第五話
豊穣記、というその店は清野さんの空き地から2ブロックほど北に行ったところにあった。ここもおそらく最近できた店なんだろう。なのにすでにこの疲弊した商店街にしっくりと馴染んでいた。
「三浦さーん。友達連れてきました。ドリンクお願いします。」
ガラス球の暖簾をくぐりながら清野さんが言った。
「豊穣記の三浦さんです。」
清野さんが僕に紹介してくれた。
「どうも。」
「三浦さん、俺はジンジャエールでお願いします。」
「おー。ののちゃんと西くんか。いつもありがと。」
すとんと長四角の店内にある小さなキッチンで、三浦さんは一人小鍋の様子を見ていた。
「チキンスープ作ったところなんだけど、みんな食べてく?」
「やった、三浦さんのスープだ。」
と清野さんと西くんは喜んでいる。
「今日は塩チキン作る日だったから。ご来店ありがとうございます。初めてなのに運がいいですね。」
とそのひとは口角だけでかすかに笑った。
「ヒトナくんです。先週ネックレスを買ってくれたの。」
「ヒトナくんていうの?」
怪訝な顔をされた。初対面の人に名前を名乗った時の、僕にとって当たり前の反応だ。しかし、
「かっこいい名前ね。」
とまたしても言われてしまった。どうしたっていうんだ最近は。
「適当に座ってね。」
と三浦さんが言った。この店がなぜこんなに落ち着いてみるのかはすぐに分かった。レトロに見えるのは店が古いからじゃない。多分、テーブルや椅子が全部中古なのだ。全部種類がばらばらなのだ。4人がけのテーブルなんて着いている椅子のタイプが全部違う。スツールとか肘置きつきとか。意図的なのか、コスト面で仕方なかったのか。でもそのばらばらな感じがどういうわけかとても居心地が良かった。
「ののちゃん、おみせでその帽子はちょっとやめてね。」
と三浦さんがお盆に小さなボウルを三つ載せて持ってきた。
「だから三浦さん。これは巻貝なんですよ。何でかなあ。10人が10人うんこっていうの。」
「色が悪いわよ。ドクタースランプあられちゃんが持ってるのとそっくりじゃない。うちはご飯やさんなんだからね。イメージてものがあるんだから、たのむからお願い。」
はあい。分かりました。と言って、清野さんはそのニット帽を取ってテーブルの下に隠した。
「なんにも入ってないと寂しいから、わかめと春雨入れたの。今日はサービスしとくからね。ヒトナくんが来てくれた記念に。」
「いいんですか?」
「気にしないで。」
三浦さんは肩の辺りで右手をひらひらっとした。
「塩チキンの副産物のスープはもともと賄い用だから。ってつまり自分で食べてるんだけどね。お料理に使うチキンスープはちゃんとガラで取ってるの。今日はたまたまちょっといい手羽元が手に入ったから塩チキンにしたのよ。」
「塩チキンて何なんですか。」
僕は聞きながら、三浦さんが持ってきてくれたスープを一口啜った。角のない優しい塩味で、ふくいくとした鶏の香りがふぁっとした。おいしい。
「美味しいです。」
「塩チキンはね、手羽元2キロをたっぷりの水で塩味で煮ただけのものよ。使い勝手がいいの。スープが煮えたらしばらく手羽元を漬けたまま冷ましてね。一晩くらいかな。それから鶏の身を解して料理に使うの。サラダとか、春巻きの具にしたり炒飯とか。洋物を作るときはグラタンとかコロッケやスパゲティにしても美味しいし、ちょっと手を掛けてゼリー寄せとかね。なんでも使えるの。便利なのよ。
今日はちょっといい手羽元だったから塩だけで煮たんだけど、普段作る時はニンジンの頭とか大根のしっぽとかネギの青いとことか、そういうちょっとしたくず野菜も一緒に入れるの。そうすると身がぱさつかないのよ。」
と三浦さんが説明してくれた。説明してくれていたんだけど。僕たち三人はおかまいなしでスープを飲んでいた。わかめを掬って、春雨を啜る。うまい。
「やっぱり素材がいいと、こういういい出汁が出るんですね。」
「違うわ。私は素材に拘ったりなんかしないのよ。それがポリシーなの。」
三浦さんは笑った。でもそんなことを言ってもらおうと嬉しいわ。
「私はね、格安の素材でも手を掛けることで美味しく料理することをモットーにしているの。若い頃はね、そりゃいい素材で作った物には勝てないと思ってたの。だから無理してちょっといいものを買おうとしていたのよ。それがプロの料理だと思っていたの。
でもね、ある日たまたま業務用スーパーに行きました。トマト缶のでっかいのが欲しくなってね。そしたらブラジル産の最安値の鶏肉を見つけてしまったのよ。今から思うと運命の出会いだったわ。きゅんとなったの。胸が痛んだわ。あのしらっちゃけた鶏の切り身を見た時は。
ああ、このひとはいったいどんな悲惨な目に遭って生きて死んでしまったから、こんなにむくれっ面してこんな所にいるんだろうって。もう切り身がふてくされているのね。やさぐれてるの。どうせ俺のことなんて、どうだっていいんだろって全身で言っているみたいだった。痛まれなくなったの、料理人として。
その時決定的に気付いたの。この世の肉や野菜はけして、幸せに生きて幸せに死んだものばっかりじゃないんだって。むしろそうじゃないものの方が多いんだって。みんな生きている間に辛い思いをしてきて、それが素材の味にも影響してしまっている。だからね、そんなかれらをなんとかしておいしい姿に蘇生させてあげたいと思ったのよ。学校の先生がすさみきってる不良のこをほっとけないのとおんなじです。
以来お店で使うものはなるべくディスカウントで買うようにしているわ。時々知り合いの農家さんとかからいいものをもらったりもするんだけど、自分で買ったりすることはないわね。」
「それでこれだけ美味しかったらすごいですよね。」
僕は素直な感想を言った。顆粒じゃない出汁だとなんてとげとげしさが無いんだろう。そういえばインスタントじゃないスープを飲んだのなんていつ以来だろう。
「ふふふ。ヒトナくんはなかな褒め上手なのね。よし。柿いっぱいもらってるのがあるから食後に出してあげるからね。」
「わーい、ありがとうございます!。」
西くんが木さじを振り回して喜んだ。
「はーいそれじゃ、みんな注文はどうする?ワンドリンクサービスだけど注文はしてよね。」
「私は肉味噌餡かけ炒飯!」
「おれはおからハンバーグ定食で。」
西くんと清野さんはあらかじめ決めていたように即答した。
「じゃあ僕も、その餡かけ炒飯で。」
つられて言ってしまった。
「いいの?ヒトナくん。他にも焼きソバとかコロッケとかいろいろあるんだけど。」
と三浦さんが言った。
「あ、はい。大丈夫です。炒飯で。」
「かしこまりました。」
三浦さんはキッチンへと戻っていった。
「三浦さーん。まだ誰も居ないから俺弾いてていいよね。BGMやってあげるから。」
と西くんが言う。
「いいけど嫌がるお客さんもいるから込んできたら止めてね。」
三浦さんがまな板を使いながら答える。
「おれうずうずしちゃってさあ。楽器が近くにあるときはどうしても触ってたいんだ。」
西くんはふいごを操って「早春賦」を弾きだした。
「ほんとに楽器好きなんだね。」
僕は西くんに言った。
「大好きなんだ。触ってるのが楽しくて仕方ないんだ。ほんとは楽器触ってる仕事してたいんだけど、それだけじゃやってけ無いからな。現実は厳しいんだ。でも弾いてるときはやっぱりすごく。好き。」
西くんはすごく悦にいった貌で鍵盤を弾き続けた。
「西くんは何やってんの?」
僕はボウルの底に残った最後のわかめをいじりながら聞いた。僕は彼がだんだんそんなにいやではなくなっていっていた。
「友達が紹介してくれたバーで、夜ピアノ弾いてる。それと介護タクシーの運転手。」
「え、西くん、とうとう就職したの?」
清野さんが驚いた声で聞いた。うん、といいながら西くんは曲を変えた。「マイボニー」を弾きだした。
「実家にいたら煩くってさ。お父さんが。好い加減にちゃんとした仕事をしろって。いつまでも飲み屋のピアノ弾きなんてやってるんじゃないって。酷いよな。おれはちゃんとやりたいことやってんだって。言っても聞いてくれないから、じゃあ分かったよ、出てくよつって、今一人暮らし。」
「え、西くん家出ちゃったんだ。」
「そうだよ。俺は今自由きままな独り身なんだ。」
「そもそも二人はどういう関係なんですか。」
僕は最初から聞いてみたかったことを聞いた。
「なんだろうね。」
西くんが鍵盤を撫でる手を止めて顎の辺りを掻いた。
「なんだろう。豊穣記友達かな。」
「同級生とかではなくて?」
「全然違う。学年も学校も。私31だし、西くん28だし。」
「え、清野さん年上ですか?」
びっくりした。てっきり年下だと思っていた。清野さんはぱっと見25くらいにしか見えない。ちら見で23て言っても通るだろう。若い、というか幼く見える。
「ヒトナくんいくつ?」
清野さんが聞いた。
「僕は30になりました。」
「へー。じゃあ私が一番お姉さんなんだ。」
「とてもそうは見えませんよ。」
「まあ嬉しい。ヒトナくんって女性を褒めるのが上手いよね。もてるでしょう。」
「もてないです。」
「豊穣記っていろんな人が集まってくるんだ。三浦さんが人寄せの術を使うんだよな。」
西くんは今度は「カントリーロード」を弾きだした。
「俺と清野もそんな感じ。顔合わしてるうちになんとなく会話するようになったんだよな。そういうやつは多いよ。豊穣記には。」
「豊穣記の名前って、方丈記から取ってるのかな。」
「正解、ヒトナくん。」
三浦さんが僕と清野さんの炒飯を運んできた。
「方丈記の出だしっていいでしょ。行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず。永久不変なものなんてない。私は毎日同じものは作らないしそのスタイルも永久には続かない。だから豊穣記。ちょっともじったけどね。西くんのハンバーグちょっと待ってね。」
三浦さんは炒飯の皿を僕たちの前に置くとキッチンに舞い戻っていった。金色の炒飯の上にとろとろの肉味噌がたっぷり掛かっている。生姜の爽やかな香りがした。
「なんか、三浦さんってかっこいいすね。」
僕たちは西くんのハンバーグが来るのを待った。
「いいよ食べてて。」
「あんかけだから、熱いから。」
清野さんは手を着けなかった。
「三浦さんてすごいんだ。若い頃からずっと店を持つ、っていう目標がぶれずにやってんだぜ。何年もいろんな店で修行してさ。休日に内職しながら資金ためてさ。子ども頃からの夢だったんだってさ。いのししのように一直線なんだ。」
「だれがいのししだって。」
ハンバーグの皿を持った三浦さんが立っていた。
「三浦さんがかっこいいという話です。」
「そう。それならこのハンバーグ、持って帰ろうと思ったんだけどやっぱりあげるね。」
「ひどいや三浦さん。俺は客ですよ。ちゃんと注文したのにひどいや。」
「お金を払っているからって、お店の人に何をしてもいいと思っているのが文明人よね。あんまり失礼な客には私は容赦なく切れるわよ。」
「失礼なことなんか言ってないですよ。三浦さんがいかに素晴らしいかと言うことを。」
「それならいいのよ。」
と言って三浦さんはやっとハンバーグの皿を西くんの前に置いた。
「ごゆっくり。飲み物はまた聞きに来るわね。」
三浦さんが三度キッチンに戻っていく。
「ヒトナくんのせいであやういところだったよ。」
と言って西くんが塗り箸を取った。
「俺のせいかよ。」
あはは。隣で清野さんが清清しく笑って餡かけをスプーンで混ぜていた。




