最終話
4月の第二日曜が西くんのライブの日だった。僕はその日は仕事だったのだが、午後の4時間だけを変ってくれるように理佐子さんにお願いしていた。
「めずらしいね、河上が自分から休みくれなんて。」
「僕にも用事なんてものが出来る様になったんですよ。」
と僕は行って欠勤届けに判を押してもらった。
「大人になったということなのね。」
と理佐子さんはにやにやしていた。
花束よりもアレンジメントがいいですよ、と花屋のお姉さんが勧めてくれた。
「オープンのお店に贈られるんでしたら花瓶が必要な花束よりもそのまま置けるアレンジメントがいいと思います。どんなお店なんですか?」
と聞かれて僕は困った。どんなお店。
「えーと、とにかく、いろんなものが売ってあるお店なんですが。」
「じゃあ雑貨屋さんですね。」
そういわれて何か違う気もしたのだが、どこがどれだけ違うかと言われたら自分でも良く分からなかったため、僕は、はあ、なんて曖昧に頷いていた。
「こういうのはいかがですか。胡蝶蘭というお花なんです。花言葉が『幸運が飛んでくる』って言うんですよ。お店を始められるのにはとってもいいと思うんですけど。」
「いいですね、それ。じゃあそのお花で。」
「ご予算はおいくらくらいですか?」
僕は自分の財布の中を頭で試算して考えた。でもお祝いなんだからちょっとくらいは頑張ろうと思い、
「5000円くらいでなんとかなりますか?」
花屋さんは胡蝶蘭とそのほかの花を一本二本と触りながら何か計算しているようだったがやがて、
「承知しました。30分ほど掛かりますのでお待ちください。」
と言われた。
「じゃあちょっと時間潰してまた来ます。」
と僕は言った。そこはショッピングモールの中の花屋さんだったので、僕は併設のファーストフード店に入ってコーヒーを頼み、漫然と時間が過ぎるのを待った。
そういえば、ほんの少し前までは僕の日常ってこんな感じだったよな。いや、それよりも、僕は清野さんに会うまで休みの日をどんな風に過ごしていたんだっけ。急に考えるとちっとも思い出せなかった。多分記憶に残るようなことは何もしていなかったんだろう。意味のあることは何もしていなかったのだ。
じゃあ清野さんに出会ったことは僕の中で意味のあることなのか。
意味という言葉の定義が難しくてよく分からない。でも少なくとも僕はこうして日常的に仕事以外に出かける場所が出来てしまった。そのことが何がしかの意味を僕の生活に与えていないでもない、とは言えるのかも知れない。ああ、なんだかすごく曖昧だな、と思っていたらいつの間にかコーヒーが冷えていて30分経っていた。
「こんな感じで作ってみました。」
花屋さんが見せてくれたのは胡蝶蘭という小ぶりの白い花を中心に、周りを淡いピンクと黄色の花とカスミソウで囲んだなかなか豪華に見えるアレンジメントだった。僕はお礼を言って代金を払った。
しかしここでちょっと困ったことに。作ってもらったアレンジメントは結構立派になってしまったために、自転車の籠に入らないのだ。それに、この胡蝶蘭というやつは、なんだかとても繊細な感じである。自転車の籠なんかに無理やり乗せて走ったりしたら、途中で茎がぽっきり折れてしまいそうだ。
オープン祝いのお花なのにメインの茎が折れていたら話にならない。
「大丈夫、ヒトナくん、テープでくっつけよう。」
なんて、西くんや清野さんなら言いそうだけど、それは僕の観客としての沽券に関わるというものだ。だからどうしたかと言うと、僕はアレンジの入った紙袋を抱えて、一山あてよう会の会場まで歩いていくことにした。お花を抱えて街を歩くなんて僕は初めてで、ちょいちょい人に振り返られるので結構恥ずかしかったのだった。
会場は小さな店舗だったところをぶち抜いて広くして、今日だけはライブハウスみたいにしている様子だった。西くんたちが集客に奔走したんだろう。なかなか賑わっていた。
「こんにちは。」
誰に声を掛けたらいいのか分からないのでとりあえず前に居た人に呼びかけると、それは清野さんだった。
「ヒトナくん。」
「清野さん。」
清野さんはいつものように健やかに笑っていたので、僕は彼女が取り敢えずの健康体を取り戻しているのを知って安心した。
しかしその健やかに白かった頬が徐々に赤く上気しだして、とたんに清野さんもあたふたし出したので僕も急に自分の前年やらかした大失敗の記憶が甦ってきてどうしていいかわからず、しばらく二人で何も言えずにおたおたしてしまった。
「きょ、今日は一山あてよう会の発足おめでとうございます。」
僕は半ば押し付けるみたいにしてアレンジを清野さんの渡してしまった。
「ああ、ありがとうございます。でも発足自体は今日じゃないんですけど。」
「ああ、そうなんですか。えーっとすいません。じゃあもらいます。」
なんてへんなことを言ってしまった、僕は。
「い、いえいえ、せっかくだからもらいますよ。」
と言って清野さんはぷあははっと笑い出した。
「ごめんなさいヒトナくん。あの時は。」
と清野さんが言うものだから、僕は裁判の判決を言われる時みたいに一気に体がガビガビになった。
「私も、やーん、恥ずかしいです。いい年してあんなに取り乱したりして。」
「いや、すいません、自分が間違っていましたから、」
五体投地。という四文字熟語が頭に浮かんだんだが、そんなことをしたら清野さんが困るだけなのは当たり前なので僕は踏みとどまった。
「ヒトナくん!来てくれたのか!何、お花まで持ってきてくれたの?ありがとう!」
さすがにハイテンションの西くんが(救世主)顕れてくれたので僕は会話の矛先を西くんにチェンジした。
「すごいじゃん、西くん、結構人来てるじゃん。これ、お祝い。」
僕は清野さんが持っているアレンジを指差していった。
「この白い花ね、運が向くっていう花言葉らしいよ。これからの西くんたちに、俺からのお祝い。」
「へー、花言葉ね。ヒトナくんは難しいこと知ってるんだな。ありがとう。カウンターに飾ってもらうよ。」
「西くん、どうやって人集めしたの。こんだけ呼ぼうと思ったら大変なんじゃない?」
「今日はね、一応俺も演奏はするんだけど、メインはプロなの。俺がバンドやってた時の先輩に声掛けたんだ。そしたらたまたまスケジュールが開いてたみたいで快諾してもらって。今ローカル番組とかでも出てる人だよ。午前中はなんとテレビも来たんだ。」
ぴーす、と西くんがして見せた。
「なるほど、それでこれだけひとが入ってるんだな。」
「午後は2時からだからさ。ちょっと飲み物なんかもあるから呑んでってよ。」
カウンターはあっち、と言って西くんは人の中に消えていった。清野さんもいつも間にか居なくなっていた。
僕はかつてはレジがあったんだろうと思われる場所に新しく作られた白木のカウンターで今日の会費を払い、フリードリンク券をもらった。
「お飲み物、なんになさいますか。」
とカウンターに居た女性に聞かれた。その人はライオンの顔がそのまま編みこまれた派手な毛糸の帽子を被っていた。
「失礼ですが貴方がとかちゃんですか?」
「はい、なんで、あー、もしかしてヒトナくんですか?」
「はい。そうですが。」
「はい、私はニットデザインをしている渡嘉敷と言います。んんふふふ。聞いてます。私ののちゃんに。仲良しなんです、私ののちゃんと。ののちゃんのことよろしくお願いしますね。」
と言われたんだが、僕は清野さんがとかちゃんに何を話して彼女が僕に何をよろしくしたのか分からなかったので、ええまあ、なんて言うしかなかったのだった。
「ああ、そうだ。お飲み物でしたよね。なんにしますか。」
「えーっと何があるんですか?」
「一応コーヒーと紅茶もあるんですが、私としては自家製のジンジャーエールとレモンソーダがお勧めです。」
「とかちゃんが作ったの?」
「私じゃないです。無農薬の果物とか使って焼き菓子作ってるメンバーが居て、その彼女の製作です。生姜がオススメ。」
ととかちゃんが言うので、
「じゃあそれを下さい。」
と言って僕は彼女にジンジャーエールを作ってもらった。大きなガラス瓶の中に琥珀色のシロップが満たしてあって、とかちゃんはそれをレードルに一杯汲むとガラスコップに移し、氷をたくさん入れてソーダ水を注ぎいれ、マドラーで静かに掻き混ぜた。
「どうぞ。」
「ありがとう。」
僕がそのガラスコップを受け取ると、いつの間にか観客として集まった人々は並べられたパイプ椅子に座り、店舗入り口の暗幕が閉められようとしていた。僕もジンジャーエールを一口啜ると、慌ててあいている席を探した。その飲み物からは、しつこ過ぎないほどの甘みと伴に生姜の香りがぴりぴりと唇と射した。
やがて舞台にスポットが当たり、照明が落とされて縁者の姿が台箱の上に現れると、ソーダの泡が弾けるような拍手がいっせいに上がった。
「皆さん、今日は一山あてよう会の結成記念ライブに、ようこそ。」
西くんがスタンドマイクを使って、さすがに緊張した声で挨拶をした。
「一山あてよう、なんて言っても、そんなこと旨くなんか行かないよってたくさんの人達に言われてきました。だから僕たちは30になるまできっとそうなんだと思っていました。 一山あてよう会の平均年齢はアラサーです。僕たちは音楽をやったり、手芸や工作をしたり、料理をしたりし今まで個人的に活動してきました。
でも、或る日を境に僕たちのメンバーが少しずつお互いの存在を知るようになりました。ひとりと出会ったことがまた別の一人を連れてきたりして、一山あてよう会のメンバーは集まったんです。
そして集まってみたら、みんなやっぱり自分のやりたいことをずっとやって行きたいんだということがはっきりと分かったんです。自分はこのテーマをずっとやって行きたいんだ。何故か、これが好きだからだ。だからずっとやってきたし、これからもやって行きたいんだと。
一山あてよう会なんて言っていますが、一発あてることが僕たちの目的ではありません。一人ひとりではパワー不足でも、皆で力を合わせて自分の目的を詰めて生きたい。それが発足の理由です。今日は楽しんでいってください。」
西くんがこう言い終わるとまた拍手が起き、西くんはお辞儀をして舞台中央に立っているギターを抱えた男性に右手を差し出した。
「本日のゲスト、我が市が生んだ天才ギタリスト、鈴木隆二さんです。」
また起こる拍手。
「皆さん、今日は僕の後輩の為に集まってくれてありがとう。僕と西くんは若い頃同じスタジオを使ってレコーディングしていた先輩後輩なんだけど、一頃から彼はライブ活動を断念してしまっていた僕は非常に残念でした。
一山あてよう、素晴らしい団体が発足してくれたと思います。僕はこれから彼らを応援していきます。では、どうぞよろしく。」
ドラムスがスティックを鳴らし始め、ライブが始まった。確かにその人は、この街のローカル番組のゲストやCMによく出ているこの辺りでは有名なギタリストだった。演奏を聴いていくうちに僕はタイトルは知らなかったが耳慣れた歌を何曲も聴いた。
ゲストとして来ているのは鈴木隆二とドラムスの男性だけのようだが、二人の横で西くんはあるいはベース、あるいはキイボード、あるいはアコーディオン、またあるいはハーモニカと言った風に次から次へと楽器を取り替えて、歌うアーティストに合わせて流れるように音を奏でていた。
そのスタイルの西くんは悪くなかった。西くん、バーでピアノなんてやっているよりもこんな風に演奏したらいいんじゃないか。音楽が好き、と言うより楽器が好きだといっていた西くんらしいスタイルだ。いろんな楽器に浮気しまくっているのはプロとしてはマイナスなことなのかもしれないが、複数の楽器を一回の演奏で手際よく使い分けられることは間違いなく彼のキャパシティだと思う。
40分ほど歌い続けると鈴木隆二は一旦演奏を止めて言った。
「僕がずっと歌ってても疲れるしみんなつまらないよね。せっかくの西くんのライブなんだから、西くんもなんか歌ってよ。」
多分これは仕込みなんだろう。あちこちからにしくーん、と歓声と拍手が飛び、中には口笛をならすやつもいた。そこまで言われたら仕方ないなあ、と言って西くんがベースを肩にかけると(これも仕込みなんだろう)、またあちこちで拍手が鳴った。
「本来はギターなんですが、鈴木さんの前で自分がギターを弾くなんて恐ろしいことは僕にはとても出来ないので、僕はベースを弾きます。
それでは、僕の大好きなバンド、ガリレオガリレイの『僕から君へ』を、聴いてください。」
そういうとドラムスティックがカウントを始めて、3人は演奏を始めた。タイトルは聞き覚えが無かったのだが、サビに差し掛かったとき、これは少し前にテレビCMで流れていた曲だ、と僕は気が付いた。
西くんが歌う。
理解も納得もするわけなくて
だけど言葉にも出来なくて
だましだまし歩いては行くけど
汽車は僕の頭上空高く
走っていく
どこへ行くのだろう
緊張のためか時々飛んだりする西くんの歌を聞きながら、僕は不思議と冷静な気分で自分のことを考えていた。僕は分かっていたのだ。自分がもう見つけていることに。
今まで何かになりたいなんて思ったことも無かった。何かになれるなんて思っても見なかった。
でも、違う。今は違う。もう僕は違うのだ。
僕は見つけてしまった。何をか。僕は今この瞬間(否、もっとずっと、すごく前から気付いていたはずなのにそれを知らなかったのだ。)、
僕は自分が何になりたいのかを見つけてしまったのだ。(、、、、、、、、、、、、、、、、、、)
きっとこれは幸福感というのではないんだろうか。とすると僕は今まで生きてきて幸福を感じたことが無かったのだ。こんな気分を味わうのは初めてだった。僕の頭の軸が熱くて痺れているようで、その感じは酷く甘く、むしろどちらかというと苦かった。
清野さん、僕は貴方の彼氏になりたい。
気付かないふりをしていたその欲求は僕の中ですでに手がつけら無いくらい膨らんでいて、僕は自分の頭蓋骨の強さを思った。よく頭の中に押さえ込んでいられるもんだなと。
清野さん、僕は貴方の彼氏になって。これからも一緒に生きて行きたいんだ。
そう、強く思っていた。想いが強すぎて僕はいつの間にか鼻を啜っていた。壇上の西くんがそれに気付いて、歌いながらびっくりした顔をしている。
僕はこのことを清野さんに伝えられるだろうか。自信ないな。すでに一度地雷を踏んでしまっている。清野さんにもきっとその準備は整っていない。無理やり彼女のプライベートを荒らしたくはない。もちろん今度こそ完全に拒絶される可能性は多きい。
しかし、今は。
酔っているというのか僕は。そうか、だからこそ西くんたちはずっとずっと辞められなかったんだなと僕は漸く納得する。
何かになりたい、この欲求はこんなにも嬉しく途方もないものだったのか。
結果は何も見えていないかもしれない。そもそもどんな結果も用意されていないかもしれない。やっぱり自滅するだけかもしれない。かまわない。でも今はこの想いをガソリンにして行ける所までは進んで行きたい。
隣に座っていた全然知らない人が、無言でティッシュを一枚差し出してくれた。僕は声を出さないように頭を下げて応えた。
ヒトナくん、俺の演奏泣くほど感動的だった?
ライブが終わったら西くんはきっと大喜びするだろうな、と僕は思った。