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九頭竜一という男

文中の「逃げ師」「代理逃亡」といったワードは造語です。

また、現実のヤーさんはこんな簡単に騙されてはくれないと思います。

あくまでフィクションですので、いくら足が速かろうと、よい子は決して真似をしないでくださいね。

「待たんかいワレェ!」

「いてこますぞハゲコラァ!」

「血ィ見る覚悟しとけよガキャア!」


 情け容赦ない罵声のつぶてを、九頭竜一は涼しい顔で聴いていた。

 追手は複数。後方およそ二〇メートル。いずれも筋者(すじもの)の手合いであるが、声音に貫禄がなく、わずかに虚勢が窺える。おそらく組織の末端だろう。そうでなくては意味がない。


(……五、六人ってところか。思ったより少ないな)


 迫りくる怒声と足音をつぶさに聞き分け、両手親指に施した鏡のネイルで追手を目視。

 週末の歓楽街ゆえに人通りが多く、少々難儀をしたものの、追手が自ら位置を声高に示してくれるおかげで何かと捗った。


 前方からは絶えず人波が押し寄せる。

 一は半身翻し、足指で地を跳ね、まるで磁石が同極の磁石を避けるかのごとく、すいすいと人波を突き進んでゆく。その動きに一切の無駄がないことは誰の目にも明らかであった。


「へへっ」


 一は余裕の表情を浮かべ、唇の端をぺろりと舐めた。

 

 事の発端は、とある債務者からの依頼であった。

 博奕(ばくち)にはまり多額の借金を背負ったというその女は、家族や友人から縁を切られ、借金を返す当てがなかった。返済期日が刻々と迫る中、女は断腸の思いで夜逃げを決意し、一に協力を仰いだのだ。

 一はその依頼を快く請け、夜逃げ決行の日取りを決めて、出奔先の手配までした。

 その数日後、とある金融業者から依頼が入る。

 しがない闇金融で金庫番をしているというその男はなんと、金庫の金に目がくらみ、密かに横領を企んでいたと語る。しかしながら、常時男衆がうろついている事務所から無断で金を持ち出すことは難しく、どうしても協力者の必要が不可欠だった。

 そこで男は、金庫の中身の四割を条件に、代理逃亡(だいりとうぼう)を依頼してきたのである。

 代理逃亡――平たく言えば囮だが、ほとぼりが冷めるまでの全責任を負い、隠蔽(いんぺい)工作や情報操作、依頼人のアフターフォローなどを陰でこなす危険な仕事だ。

 割に合わない。四割などでは、とてもとても。

 最初は報酬額に渋る一であったが、男が提示した名刺を二度見て、気が変わる。

 その男は偶然にも、先の依頼をしてきた女が金を借りた、金融会社の従業員であったのだ。

 そのとき一は、悪魔の囁きを聞き逃さなかった――。


(イージー過ぎて欠伸(あくび)が出るぜ!)


 一の計画に抜かりはなかった。

 件の闇金融を襲撃し、男衆の注意を引きつつ逃走。そのすぐ後、金庫番の男が「金を盗られた」と捲し立てれば、ありもしない盗人騒ぎの始まりである。男衆は皆追手に加わり、事務所はもぬけの殻となる。あとは、あらかじめ金庫裏に隠しておいた金を持ち出した男と接触し、報酬の受け渡しを行う。

 どうということはない。


「さて、と」


 一はおもむろにチューブトップの下から手を入れ、中から携帯電話を取り出した。この騒動に乗じて女の夜逃げの段を進めるのである。

 ちなみに彼の男にあるまじき胸の膨らみは、偽乳ではなく収納だ。走りながらだと、躍動する下半身に手を伸ばすより、懐に手を突っ込むほうが物を取り出しやすいのだ。だから決して乳房を揉みしだいている訳ではない。


 一は携帯電話を開き、手早くメールを送信する。

 合図であった。

 待機させていた女を夜行バスで千葉まで向かわせ、成田空港の国内線で高飛びさせるのである。闇金業者らが騒動の始末に手を焼いている間に、女は北陸へ雲隠れという算段だ。

 女からの返信は早かった。

 バスに乗車した旨と、深い謝辞が短い文面にまとめられていた。

 一はそれに目を通すと、一呼吸おいてメールを処分し、携帯電話を折り畳む。


(馬鹿な女だぜ。騙されてるとも知らずによォ)


 嘲笑った。

 一はもとより、女も男も両方裏切るつもりでいたのだ。

 そもそも彼は夜逃げ屋ではない。それを()と見るや誰であろうと平気で裏切り、何者からも逃げて隠れて生き延びる、薄情郎(はくじょうろう)の「逃げ師」であるのだ。敵も味方もクライアントも関係ない。

 女は好事家に売り飛ばし、男の取り分も掠め取る。男に夜逃げの手引きの罪をなすりつければ上々だ。事が済んだら、身を潜めつつマネーロンダリングに勤しむ日々が待っている。

 最後の最後に得をするのは、たった一人で充分だ。


(あとは男の連絡を待つだけ……)


 女はすでに罠にかかった。身の安全を確保してから、ゆっくり買い手を探すとしよう。


 追手との距離は依然つかず離れず。

 だが、それでいい。一は囮だ。逃げはしつつも逃げ切らないこと、追わせ続けることが肝要なのだから。

 とはいえ、そろそろ追手の体力も底を見始める頃合いだろう。

 すこし速度を落とそうか、そう考えていた矢先、手中の携帯電話が震えた。


 一通のメール。送り主の名は「小鳩(こばと)」とだけ表示されていた。「金庫番の男」の略だ。

 どうやら、男は無事に事務所を離れたようである。メールによると、所定の合流地点で浮浪者に扮して待っているとのことだった。この期に及んで変装とは、なかなか賢しい男じゃないか、と感心する。

 一は即座にメールを消去し、返信文の作成にかかるが……。


 ――ドンッ!


 文字の入力にわずかだが気を取られた一は、通りがかったオタク青年と肩をぶつけた。青年はバランスを崩したらしく、水溜まりに尻もちをついてしまった。


「っと、悪いね、坊や。これ使って!」


 さしたる()のない行動だった。いつの間にか手元にあった革財布から小銭を数枚抜き出し、青年に向けて放り、その場を後にする。一はそのとき、気前よくクリーニング費を出せる伊達男のつもりでいた。

 

そこで一は、()に気付く。


「……んん?」


 携帯電話がない。というより、携帯電話があったはずの手に、見知らぬ財布が握られている。


(やっべェ)


 血の気が引いてゆくのがわかった。

 いつもの癖で、無意識に青年の財布をスっていたようだ。ということは、クリーニング費の出所は……。

 いや、そんなことよりも携帯電話を紛失したことのほうが問題だ。あれがもし、追手に拾われでもしたら、足がついてしまうおそれがあるのだ。無論、対策は最低限講じてきたが、返信文の入力途中だったのが致命的だ。少なくとも、内通者がいることくらいは気取られてしまう。それは計画の破綻を意味する。

 

 一はすぐさま(きびす)を返す。

 心当たりは一つしかなかった。先の青年と衝突した際に落としたのだ。


(どこだ、どこに――)

 

 探す必要は、あるいは無かったのかもしれない。

 囂々(ごうごう)と行き交う人群れの中心に、その青年の背中を捉えた。

 青年はただ、佇んでいた。

 先刻と変わらぬ水溜まりの上。携帯電話のストラップに指を通し、まるで何事もなかったかのように、くるくるとそれを回していたのだ。

 一の背筋に悪寒が走る。

 何を、どうして恐れたのかは、自分でもよくわからなかった。

 一がこのとき、もっと冷静でいられたなら、水溜まりに(ひた)ったはずの青年の服が濡れていないことに疑問を持ったことであろう。

 

 意もなく唾を飲み込んだ。

 

 青年が、振り返る。意味深な目をこちらに向けて、わずかに口の()を釣り上げて。


「野ッ郎ォ……」


 一のからだを支配していた感情が、徐々に色を変えてゆく。

 それは怒りか、敗北感か。

 未だ覚えたことのないほどの不愉快が、一の臍下(せいか)を刺激する。

 青年の視線も表情も、すべてを察するに余りあったのだ。


(この俺から掠めやがっただと!?)


 一はもはや追われていることさえ忘れていた。

 走り出す。

 最速で、最短距離を――。

 叫びを上げるつもりであった。

 力いっぱい殴りつけてやるつもりであった。

 しかし、それらは叶わなかった。


『悪いね、坊や。話す時間も惜しいんだ』


 それは、囁き。紛れもなく囁きであった。

 前方に佇む青年の声が、どういうわけか距離を無視して耳に届いた。

 一が二歩目を踏み出す間もなく、青年はすでに水溜まりごと背後に移動していた。

 青年の華奢な左腕が、一の肩に回される。

 

 日本語じゃねェ――そんな益もない感想を最後に、隠の竜はこの世界から消失した。

一部加筆修正を致しました。

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