第十一話
新年から職場であるコンビニが忙しくなった。新システムの導入である。それまでレジ横で売られていたホットスナックの種類を拡大して、もっと主婦年代にも受けるお惣菜の販売に入ることになったのだ。
ホットスナックのケースの前に小テーブルをだして、そこで煮込みハンバーグやロールキャベツを売るようになった。新しい商品だからまずは管理のマニュアル理解しないといけなかったし、お客さんの反応を見ながら発注のタイミングとバランスを計算しないといけなかったし、トングや小分けパックの購入などやることはいくらでもあった。
そしてこういう忙しい時にはおうおうにしてあることなんだが、人員確保の為に雇った学生アルバイトがかなり使えない奴だった。コンビニの従業員というのは大学生にしてみたら最もトライしやすい職種なんだと思うんだが、それにしても彼らはなんて仕事の飲み込みが遅いんだろう。
新しく入った大学2年の彼はそもそもからしてマニュアルを覚えようという気が無いらしかった。何度教えても、業務に移る時「これって設定は何度なんでしたっけ?」というふうに僕に確認しなければ動けない。僕も最初はいちいち教えてやっていた。でもだんだんばかばかしくなってきた。
「自分で調べろよ。」
とか
「早く覚えて。」
何て激を飛ばしていたんだけど、一向に自分から仕事を覚えようとする気配は無く、教えてやらなければ動こうともしなかった。怠けることを前提に仕事にくるような奴だった。理佐子さんはこういうアビリティの低い学生ははなから中てにせず、彼の担当は僕がその全般を担っていた。
彼がやってくるのは木金土の朝からだったんだけど、上のようにいつまで立っても自律してくれないので、僕は時たま本来休日である木曜日まで出勤して面倒を見てやらなければならなかった。当然のことながら僕は疲弊していた。
「河上、今日はちょっと飲みにでも行くか。」
水曜日の5時ごろ、僕がその日一日手間取っていた伝票整理をようやく片していたとき理佐子さんが言った。
「え。もう最近は慰めて欲しいわけじゃないですよ。」
「君の発想は常にそういうところなのか?」
これだから男ってのはねえ、と理佐子さんが言った。
「違うよ。ここのところ2ヶ月くらい君はオーバーワーク気味だから、お上司様からのねぎらいのつもりなのよ。といっても私もそんなに裕福なわけじゃないから、三五亭あたりで勘弁して欲しいんだけど。」
三五亭というのは商品の大体が350円に統一されているチェーンの居酒屋だった。ボトルで買える酒や大盛りメニューなんかもあってもっと高額になる場合もあったが、焼き鳥や刺身なんかは一律350円からだった。この街で働いている若いサラリーマンや貧乏学生で、いつも賑わっている。
「いいですね。俺も久しぶりに飲みにでも行きたかったんですよ。行きます。理佐子さんの仕事はどうですか?」
「私は今日は6時には切り上げるつもりだけど、一回うちに帰ってきたいからそれからでもいい?7時に現地集合でどうかな。」
「分かりました。」
僕は漸く片付いた伝票を「確認済み」のファイルにしまって今日の仕事を終わることにした。
一度自分の部屋に帰って服を着替えて、一応顔を洗って髭をちょっと手入れした。けっこう酷い顔してるな、と僕は鏡の中の自分の目を睨みながら思った。去年の暮れから結構自分を追い込んでいる。そろそろちょっと生き抜きが必要だな。そうか、理佐子さんにはそれが分かっているから今日僕を誘ってくれたんだ。
彼女と一緒に仕事をして、そういえば結構長いな。と僕はタバコに火を点けながら思った。僕は普段タバコを吸わない。今は待ち合わせの時間までちょっと間が持たないから久しぶりに吸っている。滅多に吸わないからちょっとしけっているみたいだった。
僕は今の職場にバイトとして入った時から理佐子さんは今と同じように働いていた。他の従業員にはどうだか分からない。でも理佐子さんはいつも僕の働く様子を見ていてくれたように思う。雷を落とされたことも多々あった。でもそれが彼女の僕に対する信頼というのも良く分かっていた。僕自身も理佐子さんに対して実務で応えられていると思う。今更なんだけど、僕たちは結構旨く行っていたんじゃないのかと僕は思ってしまっていた。
あの時、強いても理佐子さんと別れる必要はあったんだろうか。結果として今の僕は頓挫している。僕と清野さんの対人関係は、僕が思っていたようには発展しなかった。そのことを予測しなかったわけでは無いにしても、でも僕がショックを感じていない訳ではなかった。
理佐子さんと別れていなかったら、少なくとも一人寝の寂しさだけは今でも時々間切れていたかもしれない。そんなことを思いながら、タバコの青い煙を眺めて僕は、しかしそうは言っても僕自身に理佐子さんに対する未練や執着が全く無いのをちゃんと分かっていた。
7時に5分ほど送れて三五亭に入ると、理佐子はすでにカウンター席に一人座って突き出しの枝豆でビールを飲んでいた。
「酷いな、理佐子さん。俺が来るまで待っててくれなかったんですか。」
「一日働いたら喉渇いちゃって。それに枝豆見ると反射的に飲んじゃうのよねえ。」
やっぱり言うことがおっさん臭い。僕は自分の分も生を頼んで、それから二人でメニューを検討して刺身の盛り合わせとか焼き鳥やサラダなんかを店員に注文した。
「理佐子さんはさ。どうして今の仕事をしようと思ったんですか?」
「接客が性にあってるからよ、単純に。」
どうしてそんなこと聞くの?と理佐子さんは2杯目の生中を呑みながら聞き返した。
「理佐子さんはコンビニの仕事が楽しいですか。」
「楽しいかそうじゃないかって言ったら、仕事が楽しくて働いている人間なんて今の世界で幸福な一握りの人間だけに決まっている。君がよく分かっているじゃない。この仕事に楽しいことなんて必ずしも多くないのよ。
ただまあ、どちらかというと人間を相手にした仕事をしたかったというのがあるわね。事務員とか工場とか、そういう自分のしたことに対するレスポンスが分かりづらい仕事はちょっとどうかなって思ってたの。人間相手の仕事だったら、自分がミスをしたのか旨く切り抜けたのかがよく分かるでしょ?失敗したらクレームで帰ってくるんだから。でも、まあ酷いのも居るけどね。」
「ああ、きっとあの時ですね。」
僕は数ヶ月前の、この仕事をしていても指折りの理不尽な客を思い出して言った。
「1時間前に隣の市から来たんだけど、そこのコンビニで買った唐揚げ、今見たら一個少ないからここのと交換してくれって言ってきたおじさんですね。」
「そうそう。あれは無いよね。一体何を考えていたんだか。」
「僕はあの時の理佐子さんの対応に非常に勉強させていただきました。」
店舗の方に確認をとりますので、少々お待ちください。そう言ってバックヤードに引っ込んだ理佐子さんはそのままそのおじさんを完全に無視したのだ。僕たち店員も絶対に相手にするな、と指示をして。おじさんはしばらく店内でうろうろして待っていたんだけど、あんまりにも長く放置されているから当然、怒り出した。そしてそれに対して僕たちは何度も
「今確認中ですので。」
といい続けた。確認確認って、何時間掛かっているんだ!怒鳴りながら、でも僕たちもその時店にいたお客さんたちも、ずっと彼を無視しつづけた。結果そのおじさんは根負けして、盛んに店の悪口を言いながら無事帰って行ったのだった。僕は理佐子さんの対応で、この手のクレームを相手にしてはいけないのだと学んだのだった。
「まあ往々にして分かってやってるのよね。ネットの書き込みなんかもそうよね。自分が間違ったことしてるって分かってるのに、クレームを言うためにクレームを言うやつっているのよ。この10年くらいでそういう奴がぐっと増えたわ。そしれ今後もっとどんどん増えていくでしょうね。それに対して企業側はけして強気に出られない。苦しいと思うわ、これからの接客業は。」
理佐子さんは山葵の乗ったささみ塩焼きに、何故かテーブルの醤油をかけて食べていた。
「僕は、実はこれからどうしようかなと最近悩んでいるんです。」
「どうしようかって、何、河上転職を考えているの?」
そりゃ困るわ、と言いながら対して声に困惑を見せもせずに、理佐子さんは新たな注文の為にブザーを鳴らした。
「転職を、というわけでもないんですが、僕は本当にこのままでいいんだろうかって悩んでいるのは確かです。」
「止めとけ、やめとけ。男30の転職はきついぞお。今の仕事で積み上げた経験とか全部チャラになるのよ。女は出産とかがあるからある程度の転職は多めに見られるけど、男の履歴書に転職歴が歴々としているのはあんまり褒められたことじゃないのよ。」
「それもおかしな話ですよね。男が育児の為に仕事辞めたっていいんじゃないですか?母親が絶対に子育てしないといけないという決まりはないんですから。」
「不文律という奴よ。」
知らないの、と言って理佐子さんは運ばれた揚げ出し豆腐の上の生姜を崩した。
「私も十何年働いてきてね、やっぱり女が仕事していると風当たりは強いわよ。特に同じ職場に男のひとが多いとね。30も近くなるとみんなが目線でこういうって居るの。『こいつはいったいいつまで仕事してるんだろう』って。本音では早く結婚でもして家庭に収まって欲しいと思っているのね。こないだニュースで見たんだけど、育休を取ったお父さんが職場で全然理解を得られなくて同僚に干されちゃって、結局鬱病になって仕事辞めちゃったんですってね。」
「ありますよね。そういうこと。だからこそ、僕はこれから自分が何を目標に仕事していくべきなのかを迷っているというか。」
「一ヶ月食べていけるだけの収入を得られればそれでいいのよ、仕事なんて。理想なんて持ってるほうが面倒なだけじゃない。」
「理想か。無いですね。少なくとも今は。僕は。今の現実を打開したくなったんです。俺はもっと他にやりようがあったんじゃねえのかってそんな気がしてしまっている。」
「していて、でどうするのよ?正直今河上にぬけられたら私はすごく困るのよ。」
「そうですね。他にやりたい仕事って言うのは実は見つかってないんですけど、そうだなあ。世界旅行に行くとか。」
「発想が貧困な奴。世界一周なんてしてどうするの?赤道をぐるっと回ってまたうちに帰って来たって、現実が何か変わっているってわけでもないでしょうよ。」
「いや、何も世界一周とかではないんですけど。でも国境をいくつか越えてみたら、少なくとも現実の見方は今と違っているんじゃないかとは思いますね。例えば今僕たちは二人で4000円くらいの注文をしている。でも東南アジアとかアフリカに行ってみたら4000円ていうと月収とか下手したら年収ですよ。
その土地の人達が1年働いて稼ぐお金を僕は一日の呑み代にしている。そしてそんな人達からしてみたら僕は体のいい金ずるですよね。僕という人間は何も変らないのに、地図の上の位置がちょっと変るだけで生き方が全然違ってしまう。そういうことを、ちゃんと目で見て体験してみたいなあと思っているんです。」
「河上、今結構酔ってるだろ。」
と理佐子さんが言った。
「はい、実は結構呑んでます、俺は、今。」
「普段の君だったらそんなこと絶対言わないもんね。ただ、さっきも言ったんだけど、今河上に抜けられたら正直店は回らないし私は強くはお勧めしないわ。
ただね、なんか、世界に対するあついおもいを語っているから思ったんだけど、本社が今後海外出店する時にスターティングスタッフとして志願するっていう手はあると思うんだけど。」
と理佐子さんは一気に仕事モードの顔になって言った。
「そうなんですか?」
「あるよ、そういうことも。もちろん本社としても海外出店をこけたくないだろうから選ばれる人材は限られてくるわよ。もっと勉強しないといけないと思うし、多分現地の人達とコミュニケーション出来るくらいには外国語も習得しないといけないと思う。
ただワールドカップとかもあったし、これからアフリカ地域なんかどんどん経済的に発展してくるでしょう。本社としてはそれはビジネスチャンス。いずれ出店の計画も立ててると思うわ。国内は軒並み頭打ちだからね。本気で勉強してみたら、まずは本社の社員になる試験とか。」
「僕も、もう一杯ビール頼もう。いいんですか、理佐子さん。僕が抜けたら困るんでしょ?」
「大丈夫、あんたのごときがここ何年かで本社の試験に受かるとも思わないから。」
理佐子さんが僕の方をおっさん並みの力でばしっと叩くので、勢い甘って僕はグラスの口に前歯を思いっきりぶつけた。
「いってえ。」
「今すぐではないにしてもね。何か目標が欲しいんならそういうことを目指すのもいいじゃない、ってこと。何も他の仕事を探しに行かなくても。
確かにね、私たちの仕事は人々に夢や希望を与える仕事じゃないわよ。取り立ててかっこいいことしている訳じゃないし、羽振りがいいわけじゃないしね。でもね、いくばくかの人達のことは支えていると私は思っているの。これは自分の選んだ仕事に対する矜持よ。
例えばね、河上。君が明らかに疲れて苛立って荒れた顔している40代のおばさんにタバコ売ったとするわね。君はきっといつものように丁寧にレジを売ってお釣りを間違えないように渡していつものように『ありがとうございます』と丁寧に言うでしょうよ。そんなことがね、救いになる人だって居るのよ。
レスキュー隊だけが命を救ってるとは限らない。私たちだってもうすでにどこかで誰かの自殺を止めたかも知れない。」
「逆もあるはずですよね。」
「そう、そうね。それは否定しないわ。でもね世の中っていうのはね、かしこいひとやりっぱなひとが支えているわけじゃないのよ。政治家なんて論外よ。我々のような、取るに足らない人間が束になって支えてるの。みんな一人でなんにも出来ないから、集団を形成しながらね。
だから、河上、君だって世の中の役に立っている、たっているんだよ。」
理佐子さんが大分壊れ始めたな、と思って僕は自分がそれ以上呑むのを止める事にした。きっと僕がタクシーを呼んで理佐子さんを送っていかなくては行けなくなるだろうから。