第2章 *6*
サミルがフィラナへの想いを込めた種をセオに託して届けてもらってから、早一週間が過ぎようとしていた。
想伝局員試験の二次審査の方は、《《比較的》》順調に進んでいる。
午前中の窓口対応では、サミルは『想いの種』の利用者を増やそうと頑張り、セオも何とか接客用の笑顔……に近いものを出せるようになっていた。
そして、午後の日課となった地域への配達業務の方も、ようやく王都の地理に慣れてきたサミルに、今日から一人で配達しても良いという、グランディの許可が下りた。
「あー、ようやくお前のお守りから解放されるのか」
「むぅ……その言い方はちょっとムカつくけど、でも……本当に色々教えてくれてありがとうね、セオ」
集配室で今日の午後配る分の荷物や書簡を受け取りながら、サミルは微笑んだ。
「とか言って、一人になった途端、また何かやらかすんじゃないだろうな?」
「うわー……私ってそんなに信用ないの?」
「当たり前だ。あれだけ色んなことやらかしておいて、信用できる奴なんているか!」
などと、これもまた日課となったように、サミルとセオが言い合いをしていると、そこへ様子を見に来たグランディが豪快に笑った。
「お前ら、ほんっとに仲が良いなぁ!」
「ちょっとグランさん、これのどこが仲良さそうに見えるんですかっ?」
「そうですよ、グラン指導役。こんな奴とセットみたいに言われるのも癪です」
「まあそう言うなって。お前ら二人の局内での評判は上々(じょうじょう)なんだぞ~。晴れて想伝局員になれる日も近いな!」
しかし、肝心な、その審査をすると云われている局長には、いまだに一度も会えていなかった。
ここまで会えないと、本当にそんな人物がいるのだろうかと疑いたくなってくる。
「っと、冗談はさておき……」
「「冗談だったんですか!」」
サミルとセオのツッコミが綺麗に重なり、グランディが吹き出した。後ろで荷物の選別作業をしていた局員たちも、何人かが堪えきれずに忍び笑いを漏らしている。
「あー、ほら皆、仕事に集中しろー。で、だ。サミルちゃんよぉ」
「な、なんでしょう?」
グランディの表情が急に真面目なものへと変わり、サミルはごくりと唾を飲み込んだ。
「今日の午後頼む、配達先のうちの一件……ロードン氏のとこなんだがな……絶っ対に、遅れるんじゃないぞ?」
「そ、そんなの分かってます。もう道に迷ったりはしませんから、大丈夫ですよ」
「ああ。それに、配達した時に、何を言われても絶対に笑顔で答えるんだ。これ、最重要課題だからな。よく覚えておけ?」
「は……はい」
「あの、グラン指導役、そんなに重要なお客様、こいつなんかに任せて大丈夫なんですか? 他の配達員とか、いないなら俺が行きますけど?」
セオの申し出に、妙なプレッシャーを感じていたサミルは目を輝かせた。
が、期待はすぐに塵と消える。
「できるならもちろんそうしたいんだがなぁ。残念なことに、俺らじゃダメなのさ」
「……というと?」
「ロードン氏は局長の古くからの知り合いでな、ウチの局のお得意様なんだが……性格がちょっとばかりやっかいでな。配達員は女でなければ受け取らないとか、そういうことを平然と言うヤ……御方なんだ」
つい、『ヤツ』と言いそうになったのをグランディは笑ってごまかしつつ、説明を続ける。
「いつもは、ベテラン配達員のライラさんが行ってくれてたんだけどよ。その彼女が昨日から風邪で寝込んじまってて、しばらく出て来られそうにないんだ」
今このユウファ中央想伝局には、女性の配達員が彼女一人しかいないのだという。
グランディは昨日、さすがに審査中のサミルを行かせるのは厳しいと判断して、彼女の存在を隠し、代わりの男性配達員に届けさせたのだという。
しかしその結果、ロードン氏は荷物を突っぱねた挙句、こう言ったという。
――もう一人、配達を担当しているめずらしい銀髪《銀髪》の女がいるだろう、と。
めずらしい髪の色をしているがゆえに、街では意外と知られた存在になりつつあったことを、サミルはグランディのこの話で初めて知った。
(私……そんなに目立ってたんだ……)
「というわけで、頑張ってきてくれ。なんだったら、ロードン邸の近くまではセオがついていってやったらいい」
今日から一人で配達してもいいという話はなんだったのか、とサミルとセオは顔を見合わせて苦笑する。
「いえ、私一人で行きます。大丈夫ですよ、私、笑顔で接客するのは得意ですから!」
「そうか? まぁ、ライラさんが復帰するまで少しの間の辛抱だから、しっかり頼んだぞ」
「はいっ!」
――などと、張り切って想伝局を出発したサミルだったが、イース地区の最北端、坂を上ったところにあるロードン邸を見た瞬間、早くも心が折れそうになった。
まず、邸の外観からして、主の趣味の悪さを物語っていた。入口の大扉へ続く道の脇には、財力を誇示するかのように、大理石の置物が無数に飾られている。それも、詩樹大陸ではめずらしいといわれている獣や、架空の幻獣、恐ろしい形をした魔獣などで、小さな子どもが見たら間違いなく泣き出すだろう形状のものばかりだ。
「……なんだかすっごく嫌な予感するけど、でも、仕事だものね。頑張らなきゃ!」
サミルは肩にかけていた鞄から、ロードン氏宛ての小さな木箱を取り出すと、深呼吸をした。
そして、大扉の脇に取り付けられた呼び鈴――これも、よくわからない生物の形をしている――を恐る恐る鳴らした。
「ユウファ中央想伝局から、お荷物をお届けに参りました!」
扉が開くなり、サミルは出てきた人物に精一杯の笑顔を向け、木箱を差し出す。
しかし出てきた男性はただの使用人だったらしく、苦笑されてしまった。
「どうぞ、奥へ……」
中へ入るよう促され、サミルは緊張感を高める。
「……し、失礼致します」
床一面に張られた白い絨毯を、自分の靴で汚してしまわないかとハラハラしながら、使用人の後をついていく。やがて、長い廊下の突き当たりの部屋に通された瞬間、サミルは思わず顔を歪めた。
(何これ……煙草臭い……)
部屋中に充満し、視界を微かに白く霞ませているのは、わずかに甘い香りの混ざった、煙草の煙だった。
「おお、ようやく来おったな。お前が新人の女配達員か?」
部屋の奥から聞こえてきた男のしゃがれた声に、サミルは引きつった笑みを浮かべる。
「女」という部分が強調されたように聞こえ、なんとなく腹が立ったが、そこはグッと堪えて、一歩踏み出した。
「あ、あのっ……お荷物のお届けに参りました。この木箱は、どちらに置けばよろしいでしょうか?」
「こちらまで持ってきてくれるかな?」
「は、はい……」
恐る恐る声の方へと近づいていくと、毛皮張りのソファに身を沈めている男の姿がようやく見えてきた。
年は五十を過ぎた頃か、でっぷりと肥えた腹と、禿げ上がった頭皮を必死に隠しているわずかに残された黒髪や、口の周りに蓄えられた髭は、あまり清潔そうには見えない。
木箱を差し出したサミルの姿を、まるで品定めするかのように上から下まで見やるその瞳は怪しげな紫色に輝き、煙草をくわえた口元は、だらしなさそうにわずかに開いている。
「ほほう……なるほど。こりゃあ確かに、めずらしい髪の色をしておるな」
「あ、あの、お客様、お荷物を……」
そんなものはついでだと言わんばかりに、ロードンはサミルから受け取った木箱を、ソファの前に置かれた大理石のテーブルに放った。
サミルは木箱がぞんざいに扱われたのを横目に見て驚いた。
その程度の荷物をわざわざ届けさせられたのだと思うと釈然としない。が、すぐに気を取り直すと、帽子を片手で押さえながらぺこりと頭を下げ、そのまま踵を返して部屋の扉へと歩き始める。
「そ、それでは、私は失礼致します……」
(もう嫌だ、早くここから出て、新鮮な空気が吸いたい――)
しかし、半ば涙目になりながら、足早に進もうとした瞬間、背中からかけられた声に、サミルは思わず身体を震わせた。
「おいおい、お前さんの仕事は、荷物を届けてそれでおしまいかぁ?」
「え?」
「なんだ、わからんのか? それならワシが丁寧に教えてやろうじゃないか。ワシぁ、《《親切》》だからなぁ」
「あ、あの……?」
ロードンの言っていることが、サミルにはさっぱり理解できなかった。
(想伝局配達員の仕事は、荷物を届けること――それ以外に何があるというの?)
サミルが眉をひそめていると、
「まずは、そこのソファに座りなさい」
人を見下したような不愉快な笑みを浮かべながら、ロードンが命令するような口調で告げた。
サミルは反論できない自分の立場を呪いつつ、指示通りソファに黙って座る。
「…………」
「ふぅむ、なかなか素直な性格をしとるようじゃな。お前さん、名前は?」
「……サミル、です」
「ほう、サミルとな。歳はいくつかね?」
(ふ、普通、女性にいきなり年齢を聞く!? なんて失礼な人なの……)
喉まで出かかった不満の言葉をなんとか飲み込み「十七歳です」と答えると、ロードンは明らかに目を輝かせた。
ライラという配達員がいつもこんな男を相手にしていたのかと思うと、気の毒に思うと同時に、尊敬の念を抱いた。
「ところで、お前さん……大事なお客様に接する時は、帽子を外すのが礼儀だと教わったことはないのかね?」
「……そっ、れは、その」
いきなりの指摘に、サミルは瞬時に混乱に陥った。
帽子を取ったら、即座に獣人であることがバレてしまう。でも、帽子を取らなかったら、間違いなくロードンは怒り出すだろう。
頭に傷があるから、などという言い訳が、果たしてこの人に通じるだろうか――なんとなくだが、通じない気がした。
ならば、どうしたらいいのか。
獲物に狙いを定めた狩人のようなロードンの視線から逃れるように、サミルはぎゅっと目を瞑って俯いた。
膝の上においた両手が、無意識のうちにズボンを掴む。
「ああ、言い方がちょっときつかったかな。せっかくお前さんの髪は綺麗なんじゃから、帽子を取ったらどうだ、とワシぁ言いたかったんじゃよ」
優しさを取り繕うようなその口ぶりは逆に気味の悪さを感じる。
「……あの、すみませ……申し訳ございません。実は、頭に……小さい頃に負った傷が、あって……お見苦しいかと思いますので、このままではダメでしょうか……」
何とか勇気を振り絞り、サミルは消え入りそうな声でそう言った。
が、かすかな希望は次の瞬間、無残にも打ち砕かれた。
「何をぼそぼそ言っとる! 帽子を取れと言っとるのが聞こえんのか? え、自分でできないというなら、ワシが取ってやろうか!」
「やっ――」
堪えかねたように突然立ち上がったロードンは、鼻息を荒くしながら、サミルの帽子を引っ手繰った。
そして、帽子の中からぴょこんと現れた銀色の犬耳に、一瞬ポカンと口を開けた。が、すぐに、再びソファに重たそうな腰を下ろすと、感嘆の声を上げた。
「……ほ、ほぉう! こりゃあ本当にめずらしい! お前さん、獣人だったのか!」
サミルは両耳を隠すように両手で押さえながら、びくりと身体を震わせた。
「なるほど、その耳の形は犬狼族じゃな。それも、獣人の中では最も高貴といわれとる、《《銀》》犬狼族!」
正確にいえば、サミルは銀犬狼族と銀猫兎族のハーフなのだが、そんなことを丁寧に説明してやるつもりは毛頭ない。銀犬狼族が『高貴』といわれていることは初めて知ったが、そんなことはもうどうでも良かった。
(早く、帰りたい――)
こんなことなら、軽蔑のまなざしを受けて、追い出される方が、まだ気が楽だったかもしれない。
自分なんかより、この男の方がずっと獣じみている。まるで、弱い獲物を追い詰めて楽しむ、獰猛な熊のようだ。
「何だ、急に黙りおって、つまらん……、ああ、そうじゃ、ちょうど良い。そこの木箱を開けてくれんかね?」
「…………はい」
今にも溢れそうな涙を堪え、サミルは木箱を手に取る。開かないように留めてあった紐を解き、蓋を取ると、中には白くて小さな円錐型の何かが、白い綿に埋もれるようにして収められているのが見えた。
「それがなんだか、わかるかね?」
「……いえ」
「わからんか? それはな、某所から取り寄せた逸品でな、《《銀犬狼族の牙》》だ」
「――っ!」
ロードンは絶句したサミルをちらりと見やると、その木箱から牙をつまみ上げ、窓から射し込んだ光にかざした。
キラリと白く輝くそれは、紛うことなき、獣の牙。
それを満足そうに見つめている男の欲望に気付き、サミルは総毛立った。
「おや、どうしたね? 顔色が悪いようじゃが……」
――もう、限界だった。
「申し訳ございません、気分が優れませんので……これで失礼させて頂きます」
サミルは震える声でそう言うと、床に投げ出されていた帽子を拾い、踵を返した。
「これっ、待たんかっ!」
慌てたように叫ぶロードンの声を振り切り、サミルは長い廊下を全力で駆け抜けて重い扉を押し開ける。
耳を隠すための帽子だけは無意識に被り、そのまま何も考えずに走って走って走った。
やがて、邸が見えない通りまで来た時、サミルはようやく足を止めた。
ひざに手をつき、何度も深呼吸をして、上がった息を整える。
外の空気がこんなに美味しいと感じたのは、生まれて初めてだった。
「……おい、どうした? 何かあったのか?」
背後から聞こえてきたセオの声に、ようやく我に返ったサミルは、次の瞬間、ピンと背筋を伸ばして振り返った。
絶対に何も悟られないように、わずかに笑みを浮かべ、小首を傾げて見せる。
「セオ? あ、そっちも、もう配達は終わったの?」
「……お、おう」
セオは一瞬、拍子抜けした様子でサミルを見つめてから、訝しげに眉をひそめた。
「お前、例のロードン氏への配達は、大丈夫だったのか?」
「うん、まあ、なんとかね……」
「本当に?」
「やだなぁ……本当に大丈夫だよ。ほら、私、接客は得意だって言ったじゃない。確かにちょっと嫌な親父ではあったけど!」
苦笑いを浮かべながら歩き出したサミルに、セオはどこか釈然としない表情を浮かべたまま、小さくため息をついた。
「何もなかったなら別にいいんだが……」
それからセオと共に想伝局へ戻ったサミルは、グランディにも「問題なかった」と報告すると、驚かれつつも褒められた。
明日もまた配達を頼むことになりそうだと言われた時は、さすがに苦笑いを浮かべたが、本当のことを打ち明けるわけにもいかなかった。
獣人だということがバレて、セオやグランディ、仲良くなった局員の皆から、冷たい視線を浴びるような事態だけは、どうしても避けたかった。