青年
主人公は育ちが悪い設定ですので、台詞の中に少々お目汚しする点が見られますが、ご容赦ください。
非常にまずい展開だった。
具体的に何が、どうまずいのかを理解できない点がまずい。
似たような経験は何度かある。一も新米だった頃はミスが多く、目が覚めたら両手足を縛られたまま怪しい船に乗せられていた、なんてことが数えるほどにはあった。そんな危機的な状況下から幾度となく生還を果たし、そういった苦い経験の一つ一つが、今の一の大きな支えとなっている。
しかし、今回は次元が違った。
「危機的状況」の次元が、そもそも一の理解の外にあるのだ。
一は割かし合理的な人間であると自負している。それでいて実に現実的だ。だが、目の前の非現実を頑なに否定するほど意固地でもない。
柔軟ゆえに、理解にはまだ至らないが、受け入れはする。
これは夢じゃない。現実かどうかはひとまず置いて、夢や幻の類でないことは明らかだ。
……夢でなければいったい何だ。現実としか言いようがないではないか。
現実であるなら、どうやって帰る?
上空に島が浮かぶ世界で新宿行きの片道切符を買えるわけもない。
帰れない。帰る術が思いつかない。
どうしてこうなった。
『いやー、参った。変な所に転移しちゃったな。やっぱり二人じゃ無理があったか』
声は唐突に、すぐ後ろから聞こえてきた。
ぎょっとして振り返ると、二次元キャラのプリントシャツをズボンにインした、冴えないオタク青年が突っ立っていた。
青年の姿を捉えた途端、急速に一の脳裏に数分前の出来事がよぎる。
「ああっ、お前!」
『やあ』
「ケータイ返せよ! つーか、ここどこだよ! 新宿に帰せよ! てゆーか、どうしてくれんだよ! あんな美味い仕事、滅多にこねーんだぞ! 罰金だぞ罰金! 慰謝料払えよテメー!」
『ま、まあまあ、落ち着いてよ。そんな一遍に捲し立てられても困るよ』
青年に掴みかかっていた腕が、ふと下がる。
頭の先から熱が引いてゆくのを感じた。
青年の発した言語が理解できない。言語なのかすら判断できない。
逃げ師として二〇年近いキャリアを持つ一は、六ヶ国語ほど浅学ではあるが扱うことができる。そのどれにも共通して言えるのは、必ず独自の文法があって、規則的な並びをしているということだ。
しかし青年の発したそれは、まるで一の言語中枢が意図的に理解を拒んでいるかのように、文法も規則もへったくれもない、ただのでたらめなノイズとして一の耳に侵入してくる。
おそらくは……いや、間違いなく、どこの国でも通じぬ言語だ。
『ケータイというのは、これのこと? 僕の世界には無いものだね』
「あっ、それ」
青年の手には、いつの間にか一の携帯電話が握られていた。そのことに目を見開きつつも、一は微かな違和感を見逃さなかった。
どうも青年の反応を見るに、一の言葉が通じているかのように思えて仕方がないのだ。
「……お前、もしかして、俺の言葉がわかるのか?」
『当たり前だろう、何を言うんだ。むしろ、君はわからないのか?』
反応は至極自然であった。青年は言うまでもないといった表情で、一から目を逸らさない。
言葉の意味は解せなかったが、充分すぎる解答だった。
青年も何かを察したらしく、みるみるうちに顔が青ざめていき、うわ言のような呟きをしながらフケ混じりの髪を掻き出した。
『まさか、そこまで……? いや、だとしたら、頷けるか……?』
「おい、どうなってんだよ。おい!」
青年が向き直り、一の両肩をしっかりと掴んだ。
頭皮を掻きむしった手で素肌に触れられ、露骨に嫌な顔をする一であったが、青年の剣幕に思うところがあったのか、理解できないと知りつつも言葉が紡がれるのを待った。
『君に言葉が届かないことを承知で話す。間もなく、この世界に災いが訪れる。とても大きな災いだ。きっとたくさんの血が流れ、たくさんの命が無残に散ってゆくだろう』
青年の、一の肩を掴む力が強くなる。
『だけど、災いはいつやってくるかわからない。一年先か、一〇年先か……。あるいは、君が寿命を全うするのが先となるか。それは誰にもわからない』
『君は陰龍の使いとして、この世界に招かれたんだ。その災いを食い止めるためにね』
『だから、仲間を集めて欲しい。できる限り多くの仲間を』
『一人じゃとても太刀打ちできない。事実、僕は無力だったから』
『丸投げするようで済まないが、僕はもう行く。戦いに戻らなきゃならないんだ』
『後のことは彼女が詳しく話してくれる。君の力が本物なら、追って接触してくるはずだよ』
ひとしきり話し終えたのか、青年の両手が一の肩から下ろされた。
まだ話し足りないことが山程あるといった顔であったが、言葉が通じない以上無駄だと悟ったのか、青年の顔つきは儚くも朗らかなものに変わった。
『僕のようにはならないでくれ。色々言ったが、それだけが僕のたっての願いだ』
その言葉だけは、何故だか青年の意を汲み取れたような気がした。
目が点になった一をよそに、青年は数歩距離をとり、小さく何かを詠唱する。
変化があったのは、青年の足元。
薄らぼんやりとした青年の影が形を変え、いつだか目にした水溜まりのような渦となる。
青年の足が渦に沈み、次第に全身が飲み込まれてゆく。
見覚えのある光景であった。青年は消えようとしているのだ。
「お、おい、待てよ!」
『そうそう、ケータイって言ったっけ? こいつは失敬しておくよ。またこの世界に来るようなことがあったとき、手掛かりも無しに君を探すのは骨だからね』
やはり聞き取れぬ言葉を残して、青年のからだは頭部まで渦に飲まれてしまった。
青年の姿が消えると同時に、渦は一気に収縮し、跡形もなく消滅した。
「……マジかよ。置いてっちゃうの?」
一人置き去りにされた一。もはや人が消えたことにも動じないのは順応力の高さゆえか。
しかしながら、不思議な青年であった。
掴みどころがなく、終始その気配を辿ることが叶わなかった。今にして思えば、再会するまで青年のことや街での出来事を一切思い出せなかったというのも妙だ。
おそらくあの青年は、文字通り、住む世界が違う人間なのだろう。
「寒っ」
一は肩を抱いた。
ここに来る前、日本は初夏であった。
雨は多いが気温が高く、チューブトップ一枚でも充分間に合っていたのだが、ここの気温は日本でいうところの晩秋並に冷えている。このままでは凍死しかねない。
「まずは火と水と、あと寝床だな」
ひとまず思考を切り替える。
あの青年は何者なのか、いったい何を伝えようとしていたのか、そしてここはどこなのか、帰る方法はあるのか――。
疑問は尽きないままであるが、どれも今考えたところで仕方のないものばかりだ。
とにかく生きる。逃げて隠れて生き延びて、ひたすら情報を集めるしかない。
ここが異世界であれ何であれ、隠の竜の為すべきことは変わらない。