第九話
最悪だ、最悪だ。馬鹿なんじゃないのかと思う。僕は自分をなんだと思っていたんだろう。女の人の気持ちが分からないのか、はっきり言おう。分からないのだ。よく考えなくても僕は女性と付き合ったことが無い。理佐子さんとの3年間をイレギュラーな出来事と片付けてしまうとしたら。いや、というよりは、僕の中の女性の知識が理佐子さんでしかなかったというべきなのか。つまり僕は、女の人とはそういうことをすれば喜ぶものだと思っていたということになる。馬鹿なのか。馬鹿なのである。清野さんに全力で拒まれたことで僕は漸く、そんな人間関係の初歩とも言うべきことを思い知ったのだ。最悪だ。もっといっそ、最低だ。僕は最低な男だ。僕たちはあれから何も喋らなかった。食事をすることも立ち消えて、無言のまま特急に乗ってうちに帰ったのだった。
僕は生活のあらゆることに身が入らなくなっていた。これは多分失恋ということなのだろう。僕はこの年でやっとのこと痛い失恋ということを知ったのだ。この場合痛いというよりは、イタイ。
失恋って、こんなに辛いものだったのかと、頭のどこかでぼんやり思っている自分が居た。頭のそれ以外の部分では、もう辛く辛くて僕は情けなかった。清野さんはあれ以来火曜日にも公園に現れなくなってしまった。僕は清野さんにアクセスする方法を失ってしまった。しかし方法が失われていなかったとして、僕はどうすることができるんだろう。
あの時、清野さんは僕に対して決定的に拒絶反応を示していた。清野さんにとって僕の存在は「駄目」だったのだ。受け入れられない、と目でも空気でも激しく拒まれたのだ。さすがに僕でも彼女のその意思を無視するわけにはいかない。悪辣なストーカーには、なるわけにいかない。
となると、僕と清野さんの関係はこのままになってしまうのだろうか。僕が辛いのはそのことだ。よく考えてみるとぼくと清野さんは、友達、とさえ言えないような希薄な関係でしかなかったと思う。そんな女性に僕はああいうことをしたのだ。馬鹿か、と思う。馬鹿だ。と思う。清野さんの連絡先も知らないし、わざわざ調べて話をつけるわけにも行かないし、打つ手無し、僕は今どん詰まりにいる。
仕事にも身が入らなかった。僕はしょっちゅうレジ打ちでミスをするようになった。バックヤードでよく理佐子に激昂された。
「ばかやろう!河上、寝てんのか!」
彼女は売り上げデータを記入しておくバインダーで僕の頭をがつんと殴った。すいません、と頭を下げると、政治家みたいなこと言ってんじゃねえ、と再度殴られた。どうしようもないからもう一度、申し訳ありませんでした、と言った。今度は何も言われなかった。
「ため息ばっかりついて、どうした。ガラにも無く悩み事か。」
「理佐子さん、抱いてくれませんか。」
ふざけんじゃねえ、といって今度は素手で殴られた。理佐子さんのげん骨は、なかなかに重かった。
「ひっでえ。仕事の後輩が悩んでるんですよ。ぐーで殴ることないじゃないですか。」
「自分の恋愛が上手く行かないからって振った女に行きずりの優しさを求める奴があるか。ばかにしやがって。」
「え、なんで、」
「ばれてないつもりだったの?馬鹿なの?馬鹿だよね。上手く言ってないんでしょう。ナンバーワンでオンリーワンの彼女と。」
「はい、そうです。」
僕は素直に頷いた。間欠泉みたいなため息が胃の置くからぶわあっと溢れ出た。
「上手く行ってないというよりは、より明確に振られてしまいました。進退窮まっています。」
「あらあらかわいそうに。だからってより戻しては上げないからね。」
「理佐子さんは、今は寂しくないんですか。」
「そんなこと、あんたに教えてあげない。」
「俺は今すごく寂しいんです。こんなに寂しいのは初めてだ。俺は今なら新明解国語辞典に『寂しさ』のページを5ページ担当できます。」
「下らないこと言ってんじゃない。働け、仕事しろお。」
と理佐子さんに言われただけだった。
実際に僕は進退窮まっている。上に挙げたようにこれ以上清野さんとの関係を詰めていくことはもう出来ない。となると、出来ることは一つだ。僕は飲んでやさぐれて清野さんのことを忘れてしまうことにした。考えうる限りもっとも平和的な回答だ。決定的な失恋に対して、他の模範解答があったとしたら誰か教えて欲しい。あるいは新しい恋を見つけるという手もあるのかもしれないが、僕にそれは少し、難しい。
というわけで僕は大学の時の友達を呼び出してはぐずぐずになるまで飲み倒した。一人になって道で倒れて、寒いと思って目を覚ましたら清野さんのあの公園の傍だったときにはさすがに涙が滲んだ。
失恋したから飲みに付き合ってくれ、と言うと大概の旧友は優しかった。優しいのとはちょっと違うかな。人の失恋を肴に飲む酒というのは誰でも旨いらしい。僕は久しぶりに会った彼らに散々馬鹿にされて揶揄されて、半ば冗談で同情されたり、「俺なんてな、」を滔滔と聞かされたりして、あっという間に年が明けてしまった。
コンビニ店員に盆暮れ正月は無いのだが、新年の3日は木曜日だったので僕は正月休みを一人で過ごしていた。朝の10時ごろに起きだしてテレビを点けたらお笑い番組をやっていた。僕は実家の母が送ってくれた餅を焼いてお茶漬けの元とお湯を注いで食べていた。こんな時くらいと思って朝から熱燗を飲んでいた。
若手芸人が入れ替わり立ち代りネタをやっている。あんまり目まぐるしく人間が出たり入ったりするので、僕は直前に居た人間が何をしたのかあっという間に忘れた。僕は年末から飲みすぎで何度も吐いたりしていたので喉の奥が焼けてひりひりしていて、熱燗を流し込むたびにそこが熱でぼうっと騒ぐようだった。
熱い透明な液体を見つめて僕は清野さんが言ったことを思い出した。
無色は無色という色なんですよ、と。
僕は思う。無色は所詮無色なのだ。何色でもないという現実は覆らないのだ。僕は清野さんに何かを求めたのだろうか。何かを期待したのだろうか。だとしたらそれはもう叶わない。ザッツオール、これでお仕舞い。さあ次のことを考えよう。
でもザネクストタイムは僕の中でなかなか始まらないだろうと思う。とりあえず僕は元の生活に戻った。寝て、起きて、働いて、それほど悪くない展望がある人生。それでいい。僕は振り出しに戻ってきたのだ。初めからサイコロを振りなおせばいい。また何処かには進んでいくのだろう。
僕は初めて会った時に清野さんから買ったネックレスがカバンの中に入れっぱなしだったことを急に思い出した。今更家の中で一人でそれの存在を思うことは億劫だった。どうしようか。もう僕はこれを持っていられない。かといって捨ててしまうのも忍びない。清野さんに送り返すのも失礼だ。どうしよう。三浦さんに事情を話して、もらってもらおうかな。失礼かな。でも今は三浦さんくらいしか思いつかない。豊穣記の正月休みがいつまでかは分からないけど、9日になったら一度豊穣記に行って見よう、と僕は思った。