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6th tale DV : mother

・ある少女の回想 二



「なんだ……、あともう少しじゃないか……。次こそはしっかり頑張りなさい。何時になったら満点が取れるようになるんだ」


 そう言って、お父さんは私にテストの答案を返して、早々に部屋から出て行ってしまった。

 私は答案を眺めながら、部屋で一人佇んだ。

 先日、学校で行われた算数のテスト。少し難しめだった今回のテストは、クラスメイトたちに悲鳴を上げさせた。

 八十点を超えたのは、私を含め三人だけ。中でも、九十点を取った私は最高得点者で。これならお父さんにも褒めてもらえると思ったのに。期待していた分、落胆も大きかった。


「紫在……」


 部屋のドアを開けて、お母さんが入ってきた。

 私がお父さんを怒らせてしまったから、お母さんに気まずい思いをさせてしまったのかも、なんて、あの時は思っていた。


「紫在、お父さんにテストのこと聞いたよ。お父さんは怒ってたけど、お母さんは気にしないから。元気だしてね」


「おい!!何をしてる!!早く飯の用意をしろ!!!」


 階下から聞こえてきた怒声に、お母さんも私も縮み上がった。

 お母さんは何か言おうとしていたことも忘れて、部屋を飛び出し、階段を降りて行った。


“気にしない”。


 気にしないという言葉が持つ意味を、私は考えずにはいられなかった。

 お母さんが私を気遣って発したその言葉が、私には酷く辛辣な物に聞こえた。

 “気にしない”。

 点数が低くても気にしない?

 お母さんたちが大好きなあの人のように完璧な成績でなくても、気にしない?

 あの人より駄目でも、気にしない?

 お母さん。あなたもお父さんと同じ。

 あなたも、私を褒めてはくれませんでした。

 私は、駄目な子ですか。

 あの人のようになれない私は、あなたたちにはどう見えますか。

 私はいつまで経っても劣等感を拭えなかった。

 何故、私はあの人より上にいけないのか。いつまで経っても、いつまで経っても家族の中にはあの人がいる。

 あの人がみんなの中にいる限り、私はこの家で誰にも認めてもらえないのだろう。

 良い子でいようとしていたあの頃の私には、あの気持ちを受け入れることはできなかった。

 けれど、今なら言える。

 私は、“あの人”のことが嫌いだった。






 翌朝、学校へと向かった私は憂鬱に靴を鳴らした。

 緑の落ち葉や、虫が行き交う夏の地面をじっと見つめながら、学校まで歩いて行って。

 クラスに入って、私は見てしまった。

 クラスの中に一つだけ、人の集まりができていて。その中心では、そばかすの目立つ崎山さんが泣いていた。


「哉沢、こいつに話しかけられたんでしょ?お前もやっていいよ」


 クラスの男の子が私に手渡したのは、工作用のはさみ。

 私は床に散らばる髪の毛に気が付いて、ここで何が行われていたのかを悟った。

 椅子に座ったまま、何人ものクラスメイトに囲まれて泣きじゃくる崎山さんの髪は無残に切り崩されていて。

 皆が私に視線を寄越すのを感じた。

 いくつもの視線が私の心を揺さぶった。私は、自分が今重大な分かれ道に立っているのを理解した。

 崎山さんの髪を切らなければ、次にこうなるのは私かもしれない。

 分かっていた。分かっていたけれど。

 お母さんとお父さんは、きっと私にこんなことをして欲しくないだろうと、思って。

 あの二人に寄せる希望をまだ失っていなかった私は、はさみを机に置いたのだった。

 あの時のクラスの空気は忘れることができない。

 一瞬にしてみんなの顔が変わったことが、私を震えさせた。

 集まりが散り散りになっても崎山さんは泣きやまないまま、私は崎山さんを慰め続けて。

 私はこれで良かったのだと、自分に言い聞かせていたけれど。

 翌日登校した時、自分の机がなくなっているのと、呆然とする私を楽しそうに眺めるクラスメイトたちに、自分の考えが如何に甘かったかを実感させられた。

 そして、何よりも私を絶望させたのは。

 担任の先生が、崎山さんが虐められている事実を知っていたことと、それを黙認しているということだった。






6th tale DV : mother






 城が見下ろす街の中。

 雪が降り積もる街道で、一人の女の子が泣いていた。

 母親と思しき女性がその子に駆け寄って。


「どうしたの?」


 そう尋ねた。

 女の子は泣きながら、何かに向かい指差して、こう言った。


「お姫様が、私のおもちゃ取っちゃった!!」


 母親は顔を青ざめさせ、女の子が指差す方を見た。

 普段は城の中にいるお姫様。

 ふらりと街に現れては災いをもたらすあの姫が、いくらか離れた所で親子を見ていた。


「これは私の物なの。うるさいなぁ」


「お姫様……」


 懇願する。もう無駄だと分かっていても、他にできることなどないから。


「お許しください……、お許しください……」


 黒い何かで乱雑に塗りつぶされた姫の顔は、母親には窺がえない。

 それでも、母親には、一つだけ分かることがあった。


 ――――この人は。


「うるさいなぁ。うるさいなぁ」


 ――――私たちを決して、許してはくれない。


「うるさいから、もういらない」


 雪が降っていた。

 街道には一人の女の子が泣いていて、そこには。

 女の子を愛してくれる母親は、もういなかった。







 私は怯えている。

 何もかもに、怯えている。

 愛する者に、愛することに怯えている。

 一度芽生えた恐怖はどうしようもなく体を揺らし、どうしようもなく心を侵す。

 いつからこんな風になってしまったんだろう。気付いた時にはもう、私は駄目になっていた。

 どこかで怪物が唸ると体が竦んで、私は部屋の中を転げまわる。

 部屋の物を壊しながら私は呻いて、祈るのだ。

 恐怖を忘れるために、ひたすら。

 あの子が幸せでありますように。あの子が幸せでありましたように。

 自分のために、私は祈る。あの子たちの幸せを、信じてもいない神様に願い続ける。

 いつからこんな風になってしまったのだろう。私は。

 耐え難い程みじめで、狂おしいほど醜く。


 ひたすら下卑て、心から生きたいと、望んでいる。






 目前には二人の少女がいて、その顔は恐怖を明らかにしている。

 その内の一人を、魔女は知っていた。

 数日前、魔女の家に訪ねてきた女の子。お姫様に会いたいからと、彼女の居場所を聞いてきた。

 魔女は、椎菜がお姫様の友達になってくれると思った。だから、少しだけ心を許しかけた。

 けれど、今こうしてここにいるということは。

 逃げるように急いで、そこにいるもう一人の誰かの手を引いて、出口へ向かうということは。


「私は……、正しかった……」


 魔女は安堵する。

 あの時感じた恐怖は、あの時、椎菜を信じなかったことは間違いではなかったのだと。


「悪い子……」


「おばあさん!私……っ!!」


「悪い子は、どんな目にあっても……、文句を言っては駄目……」


「私、あなたに話したいことが――――!」


「だってこれは、罰だから」


 これは、意味のあること。

 自分は今までも、そしてこれからも、間違ってなどいない。


 ――――この恐怖には、意味がある。


 魔女は逃げる。

 椎菜たちを追い詰めながら、魔女の思考は心の奥へ逃げていく。


 ――――そうだ、これでいいんだ。


 ――――このままで、いいんだ。


 魔女のかざす手を包む黒い瘴気は渦巻いて、椎菜と女の子へと刃の形を向けた。黒い瘴気の刃は、鋭く、おぞましく尖っていた。

 椎菜は言葉を続けようとしたけれど、今の自分には守らなければならない女の子がいることを思い出したから、そこから駆け出した。

 いつもと同じ、自分を襲う者から椎菜が逃げる。自分を脅かす者から、逃げ出すのだ。


「椎菜さん、あの人は……?」


「ちょっと……、いろいろね……」


 椎菜にとって、いつもと違うことがあるとすれば、今、彼女の中にあるとある気持ち。

 今の椎菜には、恐怖だけではなく、その両足を進ませる勇気と、魔女に対する悲しみが、確かにあった。

 魔女の刃が宙を飛び、椎菜たちを切りつける。

 刃から逃げるため、椎菜は出口とは逆の方向へ、城の奥へと女の子の手を掴んで走る。

 背後から切りつける悪意の刃が、扉をくぐる椎菜の脚を掠めた。

 刃は荒々しく暴れまわり、壁に、床に、次々と突き刺さって、椎菜たちの恐怖を煽っていく。

 追われる椎菜は、既に疲れ果てていた。足は痛み、息はもう切れ切れで。

 走っても走っても、追ってくる刃は決して途切れない。


「スティープス……、何処……?」


 どんなに疲れても、痛くても。それでも、走らなくては。スティープスとの約束を果たすためにも。

 椎菜はスティープスが無事だと信じて、心を強く持ち直した。







 玉座へ続く広間は静寂に在った。

 騎士から逃れ得たスティープスは、そこで最早立つことすらままならない体を休めていた。

 もう、ずいぶん時間が経ってしまった。椎菜はどうしているのだろうか。先程聞こえてきたスティープスを呼ぶ声は、確かに椎菜のものであった。


 ――――多分、椎菜は、僕のことを心配してきてくれたんだろう。


 彼女の安否が危ぶまれて、スティープスはよろよろと立ちあがった。


「その体はお前が思ってるほど丈夫じゃない。普通の人間よりはずっとマシだが、無茶はしない方がいい」


 スティープスに声をかけるのは、またも白の男、ディリージア。ディリージアは銃に穿たれたスティープスの右腕を見て、言った。


「そのだらだら流れている血は生きるために必要なものだ。お前は既に血を流しすぎている」


 スティープスは傷口から流れる血を手で押さえ込む。痛みを伴い流れ出す血は収まりを見せているとはいえ、未だ隙間を縫って滲み出す。


「これを使え」


 ディリージアがそう言うと、城内であるにも関わらず強い風が吹き、その風はスティープスの所に布と包帯を飛ばし、運んできた。


「巻き方は知っているか?」


「いや……」


「こうやってやるんだ」


 ディリージアは身振り手振りで包帯を腕に巻きつける動きをスティープスに見せた。

 スティープスはディリージアの動きを真似しながら、断じて上手とは言えない手つきであったが、それなりに丁寧に傷を包んだ。


「すまない、ディリージア」


 スティープスにはディリージアが何を考えているのか測りきることはできない。

 しかし、彼と敵対する必要はないと確信めいた感情を持っていた。


「あの女は牢屋に閉じ込められていたあいつを連れて行った」


 ――――椎菜が、紫在を連れて。


 スティープスは安堵した。紫在がここにいて、そして椎菜が紫在を助けてくれたのだ。


「あの女は――――」


「彼女は椎菜っていうんだ」


「あの椎菜ってやつは、お前のことを心配していた」


「椎菜が……」


 彼女ならきっとそうしてくれるだろうとは分かっていた。予想できていたはずなのに、スティープスは嬉しく感じる。

 彼女が、自分のことを心配してくれていた。それを聞いて、スティープスの心に力が戻り始めた。


「ディリージア、君は椎菜と何を話したんだい?」


「大したことじゃない……、それよりも」


 ディリージアが向くのは、確かに感じる気配の源の方向だ。

 広間の扉から続く廊下のずっと先。ディリージアはそこにいる人物を既に知っていた。


「どうやらこの城に、魔女が来ているらしい」


 スティープスは焦る。件の魔女が、この城に来ている。

 魔女が何の目的でこの城に来たのか、スティープスにも見当がつかない訳ではない。

 魔女は仕留め損ねた椎菜を追ってきた。今度こそ、椎菜を殺すつもりなのかもしれない。


「娘を失ったあの魔女は、今や娘同然の姫を守るためなら何だってするだろう。あの女が大事なら、早く行ってやれ」


 それを聞くや、胸がざわつき、スティープスはディリージアの示す方へと走り出したのだった。






 城を駆け抜けていく椎菜たちを追いながらも、魔女は焦る。


 ――――捕えられない。何故、どうして。


 いくつ刃を出そうとも、刃が切り裂くのは空ばかり。

 何故、何故。


 ――――恐くないの?今にもその命を失ってしまいそうなのに、どうして足がすくまないの?


 このままではいけない。もし椎菜たちがお姫様の所に向かっているとしたなら。お姫様を盾にするつもりだとしたら。

 お姫様を想い、魔女の危機感は一層強まった。

 魔女には姫を守る意味があった。

 魔女はずっと昔に失われたものを取り戻せると、自分でも気付けないくらい深い心の何処かで、まだ信じていた。

 魔女がかつて手放してしまった、かけがえのない人の命。魔女はその誰かの命と共に、大切な何かを失くしてしまったのだった。





 これは、記憶。

 現実ではない夢の中でも確かにそこにある、魔女の思い出だ。






 私には、娘がいた。

 ホリーという名前の女の子。

 金色の綺麗な髪と、誰にでも優しく誠実な、みんなに好かれるいい子だった。

 理由は分からないけれど、ホリーは自分の名前が少し気に入らないようだった。

 ずっと昔のとある日に、ホリーは私にこう言った。


「お母さん、今日、何の日か覚えてる?」


 はて、何だっただろう。

 私には心当たりがなかった訳で、首を傾げる私を差し置き、ホリーは続けた。


「私、ちょっと出かけてくる!」


「暗くなる前には帰ってきてね」


 元気に家を飛び出すホリーに私は一応注意して、あの調子ならきっとお腹を空かせて帰ってくるだろうと、腕によりをかけて夕飯を作り、娘の帰りを待つことにした。

 ホリーはどこに連れて行っても評判がいい。

 私と違い元気があって、誰とでも仲良くなれる。そして何より、勇気がある。

 本当に自分の娘か疑わしい程、ホリーは良くできた子供だった。

 あんまり疑わしいから不安になって、別の人の子供なのだと思い込みかけたことだってある。

 そのときは、ホリーにひどく怒られてしまったものだ。

 何はともあれ、ホリーは自慢の娘。

 元来孤独な私にとっては、ホリーはただ一つの希望でもあって。だからこそ、大事な、大事な存在だった。






 日も暮れて、そろそろ帰って来る頃だろうと夕飯の用意も済ませたのに、ホリーはまだ帰ってはこなかった。

 夜の森は危険だ。

 肉食の動物はいくらでもいるし、夜闇に隠され生い茂る草の根はまともに歩くことさえ許さない。

 どうしよう、どうしよう。

 探しに行かなくてはと思うものの、私に夜の森に出ていく勇気は無くて。

 結局、ホリーが無事で帰ってきてくれることを祈り、一人家で待ったのだ。

 そんな調子で一時間近く待ち続けて、私の気が気でなくなり始めた頃。小さく音を抑えて、玄関の扉が開かれた。

 慌てて玄関に向かうと、おどおどした面持ちでホリーがいて。


「ご、ごめんなさい……」


 ホリーが何を言っているのかすぐには分からなかったけれど、気付いた。


 ――――遅くまで帰ってこなかったことを私が怒っていると、そう思っているんだ。この子は。


「馬鹿……」


 ――――無事でよかった。本当に、よかった。


 目の前で泣きそうにしているホリーがもう、愛しくて。強く強く抱きしめた。


「おかえりなさい……」


 頭を撫でてあげながら、腕の中に確かにいる娘の暖かさを噛み締める。怪我もないようだ。

 よかった。かわいいかわいい、私のホリー。

 腕の中で、ホリーがもぞもぞと恥ずかしそうに抵抗し始めた。


「……、おかーさん」


「ん?」


「お腹空いた……」


 よっぽどの空腹だったらしく、普段より多めに用意しておいた料理をホリーは綺麗に平らげてしまった。

 しっかりしているとは言っても、満足気に椅子に寄りかかる姿は、やはりまだまだ子供で。

 私はホリーにこんな遅くまでどこに行っていたのか尋ねた。


「これ」


 彼女がポケットから取り出したのは、一つの木の実。

 ダンエイという木になる、鮮やかな青色をした実。

 一本の木に一つしかできない上、枝についている期間が非常に短く、地面に落ちると割れてバラバラになってしまうから、滅多に手に入るものではないのに。


「それを取りに行ってたの?」


「お母さんが、今日くらいに実がなるって言っていたから」


 ――――私が?


「この前山菜取りに行ったとき、お母さんが教えてくれたやつ」


 ――――ああ、ああ。そうだ。そういえば、そんな話をしたような。


「これで髪飾り作ってくれる約束した」


「そっか……。じゃあ約束通り、かわいい飾りを作らなきゃね」


 ホリーからダンエイの実を受け取って、手のひらの上で転がした。

 軽く透き通った青色の殻が鮮やかに、部屋を照らす蝋燭の光を照り返す。

 この辺りでダンエイの木があるのはどこだっただろう。確か、それほど遠い場所ではなかったような。


「ずっと木の実を探してたの?」


 木の実を探すだけで、帰って来るのがこんな夜遅くになるとは思えなくて、私は尋ねる。

 ひょっとすると、帰りに寄り道してきたというだけかもしれないけれど。


「もう一個欲しかったから、探してた」


「もう一個?どうして?」


 ホリーは顔を赤らめて、黙ってしまった。


 ―――― 一体、何に使うつもりだったのか。


 もしかすると、髪飾りの他にも作ってほしい物があったのかもしれない。あの時は、そう思っていた。


「……、秘密」







「おやすみなさい。お母さん」


「お休み。ちゃんと歯磨きした?」


「うん」


 部屋に入っていくホリーは眠そうに、目をとろんとさせてふらふらと。扉を閉める直前。思い至った様子で私の方に振り返った。


「お母さん」


「ん?何?」


「あの、髪飾り……」


 なんだろう。髪飾りが、何?


「髪飾りね……、その……」


 言いづらそうにホリーは言葉を探して、考えて。

 そして。


「やっぱり、なんでもない。おやすみなさい」


 歯切れ悪くそう言って、扉を閉じた。






 翌日、ホリーは朝早くからそそくさと出掛けて行った。

 日中の森は夜と比べ遥かに安全だ。

 言葉の通じない動物たちは眠っているし、言葉の通じる動物たちはあの子に危険を知らせてくれる。私には近寄ろうともしない彼らも、ホリーのそばには寄ってくるのだ。

 小さい頃は動物を怖がって外に出ていけなかったあの子。でもいつの間にか動物たちと打ち解けていて。毎日毎日彼らと一日中遊んで、へとへとになって帰ってくる。

 楽しそうだった。私もそんなあの子が嬉しくて、嬉しくて。一日一日が幸せにあふれていた。

 けれど、その日は。

 その日だけは、それまでとは違う一日になってしまった。

 いつもなら昼に一度帰ってくるホリーが、帰ってこなかった。動物たちに果物でも貰っているのだろう。作った昼食が無駄になってしまうから、あまりしてほしくはないのだけれど。

 仕方がなく昼食を捨てて食器を洗っていた時だ。

 森がざわめく音が家の中にまで響き渡って、私の耳を強く揺らした。何事かと思って外に出ると、森中の動物たちが叫び、駆け回って。


「ヴァン・ヴァラックだ!ヴァン・ヴァラックが来た!!」


 顔から血の気が引いていくのを感じた。

 ヴァン・ヴァラックが、かつて私を食い殺そうと追い回したあの怪物が、この森に。

 そして私の頭に浮かんだのは、あの子。

 ホリーは、ホリーはどこに。

 このままではいけない。

 あの子が、あの子が。早くあの子を探さなくては。

 そう思ったのに。私の足は動かなかった。ホリーの安否を想って、悩んで、悩み続けて。

 それでも、以前の恐怖が思い起こされ、私は。


 私は、家の中へと戻っていた。


 あの子なら、きっと大丈夫。動物たちもついているはずだし、そもそもヴァン・ヴァラックに出会わなければ何の問題もないのだから。


 ――――そう、大丈夫。大丈夫。


 だから私は、ここでこうしていればいいんだ。

 臆病で、卑怯な私は。どこまでも愚かな私は、そうして現実から目をそらした。

 外では木々が倒れる音と、たくさんの悲鳴が上がっていた。椅子に座る気にはなれなくて、床にうずくまり、頭を抱えた。

 何時間そうしていたのか、もうはっきりとは覚えていない。

 一旦静まりを見せた森のざわめきは、いつの間にか再び戻ってきていた。

 けれど、先程とは少し様子が違って。

 私は娘のことを思いだす。大事な大事なあの子、私のホリー。

 大事な、はずだったのに。

 あのときの気分は、決して忘れることができないものとなった。

 気持ちが悪い。

 どうして、こんなにも心が重いの。


 ――――この気持ちは何?何か、心の中で私を責め立て、追いまわすような、この気持ちは。


 ――――言葉にするとすれば、これは、そう。


 ――――罪悪感。


 私は自分の罪悪に溺れていく。裏切ったことに対する負い目が、渦巻いていく。


 ……裏切った?誰を?


 玄関の扉から音がして、私は我に返った。

 爪でひっかくようなその音は、私を急かすように何度も、何度も鳴っていた。

 嫌な予感に、私は扉を開けるのを躊躇った。

 でも、私の中に残った何かが、扉を開けろと言っている気がして。私が意を決し、扉を開けると。

 一匹の猫が、座っていた。猫は私が出てきたのを確認すると、家の建つ木の下へと降りて。

 そして、私にこの森で起こっていた現実と、その結果を突き付けた。

 群がる動物たちがこちらを見やり、距離を開けた。地面には血が点々と続き木の根元まで続いていた。

 根元には血だまりができていて、その中に。

 鈍く輝く金色があった。

 血に濡れた輝きが、赤に染まった金髪が、木に力なく寄りかかるのが、私に誰かを分からせる。


「……」


 私はゆっくりと梯子を降りる。

 ゆっくり、ゆっくり。

 何も考えないようにしながら、梯子を降りる。

 それでも想ってしまうのは、すでに過ぎ去ってしまった思い出。

 梯子を降りる。

 一段。

 また一段。

 いくつもいくつも浮かぶあの子の顔が、私の心を壊していって、もう耐え切れなくなった頃。

 梯子が終わり、私は変わり果ててしまった娘の姿を捉えた。


「ホリー……?」


 引かれた血の線の先にいるのは、確かにホリーだった。


「ホリー!!」


 流れ出す血は腹部から。おそらくは獣に食いちぎられて、大きく広がって。


「あぁ……、ホリー……。どうして……」


 どうして、どうして、こんなことに。

 優しくて、誰にも負けないくらいいい子だったあなたがどうして、こんな目に。


「おかあさん……?」


 すっかり血の気の抜けてしまった唇が動いて、私を呼んだ。

 今にも消えてしまいそうなか細い声。忘れない。忘れられるはずがない。


「ホリー、ホリー……」


 私も呼んだ。

 あの子の名前。果たして聞こえていただろうか。私の声は、あの子に。


「おかーさん、これ……」


 ホリーは少しだけ指を動かして、ホリーの手の中にある物を私に教えてくれた。

 手の中には、青い青い木の実が、一つ。あの子の指の間から煌めいていて。


「これ……」


「え……?」


「これで、飾り……、お母さんの分、一緒のやつ……」


 もううっすらとしか開いていないホリーの両目が、ゆっくりと。

 ゆっくりと、閉じていく。


「おそろいの、欲しい……」


 そのとき、ようやく私は理解した。ホリーがずっと言い出せなかったことを。

 ホリーが朝早くから出かけて行ったその理由を。


「お母さん、お母さん……」


「ごめんね……、ごめんね……」


 昨夜のうちに気づいてあげられなくて、すぐにあなたを探しに行ってあげなくて。


「お母さん……」


 私を呼ぶ声は、次第に小さくなっていった。

 小さくなって、か細くなって、遂に、声は途絶えてしまって。

 そしてあの子は、ホリーは、もう目を開けることはなかった。


「その子はね、あんたのためにダンエイの木まで行こうとしたんだ。ヴァン・ヴァラックがいるかもしれないにも関わらず」


 離れた場所でホリーを看取っていた動物の一匹の鹿が語った。


「実際、ヴァン・ヴァラックはあの辺りにはいなかった。けど、そこに隠れていた凶暴な獣たちに襲われたんだ。私たちが見つけた時には、もう手遅れだった」


 つらつらと状況を伝える鹿を尻目に、私はホリーの亡骸と共に木の上へと飛んだ。

 家に入り、ホリーを彼女がずっと使っていた自室に寝かせ、私は独り泣き続けた。

 私は、一晩中ホリーの前で泣き続けた。ずっと私の心の底で、何かが私に問いかけているような、そんな気がしていたけれど、私はひたすら気を逸らし続けた。

 その後、私はホリーの遺体を木の根元に、家の裏に埋葬して。

 私は、ホリーとお別れした。






 なんでこんなことになってしまったのだろう。ホリーが何をしたと言うのだろう。

 一瞬、思い出しそうになった。

 外から森の異常が聞こえてきた時、私が取った行動を。私が、ホリーが危険に曝されている間、何もしていなかったことを。

 けれどそれは、私には耐えられない罪悪感となって、私を覆い潰してしまうに違いない。だから私はその考えを振り払う。それは、考えてはいけないことだ。

 私には、あの時どうすることもできなかった。

 それでいい。それでいい。

 私には、私という人間には。

 ああやって、あの子を信じて待つことが最善だった。私にできることなどなかった。

 私は。私は。

 ホリーを裏切ってなど、いない。






 そして何年かが経ち、私は出会うのだ。いつの間にかできていた城に、いつの間にか住んでいたお姫様に。

 見た目も性格も違うけれど、ホリーにどこか似ているあの子に。


 私のことを、「お母さん」と呼んでくれるあの子に。










 魔女は刃を納め、椎菜を追うのを止めた。

 しかし、その体の周りには黒い何かが浮き上がっていく。真っ黒な絵の具にも似た、何か。それは魔女の周囲を囲い、広がっていった。

 じわじわと、それは城を蝕んで。

 次第に廊下を埋め尽くし、ほかの部屋にも広がって。ついには、城中の余さず全て、何もかもを真っ黒に染め上げてしまった。


「なに、あれ……?クレヨン……?」


 魔女から逃げながらも、椎菜はまだ城の中に取り残されているであろうスティープスを探していた。しかし、スティープスは見つからないどころか、この城自体が異様に様変わりを始めて。

 粘度を持った黒い霧のような物が、壁を床を、這ってくる。

 椎菜にはそれに見覚えがあった。

 あの黒色、ウッドサイドの森で魔女が森ごと椎菜たちを殺そうとしたときの、漆黒だ。

 森に住んでいた何の関係もない動物たちを容赦なく押しつぶしてしまった、魔女の力。

 休んでなどいられない。走り続けなければあの黒色に追い付かれてしまう。後ろからだけではない。その黒色は城全体に広がって、先回りするかのように椎菜たちの逃げ道を塞いでいく。


「椎菜さん……、このままじゃ……」


 女の子が不安そうに声を震わせた。体力も限界なのだろう。女の子の両足は鈍って、疲労の体を露わにしていて。

 椎菜は考える。これ以上逃げ続けるのは無理がある。

 なら、なら。

 繋いだ手から、女の子の不安が伝わってくる。彼女の顔は、今にも泣き出してしまいそうで。

 椎菜は決断した。

 それは、既に分かっていた自分のやるべきこと。

 スティープスと出した、一つの答え。

 椎菜は逃げるのを止めた。

 椎菜は立ち止まり、女の子の目線に合わせてしゃがんで、不思議そうに呆ける女の子に伝える。


「ごめんね。ここから先は、一人で逃げて」


「え……?」


「私は、あのおばあさんとお話ししなくちゃいけないことがあるの」


 椎菜にはやらなくてはいけないことがある。それはスティープスと決めたこと。

 スティープスのお蔭で、決められたこと。


「もう逃げなくても済むように、私はちゃんとあのお婆さんと向き合わなきゃいけないの」


「……」


 女の子の目には涙が溜まって、溢れだしてしまいそうだったけど。

 女の子は堪えた。

 女の子は、椎菜が大事な話をしているのだと分かったから。女の子には強さがあった。今、椎菜の中に芽生えているものと似た、強さが。


「わかりました」


 目を真っ直ぐ見つめる椎菜に答えるように頷いて、女の子は城の奥へと進もうとした。


「お前の――――」


 しかし、何処からともなく、声がして。


「お前のしていることに、意味はない。ここは夢の中。目覚めれば終わる、ただの空想だ」


 白い仮面と、白い執事服の男。

 彼が現れるのは、何度目だろうか。どこからともなく、ディリージアが走り出そうとする女の子の前に現れた。


「また、邪魔しに来たの?」


 ディリージアは椎菜の静かに荒げた声も意に介さず、続けた。


「お前が魔女の所へ向かうなら、こいつは一人になる」


「その子から離れて。その子をどうするつもり?」


「逃がしてやるだけだ。お前がしようとしていたことを、俺が引き継いでやろうと言っている」


 言葉を投げ合う二人の傍で、女の子は驚いた様子でディリージアを見ていた。


「あなたは、誰?」


 女の子はディリージアに問いかけた。

 それは、女の子には至極当然な質問であったけれど、ディリージアにとっては、ずっとずっと深い意味を含んでいた。


「俺は……」


 ディリージアは口ごもる。彼はこの瞬間をどれだけ待ち望んだことだろう。

 ディリージアにとって、この一言は彼の全てを意味づけるものだ。


「俺は、ディリージア」


「ディリージア?!」


 女の子は声を上げて、ディリージアに歩み寄る。


「ディリージアって……、お城のディリージア!?」


 女の子のやけに嬉しそうな様子が、椎菜には気になったけれど、もはやすぐ後ろにまで迫りつつある黒色が、場の流れを本題に引き戻した。


「ああ、そうだ。だがすまない、今はそれどころじゃないんだ」


 嬉しそうにはしゃぐ女の子を宥め、ディリージアは椎菜へ問いかけた。


「スティープスは信用できても、俺は信用できないか?」


 椎菜は、ディリージアを信用することができなかった。

 スティープスの友達をこんな怪しげな男に渡すのは得策とは程遠く、だが共に連れていけば女の子が魔女の脅威に曝されることは確実で。

 椎菜が悩む間にも、魔女の操る黒の霧は絶えず迫りくる。言い争っている時間もない今、椎菜は、もうここはディリージアに任せるしかないと判断した。


「分かった。けど、約束して。絶対にその子を無事で逃がすって」


「当然だ」


 椎菜が女の子の顔を覗いた。女の子は少しだけ、元気を取り戻したようだ。これなら、まだ逃げられるかもしれない。


「最後まで一緒にいてあげられなくて、ごめんね」


「いえ、そんな……。椎菜さんのお蔭で、私……」


「もう行くぞ。時間がない」


 出口の方にも伸びていき始めた黒色を見据えて、ディリージアは女の子を急かした。


「あの、ありがとうございました、椎菜さん!」


 女の子を見送って、黒色の中に入っていこうとする椎菜にディリージアが付け足した。


「ああ、そうだ。もうすぐ、あいつもお前の所へやってくる。それまで精々、頑張るんだな」






 暗い。

 見える限り一面が漆黒に包まれて。

 椎菜は漆黒に染まった城の中を進む。窓から微かに入ってくる光だけを頼りに先へと進む。

 殺意を孕んだこの漆黒に、自分がいつ殺されても不思議ではない。

 魔女は椎菜が近寄っていることに気付いているだろうか。気付いていて殺さないのなら、まだ話を聞いてくれる可能性は残っている。


 ――――諦めたくない。こんなことになってしまったのは、私にも責任があることだから。


“お前のしていることに、意味はない。ここは夢の中。目覚めれば終わる、ただの空想だ”


 ――――そんなこと、分かってる。でも。


「現実だとか……!」


 ――――私は、私のできることを、やりたいことを、最後までやり遂げたい。情けなく落ち込んで、また、スティープス。あなたのような優しい人に、心配をかけさせたくないから。


「夢だとか……!」


 ――――それが、無駄であったとしても。


「関係ない……!私は――――!!」


 ――――例えこの世界が、目覚めた時には、全て忘れてしまうような儚いものであったとしても。


「嫌なことから逃げない、絶対に!!」


 ――――私は、この罪悪感を撃ち晴らす。






 床には黒が波立って、天井からは黒色の霧が砂時計の砂の様相で滴り落ちる。

 辛うじて届く外の光が、廊下を薄く照らす斜光となって降り注ぐ。

 その斜光の向こうに、奥の奥の暗がりに、魔女はいた。


「私には……」


 闇の中で、魔女は無気力に立ちつくしていた。目前の椎菜を認識してか、しないでか、ぼそぼそと語りだす。


「私には、娘がいた……。いい子だった。誰にでも優しくて……、私にも。もういなくなってしまったけど、いなくなってしまったから。私は、許してはいけないの」


 魔女が虚ろに視線を漂わせ、言葉を漏らす。


「私は、守らなくてはいけないの」


 椎菜は確信した。

 魔女がこうなってしまったことに、理由があることを。自分がここに来た意味が、まだあることを。


「あなたが守りたい人って……、誰なんですか……?」


「……」


 魔女の目が、椎菜を捉えた。

 弱弱しくも、決意が溢れる鋭い瞳だった。

 椎菜は魔女と視線を重ねる。

 椎菜の瞳にも、力強い決意が込められて。


「お姫様……。このお城の、私のお姫様。あなたが、私を騙すのに使った子」


 魔女の声には湧き上がる怒りが含まれていた。

 魔女の怒りを椎菜は改めて感じ取る。魔女の言葉に、椎菜は自分が嘘を吐いたことが魔女を怒らせているのだと思った。

 だから、椎菜は告白した。


「ごめんなさい……。私はあなたに嘘をつきました。お姫様に会うつもりも、本当は初めからなかったんです……」


 魔女の両腕が椎菜に伸びる。その手は椎菜の首を掴んで、強く締め付ける。


「だから……。だから……、私、あなたに謝らなくちゃ。おばあさん」


 息ができない。声も出せない。それでも、椎菜は首をよじって、少しでも声を出す余裕を作る。


「ごめんなさい……。嘘吐いて、ごめんなさい……」


 首が軋む音がする。

 魔女の両手は力を緩めず、椎菜の息を止めてしまう。


「ぁ……、ぅあ……」


「あんたがここで何をするつもりでも、許さない……!」


 声が出なくなって、もう謝る言葉も伝えられない。

 でも。

 まだ椎菜のその双眸は閉じられてはいなかった。

 死への恐怖が思考を奪おうとも、絶望に足がすくわれようとも。


「あの子に近づくな!!あの子に何もするな!!!あの子を……!」


「違う……、違うの……。私は……」


 誤解であることを、椎菜は魔女に伝えることができない。

 最後に出た言葉は掠れて、続かなかった。


「私の姫を!!傷付けるな!!!」


 椎菜は魔女の叫びに、自分が勘違いをしていたことを悟った。

 魔女の怒りは、椎菜に向けられた物だけではないと。魔女の怒りは、もっと別の何かに向けられた物でもあるのだと。

 例えば、そう。

 自分自身に向けた、怒りだとか。

 けれど、例え椎菜が諦めずとも、その命は揺らいでいく。

 呆気なく、何も成せぬまま。途絶える呼吸に抗えず。

 揺らいで、揺らいで、椎菜の命が、消えてしまう――――






 どこかで、咆哮が起こった。

 聞き覚えのある声だった。震えながらも、力強い声だった。

 魔女の腕に齧り付いた誰かは、魔女の不思議な力に弾き飛ばされ、床を転がり、しかし逞しく立ち上がって。


「調子に乗るな……!これ以上何かしてみろ、ぶっ殺してやる!!」


 一匹の獅子が魔女へと吠える。

 魔女の家へと案内してくれたライオンだ。

 ヴァン・ヴァラックから、魔女から共に逃げたライオンだ。

 来てくれたのだ。

 街の中は嫌だと言っていたにも関わらず、それもこの城の中にまで。ライオンのおかげで椎菜の首は解放され、喉の違和感に激しくむせた。


「おい、立てるか!早く逃げないと……!」


 椎菜はライオンに感謝した。

 彼のおかげで助かったのだ。あのままなら椎菜は死んでいただろう。彼の言う通りに逃げたいけれど、そうはいかない。

 椎菜にはまだ、やるべきことが残っている。


「ごめんね」


 椎菜は立ち上がり、ライオンに謝った。

 ライオンはきょとんとして椎菜を見て。


「ごめん。でも、私ね……。お婆さんと話したいことがあるから……」


 さっきから謝ってばかりだな、と椎菜は思った。あの少女にも、ライオンにも、魔女にも。


 ――――なんだか、あなたみたい。ね?スティープス。


 スティープスのことを思い出すと、少しだけ椎菜に力が湧いてくる。

 椎菜は魔女へと向かって、歩き出す。


「よせ!まだ分からないのか!?そいつに何を言っても無駄なんだよ!この間、ひどい目にあったばかりだろ!!」


 魔女の周りにいくつも刃が浮かび上がる。鋭く尖る黒刃が、椎菜とライオンへ向かい飛びかかる。

 ライオンは反応できない。彼の意識は椎菜へと向けられていたから。

 ライオンは目を閉じた。ああ、やっぱり来るんじゃなかった。こうなるだろうと分かっていたのに。

 けれど、ライオンに刃が突き刺さることはなかった。

 何故なら、彼は。

 彼は庇われていたから。ライオンを傷つけるはずだった刃は、椎菜に刺さっていた。


「痛……っ」


 幸い、椎菜に致命傷と成り得る怪我はなかった。

 だが、無傷ではない。

 椎菜の右足には一枚の刃が深く刺さっていた。

 ライオンが悲鳴を上げる中、黒がうねる床へと倒れこむ。もはや椎菜には立ち上がることすら叶わない。

 喉と足の痛みが次第に強くなっていった。目が霞んで、何も見えなくなって。

 床に満ちた黒が、椎菜を飲み込んでいく。

 今度こそ、魔女は本気で椎菜を殺そうと漆黒を操り、椎菜を沈めてしまう。

 魔女の顔は、危機に陥っている椎菜を恐れていた。

 頭をかき乱す椎菜の存在に、魔女は顔を歪めていた。


「私は、あなたが恐い」


 椎菜の体が沈んでいく。何もかもを壊してしまう黒色の中へ。


「あの子が死んだとき、私が失ったものをあなたは持っている」


 体に力が入らない。椎菜は抵抗もできずに黒色の沼に沈んでいく。

 何も成せぬまま。魔女の気持ちを分かってあげることもできぬまま。あの少女をスティープスに会わせることもできぬままで。


 ――――約束、したのに。


「ごめんね、スティープス……」


 椎菜の両目が、その双眸は。


「あなたには、立ち向かう強さがある。だから」


 ――――閉じていく。私の目。


 ――――全部、全部、終わっちゃう。


「ここであなたは、私の前から永遠に消えるの」


 椎菜の体が、完全に黒い沼の中に消えていく。

 全て。

 何もかもが、終わってしまう――――













「終わらないよ」


「君の声は確かに届いている」


「さあ、あと少しだ。僕も手伝うよ」


「約束、したからね」





 私の手を取る、誰かの暖かさを感じた。

 漆黒の中に消えていく私の体を引っ張って、暗闇から私を救い出す、誰かの。


「私を……、あの人の所まで……、連れて行って……」


 すぐに分かった。手袋越しに伝わるあなたの暖かさ。優しく抱いてくれる、スティープス。

 よかった、無事だったんだ。あなたに何か言ってあげたい。けど、今は。


「ああ、一緒に行こう」


 スティープスが伸ばしてくれた腕に捕まって、痛みで全く動かなくなってしまった脚を引きずりながら、お婆さんの下へ。

 今度こそ、あなたの声を聞いてみせる。

 私の声を、伝えてみせる。


「なんだ……?誰かいるのか……?」


 ライオン君が動揺している。

 スティープスが見えない彼からすれば、私の体が浮き上がったように見えたかもしれない。

 でもね、ここにいるの。もう一人。

 他の誰にも見えないけれど、確かに傍にいてくれる。

 彼が。

 お婆さんに向き合う勇気をくれた、スティープスが。

 私の、隣にいてくれる――――








 私は、恐怖する。

 何度も死に瀕しているにも関わらず、まだ諦めずにこちらへ向かってくる、何の力も持たない、ただの少女に。


「あなたの所にもいるのね。見えない誰かが。あなたは恐くないの?何者かも分からないその人が」


 魔法の黒霧に飲まれたにも関わらず、“誰か”に引き上げられるように這い出てきた少女を見て、私は気付いた。

 私にまだ歩み寄ろうとするこの子の隣にいる、見えざる誰かの存在に。

 姫の傍にも姿なく佇む、その人と似た存在を知っていたから。


「恐くなんてありません。だって、彼が優しい人だって知ってますから」


 この子が近づくに連れ、私の焦りは大きくなっていく。

 この子は退かない。

 黒い刃も沼も恐れずに、足を引きずってでもこちらにまでやってくる。

 私は焦燥の中、静かな確信を得た。

 そして、思うのだ。

 もう、あなたにはきっと分かっている。私には、あなたを殺すことができないことを。


「ね、お婆さん。私ね――――」


 私みたいな人間を理解しようとしてくれる、あなたを。

 ホリーが持っていた輝きを思い出させてくれる、あなたを。


「実は……。私、あなたと仲良くなりたいだけなんです」


 私の大好きだったあの子にそっくりな心を持つ、あなたを。


「だから、あなたのこと恐くなんてないし、嘘だってもう言わない」


 そんなあなたを殺してしまえるほど、私が全てを諦めきれてはいないことに。


「私がこのお城に来たかったのは、さっきの女の子を助けたかったからで」


 あなたの目には、勇気が。その表情には、慈しみが。


「お姫様に仕返ししてやろう、とか、そういうのじゃないんです」


 いつもなら、私はそんな言葉を信用しようとは思わないだろう。

 なのに、どうしてこんなにも、この子の話を聞いてしまう。


 ――――きっと、私が不安に思っていたことも、必死に考えていてくれたのだ。


 そんな風に、思ってしまう。

 私が心の何処かに押し隠したはずの勇気が、蘇りそうになる。頭の奥で、怪物とも思える何かが湧き上がり、私を責め立てる。

 駄目だ。駄目だ。

 認めてはいけない。それだけは。この気持ちを認めれば、それは。それは。


 ――――あの日、私がホリーを裏切ってしまったことを認めることに、他ならない。



「私は……、あなたが思っているような人じゃないの……」


 今、こうして。この子に向かって口を開いているだけで、心の中で何かが変わっていってしまう。


「それでも、私、おばあさんのお話聞きたいです」


 まだ、私にもあなたのように、弱い自分と闘う強さが残っているのだと、思い出してしまう。


「私は自分のために、多くの人を苦しめてきた。見たでしょう?私はあの森の動物たちもたくさん殺してしまった」


 口から後悔が漏れ出していく。

 お姫様のためにしたことだった。だからこんなこと、考えたこともないと思っていたのに。


「そうだ!そいつは……、森のやつらを殺したんだ!!俺の友達だっていたのに!!」


 でも、そうではなかった。

 考えないようにしてきたんだ。自分がしていることを見据えようとすれば、私はきっと耐えられなかったから。


「そんなやつに優しくすることなんてない!お前も殺されてもいいのかよ!!」


 そう。このライオンの言う通り、それが普通。

 悪いことをする人間が、優しくされていい筈がないから。みんなそうする。それが当然で、当たり前のこと。


「でも!」


 なのに。


「私はおばあさんが酷いだけの人じゃないって知ってます!!」


 どうして。


「優しくて、本当は、いろんなこと後悔してるんだって、私は思うから……!」


 そんな優しい言葉を、私にかけてくれるの。

 こうして目の前までやって来て、あなたは手を差し伸べる。

 私の思い出が蘇っていく。

 娘と過ごしてきた日々を。娘が死んでしまったあの日のことを。

 見つめ直す勇気が、私の中に蘇ってしまう。


「また私に、お姫様の話をしてください。それで、それで……」


 思い出した。

 そうだ。私は。

 私は、ホリーが死んでしまったあの日。

 あの子の笑顔を失った、私の勇気を失ったあの日の、あの時に、私は――――


「また、あんな風に、笑ってください……」


 後悔を、していたんだった。










 そして。

 椎菜の手は魔女へと届く。

 幾重もの壁を打ち破り、彼女の想いは魔女の心へと、ついに至る。

 抱きしめる椎菜の腕の中で、魔女は静かに泣いていた。

 平穏を失って久しい魔女の心が、その乾きを癒されていく。

 城を埋め尽くさんとしていた黒霧が消えていき、城の中に光が戻った。

 拒絶する力はもう意味を失くし、自分を受け入れてくれた椎菜へと魔女の腕は伸ばされて。

 優しく、椎菜の体を抱き返した。


「ごめんなさいね。辛い思いをさせてしまって……」


 魔女の肩に顔を埋めながら、椎菜は頭を振った。

 わだかまりの去ったことが嬉しくて、思わず魔女の温かい胸に頭を寄せてしまったことが恥ずかしくて。

 溜息を吐いて、見守っていたライオンは気が抜けて座り込む。

 仲間が殺されたことを忘れるつもりはない。

 だが、今だけなら。

 椎菜の勇気に免じて、今だけは痛めつけずにおいてやってもいい。ライオンにはそう思えた。


「よかったね、椎菜」


「うん……。うん……!」


 スティープスの言葉に強く椎菜は頷いて、魔女の頭を抱く椎菜の手が偶然に、魔女のローブのフードを下ろした。


 フードの下に隠されていた魔女の髪には、綺麗に輝く青い髪飾りが一つ、付けられていた。
























「あれ、もう終わり?」


 悪意そのものと思える声だった。

 光の戻った城の中に、唐突に響いたその声は、誰のものか。

 全てを消し去る一人の少女だ。

 どんなものであろうとも、意のままに創り、消し去る城の主。

 独りの、お姫様。

 皆が呆気にとられていた。場にそぐわぬ声色と、言葉を以て現れた彼女に。


「あともうちょっとだったのになぁ。つまんないなぁ」


 その場にいた者たち全員が、返す言葉を見つけられないでいた。彼女の一字一句に理解は届かず。

 何よりも、その異様に。

 可愛らしくも美しいドレスを着て、声質も女の子そのものと言える愛らしさを含んでいた。

 けれど、彼女の顔には。

 彼女の顔の周りには、黒い何かが漂っていた。

 正確に表せば、黒い何かで、顔の周りが塗りつぶされているようだった。

 ぐしゃぐしゃと、子供が失敗した絵を掻き消す様に。

 椎菜に寒気が走った。

 姫の顔に塗りたくられた黒の中に、ぎらりとぬめる輝きを持つ、おぞましい隠された顔を見てしまったから。

 そして、それは浮き上がる。

 姫の顔として、姫の心の表れとして、世界に顕現するのだ。

 眼球が剥き出されるまで見開かれた、充血して真っ赤な双眸と、醜く汚らしさを感じずにはいられない、両端を吊り上げられて覗いた歯列。

 狂気という言葉の通り、狂った心が作り出すその表情は見る物全てを恐怖に陥れる。

 脳に無理矢理刻みこまれるかの笑顔。姫の顔に纏わる黒い霧に浮かんだ狂気の笑顔。

 赤と黒の、見ただけで伝染しかねない狂気を孕んだ姫の心の表れだった。


「夢の中でも役に立たないなんて、最低」


 姫の異様に目を奪われた椎菜を庇うため、魔女は前に進み出た。

 魔女は必死だった。その形相は、まさに必死としか言いようがなく。


「お願い!待って!話を――――!」


「役に立たないから、もういらない」


 景色が変わった。

 一瞬にして、城の中から城の外へ。そこは、城下町の広場だった。

 入り組んだ街並みの中にぽっかり空いた、雪を被る木々に縁どられて囲まれた、綺麗な広場だった。

 広場の中央にはステージが立てられていて、そこに。

 魔女が磔にされていた。

 いつの間にか首も手足も縛られて、魔女は何かを姫に伝えようともがいていた。


「おばあさん!!」


「もう止めましょう、こんなこと!私と一緒にみんなに謝りましょう!」


 椎菜が、魔女が叫ぶ。姫の心には、もはやどんなに叫んでも、届かない。

 黒い霧が寄り集まり、宙に無数の槍が現れた。魔女の捕らわれたステージへと向け、いくつもいくつも槍が向けられた。


「もう一人は嫌でしょう!?誰かとお話しして、仲良くなりたいでしょう!?」


 姫の笑い声が弾む。気味が悪い笑い声は、げらげらげらげら。

 深く積もった雪を、異変に気づき広場に集った人たちを揺らす、揺らす。


「話しを聞いて!そうしたら……!!」


「止めて!駄目!!おばあさんを離して!!」


 魔女が叫ぶ。

 椎菜が叫ぶ。

 血走った赤い目が椎菜を見つめて、意地悪く歪んだ。


「そうしたら、あなただって――――!」


 魔女は諦めずに、姫に叫んだ。

 だが、誰の声も姫には届かない。

 届く筈がない。

 なぜなら、なぜならば――――


 尊き想いは、もう全て。失われてしまったのだから。


 槍が飛び、空を舞う雪を吹き飛ばして次々と、魔女の体に突き刺さっていった。

 滴る魔女の血が雪を溶かして、地面を伝う。

 椎菜も、スティープスも、ライオンも、動けなかった。

 この短い時間に行われた凄惨な行為に圧倒されて。

 魔女を磔にしていた丸太が倒れて、刺さっていた槍をへし折りながら魔女を地面へと叩きつける。

 冷たい雪に身を埋めて、けれども 魔女はぴくりとも動かずに。観衆の中、見下ろす醜い姫の表情は、血走る狂喜の双眸を喜びに見開いていた。

 椎菜はよろよろと、スティープスに支えてもらいながら魔女へと近寄って。

 椎菜は、魔女の最後の声を聞いた。

 魔女が残す、最後の言葉だった。


「こうなってしまったのは、あなたのせいじゃない。だから、そんな悲しそうな顔をしないで……」


 椎菜は魔女の顔に手を当てて、その体温が失われていくのを直に感じた。


「あなたの名前、教えてくれない…?」


「……ぃ、し……な。椎菜……です……」


 嗚咽が止まらなくて、上手く喋れないのが椎菜は悔しかった。

 ちゃんと喋らなくちゃいけないのに、どうしてこの喉は、動いてくれない。

 魔女は苦しそうに手を伸ばして、椎菜に何かを差し出した。それは魔女の髪に付けらていた、青く光る髪飾り。

 いつか、魔女が幸せに暮らしていた頃の、深く絶望し、後悔した時の思い出だ。

 例え、現実に起こった事でなかったとしても、確かにここに在る思い出だ。


「椎菜。優しい子……」


 魔女の影から椎菜の影へ、何かが移っていく。

 誰にも見えず、気付かれず、魔女から椎菜へと渡されるもう一つ。

 明日無き魔女にできる最後の償い。椎菜の影に溶けていくその漆黒は、魔女が奮っていた魔法の色によく似ていた。


「どうか、優しいままでいてね……。諦めずに、ずっと……」


 魔女の瞳から光が消えて、声は途絶えた。

 魔女の体から全ての力が抜けたのが分かり、椎菜は――――

 椎菜は、魔女が死んでしまったのだと理解した。


「あなたも、同じ目に会いたい?」


「椎菜!行こう!!」


 お姫様が椎菜に尋ねた。

 何かを言い返そうとした椎菜をスティープスは抱き上げて、強引にその場を離れ、城下町の外へ。

 察したライオンも後に続いて逃げ出して、残ったのはお姫様。

 城が見下ろす街の中、お姫様は一人残されて。

 姿の見えない誰かに抱えられ、逃げ去っていく椎菜をただ見送っていた。

 怒りとも、悲しみとも取れない感情を抱えて佇んだ。


「……、つまんない」


 見えざるスティープスとライオンが、椎菜を連れて去っていく。

 一体何処へと向かうのか、椎菜はひたすら姫から遠ざかる。

 夢の奥へ、奥へと沈んで行って、何時か椎菜は全身を埋めるに至るだろう。

 あるいは、もう既に。

 天を覆う黒と白は、夢の世界を覆い隠して蠢いていた。

 夢は未だ覚めることなく。姫は椎菜が逃げていった方をぼんやりと眺めて――――

 箕楊椎菜が去って行く。夢の奥へと、姫以外の誰かと共に。


 どこか遠くへ。遥か遠くへ。遠い遠い夢の彼方へ、消えていく。















6th tale End






 SIN-CIA - Falling down, falling down - End


 to


 SIN-CIA   - Domestic Violence -








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