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雨色  作者: 森本泉
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第六話

「ここは誰の部屋だ。俺の部屋だ。」

 自分のうちに帰ったらなぜかそんなことを呟いてしまった。常ならなんにも感じない自分の部屋が今日はいやに殺風景に感じられる。胃袋の中身だけがやけにほかほか温かくて、それ以外は突き抜けそうに寒かった。

「なんにも無いな。改めてみると。」

 テレビとPCと、漫画とCDがちょっと入ってるラックと、ベッドとテーブルと押入れの中に入っている服が少し。これが僕の6畳ワンルームの全容だった。なんにも無いな。僕は今までの人生で、これだけのものしか蓄積してこなかったんだ。

 尻の据わりが悪くなった僕はとりあえずテレビを点けて冷蔵庫からビールを出して飲んだ。テレビではたまたま芸能人の料理対決みたいな番組をやっていて、見ていると僕はさっきまでいた豊穣記のことをいやでも思い出す。

 三浦さんと西くんと、それから清野さん。なんでだろうな。なんでみんなそんなにやりたいことがあるんだろう。いつ、人生のどんなポイントでそれを見つけて、どんなエネルギーでもって今まで繋いで来ているんだろう。それをするために何を捧げてきたんだろう。どんな努力を、苦労を厭わなかったんだろう。それによって何を得たんだろう。何を得ることを目標にしているんだろう。

 そして、どうしても、なんで僕にはそういうものが無いんだろう。僕はそう思っていた。僕には無いんだ。どうしたいとか、どうなりたいとか、そういうヴィジョンが。強いて言えば現状を維持していきたい。今のように必要な時間だけ働いて、空いた時間は好きなことをしていたい。コンビニの仕事をしながらそれは充分可能なはずで、大きな喜びを望まなければ僕の人生はまず上々なはずだった。

 だけど今この僕の部屋とそこに流れている空気は、冷凍しすぎたひき肉みたいだった。味気ない。味気なくて冷え冷えしている。急に僕の日常を構成しているパーツの一個一個がレンズを交換して彩度を欠いたように感じられた。

 なんなんだろう。この胸の悪さは。誰もそんなことを言ったりしない。言ったりしないのに。誰かから罵倒を受けたような息苦しさ。僕は今はっきり思っているのだ。

 僕は今まで一体何をしてきたんだろうと。

 大学を出ることはそれでも暢気だった。そのうち、ぼくだってそのうちやりたいことも見つかるだろう。そう暢気に思っていた。しかし来る日も来る日もレジを打ちながらやがて8年経ったけど、僕は未だに自分の人生に何も見出しては居ない。何かを見出せそうな見通しすらない。何処かに向かって行きたいという欲求もない。

「大丈夫か、俺は。」

 僕はずっとこのままなんだろうか。今初めて僕は自身にそのことを疑った。僕はずっとこのままのらくらやっていくんだろうか。それとも一念発起して何かを始めるべきなんだろうか。多分僕は今、この二択を行うギリギリのタイミングにいるのだ。

「とりあえず風呂入っちゃおう。」

 僕は空き缶をくずかごに捨てた。テレビには地震発生を伝えるテロップが流れている。


 井戸の様な。

 最近の自分の生活を、僕はそんな風に感じていた。理佐子さんは店でなんら変った様子はなかった。相変わらず我々スタッフには厳しかったし、仕事は速くで猛烈だった。僕たちは会えば言葉を交わしたし仕事について話し合ったし、それは僕たちが恋人関係にあったときとなんら変らなくて、変わったことと言ったら

「今夜どう?」

 の一言が今後一切出ないのだということだけだった。

 そして僕は感じていた。井戸のようだ。

 その井戸はとても深くて、湧いている水は暗く青い。水はとても澄んでいるんだけど、井戸がとても深いので底が見通せない。僕は井戸の縁に立って水底を探している。じっと見ている。そして足元の小石を拾って井戸に放る。ぴちゃん、と小さな飛沫が上がる。小石は井戸の底へ沈んでいく。僕はまた小石を拾い、同じようにする。

 僕はこの井戸を小石で埋めてしまおうとしているのだ。だから足元の小石をせっせと拾う。しかし井戸はとても深い。小石なんか落としたって埋められるものじゃない。それにこの井戸を埋めてしまったら、この水源を頼っている人達の打撃になるだろう。僕はそういうことが分かってて、それでも石を拾っては井戸に落としている。

 つまり何の意味もないことをしているのだ。僕のやっている仕事なんて、僕の日常なんてなんの意味も無いのだ。僕が出来ることはきっと他の誰かが出来ることだ。誰かが代わりをしてくれるのだ。僕だけにできることはこの日常の何処にも無い。僕のしていることにはなんの意味も無い。

 僕は意味について考えている。そんなものは僕の人生で今まで大きなウエイトを占めてこなかった。意味の深さや大きさを考えることがそんなに大事だなんて考えてこなかった。

 でも僕は今意味について考える。こんなことは初めてだ。30年だ。それだけ生きてきて、僕は自分が生きている、これから生きていく、今まで生きてきた意味について深く考えたことなんて無かったのだ。

 なんだろう。僕の日常の意味って。どうすればいいんだろう。何を為せばいいんだろう。

「間に合うのか。」

 つまり僕は、健全な人間なら10代でぶつかる疑問に、30代になってやっとぶつかったのである。つまり僕は普通の人より20年遅れている。そして僕の時間はほかのひとより20年足りない。

「間に合うのか。」

 僕はもう一度言ってしまった。間に合うのか。今から僕には何かが出来るのだろうか。そして出来るとしたら、僕は何をしようとするのだろうか。分からない。フルブランクだ。真っ白なのだ。何も分からないのだ。そして僕は清野さんのことを想っていた。


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