の粒子となって空気に溶け消えていく。
あとには、キラキラと輝く小さな種が一粒、残されていた――。