*序章*
「……んもぅ、最悪っ!」
頭上で煌々《こうこう》と輝いている満月が恨めしい……なんて、それはただの八つ当たりだ。
(そんなことはわかってる、わかってるけど……!)
それでも、納得できない状況に腹が立って、悔しくて――狼の姿をした獣人の少女は、銀色に輝く毛並みを春の夜風になびかせながら、思わずつぶやいた。
ふと足を止めて振り返れば、夜でも明るいウェール国の王都・ユウファの街並みが見える。
蛍石の放つ淡く黄色い街灯に包まれた城下街は、人間たちの暮らす温かな場所。
獣人には、その温かさの欠片も分けてくれないのだろうかと、生まれて初めて突きつけられた冷たい現実に、サミルはため息をついた。
王都へ来てから半月の間ずっと泊まっていた宿屋を、ついさっき追い出された。
理由はただひとつ――サミルが『獣人』だったから。
事の発端は、宿屋の一階にある食堂で一緒に夕食をとっていた友人が、酔っ払い親父に絡まれたことだった。
その友人を助けようとして親父と言い合いになった挙句、サミルは表通りに連れ出され……その時、うかつにも満月の光を浴びてしまったため、不本意にも本来の獣姿に変化してしまったのだ。
――不覚だった。
獣人といっても、特徴的な獣耳や尻尾などを隠していさえすれば、見た目は普通の人間とさほど変わりはない。
しかし、満月の光を浴びると、ただの獣姿になってしまい、朝陽を浴びなければ、元の人間姿に戻ることはできないという欠点があった。
(それにしても、まさか本当に、私が『獣人』だとわかった途端、みんな、態度をコロリと変えるなんて……)
人間と獣人の仲があまりよくないというのは、色々な人の話で聞いて知っていたけれど、これまで獣人だけの村から出たことのなかったサミルは、本当の意味では知らなかった。
酔っ払い親父が獣姿に驚いて逃げていったのはともかく、それまで親切にしてくれていた宿屋の主人が急に『出て行ってくれ』と言い出したり、食堂にいた客に『ケモノ臭い』だの『汚いあっちいけ』だのと罵られた。
そして、何よりもつらかったのは、王都へ来て初めてできた友人にまで目を背けられたことだった。
友人だと思っていた彼女は、サミルが宿を追い出されそうになった時、助けてくれるどころか、ずっと俯いたまま、とうとう最後まで何も言ってくれなかった。
(せっかく、仲良くなれたと思ったのになぁ……)
サミルは仕方なく、主人に投げ出された自分の小さな荷物を口でくわえ、逃げるようにして街外れにある森の方へと駆けてきたのだった。
ささめくような星明かりの下、とりあえずの寝床を探すべく、サミルは周囲を見回した。
人目につきにくい茂みに潜むとするか、大木の根と根の隙間に潜り込むとするか……。
朝になって人間姿に戻った時のことを考えると、後者の方が枝葉で肌を傷つけずに済む分、魅力的に思えた。
そんな時――、森の奥にひっそりと佇んでいる小屋が、サミルの目に飛び込んできた。
おそるおそる近づいてみれば、人の気配はしないものの、そこは妙に綺麗な小屋に見えた。
錠の付いていない扉は、かすかに開いている。
そっと中を覗き込んでみれば、丸太で作られた椅子が二つと、小さな丸テーブルが部屋の真ん中に、隅にはベッドらしきものも置かれていた。
警戒しつつ足を踏み入れたサミルは、テーブルの上に見慣れた緑色の背表紙の本があることに気付く。
「これ……詩樹大陸史だ……」
その本は、今サミルがいるこのウェール国をはじめ、詩樹大陸に存在する他三つの国と、この世界を創ったといわれている四羽の神鳥――詩樹鳥が住んでいる島に纏わる歴史などが簡潔にまとめられた良書だった。
埃が積もった形跡や綻びはなく、紙の状態もいい。
(やっぱり、ここには誰か住んでいるのかな……?)
しかし、それにしては生活感があまりない。調理場もなければ食料を置いてある様子もない。棚はいくつかあるものの、全て空っぽになっている。
まるで、誰かがちょっと本を読んで休憩するためだけに作られたような空間だった。
(まぁいっか。今誰もいないのなら、今夜はとりあえずココで……)
けれども、緊張感を解き、寛ごうとした次の瞬間、サミルは全身の毛を逆立て、外に意識を向けた。
(誰かくる……!?)
小屋に近づいてくる何者かの気配――相手もサミルの気配に気付いて警戒しているのか、扉が開くまでにはわずかな間があった。
しかし、扉は突然、勢いよく蹴り開けられた。
「……なんだ。野犬か」
扉口に姿を現した青年は不機嫌そうにつぶやくと、勝手知ったる様子でズカズカと部屋の中へ入ってくる。
(や、野犬ですってぇ!? 私は誇り高き銀犬狼族なのに――)
思わず反論して叫びそうになったのを堪え、サミルは青年をキッと睨みつけた。
しかしサミルはすぐに思い直す。
獣人であることがバレたらどうなるか……さすがに一晩のうちに二度も人間と《《いざこざ》》は起こしたくなかった。
一方、青年はサミルの視線をさらりと受け流すと、持っていた蛍石をテーブルの上に置いた。
「……ったく、シェルスのやつ、なんで一冊だけ忘れるかな」
足を組んで座りながら独り言をつぶやき、ため息まじりに本をパラパラとめくり始める。
(……っていうか、私の存在は完全に無視?)
サミルの方はなおも警戒心を緩めることなく、部屋の隅から相手をじっと見据えている。
ぼんやりと明るい蛍石≪ランプ≫に照らし出された青年は、見れば上等な純白い衣服に身を包んでいる。腰に佩かれた煌びやかな長剣がただの飾りでないことは、均整のとれた体つきと無駄のない身のこなし方を見れば、すぐにわかった。
サミルもそれなりに剣術を使えるが、だからこそ、この青年の腕が素人の域を超えていることが容易に推測できる。
(この人……何者なの?)
わずかに開いていた窓から流れてきた夜風に、青年の黒髪が揺れる様子は、どことなく優雅な匂いを漂わせている。わずかに幼さを残した顔立ちからするに、年はサミルと同じ十七歳か、それより少し下といったところだろう。
しかし、にじみ出た気品と圧倒的な存在感が、彼が只者ではないことを物語っていた。
「……で、そこのお前はいつまでそこでそうやって警戒してるわけ? 俺、別に野犬退治に来たわけじゃないぞ」
ようやく青年の視線がサミルの方へ向けられた、瞬間――。
ぐぅ――きゅるるるぅ。
サミルのお腹の音が、静かな小屋の中で盛大に響き渡った。
「……ふっ」
青年はわずかに口元を緩め、わずかに漂っていた緊張感はあっという間に吹き飛んだ。そしてもう一方のサミルは、恥ずかしさのあまり、その場に小さく丸まった。
(やだもう……恥ずかしすぎるっ!)
そういえば、サミルは夕食を食べ始めようとしたところでゴタゴタやらかして、そのまま宿屋を追い出されてしまったせいで、食事をほとんど摂っていなかったことを思い出す。
青年は丸まって縮こまったサミルを見て、肩を震わせ、静かに笑っている。かと思えば、上着のポケットから何かを取り出し、それをサミルの目の前にポンと置いた。
「悪いが、ここに食べ物は置いてないぞ。こんなのでよけりゃ、やるけど」
丸くて小さなそれは、桃によく似た橙色の果実だった。
(あ、美味しそう……)
ほんのり漂ってくる甘い香りに、サミルのお腹が再び空腹を主張して小さく鳴る。
(でも、見知らぬ人間から貰って、万が一、毒でも入っていたら……)
サミルがなおも警戒するような視線を向けると、青年はそれを鼻で笑い、サッサと食べろと手を振った。
(……ううん、きっと、人間の中には獣に優しい人だっているのよね!)
先ほど抱いた人間への不信感はどこへやら、サミルは心の中で親切な青年にお礼を言いながら、その実にパクリとかじりつく。
――次の瞬間、サミルは思わず飛び上がった。
(何これ!? す、すっぱ~い!)
甘くて美味しそうな香りがしたは一体何だったのか。思わず震えがくるほどの酸味が口の中に広がり、思わず涙目になる。
(こんなの、食べられるわけないじゃない……!)
どういうことかと青年の方を見上げれば、「ひっかかったな」と言わんばかりに不敵な笑みを浮かべている。
(……前言撤回! この人、全然優しくない!)
サミルは全身の毛を逆立て、怒りを青年にぶつけた。
「お前、獣のくせに食える実かどうかの判断もできねぇなんて、これまでよく生きてこられたなぁ」
神経をさらに逆なでするような発言に、サミルはさらに牙をむく。
(うわー、人間姿だったら、絶対にコイツ一発殴ってやるのに! って……あれ?)
サミルは噛み付いてやりたいのをぐっと堪えて青年を睨みつけ……ふと気がついた。
(あれ? この人、さっきまでと髪の色が違う……?)
青年が何気なくかきあげた前髪の一部が、綺麗な銀色に輝いている。
つい先ほどまでは、確かに真っ黒だったはずなのに、まるで何かに反応したかのように――。
(しかも、銀犬狼族の毛並みによく似た色……?)
「……なんだよ、お前、これが気になるのか?」
サミルの視線に気付いた青年は自分の前髪をひと房つまむと、眉間に皺を寄せた。その表情は、どこか哀しそうにも見える。
「これはさ……」
青年は何かを打ち明けかけ、しかし躊躇った言葉の続きは、深いため息へと変わった。
「ちっ、もう来やがったか」
(え……?)
そこでようやく、遠くから馬の蹄の音が近づいてきていたことにサミルも気がついた。かと思うと、小屋の前で馬が嘶き、扉がノックもなしに開かれる。
入ってきたのは、涼しげな顔をした長身痩躯の青年だ。
「やはりこちらでしたか、リゼオス様。そろそろお戻りになりませんと……」
安堵の色を顔に浮かべて近づいてきた青年は、足下のサミルの姿に気付くや、瞬時に固まった。
「……っ!!」
青年は明らかに顔をひきつらせ、怯えるように、じりっ、と一歩後ずさる。
「あれ? シェルスって《《犬も》》苦手だっけ?」
「い、いえ……そういうわけではないのですが……あの、そちらは?」
戸惑いを隠せぬまま問いかけたシェルスという名の青年に、リゼオスと呼ばれた青年が鼻で笑いながら答える。
「ただの野犬だろ。俺がここに来たら、勝手に中で寛いでいやがったんだ」
(だから、私は野犬じゃないってば! それに、全っ然、寛いでなんかいなかったわよ!)
サミルは心の中で全力でツッコミを入れつつ、それが声に出ないように必死で堪えた。
「さ、左様でございますか。それでええと、あの……」
「わかってる、もう帰るよ。ったく、少しくらい出かけたっていいじゃねーか。どうせ俺なんて居てもいなくても、誰も心配なんてしてないんだろ?」
そのあまりに投げやりな言い方に、一方の青年が目を瞠る。
「リゼオス様! そのようなことは決して!」
「あー、はいはい。お前も俺みたいなやつの従者なんかさせられて、本当はうんざりしてるんだろ。仕方ないから帰ってやるよ」
リゼオスは深いため息をつきながら立ち上がると、全くやる気のない足取りで小屋から出て行く。
次いで、従者とおぼしき青年シェルスが出て行こうとして、不意にその足を止めた。
「……わたくしは心配しますよ、リゼオス様」
遠ざかっていく主の背に向かって、消え入りそうな声でつぶやくと、サミルを一瞥してから歩き去っていった。
やがて、小屋に暗闇と静けさが戻ってくると、サミルは床に転がっている食べかけの酸っぱい果実を見つめながら首を傾げた。
「あいつら、何者だったのよ……?」
(なんだかよくわからない人たちだったな……)
突然現れて、嵐のように去っていった彼らに、サミルは呆然と佇む。
(でも……)
不思議なことに、窓の外で輝いている月が恨めしいとは、サミルはもう思っていなかった――。