第三話
「河上、朝からエロいこと考えてんのか。」
理佐子さんが後ろからいきなりぐわっと肩を掴んできたので、僕は発注伝票を確認しながらびくううっとなった。
「きっついですよ、理佐子さん。朝からそのトークはきっついですよ。」
僕は机の上にばらばらになった伝票をファイルに留め直した。
「オヤジじゃないんですから。」
「朝からにやにやしてるからじゃん。」
店長の理佐子さん、35歳。学生時代からこの店でバイトをしていて、そのまま社員になって今は店長という純然たる僕の先輩、そして上司だ。コンビニ店員なんてもっともオーソドックスなバイトだから誰にでも出来ると思われがちなんだけど、扱っている品物や業務が煩雑すぎてなかなかものになるスタッフが定着しないのが実情である。
そんな中でもう15年店の主力である理佐子さんは、はっきりいって猛者だ。ビールのケースは3ケース箱くらい持つ。クレーム拾ってきたバイトには怒る怒る。レジうちは早くて見えない(誇張)。発注業務はミスらない。だから当然、ということが出来るのかもしれないが、その魂はおっさんくさい。
無理からないことなのだった。理佐子さんが今の職場について信頼して当てにできる同僚というのは一人もいないのだ。店長というポストは本社とオーナーから言われたい放題の立場なのである。本社からはどんどん仕入れろと言われるが、オーナーは売れないとつらいからあんまり入れるなと言われる。現場の様子を見極めてその双方のバランスを取っていくのは、誰がやっても辛い。女の癖に、大人しく言うことを聞け、とどっちもから言われたらもっと辛いだろう。仕方ないのだ。女性が上に立っていこうとすると、どうしても属性に男の色を帯びていかなくてはならない。そして男の色が定着した女性は、すべからくおっさんくさくなるのだ。
そして僕自身はそういう理佐子さんが実は結構好きなのだった。おっさんおっさん言っといて何なのだが理佐子さんの男らしさは反面彼女の豊かな女性性の象徴でもあった。働き方は豪快でも配慮という点では理佐子さんは非常に繊細だった。ベッドに寝そべってビール飲みながら、テレビの野球に
「ちっくしょう。」
と切れても不思議と艶かしい感じがした。感度の点について我々の相性はなかなか良く、明日とか10年後のことを何も考えないなら僕たちは意外といい関係なのだった。そこに熱意をほだされる事はやはり無いとしても。
「確認作業終わったらトイレ掃除してゴミ箱見といてね。昨日の深夜勤のこまだ慣れてないから、掃除適当にやってたみたい。」
と理佐子さんは言って冷凍庫からファーストフードの唐揚げのパックをばさばさ取り出した。
「了解です。あ、そうだ理佐子さん。」
僕はカバンの中のネックレスのことを思い出した。理佐子さんにあげようと思って買った鳥かごのネックレス。
「何?仕事してね。」
しかし彼女がそう言って振り返ったとき、僕は何か決定的に思ってしまったのだ。
この人に渡すのは、いやだな
と。どうしてだか思ったのだ。そして初めからそんなつもりが無かったのだと気がついた。だいたい彼女はこんなかわいいアクセサリーがまるで似合わない。分かっていて当然のことに気がつかない振りをしていたんだと僕は思った。
僕は出した手を引っ込めなくてはいけなくてまごまごした。だからつい言った。
「今日、どう?」
理佐子さんはとたんににやあっと笑った。こういう顔すると本当におっさんくさいよな。
「やっぱりエロいこと考えてんじゃん。」
「いや、だからそういう言い方するとほんとおっさんですよ。」
理佐子さんは僕のふくらはぎを一発蹴ると唐揚げを持って店に戻っていった。
ユーチューブで「野原」と検索してみた。スクリーンをロールしていったら、守山良子の「この広い野原いっぱい」という動画がヒットしたので開いてみる。
この広い野原いっぱい
咲く花を
1つ残らず
あなたにあげる
と歌っていた。ぴったりのイメージだな、と僕は思った。清野さんである。
清い野原。彼女はこの歌詞みたいに、大きな花束が似合う。抱えきれないくらい大きな花束を抱えて、にかっと笑っている女の子のイメージが。発表会の後にプレゼントをもらって喜んでいる彼女。清野さんにはそういう幼いイメージが似合う。
そう考えながら、僕はベッドに寝ていた。
「ビール飲む?」
と理佐子さんが聞いて、僕は答えていないのに、彼女はさっさとひざ掛け代わりにベッドに広げている巨大なバスタオルで肌を隠すと、立って部屋を出て行った。つまり僕は、隣に理佐子さんが寝ている横で自分が全裸で寝ているというのに、頭の中で清野さんのことを考えていたのだ。血も涙も無いな、我ながら。と僕は呆れていた。
「今黒いのしか買ってないんだけど、いいかな。」
理佐子さんがビールのロング缶を一本渡してくれた。
「ありがとう。」
理佐子さんはタオルにくるまったままベッドに腰掛けて、缶の中身ごくごくと空けた。女の人が美味そうにアルコールを飲むのは見ていていいな、と僕は思う。理佐子さんの呑みっぷりはなんというか清潔感があった。なんの為にその液体を摂取しているのかちゃんと分かって呑んでいるんだろうなと思わせてくれるような安心感があった。テレビCMを盲目的に信じてしまわないような生活の知性が、働いていても信頼できるしもちろん女性としても好ましく思っていた。
でも、僕は分かっていた。僕は今日話しをするつもりで彼女の部屋に来たのだと。そして理佐子さんの雰囲気から彼女にしても何らかの僕の変化を感じているんだろうなと僕は思った。理佐子さんはベッドに腰掛けてただビールを飲みながら、完全に待つの体制になっていた。
「理佐子さん、別れようか、僕たち。」
「うん。いいよ。」
理佐子さんはあっさり言った。僕の顔を見ながら。畏れも不安もない猛者の眼差しで。
さすがに僕としてもびっくりした。まさかこんなにあっさり承諾されるとは。
「なんで?」
「なんでも何も。そっちが別れたいんでしょうよ。」
「それはそうなんだけど。」
僕はベッドから立ち上がって缶をサイドテーブルに載せると、ジーパンを履いてもう一度座りなおした。
「姐さん、どらいっすねえ。」
と僕は言った。
「当たり前じゃない。私くらいの年齢でウェットだったら暑苦しいだけじゃない。」
「怒ったりしないの?」
「しないわ。」
理佐子さんはビールをぐびぐび呑む。
「ちゃんと分かってたわよ。私は河上のナンバーワンでもなければましてオンリーワンでもないって。君にとって単なるその場しのぎだってことは分かってたわよ。伊達に君より年取ってないのよ。侮らないで。」
そういったときの理佐子さんの声は、さすがに少し傷付いて聞こえたので、いくらなんでも僕も耳が辛かった。
「その。すいません。すいませんなんて言い方して誰かと別れるのは嫌だったんだけど、でも僕たちの関係って、」
「そういえばなんだったんだろうね。」
僕の言葉をさえぎって理佐子さんが言った。
「そういえばなんで付き合いだしたんだっけ。そもそもこれは付き合ってると言えたんだろうか。君からもらったメールなんて業務連絡だけだし、休日に何処かに出かけたことも無かったね。クリスマスに何回か外食はしたけど、あれはデートと言えたのだろうか。
なんか、お互いに無駄なことをしていたのかもしれないわね。私も悪かったわ。分かってた。君がやる気がないのを分かってたのに、切り出されないのをいいことにだらだら続けてしまったわ。悪いのは私よ。」
ごめんね。
と彼女の視線が言っていた。ごめんなさい。その言語を素直に発することに躊躇するほどに、僕も理佐子さんも年を取ってしまっていた。
「でも、どうしたの。急に。私は何かミスをしただろうか。何の前触れも無かったと思うんだけど。結構急よ。何か心境の変化でもあったの?まあいつかは言われるだろうなとは思っていたんだけど。」
と理佐子さんが言った。寒いわね。と言いながらさっき脱いだセーターを素肌に身につけている。ビールを飲んで体が冷えたらしい。
「俺は出会っちゃったのかもしれない。」
僕は素直な気持ちを理佐子さんに言った。ほんの一瞬まで間で僕の恋人役をしてくれていた人に。
「だれに。」
「それは、その、言いにくいことを言わせるな。」
分かってるくせに聞くんだからやっぱりおっさん臭いな。
「ナンバーワンかつオンリーワンな人に出会ってしまったの?」
と聞かれた。僕は頷いて、ビールをごくごく飲む。
「君が?」
理佐子さんは僕の座っている方へぐっと身を乗り出してきた。襟ぐりの開いたセーターだったので胸の辺りが広々と見えて、僕は今更ながら目を反らした。
「僕がです。」
「河上がねえー。」
信じられないは。と理佐子さんは言った。
「家に帰ったらビール飲んでネットして風呂に入って寝るだけの君が?休日に出かけていくような趣味もない君が?将来の夢の作文を一回も提出したことの無い君が?好きになったの、女の子を。」
「酷いし、恥ずかしい話をしないでくださいよ。」
「私は振られる人間よ、最後くらいいじわるして何が悪いのよ。」
「ほんとすいません。」
うそよ。私が悪いんだから。と言って理佐子さんは体を起こし、肩に掛かっていた髪の毛を手でまとめた。
「正直言うと出来心だったわ。最初に君を誘ったのは。でもまさか着いて来るんだからびっくりするわよ。ごめんなさい。本当いうとこのことを切り出すのは私であるべきだった。君の存在は私にとって惰性でしかなかったの。
あの時私はいろんなことにうんざりしていて、もう真剣に誰かと付き合うのも面倒くさかったし、でも一人っきりだと寂しかった。私は君をいいように使っていただけなの。君が全然真剣じゃないのを分かっていたのに。だめね。女も30になると。人間関係がめんどくさくなったらそいつはもうだめよ。」
覚えておきなさいね。と彼女は言った。きっと僕を応援してくれたんだろう。僕は今更ながら、自分がこの人に深く愛されていたことに気付いた。僕はあんまりにも馬鹿で子どもで、自分のことも彼女のこともなんにも気付いてあげることが出来なかったのだ。3年間。僕の傍にずっといてくれたこの人は、間違いなく僕の揺ぎ無い味方だったのに。
「理佐子さん。もう一回しますか。」
「何。今日はずいぶんスタミナがあるじゃない。」
「しめっぽい分かれ方はいやです。最後にもう一回盛り上がりませんか。」
「それは気を遣ってくれているということ?」
「そう思っていただけるなら。そうなんでしょう。」
「よーし!」
理佐子さんはベッドのスプリングを利用して僕に思いっきりダイブしてきた。
「今日は朝まで付き合ってもらおうか。」
「すいません、ビールが、」
と僕は言ったんだがすでに遅かったのだった。




