4th tale Wrong relationship
眼前にそびえる城は、遠目に黒く見えるのとは打って変わって、近づくにつれて不思議にも灰色の外見へと変わっていった。
スティープスはその城に架かる橋の下、城の裏へ続く堀を進んでさらに奥、城の中に入り込む下水道の入口に立っていた。
衛兵が掻き除いたと思われる雪の残りが点々と足下に広がって。おもむろに雪を触ってみたスティープスはその冷たさに驚いた。
いつも一緒にいる椎菜はそこにはいない。
彼女は先日の魔女の一件からずっとふさぎ込んでしまっている。魔女の豹変ぶりが彼女にとってはショックだったのだろう。予め話しておくべきだったのかもしれないとスティープスは思う。
魔女の病的な臆病さはいたるところで噂として囁かれるほどのものだ。つまりあんな変化は魔女にとっては日常的なことなのだ。流石に、森全体を破壊する等といった話は彼も聞かなかったが。
ウッドサイドから馬車を使い、この城下町に来てから一日経っても、未だすっかり意気消沈してしまっている椎菜を見て、スティープスは先に話しておかなかったことを後悔した。
もしかしたら、彼女は仲良くなろうと思っていたのかもしれない。あの誰も近寄ろうとすらしない魔女と。
「そろそろかな……」
スティープスが懐のポケットから取り出したのは金色の懐中時計。
不規則な間を開けて動く針は、見ていると時間の感覚が狂いそうになる。
この時計の針が零時を指すと、スティープスはこの夢の中に居られなくなってしまう。次に針が六時を指すまで、体が消えここではないどこかへと意識が移ってしまうから。
そして、そして針は動く。
零時を指して、ぴったりと止まる。
まだ、空は灰色ながらに明るく昼の模様を示しているのに、金時計は何故か深夜を示す。
壊れているわけではないのだろう。
持ち主である彼はその時計を見ている。自分の体が消えていくのを感じながら、自分がどこかへ運ばれていくのを感じながら――――
「スティープス。お前が何をしたいのか知らないが」
「そんなにあいつの邪魔がしたいのか?あの女にそこまでさせる意味が本当にあるのか?」
「夢の中でくらい、好きにさせてやればいいだろう。お前だって、忘れたわけではあるまいに」
「君こそ」
「君こそ忘れたわけじゃないだろう?あの子がいつも、どうして泣いていたのか」
「僕らはいつも見ているしかなかった。だからこそ」
「この夢の中で、あの子にしてあげられることがあるんじゃないのかい?」
4th tale Wrong relationship
頭に浮かぶのは、あっという間に潰されてしまった森の残骸。
そこで生きていた、生き物たちの流す紅い紅い血の流れ。
そして、優しかった魔女の憎悪に満ちたあの瞳。
やっとここまで来たのに。
あの子を助けるためにここまで来たのに。友達が捕まっていると思われる城が建つこの街へ。
なのに、椎菜は立ち直れずにいた。
スティープスは今日はゆっくり休んでと椎菜を宿において、何処かへ行ってしまった。
ライオンは街の中には入れないからと、城下町の外で別れを告げて。
別れる前に、椎菜はライオンにひたすら謝っていた。
あの森は彼の故郷で家であったし、森の動物たちは彼の仲間だったのだ。
ライオンは気に病むなと言ってくれたが、椎菜の気持ちは一向に晴れなかった。
「どうして……?なんで、怒らせちゃったのかな……」
たった一人で椎菜は、ベッドに埋まって自分を責め続けた。
どうして魔女を怒らせてしまったのか。
少しでも魔女を理解してあげられなかったことを。未だ理解できずにいることを。
「ごめんなさい……。お婆ちゃん……」
――――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
椎菜はずっと、謝り続ける。
そして、私は思い出す。
もう、随分前のこと。
私がまだ小学生になったばかりの頃。私は今より幼くて、近所の友達とも喧嘩ばかりしていて。
あのときも、そう。
学校が休みだったから、朝から友達の家に遊びに行ったんだ。
私がいつも遊びに行っていた家。家が近くて会うことも多かったから、すぐに仲良くなった。
私の友達、佳代の家。
でも、その時はいつもと違って。
「椎ちゃん今日ね、別の子も来てるの」
――――別の子?
構わなかったけれど、なんとなく嫌な感じがしたのを覚えてる。
「ね、この子。この子が椎ちゃん」
「初めまして……」
「……」
佳代はその子に私を紹介してくれたけど。佳代の友達は私を見ても何も言わずに。
「佳代ちゃん。早く遊ぼ」
ぶっきらぼうに、そう一言発して佳代を引っ張った。もう、私はそれだけで、その子のことが気に入らない。
目の前で楽しそうに遊んでいる二人の間に入れない私は、自分が邪魔者のような気がしてきて嫌な気分は抜けるどころか積み重なっていく。
今思えば、初対面の子と自然に仲良く遊べるわけなんて無いのに。けれどあの時の私にはそんなことも分からなかった。
だから、私はだんだん機嫌が悪くなってしまって。
「それ!私が使ってたのに!返して!!」
いつも私が使わせてもらっていた人形を、その子が、美琴が持っているのを見て、私は我慢できなくなって。私は一人でわめき散らしていた。
佳代も美琴も、ぽかんとして。
「私、もう帰る」
二人を置いて、私は自分の家に帰ってしまった。他には何にも言わずに、勝手に怒って、一人で。
今でもたまに思い出して恥ずかしくなる。
自分勝手な私。
でもそのときは、自分が悪いなんて全く思っていなくて、自分の部屋で本を開いてひたすら苛立っていた。内容なんて頭に入ってこないのに、意地になって文に目を通し続けた。
そんな私のところへやってきたのは、私のおばあちゃん。普段なら夜まで好きなだけ遊んで帰ってくる私の様子を見に来たんだと思う。
いつも優しかったおばあちゃん。大好き。
「今日は早かったね」
私は返事をしない。おばあちゃんにまで冷たくすることないのに。構ってほしくてしょうがない、本当にどうしようもない子。
「本ばっかり読んで。喧嘩でもしたんじゃないだろうね」
「……」
黙っていてもばればれだった。おばあちゃんは勘付いて、寝っ転がって本に顔を埋める私の横に座った。
「だって、佳代が……。佳代の友達が、私の人形取ったから……」
「……」
話せば話すほど自分が悪いと思えてきて、それ以上は何も言えずに。黙りこくった私はどんどん目が潤んできて、終いには泣き出した。
「謝ってきなさい。佳代ちゃんにもその子にも」
とどめにおばあちゃんにそう言われてしまっては、涙はもう止まらない。
えんえん泣いて、何故かおばあちゃんにごめんなさいって繰り返した。
恥ずかしい。本当に。
あの時のあの感じ、なんて言うんだろう。何かに追いかけられて、頭の中を逃げ回っているような、あの感じ。
おばあちゃんのお蔭で拭うことのできた、あの気持ち悪さは。
多分、そう。
――――罪悪感。
その後、おばあちゃんに送り出されて佳代の家に戻り、二人に目の周りを真っ赤にしながら謝った。
二人とも、そんな私にもういいよって言ってくれて。
そうやって、二人と仲直りしたんだっけ。
その二人とは今でも友達。学校の帰りはいつも一緒だし、悩み事とか、難しい話もちゃんと聞いてくれる。
大事な友達。
あのときおばあちゃんが怒ってくれなかったら、どうなってたんだろう。佳代も美琴とも、もう遊ばなくなってたのかな。想像すると、すごく怖い。
もし、今ここにおばあちゃんがいてくれたら、私になんて言うだろう。
やっぱり、叱られちゃうかな。魔女のおばあさんもあんなに怒ってたもんね。
私のこと怖い目で見て、殺そうとして。
きっともう、仲直りなんて。
「できないよ……」
できる訳、なくて。
「もう、許してくれないよね……」
そしてまた、私は気持ちを暗がりに沈めていく。突然自分に向けられた、殺意に達した憎悪を受けて。
窓を覗くと、外では雪が降っていた。
黒味のある石畳と城壁に白色を塗して、歩く人の足跡を隠しながらゆっくりと。道行く人々に冷たく、降り積もる。
再び罪の意識に囚われて、私は。
部屋に置かれた暖炉の暖かさに、目を閉じた。
真っ白な世界。私は何時かのように真っ白な地面に立って、真っ白な空を眺めていた。
見渡す限り続く大地には何もなく。影を背負った地平線に私は力なく目線をもたげて。
「泣いたって、いいんだよ」
誰かの声がして、振り向けば。
そこには白いスーツの男性がいた。ナイフの柄をこちらに向けて佇む彼に、私は不思議と恐怖を感じることはなくて。
「逃げ出したって、いいんだよ」
純白のナイフは不思議な魅力を持っている。見ているだけで、ナイフから優しさにも似た暖かさを感じて。
「さあ、どうする?」
ナイフの鋭利な刃は白銀の輝きを。
男性の声は、私に何かを促す様に優しくて。
「椎菜さん。箕楊椎菜さん」
また、声がして。
振り向けば、私の後ろに女の子が立っていた。
艶やかな金の髪に目を取られ、私がその子の顔を認識する前に。
「お手紙ですよ」
差し出された手紙に目が行って、受け取ろうとしたのに。
コンコン、と叩かれるドアの音と、風に激しく揺れる窓の音に、私は目を覚ましてしまった。
城下町の外。城下町と外界を区切る巨大な門の前。
生い茂る草木の中から、一匹の獅子が門番の様子を窺がっていた。
城下町の中では雪が降っているのだが、奇妙なことに町を取り囲む城壁から少し離れると雪は途切れて、嘘のように寒さが消えるのだ。
雪が降っているのは城下町の中だけ。
それも、延々と止むことなく降り続けているのだった。
けれど、人が出入りする際に門が開く度に体を緊張させるライオンには、そんなことはどうでもいいことで。
故郷の森が消えてしまった彼に落ち込む気持ちがなかったかと言えばそうでもないのだが、それ以上にこの門の向こうにいる少女のことが気になっていた。
「くそ!閉めんの早すぎだろ!もうちょい開けとけよ!」
開けるのに一苦労な門を、門番は逐一真面目に開け閉めしている。
隙を見て見つからないように町へ入ってやろうと決めてから、もう半日以上彼はこんな調子でいた。
故郷が消える原因となった魔女。
あの悪名高い過剰恐怖症の老婆に対する憎しみは、彼の中からまだまだ消えることはない。
そして、目の前でまた一人老婆に傷つけられた少女を見てしまった彼は、その少女を放っておく気にはどうしてもなれず。それは、魔女への細やかな彼の反抗心でもあって。
何よりも、彼にはもう他に知り合いと呼べる者もいなかった。人間の姿の頃に知り合った人たちは皆、この自分の姿を見てどんな反応をするのか、あまり想像したくはない。
ライオンの鋭敏な鼻が、嫌な匂いを嗅ぎ取った。
とても良く知る匂い。
――――知っている、知っている。
これは、この薬と土が混ざった独特の悪臭は。嗅ぐだけで唾を吐き捨てたくなる、この匂いは。
立ち並ぶ木の間を走る馬車が一台。
自分たちがやって来た方角から走ってくるその馬車から、ライオンの怒りを駆り立てる匂いが発せられていた。
馬車は門の前で停車して、門番に幌に覆われた後部座席の中を確認された後、開いた門をくぐって城下町へと入っていった。
あの少女を追ってきたに違いない。森を潰し、仲間を殺して。
――――これ以上好きにはさせない。させるものか。
ライオンはいよいよ怒りと焦りに囚われ、門の前を離れ、城壁の周りを一周するように嗅ぎまわり。
厩の近くの城壁に設けられた窓を発見し、そこから内部に侵入することを決めて。
見張りのいないことを確認し、無理矢理爪を突き立て城壁を登り始めた。
雪を踏みしめる鉄靴が、いつの間にか侵入していた雪を隙間から零しながら、雪の下の石畳に擦られ音を立てる。
背中に提げた筒布からは細長い鉄筒が見え隠れし、腰に携えた剣は街を行く人々を威嚇する。
甲冑に身を包む騎士が城下町の舞い降りる雪の中、物々しい態度で城へと向かい歩いていた。
昼間とはいえ、無数の狭い道で構成される薄暗い街中を、橙色の街灯がぼんやり照らす。騎士は大層冷えているであろう鉄の鎧を苦も無く纏い、誰をも寄せ付けぬ異様さを放っていた。
そんな彼の目に留まる光景があった。
一人の女の子が、道の真ん中で目を腫らせて泣いていたのだ。
騎士は立ち止まり、その子を暫く眺めた後、その子の下へ歩み寄った。
騎士が近づくと女の子は更に泣いた。女の子は積もった雪に足を取られ、くじいてしまっていたのだった。
異様な風体の騎士に女の子が怯えぬはずもなく、あわや切り捨てられてしまうのだと泣き叫ぶことしかできない。
騎士は逃げることも叶わぬ女の子を抱きかかえると、近くにあった民家の玄関階段にその子を座らせ、身に着けていた赤い外套を彼女の足に被せた。
女の子はまだ泣いていたが、次第に涙は引いて、民家の壁に寄りかかる騎士をじっと見つめた。
そこでようやく、女の子は騎士が自分を気遣ってくれているのだと気が付いた。
「あの……。ありがとうございます……」
恐る恐るお礼を言った女の子に、騎士は何の返事もしなかった。立派な生地で織られた外套は、外気の冷たさから女の子のくじいた足を守り、暖めてくれた。
やがて、足の痛みがなくなってきた頃。道の奥から一人の女性が騎士と女の子の所へと走ってきた。
「何処行ってたの!心配したでしょ!?」
どうやら、母親であるようだった。
母親は娘が騎士の外套を膝に掛けていることに慄いて、すぐに外套を引っ手繰って騎士へと差し出した。
「申し訳ございません」と頭を下げる母親の顔は恐怖に引きつっている。
女の子は「ごめんなさい」と謝って、騎士に会釈してそそくさと立ち去ろうとする母親に手を握られて、その場から去っていった。
「あの……、ほんとに、ありがとうございました」
すれ違いざまに、女の子はもう一度お礼を言って。
騎士は雪の街の何処かに消えていく女の子の後姿を、静かに見送った。
「世界を、我々を破滅へと導く姫に反抗を!今こそ、立ち上がる時である!!さあ、私たちの平和と安寧を取り戻そうではないか!!」
街路に立ち並ぶ露店は雪が敷かれた城下町を彩って、町は確かに賑わっていた。
恐れを知らぬ者は何か穏やかならぬ演説に熱を上げ、橙の街灯の下歩く人々はそれを横目で流し見しつつ。
スティープスは露店が作る人の流れを空から眺める。
金の時計の針は、六時を既に回って八時。
スティープスは体が元にもどったなら、すぐにでも彼女の所へ行こうと思っていた。
けれど、宙を漂う体は重く、町の上をさまようばかり。
スティープスには、失意の椎菜にどう接したらいいのかわからない。
何とかしてあげたいとは思っていても、その気持ちを行動に移せない。
スティープスにとって誰かを慰めることなんて初めてのことで。彼にはとにかく経験が不足していた。
けれども。
「放っておくわけには……」
いかない。
このままでいい筈がない。彼女が辛い思いをしているのは自分のせいでもあるのだから。
彼女はただ、自分たちの事情に巻き込まれただけなのだから。
スティープスは意を決した。彼女のいる宿へ向け、これ以上彼女に負担をかけないために。
そして、もう一つ。
彼女には、明るくいて欲しい。そう思う自分を確かに感じていたから。
ドアの前でもう一度心を整理して、スティープスは椎菜のいる部屋のドアを叩いた。
少し間があって、椎菜が返事をする。
「スティープス?」
「そうだよ。椎菜」
椎菜はドアの前までよろよろと歩いて、自分の顔も身なりも他人に見せられるものではないと気付いた。
力が抜けて、椎菜はそのままドアにもたれかかって、座り込んでしまう。
「どうしたの?」
椎菜がドア越しに尋ねた。
もうドアノブを捻る元気も、勇気もない。
部屋の中を暖める暖炉の前に吊るされたやかんから、ゆらゆら洩れ出でる煙を力無く目で追った。
スティープスが返事をするまでの間、蝋燭と暖炉の火が橙に輝くのが涙で少し腫れた目に眩しかった。
「僕は君に謝らないといけない」
――――謝るって、何を?
椎菜には思い当たる節は無くて。むしろ、こちらが謝るべきではないかとすら感じ。
「あなたが私に謝ることなんてないよ。私が勝手に落ち込んでるだけ。ごめんね。本当はすぐに行かなきゃいけないのに」
「いや、僕は……。君に黙っていることがある。それもたくさん」
抵抗を感じている己を振り払って、スティープスは告白した。
「でも……、あなたは言わない方がいいって、そう思ってるから言わないんでしょ?」
「そうだ。けど、それも僕が勝手にそう思ってるだけだ。ほんとに言わない方がいいのかも、正直僕にはわからない。君を僕らの問題に巻き込んで、君にこんな思いをさせて」
椎菜はじっとスティープスの話を聞いている。
なんとなく、彼が自分のことを思ってくれているのが伝わってきて、嬉しかった。
こんなに一生懸命自分のために話してくれる人。スティープス。
こんなに必死になって、声を震わせて。
「僕は君に、迷惑ばかりかけてしまっている……」
「そんなに自分のこと悪く言わないで。スティープスには私、よく助けてもらってるよ」
椎菜にとって、気怠さを頭の中で転がしながら彼と話すのは、そんなに悪い気分じゃなかった。全身の力を抜いてドア越しに彼の優しさを身に受けるのは、むしろ心地良い。
「君が危険な目に会うことが、そもそもおかしいんだ。僕の考えは甘すぎた。僕が思っていたよりも、この夢はずっと危険な物だった」
「………」
スティープスの一言一言が、後悔やら、怒りにやら震えていて。椎菜には彼が椎菜のことを深く気に病んでいることが伝わってきて。
「君は信じられないくらい頑張ってくれた。あの子のためにここまで来てくれて、本当に、ありがとう」
「スティープス……」
「今までごめん、椎菜。ここから先は僕がなんとかするよ。本当なら、初めからそうするべきだったんだ」
「……っ!」
ついには、彼がそんなことを言い出したから、椎菜は思わずドアを開けてしまった。
「あ……」
「あ……」
椎菜のぼさぼさの髪と、着崩れた服がみっともなく。
廊下から流れ込む寒気に包まれながら、椎菜は赤面して顔を伏せた。
スティープスが備え付けのブラシで私の髪を梳かす。
白い手袋に包まれた手が私の髪を優しくすくって、丁寧に梳かしていく。
私は自分でやると言ったのに、スティープスは「いいから」、と私を椅子に座らせて。
ぼさぼさだった髪が徐々に整っていく。
妙に、どきどきしていた。
触れているのは髪なのに、なんとなく気持ち良くて。
沈んだ気持ちがなくなってしまった訳ではないけれど。
その代わりに、なんていうか…、恥ずかしい。
鏡でスティープスに髪を触られる自分の姿が見えるのも、気まずい。
「椎菜。君はあの手紙のことを覚えてるかい?」
「手紙?」
手紙。手紙。なんだったっけ。
「君を公園に呼び出した手紙。君の家に、知らない女の子から手紙が届かなかった?」
ああ、思い出した。私がこの夢に落ちる前の話。私は手紙で呼び出されて。
でも、呼び出した本人がそこに来なかったから、前の晩ろくに眠れなかった私は眠たくなって、そのまま公園のベンチで眠ってしまったんだった。
けど、本当にスティープスはその手紙のことを言っているの?
なんでそんなこと、知っているの。
「あの手紙はね、椎菜。僕の友達が、今僕たちが助けようとしているあの子が君に書いた物なんだ」
一呼吸置いて、スティープスは言った。
「哉沢紫在。それがあの子の名前だよ」
その名前には、確かに聞き覚えがあった。
そう、あの手紙の差出人。
私と友達になりたいと言ってくれた人。
「……、どういうこと?」
一つ一つの要素が上手く繋がらなくて、困ってしまう。
「紫在は君と友達になりたかったから、君が自分のことを助けに来てくれる、こんな夢を見てるんじゃないかな」
手紙を私に送った紫在さんが、この夢で私が出会ったあの子で。
そしてこの夢は、その紫在さんが、あの子が見ている夢。でもそれって、つまり。
「まあ、要するにね……。僕らは、紫在の見ている夢の中に入ってきちゃったってこと」
ブラシの毛先で何度も撫でられた髪が、さらさらとスティープスの指の間を流れていった。
「びっくりするよね。まさか、他の人の夢の中に入れちゃうなんて。君にとってはいい迷惑だろうけど……」
「紫在さんに会えば現実に帰れるっていうのは、これが紫在さんの夢だから?」
「そう」
スティープスの持つブラシが、私の髪を整えていく。
何度も、何度も、髪を撫でて。
髪を労わる気持ちが彼の手つきに表れる。彼が髪に触れる度、彼の優しさが髪から心臓の方へ染みていくようで。
「現実の君は、今も眠ったままでいる。でも、この世界の時間の進み方は、現実よりもずっと速い。君が目を覚ましても、現実の時間は殆ど動いていないだろうね」
「……、よかった……」
一番懸念していたことだった。
もしも、夢と現実の時間が同じ様に流れていたら、お母さんたちにどれだけ心配させてしまうか分からない。寝たきりで目を覚まさないまま、病院にでも入れられていたりしたら。
そんな不安もあった。
「私が紫在さんと友達になれば、夢は終わる?」
「断言はできないんだけどね。正直、はっきりとしたことは僕にも分からないんだ」
彼にも分からないことだらけなのだろう。私と同じ立場だと言ったあなた。
「目が覚めたら、この世界の人たちはどうなるの?」
夢を見ても、起きれば夢の内容なんてすぐに忘れてしまう。
ちゃんと覚えている人もいるらしいけれど、私はそうじゃない。目が覚めて、ベッドから出ればすぐに夢のことは記憶から無くなって。
そんな触れれば弾ける泡のような世界にいる人たちは、眠りから覚めた時何処へ行ってしまうのだろう。
「どうかな……、この世界には昔からの言い伝えとかもあるみたいだし、いなくなっちゃう訳じゃないと思いたいけど……」
窓から見える景色は、雪に塗れて真っ白で。
風にガタガタと音を立てる窓は外の寒気を少しずつ部屋に送り込む。
部屋に供えられた暖炉に火を点けてくれた宿の主人を思い出す。
何が面白いのか、豪快に笑いながら次々に薪を入れていた。
夢とは言えど、様々な人がこの夢の中で生活しているのだ。
今も助けを待っているあの子も、死んでしまった森の動物たちも、生きていた頃は、きっと。
「この世界がただの空想だとは、僕は思わないよ。普通の夢じゃないって言うなら、そういうことだってあり得るはずだ」
そうだといいな。
そうでなきゃ、現実に帰れるとしたって帰れない。もうこれ以上私のせいで誰かが死ぬことは、耐えられない。
「実際、僕と君が来る前からこの世界はあったんだから」
「……。どうして、スティープスはそんなこと知ってるの?」
私と同じ立場だと言うのなら、私が知らないことをたくさん知っているのは、どうして。
「それは……」
きっとあなたは話してくれる。
もう私には、あなたが優しい人だって分かるから。
あなたが私の気持ちを真剣に考えてくれているのが、分かるから。
「僕にこの夢のことを教えてくれる人がいるから」
綺麗に梳かされた髪がさらさらと、栗色にスティープスの手を滑る。彼はブラシを動かしながら続けた。
「なんで彼があんなに詳しいのか僕にも分からない。初めは半信半疑だったけど……、君がこの世界にいるってこととか、彼の言っていた通りのことが実際に起こって、僕も信じるしかなくなった」
私の所へは、そんな人は現れなかった。まだこの夢には、何か秘密があるのかもしれない。
正直、もう辛くて仕様がないけど。
「知ってる人なの?」
「ああ。いや、どうかな……。彼と話すのは初めてだったし、そもそも……」
ブラシをかける手を止めて、すっかり纏まった髪をスティープスが離した。
一緒に彼の心も離れてしまったような気がして、寂しい気がするのは錯覚ではないように思う。もう少しだけでも、彼の心に触れていたかった。
「うーん。なんていったらいいのかな」
「友達?」
「友達……、か。そうかもしれないね。あっちがどう思ってるかは知らないけど――――」
「僕は、そう思っているよ。友達であって欲しいって、そう思ってる」
それは、既にすぐ近く。
遥か遠くで囁かれていた声は、今ではそう遠くはない場所で響いている。
玉座が置かれた、幾何学模様が蔓延る荘厳な部屋。
黒く塗りつぶされ、形が歪んだ城の中で、誰かが誰かに囁く声が。
広く薄暗い部屋の中心に備わった玉座に座り、部屋には他に誰一人見当たりはしないのに。
「何処まで来てるかな。案外、もうすぐ近くにまで来てたりして」
この世界にいるだろうか。
城の表面を覆う黒の中に、薄く伸びる赤い色に気付いた者は。
「それとも、もうとっくに諦めた?」
気付く者がいないのなら、その意味を知る者もまた、当然。
「どうせだから、ちょっとぐらい頑張って欲しいなぁ。折角いろいろ準備したのに」
この部屋にいる、もう一人を除いては。
夢の住人から姫と呼ばれる彼女の傍に立つ、姿無き彼を除いては。
「何時まで経っても来なかったら、こっちから探しに行こうかなぁ」
姫は手を掲げた。
肘まで届く長い手袋のはめられた両手には、黒い霧のような物が渦巻いて。
「どんなにいい顔をしたって駄目。私には分かってる。いっぱい、いっぱい嫌がらせしてあげるの。それでね」
全てを嘲り笑う姫には見えていない。彼の姿は、夢の中の誰にも見えはしない。
「辛くなって、辛くなって、あの人が諦めたらね」
なら、誰が知り得る。執事服に身を包む彼の姿を。
暴虐の限りを尽くす彼女を見守る、彼の名を。
「殺してあげるの。あの子と、ホリーと一緒に」
人気が無くなった、雪の降り積もる夜の街中を椎菜は歩いていた。
歩いていると言うよりは、急かされていると言った方がいいかもしれない。
椎菜の手を引っ張って宿から引きずり出したスティープスは、急ぎ足で雪を踏みしめて。
「待って、待ってってば!スティープス!」
「あ、ごめん。痛かった?」
「そうじゃない!そうじゃないけど……」
どこへ行くのかも言わずに手を引かれて連れ出されては、椎菜も困惑してしまう。
「一体どこ行くの?こんな寒いのに……、しかも夜中……」
そう、寒い。
この街に入ってから突然降り出したこの雪は、現実のそれと同じに体温を奪う。冬のように冷え切った空気の中に飛び出すには、椎菜の服は薄すぎて。
「でも昨夜、君に見せたいものを見つけたんだ。なんでかな、どうしても今、君とそこに行きたくなってさ」
随分興奮しているらしく、スティープスはいつもより早口で椎菜に捲し立てる。
そんな彼に何を言ったらいいのやら、椎菜には分からず。立ち止まって冷えてきた肩を震わせた。
椎菜の様子に、スティープスは椎菜が寒いのだとやっと分かって、執事服のジャケットを椎菜に羽織らせる。
「寒かった?」
椎菜の肩にかけられたジャケットは、少しスティープスの暖かさを残していて、何故だか椎菜は恥ずかしくなった。
「……、暖かくなった……」
「じゃあ、もっとゆっくり行こうか」
そう言ってくれる彼と繋いでいた手が離れているのに気が付いて、椎菜はちょっとだけ――――
(止めない方がよかったかな)
そんなことを思いながら、降り続ける雪の中スティープスと並んで歩いていった。
そして、スティープスに連れられやって来たのは街の展望台。
薄く照らす街灯の灯りが、雪を夜闇に浮かばせる。ちらちらと舞う七色の光は、雪を割って咲く花に誘われた虫たちの出す夢の色。
スティープスは展望台の手すりにつかまって、街を見下ろし椎菜を呼んだ。
「ほら、見て」
椎菜はそこに眼下に広がる街を包む虹を見た。
しんしんと降る雪が、ゆらゆら舞照らす虫の光を吸い取って輝いて、七色の雪が降る。光の粒が寄っては散って、街の上に光のモンタージュを創り出す。
「綺麗……」
自然、言葉を零していた。僅かな街灯があるだけの暗い暗い街を覆い尽くして、その奇跡がそこにある。
「見つけた時はびっくりしたよ。目がどうかしたのかと思った」
椎菜にはスティープスの言うことももっともに思える。正に夢のような光景だった。
「それで、えーと……、一緒に見れたらいいなって思って、その……、君と」
「へ?」
――――え、え。今、なんて?
思わず呆気にとられた。七色の光に見とれていた椎菜には、彼の言葉は不意打ち過ぎて。
――――返事、返事は。
――――なんて返せばいい?何を言ったらいい?
「私も……」
――――私も、あなたのこと。
「あ……、私も……」
「ずっと元気なかったから。何か僕にできることあるかなって考えてさ」
混乱収まらぬ椎菜に、スティープスが続けた。
「喜んでもらえるか、正直不安だったけど……」
――――ああ、そうか。
――――この人は、私のことを心配してくれていたんだ。愛の告白をしようとか、そういうつもりでここに連れてきたわけじゃなくて。ただ、この景色を私に見せようと。
椎菜は落胆する自分を自覚する。
なんとなく、心に小さな穴が開いてしまったような、そんな気がした。
「あのおばあさんのこと、まだ気になる?」
殺意に染まった魔女の姿を思い出す。
突然のことに、すっかり忘れていたけど、やっぱりまだ椎菜の心の整理はつかなくて。
「うん……。だって……」
あの時の魔女の眼が浮かぶ。記憶に残り続ける、害意に満ちた眼差しは未だ椎菜を強張らせる。
「あんなに怒ってたよ?私のこと、怖い目で見てた……。理由だって分からないけど、きっと私が嘘ついてたから、それで……。それできっと、私のこと……」
目が熱い。
――――ああ、多分今、私は泣いている。
椎菜が自覚する前に、涙は溢れだしていた。
胸の奥から気持ちの悪い何かが、涙を押し出す何かが込み上げて、椎菜は手すりに乗せた腕の中へ顔を伏せる。
後悔が、諦めが、満ちていた。勇気も希望も失って、彼女を前に進ませる力は既になく。
嗚咽を漏らし、顔を上げない椎菜にスティープスは語りかける。
希望を持って、勇気を出して。
「なら……、謝ろう」
椎菜が何を思うのか、どんな言葉をかけたらいいのか。スティープスには分からないけれど。
スティープスは自分の答えを椎菜に伝える。例え自信がなくても、自分の考えと気持ちを、彼女に。
「椎菜。次にあの人にあった時、ちゃんと事情を話そう。それで、何がお婆さんを怒らせたのか、ちゃんと聞くんだ。そしたら、嘘を吐いたことも一緒に謝ろう」
椎菜は聞いた。
スティープスの言葉を確かに聞いた。
だから、彼の方を見た。顔を上げて、スティープスの仮面に覆われた顔を見た。
「でも……、許してくれないよ。だって……」
「僕も一緒に謝るよ。悪いのは君だけじゃないんだから。僕は、君と一緒だ」
「だって……」
「許してくれるまで謝ろう。すぐには無理でも、きっといつか許してくれる」
「スティープス……」
そんなことを言われても、困ってしまう。椎菜の弱った心は、彼の言葉を拒んだ。
前を向けと言われても、そんな力は残ってなんていないのだと。
子供のように首を振る自分が、椎菜はみっともなく感じた。隣にいる彼に、申し訳なく感じた。
いつか感じた気持ち悪さが、胸の内に沈み溜まっているのに気が付いた。
この感情はなんだっただろう。前にもはっきりと自覚したことがある。この感覚。
椎菜が思い出したのは、自分を叱る時の死んでしまった祖母の顔だった。
「だって、君がこんなに後悔してるんだから。その気持ちはきっと伝わるよ。いや、絶対だ。絶対に伝わる」
少女を説得する青年に、不安がよぎる。
自分の言っていることに、彼は自信がある訳ではなかったから。
慰めるつもりが、逆に辛くさせてしまうのでは。
そんな不安を抱えても、彼は続けた。
椎菜の落ち込む姿が、彼には痛々しく見えて。何とかしてあげたいと、本気で思っていたから。
「危ないと感じたら、僕が魔女から君を守るよ。君が、君の気持ちが報われるように、僕はできる限りのことをして見せる」
言い終えた後、沈黙が在った。
静寂が続けば続くだけ、椎菜の反応がスティープスは恐くなっていく。
果たして、これで良かったのか。自分は間違った答えを選んでしまったのではないか。
椎菜の涙はさらに勢いを増してしまって。スティープスは、これでは駄目だったのかと、そう思ったけれど。
けれど。
「あなたのこと……、おばあさんには……、見えないでしょ?」
椎菜は笑った。
椎菜は彼に声を絞り出しながら、たどたどしく笑って見せた。
こんなに自分のことを心配してくれる、得体が知れないけれど、真っ直ぐなスティープス。
無茶だとも思う言葉だった。厳しさすら感じる言葉だった。
でも、スティープスの言葉は椎菜に己と向き合う力をくれた。
彼女の中の思い出に、再び意味を思い出させてくれた。
「ああ、そうだった。でも、それも正直に話そう。そしたら、きっと誤解だったって分かってくれるよ」
彼女が笑ってくれたから、もうスティープスの不安は消え去って。心は喜びで満ちていく。
胸の鼓動が聞こえる。嬉しい筈なのに、この気持ちはなんだろう。
スティープスはしっかりと彼女の顔を見ることができない。椎菜が口を開くまでの間が、とてつもない長さに思える。
その気持ちの正体を、その気持ちの名前を、彼はまだ知らなかった。
隣の椎菜も彼と同じに、その喜びを感じていた。でも彼女は、その正体を知っている。その気持ちを他人が何と呼ぶかも知っている。
椎菜はスティープスの仮面を柔らかな瞳で見つめていた。
恥ずかしくて目を逸らしたくなる衝動に駆られるけれど、それ以上に見つめ続けたい気持ちが大きくて。仮面の裏の、スティープスの表情が椎菜には見えるようだった。
それが椎菜には、嬉しくて仕様がない。彼と通った心が、温かい。
――――おばあちゃんみたいなことを言うんだね。執事服のあなた。不思議なスティープス。
諦めも絶望も、椎菜の中から消え去って。あるのは希望。
彼が一緒にいてくれるなら、一緒に歩んでくれるなら、進んでいける。行く手がどれだけ絶望に包まれていたとしても、どこまでだって。
「スティープス」
「ん?」
椎菜は笑う。
生涯で一番綺麗な笑顔になるように。きっと、生涯で一番幸せなこの瞬間に。
「――――、ありがとう」
彼と共にいる、今に。
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4th tale End




