第2章 *8*
深夜――。
まもなく満ちようとしている月を窓越しに眺めていた男は、微かなノック音に気付き、視線を自室へと戻した。
「失礼致します、ヴァンゼス様」
足音を立てずに入ってきたのは、涼しげな顔をした黒髪で長身痩躯の青年だ。彼は無駄のない足取りでそのまま灰藍色の髪をした男の前までくると跪き、頭を垂れた。
「彼女について、何かわかったのか?」
「はい。それから、ガレス=シルヴァニアの行方についても」
「ほう、それは興味深い。母上が昔、編制したという捜索隊などより、お前の方がずっと有能だな。やはりアイツではなくて、私付きに……は、なってくれぬか?」
「申し訳ございません」
頭を垂れてはいても、この青年が生涯の忠誠を誓っているのは自分にではない。
きっぱりと断るその揺るぎない姿勢と、彼の主へ向けられた想いに、ヴァンゼスは悔しさと嫉妬のような感情が胸の内で暴れだしそうになるのを、静かに堪えた。
「……まあいい、今言ったことは忘れろ。報告を続けてくれ」
「はい。まず、サミル=シルヴァニアについてですが、彼女はやはり、銀犬狼族の元族長であり彩逢使としてこの城に仕えていた、ガレス=シルヴァニアの娘でございました。そして母親のシエルもまた、この城に仕えていた銀猫兎族の女性……リゼオス様の母君であられるラエル様の妹御……」
「なに、ラエル様の妹? では彼らは……従兄妹同士ということなのか……?」
驚嘆混じりのつぶやきに、青年は小さく頷き、そして続けた。
「城から逃げ、シルヴァニア一家が暮らしていたのは、ヒエムス国にほど近いウェール国北部、名もなき霧深い森にある、猫兎族の集落だったようです。とはいえ、ガレスについては、捜索隊を攪乱するためか、ガッシュ=シルヴァンと名を偽り、アエスタ国で想伝局員の資格を取得後、広域配達員として大陸各地を転々としていたとか……」
「ほう、彼は今もまだ現役で?」
「……それが――」
その先を言いづらそうに躊躇った後、青年の口から語られた内容に、ヴァンゼスは思わず眉を寄せる。
それから長い沈黙を経て、ようやく一つの重いため息が、室内にこぼれ落ちた。
報告を終えた青年は、次の指示がないと判断するや、それきり何も言わず、本来の主の下へと帰っていった。
広い部屋に一人残ったヴァンゼスは、窓をそっと開け、夜空を仰ぐ。
獣人を獣の姿へと変えてしまうという満月の光は、人間をも狂わせるか――。
「……獣人狩り、か。まことに恐ろしいのは、獣ではなく、人間の方なのかもしれんな」
静かに輝きを放ち続けている月を見上げ、ヴァンゼスは独り言ちる。
その真紅の瞳には、深い悲しみの色が滲んでいた――。