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雨色  作者: 森本泉
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第九話

 西くんから祝砲のメールが届いた。彼は素っ気無い文面で頑張ってこいよ、というようなことを書いていたが、最後意味深に

「忘れずに」

 と書かれていたので僕はおいおいおいおいと思った。

 ともかくも僕は完全にK市近代美術館のことで頭がいっぱいになっていた。僕はネットや情報誌で片っ端からK市を中った。確かに今企画展で森村泰昌展をやっている。料金を調べて、交通アクセスを調べて、忘れちゃいけない開催期間と閉館日をチェックして、行って帰るだけじゃ間が持たないからちょっと食事くらいするところも探して、その間中ずっと僕の頭の中にはウスルフルズの「バンザイ」がエンドレスロールしていた。

 明日になったら。僕は多分今夜寝られないことを覚悟していた。多分、今夜この街に居る人間の中で僕が一番明日を待ち望んでいるんだろう。

 30歳か。生きてみるもんだな。

 いきなり爺さんになったようなことを僕は思っていた。こんな気持ちになったことなんて今まで一度だって無い。ごく小さいころを除けば僕は誰かを好きになってことすらなかったのだ。

「バンザーイ。君に会えてよかった。」

 ネットのページを繰りながら、僕は意図せず口ずさんでいた。


「森村泰昌についてネットでちょっと調べたんですけど、あれはどういう作品なんですかね。絵画、ではないんですよね。」

 待ち合わせ10分前に僕が駅に着いたら、待ち合わせ5分前に清野さんがやってきた。

私待ち合わせで先にこられたことってないのに、と彼女は悔しがっていた。

清野さんは白いコートに茶色のボックスプリーツスカートというシンプルな服そうだったが、襟元のマフラーが目を引いた。鮮やかな毛糸を何色も使って鈎針で編んだマフラーだ。

「それも、ひょっとして。」

 僕は指差して尋ねた。

「そう。とかちゃん作です。」

平日だから急行は空いていた。僕たちは並んで据わり、県境を越えたところにある近代美術館を目指した。

「セルフポートレートっていうんですよ。ヒトナくん、チョコ食べます?」

 清野さんは手のひらにマーブルチョコをばらばら出して見せてくれた。

「大人だからおやつは500円までオッケーです。」

「じゃあ1つもらいます。セルフポートレイト。」

 清野さんは二つぶ指で摘むと、口にほおばった。

「自分で自分の写真を撮るんです。私今注目してるんです。モード系の子達なんかね、自分がドレスアップした写真を写メで撮ってたりしますけどそういうのじゃなくて、もっと完成度が高いものが。

 一人の人間がどんなふうに変身できるかがテーマなアートだと思うんです。森村さんだってそうですよ。同じ人が出ているのに、作品によって全然違う。でも森村さんだってちゃんと分かる。その人でしかない言語が出来上がっているんです。そういうパワーを感じるんですよね。」

 だから楽しみだったんです。と電車の中で清野さんは嬉しそうだった。一か八かだったけど、誘ってみてよかったなと僕も嬉しかった、とてもとても嬉しかった。

 森村人気か、平日ではあるけど近代美術館は賑わっていた。美術の勉強をしている若い人とか、アートファンとか言うらしいこじゃれたおじさんたちがうろうろしていた。

 受付で僕が

「大人2枚。」

 というと清野さんはうろたえた。

「ヒトナくん、悪いですよ。」

「いいんです。これは僕のペナルティなんですから。僕がおごるって言ってここまで連れてきたんですから、今日は僕が払います。」

「いいんですか。」

「いいんです。」

 清野さんがまだ遠慮がちに言うので、僕はその不安を強く否定して見せた。

 森村泰昌展は「女優になった私」というシリーズから始まっていた。アメリカの有名女優に扮した一連のポートレートなんだが、どういうわけか書割は通天閣だったりして、なんというか、新しい。

「バルドー。かわいい。」

 清野さんは一枚の写真の前で立ち止まってしまった。感に入った様子でなかなか動こうとしなかった。悩ましいポーズをしたブリジットバルドー森村に釘付けである。それにしてもすごい尻だ。この人は本当に男なんだよな?

「この人はきっとすごくイケメンなんですよね。」

「いや、案外すっぴんはそうでもないかも知れないですよ。でも、すごく化粧栄えしてますよね。おしり。かわいい。」

 清野さんは同じようにマリリンモンローのヌードの前でも凍り付いてしまったのでさすがに僕は目のやり場に困った。華麗な着け乳を纏ったあられもないヌードである。こういうものを見るとき全くの素人で男の僕は何を思って見たらいいんだろう?これは芸術だ、と思っていればいいんだろうか。しかし森村の体の線は引き締まって洗練されているし、それに何よりもものすごい乳なのだ。

「すごいな、マリリンモンロー。」

 清野さんがフリーズを解除して僕の方を振り返った。

「ヒトナくんはこいうの見てどう思うんですか。」

 と答えづらいことを聞かれた。

「どうって。美しいと思いますよ。」

「それだけ?」

「だってこれは芸術ですよね。美というものの1つの形ですよね。」

「ヒトナくん。言い方が普段と違う。」

「勘弁してください。確かに見づらいです。直視できませんよ。もういいじゃないですか。次行きましょうよ。」

「不思議ですよね。これをアートだって入ったらモザイク入れなくていいし、エロだっていったら検閲がかかるんですよね。何なんでしょう。どこで線引きをしているんでしょう。誰が線を引いているんでしょう。」

「それはきっと偉い人です。さあ次に行きましょう。」

 次のコーナーは「絵画になった私」というテーマだった。これらの中でも森村は一貫して女性に扮していた。ここでも清野さんはいたるところで立ち止まり、美しく着飾った写真の中の彼に釘付けになっていた。

「清野さんってアートが好きだったんですね。」

 僕は清野さんの後ろから歩きながら言った。

「アートというものが何なのか理解していないのでそうだとは言いかねますが、自分が好きだな、と思うものがあるのも確かですね。」

「今日の個展はどういうところが好きですか。」

「どうっていうと。難しいんですけど、私は一本線が通っているものが好きです。開き直っているひとの作品が好きなんです。迷いが無いのが。」

 歩きながら清野さんは説明してくれる。

「例えば森村さんにしてもですね。一見するとわけが分からないですよね。どうして彼は絵画の中の女性に扮しているのか。そこにどんな意図や目的があって、どんな需要があるからこういう活動をしているのか。分からないです。私のような素人にはぜんぜん分からないです。

 でもね、作品を見れば分かることがあるんですよ。彼は、確信してやっているんだろうなって。何に確信しているのかは分かりません。でもきっと、迷っては居ない。自分のやることに、自信っていうとなんかいやな感じですけど、ちょっと違って。きっと何か強い確信を持ってやっている。そういう作品を見るのが好きです。

 私も、そういうふうにやりたいんです。私の作品を手に取った人が、ああこの人のアクセサリーには迷いが無い、っていうふうに思ってくれたらいいな。すとーんって突き抜けたいんです。今の私ではまだまだそこまでいかない。迷いがあるんです。何処かが停滞している。だからもっとすーんと突き抜けられたらなあって、すいません、だんだん訳分からなくなってしまいました。」

「いや大丈夫です。充分分かりますよ。」

 と僕は答えた。

「突き抜けたい欲求が顕れてるんだから、それだけ清野さんにエネルギーがあるってことですよ。今はきっと試運転中なんです。新しいエンジンを開発したらきっと何度も試運転をするでしょう?今はきっとそういう状態なんですよ。コンディションが把握できたら、きっと突き抜けられるはずです。」

「すこーんと?」

「すぱーんと。」

「ありがとう。ヒトナくんは優しいですね。」

「僕は皆が羨ましいんです。清野さんや西くんや三浦さんが。清野さんこれからどうします?ちょっと飯でも食おうと思って店調べてますけど。」

「ここのお庭綺麗だからちょっと散歩していきませんか。」

 と清野さんが言った。芝生立ち入り禁止、という札も見当たらないし、芝と植え込みで整えられた中庭は自由に出入りしていいらしかった。

「ヒトナくんはみんなが羨ましいんですか?どうして?」

 清野さんは門柱に絡まった蔓バラの散りかけの花を何気なくむしったりしながら僕に問うた。僕はなんと言うのか、思っても見ないことを言ってしまう。

「僕は人名なんて名前だから。」

「名前のことでみんなが羨ましいんですか?」

「違います。何ていったらいいのかな。ずっとずっと昔から名前ってとても重要な意味があったんです。大学の頃古文の授業で調べたんです。本当にすごく昔からです。人類の歴史とほとんど同時進行なくらい昔からなんです。

 名前っていうのはその人の魂なんです。名前をつけるとその人には魂が宿るんです。だから古事記の時代には女性に名前を付けなかったんだって説がありました。」

「なんでですか?」

「女性に名前を付けたら魂を持って勝手に動き出して、男の言うことを聞かなくなるからだと言われています。だから神話の女性の名前と言うのは、例えば地名だったり、誰の娘だとか誰の妹とか、何番目に生まれてきたとか髪が黒いとかそういうデータでしかなかったんです。意味が無いんです。

 僕は両親を恨んでも仕方ないんだけど、でもそのことを知った時やっぱりあんまりだと思いました。僕の名前は人名です。本当に、小学生のころ苛められたそのまんまですよ。おなまえは。なまえです、って答えてるようなもんですからね。何を考えてこんなって思ってきました。

 根拠に乏しいんですが、それが原因じゃないかって思うんです。僕には欲求がないんだ、生まれてから一度も。名前に意味が無いから、魂が宿らなかったからじゃないのかって。根拠に乏しいですがそんなことを思っていました。

欲望とか希求なんてものに、色が付いてないんです。僕の望みは無色透明なんです。だから何もしたいことなんてない。僕は30年も生きてきてずっとやりたいことを見つけられなかったし、これからだってどうしたらいいのか分からないんです。」

「私の甥っ子は3歳になるんですけどね、透明のことをあめいろっていうんですよ。」

 清野さんが急に話のこしを折った。なんだか急にぜんぜん関係ないことを話し出した。

「あめいろって、飴色?どうして?茶色なのに?」

「そっちの飴じゃなくて、雨。日本語って難しいですね。透明っていう認識があるかどうか分からないんですけど、でも彼はそう言っています。

 私があの、雨を閉じ込めるネックレスを作っていた時なんです。中に雫型のスパンコール吊るしてたでしょ。あれをテーブルの上に並べておいていたんです。そしたら甥っ子がやってきて、見つけて言ったんです。『ののたんみてごらん。きれいなあめいろだね。』って。最初何を言っているのか私にも分からなかったんです。でも、気が付いたらなんだか、へーって感じしました。

 雨の色だから雨色なのかってね。子どもの発想ってすごいですよね。単に言葉を知らないだけっていったらそれだけですけど。でも、私はその発想がすごく好きなんです。」

 と清野さんが言った。雨の色だから、雨色。

「それと僕の名前とどんな関係が。」

「すいません。なんにも関係ないです。ただ透明っていう言葉を聞いたら連想しただけなんです。でもね、ヒトナくん、無色は無色っていう色なんですよ。それこそただのデータじゃないですか。気にしたって仕方ないんですよ。ヒトナくんは自分に色が無いと思っていても、それはやっぱりヒトナくんの色なんですよ。」

 彩ということです。と清野さんが言った。

「僕はやっかんでいるんです。やりたいことや方向性が決まっている皆が羨ましかったんです。僕もそうだったら良かったのになって。もしそうだったら今頃どうなってただろうって。どうして僕は何もしたくなかったんだろう。

 結構不安だったんです。自分はこれからどうなっていくんだろうって。エンジンは付いてても舵が無い船に乗っているような感じです。自分が何処に行くのかさっぱり分からない。」

「大丈夫、ヒトナくん。今のままで。今のままのヒトナくんでいいじゃないですか。ひとは常に最善の選択をして今があるんですよ。今のヒトナくんだって、今まで最善の選択をしてずっとここまで来ているんですから。」

 その時僕と清野さんは向かい合って立っていた。中庭には他に誰も居なかった。建物の中から誰かが見ているという可能性も低かった。だから何だっていうんだ。

 狐につままれた?魔が差した?場の雰囲気に飲まれた?何だって言い訳は出来るかもそれない。でもやってしまったことに対する評価をグッドかバッドで求めるなら、それは間違いなくバッドなのだ。

 僕は清野さんの小さな唇にキスをした。

 厳密にはファーストキスと言ってもいいのかもしれない。少なくとも僕はその行為を理佐子さんとしか交わしたことが無かった。純然たる初めてではないにしても、僕にとってはほぼはじめてみたいなキスだった。

 長く外に居るせいか清野さんの唇は冷たくて、少し乾いていた。感蝕とか感じている余裕は無くて、強いて言えばかすかにチョコレートの匂がした。電車の中でマーブルチョコを分けて食べたことを僕は思い出した。

 触れていた時間は一瞬だったはずなのにその時僕の脳内で時が永遠に止まってしまったからなのか、永い永いキスだったように僕は感じた。我に返るには更に時間が掛かった。

 しかし清野さんの反応がすべての幻想を打ち砕いて、宙に浮いていた世界のすべてを改めてしっかりと「今」に固定し直した。ビスの頭をぐりぐりと巻くのだ。

 僕が漸く我に帰って自分のしたことの駄目さにやっと気が付いた時、清野さんは驚いたというよりもこわばった顔、いやいっそ顕かに不快感が染み出したような顔をして、

「なんで?」

 と言ったのだ。全身の毛細血管が一気に冷えて産毛だった。僕はものすごい見切り発車をしてしまったのだ。


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