3rd tale The cowardly witch
「そこの棚にある……、そう、それ。それもお願いします」
若い女性店主の摘まんだ物は、十センチ程の大きさの瓶だ。中には金平糖に似た色付き菓子が詰められている。
街の雑貨店。魔女がいるという森へ入っていくため、椎菜は身支度を整えようと買い物に来ていた。
水に食糧に、救急道具と使えそうな物を粗方揃えると、ついつい目に付く食べ物が、椎菜の欲を刺激する。
大して広くも無い店の中に、所狭しと並べられた商品を延々と物色し、数十分は悩んでいたであろう。椎菜の買い物が一向に終わらないので、今や、スティープスは店の外で待機している始末。
会計をしている最中、椎菜は壁に貼られた壁紙が気になった。
それは、注意喚起のポスターらしい。
おどろおどろしい女性に、大人しそうな女性が首根っこを掴まれ苦しそうにしている絵が少し気持ち悪い。
絵の下にある乱雑な線を読み解くと、こう書いてあった。
“森の魔女に御用心”。
「あの、このポスターって……」
「これかい?これは隣の森に住んでる魔女さ。こいつがとんでもないやつでねぇ、どうも頭がいかれてるみたいでね。知り合いにこいつと会ったことがある人がいるんだけど、普通に話してたかと思ったら急に怒りだして、尻に火を点けられたってさ。あんたも気を付けなよ?」
これからその魔女に会いに行こうとしているのだけれど。嫌な話を聞いてしまった。
「しかし、うちの名物を買ってくとは、あんた通だね?」
店主は椎菜が頼んだ、金平糖に似た菓子の瓶を持ち上げた。
「あ、そうなんですか?それ、知らなかったです」
「この菓子はうちの店で作ってるんだよ。ほら、そっちの部屋」
やけに楽しそうに話す店主の指差す方には、扉が空いた部屋があって、そこでは男性が一人で真剣に釜をかき混ぜている。
椎菜からは扉が邪魔になって見えていなかったが、男性は釜の中にすり鉢に入った真っ赤な粉を随時注ぎいれているようだ。
如何にも辛そうな色合いの粉である。
赤い粉は釜の中の飴に混ざるとその色を全体に滲ませたが、男性が次に入れた白い粉によってその色を透明へと戻していった。
釜の隣にある調理台の上にはトウガラシが積まれていたが、当然椎菜にはそれも見えていない。
「へー、自家製なんだ!すごい!」
「だろう?よく味わって食べなよ?」
もうにやつきが止まらない。女店主は極上の笑顔で店から出ていく椎菜を見送った。
名物にもいろいろな物がある。食べた者を至福にする物だけが名物とは限らないのだ。
「何買ってきたの?」
待ちぼうけをくらっていたスティープスは、椎菜の抱える紙袋に興味津々である。
椎菜としては食べ物を食せないスティープスに、この金平糖もどきを見せるのは少々気が引けた。スティープスを待たせて買ってきた物が食べ物とあっては、彼に対して嫌味になってしまう。
この事実は秘匿せねばなるまい。厳密に保持されるべき秘密でなくてはなるまい。
でも食べたい。今、食べたい。
「大した物じゃないよ。行こう?」
椎菜はスティープスの先を行き、彼から見えないよう細心の注意を払いながら、右手首と指の動きだけで紙袋から瓶を出し、その蓋を開けた。
実は、後ろのスティープスから見ても、椎菜が何をやっているかは丸分かりであったのだが。
そんなことはつゆ知らず、椎菜は内心で、自分の機転と無駄に精密な動作に賛辞を送り、金平糖もどきを頬張った。
「ふぅっ!!??」
咳き込み、口を押さえ悶絶する椎菜に、スティープスは、己の知らぬ人の心の複雑さに慄くことしかできなかった。
3rd tale The cowardly witch
ウッドサイドの街から出ると、右手に薄暗く広がる森があった。名前通りにこの街は森の傍にあったという訳だ。
街で買ったショルダーバッグには、水筒と非常時用の干し肉を用意した。
街の人に聞いたところでは、魔女の家までそう遠い道のりではないらしかったが、念の為。
先程の金平糖もどきは既に完食済みである。そのために、新たな水を一リットルは消費した。
魔女のいるという森へいざ入ろうとする椎菜とスティープスの前に、草むらから飛び出してきたのは、一匹のライオンだった。
街で会ったライオンだ。少年からライオンへと姿を変えた、あの。
きょとんとする椎菜に比べ、彼の口調は随分と真剣だった。
「あんたに教えておかないといけないことができた。森へ行くのは止めたほうがいい」
「え?どうして?」
「ヴァン・ヴァラックが出た。おとぎ話にも出てくる怪物だ。今、あの森にいるんだ。危険すぎる」
ヴァン・ヴァラック。
その名前はどこかで聞いたような、聞かなかったような。
「噂はよく聞くね。結構襲われた人も多いっていうし、確かに危ないな」
スティープスは、知っているようだ。
「でも、いつも暴れてるわけじゃないでしょ?刺激しないようにすれば大丈夫なんじゃ……」
「いやそれが……、例の魔女がヴァン・ヴァラックと一悶着起こしたらしい。あの魔女は無性に怖がりなんだ。ヴァン・ヴァラックにばったり出くわして石やら魔法やらぶつけまくったんだと」
――――なんていらないことをするんだろう。こちらは急いでいるというのに。
椎菜は軽く苛立った。今の彼女は、少々気が立っている。
「魔女はその後どうしたの?逃げれたの?」
「ああ。ご丁寧に森を一周する勢いで遠回りして家に向かってさ。ヴァン・ヴァラックを暴れ回らせた挙句、自分は家に引きこもってやがる」
魔女は生きている。なら問題ない。
お城に忍び込む情報を得られるとは限らない。それでも、その魔女以外に話が聞ける人がいないのだから、その魔女に頼る以外に道はない。
「もしかして、あなたは魔女の家が何処にあるか知ってるの?」
「え?あ、ああ……」
「もしよければ、案内して?そのヴァン・ヴァラックに見つからないように」
椎菜の発言に、ライオンもスティープスも飛び上がった。とてもじゃないが、危険すぎると言われた矢先に頼むことではなく。一匹と一人は慌てて椎菜を説得した。
「彼が危険だって言ったじゃないか!?今日は言う通り止めておいたほうがいい!」
「話聞いてなかったのか!?今、森に入ったら本気で死んじまうぞ!」
右から左から浴びせられる怒気交じりの大声に、椎菜は鬱陶しそうに首を振った。
「私たちは急いでるの。いくら危なくても、一日でも早くお城に行かないと」
スティープスの友達が、あの子が、今も遠くの城で苦しんでいるのだから。無事かどうかすら怪しいのに。こんなとこで立ち止まるわけにはいかない。幾ら恐いことがあるとしても、行かなくてはならない。
「でも…!」
諭そうとするスティープスに、椎菜は目線を送る。
「そうでしょ?」
椎菜は全く引く気はないらしいと、スティープスはあっさり観念した。
「お願い。連れて行って?」
「どうなっても知らないぞ……」
ただ事ではない椎菜の剛毅な様子に、ライオンも遂には渋々と道案内を承った。ライオンについて行く椎菜に、スティープスは言った。
「椎菜。何があっても僕は君を守るよ。君がちゃんと僕の友達のことを考えてくれてるのも嬉しい。でも……」
無茶なことだとは椎菜も重々承知であった。自分に危険が降りかかるということは、スティープスも危険な目に会うということな訳で。
「例え夢の中でも、君に何かあったら、現実で眠っている君も必ず影響を受ける。死んでしまうこともあるかもしれない。だから、できるだけ危ないことは止めるんだ」
――――現実の自分に、影響が?
悪寒がして、その後に恐怖が湧き上がる。
椎菜は焦っていたことを自覚した。スティープスの友達、あの女の子が連れて行かれた時のことは、椎菜の記憶に強く印象付けられていて。
「ごめんなさい。あなたにとっても危険なことなのに、勝手に決めちゃって」
「ううん。君の言ったことは正しいよ。危険でも行かなきゃならない。ただ、危険を冒すのは君じゃなく、僕であるべきだ」
椎菜は、先ほど自分で言ったばかりのことを忘れそうになった。
――――恐くても、行かなくてはならないんだ。あの子を助けるためには、必要なことなんだ。
スティープスが守ると言ってくれたことを思い出して、椎菜に再び勇気が灯った。
「……、ありがとう」
お礼を言って、椎菜はライオンの後を追いかける。その後ろ姿は、どことなく嬉しそうでもあった。
それは何処か、鬱蒼と茂る木々の中に立つ、一際大きな一本の木。
その上に建てられた家の中で、一人の女性が座っている。
机に倒れ、物思いにふける彼女の体は、骨と皮しか残っていないのではと思う程痩せ細って、顔中に張り付いた皺は歳を感じさせる。
人々は彼女を魔女と呼ぶ。
人の住み着かぬ森の中に住み、怪しげな薬を作り、人智を超えた危険な魔法を使う老婆。
その老婆の目線の先には、一枚の肖像画。
白色のドレス姿の小さな女の子が描かれた絵には、女の子の顔が確かに描かれている。
描かれているのに。
現実ではないからこそ起こり得ることなのか。霞んでいるわけでも、塗りつぶされているわけでもないのに、見えない。
目に映るその顔を、この世界の人々は認識できない。
町を歩く貴族も貧民にも、臆病な魔女にも、誰もを遠ざけ鳴き喚く野獣にも、独りよがりな騎士にさえ。
分からない。彼女が誰なのか。彼女のことが、誰にも。
「今、あなたはどうしているの……?」
老婆は呟く、描かれたその人に。
「どうか、どうかあの子が……」
届かない声は祈りに変わっていく。描かれた少女にではなく、願いを叶え得る存在に向けた祈りへ。
「幸せになれますように……」
森の中を行く椎菜たち一行は、木の根がうねる起伏の激しい道とも呼べぬ獣道を進んでいた。
背丈の高い茎を持つ花は毒々しい色に花弁を揺らし、樹の樹皮には見るにおぞましい多脚の虫が這っている。
不快指数の高めな環境に心底うんざりしながらライオンについて行く椎菜は、スティープスの手を借りつつ魔女の家を目指す。
そして、動物たちが慌てふためいて逃げる草木のざわめきの後に、森の奥から大きく鳴り響く咆哮を聞いた。
「今の……」
「あれがヴァン・ヴァラックの鳴き声だ。ああやって周りをずっと威嚇してるんだ。森に住んでる身としてはいい迷惑だよ」
ライオンは溜息を吐きつつ森を進んでいく。未だ見ぬ化け物の声に怯みかけた椎菜も、ライオンに置いていかれないようついて行く。
「ヴァン・ヴァラックって御伽噺の怪物だって聞いたけど……。実際にいるの?」
「ああ。七年くらい前に突然現れたんだ。御伽噺に出てくる二匹の怪物の一匹。今ほど凶暴じゃなかったが、それでもえらい騒ぎになったもんだ」
――――七年前。
その言葉がやけに椎菜の中に引っかかって、何度も頭の中で繰り返した。
「ヴァラックもいて魔女もいて、ほんと住みづらくなったなこの森も」
先頭を歩くライオンはぼやきながら、慣れた手つき足つきで生い茂る草木をかき分けていく。
「魔女に至ってはもうしばらく住み着いてやがるからな。あいつの弱みの一つや二つ、知らないわけじゃないが、それでも、あんだけ警戒されてりゃ手出しできないんだな」
魔女とやらは随分嫌われているようだ。
スティープスの話ではその魔女は有名らしく、どこに行っても噂を聞くのだとか。
「あなた、この森に住んでるんだ」
「ああ。だから魔女に魔法の実験台にされて困ってたんだよ」
それで、人間の姿になっていたということか。椎菜は合点する。
ライオンは、元々森の中で動物として過ごしていたにしては随分世慣れている。人間を経て言葉を扱えるようになったのか、はたまたそうではないのか。それは分からないが、これでは人間と大差ない。
「その魔女は普段何してるの?」
「だから実験。何に使うのか分からないような薬をずっと作ってる」
ライオンは草を掻く手を止めて、椎菜に忠告した。
「あいつは頭がおかしいんだ。何があいつの機嫌を変えるか分からない。必要なことだけ聞いたら急いで帰るぞ」
「ライオン君、優しいんだ。結構」
「真面目に聞いてんのか……?」
どうやらライオンは本気で心配してくれているらしかった。
ライオンは呆れ気味に溜息をついて、再び先陣を切って歩き出した。
――――悪いことしちゃったかも。
椎菜はライオンの後に続きながら、話を続けた。
「あなたの名前、なんていうの?」
「ないね。俺たち動物には名前なんていらないんだよ」
「あぁー……、そうなんだ。それにしても、よく薬のこと調べられたね。元々ライオンなのに」
「三年ぐらい前の話だからな。伝手もできる」
「ねえ……。さっきは七年前って言ってたけど、この夢ってそんなに前から続いてるの?」
「は?何言ってんだ?」
椎菜が眠ってここに来たのは、精々二週間前。七年も前の話があるなんてことは、在り得ない。
「この世界の人たちにとっては、そういうことになっているんじゃないのかな。現実とは時間の流れ方も違うらしいんだ」
スティープスが困惑する椎菜に補足した。
「それと、一応言っておくよ。椎菜、これは君の夢じゃない」
「……。何言ってるのか分かんない……」
急にスティープスから伝えられたことが、椎菜には理解できない。
これは、自分以外の誰かの夢。
――――なら、どうして私は他の人の夢の中にいるの?何がどうしたら、そうなるの?
恐らく、スティープスはまだ何かを隠している。
椎菜に話していない、何か。
―――いつか、絶対に聞きだしてみせる。
椎菜はそう決めた。
“これは君の夢じゃない”
椎菜は考える。
もし。もし、これが自分の夢じゃないのだとしたならば。
――――この夢は、誰の夢?
椎菜の思考を途切れさせるように、轟音が森を揺らした。
思考は遮断され、二人と一匹に緊張が走る。
何かがいる。すぐ近くに。
「来たぞおい……。魔女ならともかく……、ヴァン・ヴァラックになんて見つかったら本気で殺されちまうよ……」
身を裂くような緊張感が椎菜の全身を強張らせた。
立ち並び、茂る植物が視界を遮って、何も見えない。
ライオンが周囲の匂いと音を探る。怪物のいる方向を嗅ぎ分ける。
「後ろだ……!後ろから来てる!」
振り向いた椎菜が見た物は、四足でこちらに猛進する獣の姿。
家一つ分はある巨体に、筋張った長く太い両腕の先には、真っ黒な爪が伸びて。頭には肥大化した羊の角が生えていた。
剥き出しの牙から滴る唾液を撒き散らし、充血した双眸は完全に椎菜を捉えている。
「ヴァン・ヴァラックだ!!走れ!走れ!」
ライオンが先行して駆け出した。
椎菜は怪物の異様さに、足がすくんでしまう。頭の中が真っ暗になって、何もかも考えるのをやめてしまいそうになる。
あんな怪物に襲われて、ただで済むはずがない。
けれど。けれど。
椎菜も走り出す。震える足を睨んで、無理矢理にでも前に押し出す。
逃げ切って見せる。どこまで追ってきたとしても、必ず。
絶対に嫌だから。何かを諦めることも、弱い自分から目を逸らしてしまうことも。
「どこに向かってるの?!」
椎菜が尋ねる。走りながら。
木を薙ぎ倒し、シダを引きちぎって迫る恐怖の獣から逃げながら。
「森の真ん中にある岩場だ!あそこの洞窟に隠れてやり過ごす!」
怪物は長い腕と鋭い爪を使って信じられない程力強く森の中を直進し、椎菜たちとの距離を詰めていく。跳び上がり、空を舞う巨体は空気を揺らし、森全体を震わせて。
揺れる地面に足を取られながら、それでも椎菜は走る。
恐怖に絡み取られそうになる思考を振り捨て走る。走る。
ライオンの後を追ってたどり着いたのは、巨大な岩がいくつも重なって作られた山だった。
中に空いた大きな洞窟にライオンと椎菜は飛び込んだ。恐怖と焦りで一杯一杯になった椎菜が一息つこうとすると、ライオンは叫ぶ。
「駄目だ!早く来い!もっと奥だ!!」
「少し休ませて」と言う間も無く、岩山が軋み始めた。
岩が砕けていく音が聞こえる。
ヴァン・ヴァラックは岩山ごと、椎菜たちを潰すつもりだ。
「隠れても駄目かよ!ああぁ!来るんじゃなかった!!!」
「別の出口はない?そこからなら……」
「簡単に言うなって!あいつの顔見ただろ!絶対に殺されるに決まってる!」
すっかり気が動転しきっているライオンは落ち着きなく足を動かす。椎菜は跳ねあがる心臓を落ち着けて考えた。
隙あらば縮こまろうとする体と、思考を放り投げようとする自分が邪魔をする。
魔女の家に行くまでにあの怪物を振り払う必要がある。チャンスはおそらく、今だけ。今を逃せば魔女の家に行くタイミングはもう来ないだろう。あの怪物がこの森にいる限り。
「ここから魔女の家までどのくらい?」
「もうすぐそこだ!すぐだけど!ここから出たらお終いだ!!」
椎菜たちは岩と怪物がぶつかる音がするのとは逆の方向へ向かった。
この岩山が正に山の如く大きくて助かった。
これだけ距離があれば、出て行っても見つからずに済むはずだ。暗い洞窟を壁伝いに進んで出口を探す。
頭上から土塊が落ち始める。落ちる塊は矢継ぎ早に大きさを増していく。
そして、ついに見つけた出口の光が眩しく輝いた。
――――やっと、出られる。ここから、逃げられる。
慌てる気持ちが足をもつれさせ、椎菜は冷たい土の上へ転び倒れた。
彼女を支えていた緊張の糸が、転んだ拍子にぷつり、と途切れて。
椎菜は迫る恐怖を思い出す。
崩れ落ちていく洞窟から、外から差す光が失われていく。
「あ……」
足の痛みを感じた。息の乱れを感じた。
こんなに必死に走ったことなんて、生まれて始めてのことで。椎菜は自分がもう限界であることに気付く。
「いや……」
恐くて。恐くて。
「お父さん……、お母さん……。おばあちゃん……」
恐くて仕様がなくて、どうしようもないから。目を閉じた。
洞窟が自分を押し潰すのを、自分が怪物に噛み砕かれる瞬間を。
全てを諦めて、椎菜は待った。
「椎菜!!」
悲痛な程、声を上げて、自分を呼ぶ声がして。
椎菜は目を開けた。そこには確かに光があって、その中に。
「急いで、もうじき崩れるよ!」
彼がいた。仮面を被ったスティープス。
スティープスは椎菜の手を取り、彼女の体を暗闇から引き上げる。
岩山に限界が迫っている。後ろの方で岩が砕け崩れる音が、どんどん大きくなっていく。
「行くぞ!しっかりしろ!」
ライオンに叱責され、椎菜は出口へ走った。
手を引いてくれるスティープスのその手には、白い手袋。
手袋越しにスティープスの温かさを感じつつ、椎菜は自分の体が軽くなったように感じていた。
椎菜とライオンが洞窟から飛び出して、三秒足らずで岩山は崩壊した。
獣の咆哮が鳴り響く。
獲物を殺してみせた勝利の声か、それとも獲物を逃した悔恨の声か。森を震わす怪物の叫びは低く、大きく。
呆けた顔で崩れた山を見るライオンを、椎菜は小声で呼び、ヴァン・ヴァラックに見つかる前にその場を後にした。
「ここ……?」
ようやくたどり着いた魔女の家。
二人と一匹は大きな木の上に建てられた、垂れ苔と植物のつるに覆われた家を見上げる。木材を並べて足場が作られていて、その様は秘密基地めいていた。
「ああ、早く家に入れてもらおう。断ったら噛みついてやる。仕返しだ」
雄々しく言い放って梯子に足を乗せたはいいものの、自分の体では梯子を利用することは不可能であることをライオンは分かっていなかったらしい。
梯子の前で前足を一生懸命動かした後、諦めて必死に木をよじ登る彼の後姿は大分可愛らしくて、椎菜は思わず顔を綻ばせた。そんな椎菜は梯子を使って玄関へと上がっていく。
しかしこの木、登ってみると意外と高い。
木の上から見下ろす椎菜は、木の幹にしがみつくライオンを見た。
余裕がなさそうなライオンの様子に、同情しながらそっとしておくことに決め、家のドアをノックする。
少し小さめに、ゆっくりと三回ドアを叩いた。
――――返事がない。出かけてる?
「いないのかな?」
「ちょっと見てこようか」
スティープスが木の周りをぐるっと周り、家中の窓から中の様子を探る。
戻ってきたスティープスは呆れた声で椎菜に告げた。
「居留守だね。ドアの前で頭を抱えて震えてるよ」
椎菜はもう一度ドアを叩く。
ヴァン・ヴァラックのこともある。魔女は必要以上に警戒しているのかもしれない。
「すみません、開けてください!あなたに聞きたいことがあるんです!」
いつまでも開けられないドアを、椎菜が強めに叩く。
そんなに強く叩いては余計に怯えてしまうのではと思いながらもスティープスは、命辛々の様相で木を登り切ったライオンが気になって仕様がない。
命がけで登ってくる程、彼の怒りは根深いということなのだろう。
そして、椎菜のしつこいノックが功を奏した。
鍵の開く音と共にゆっくりと開いたドアの隙間から覗く魔女の眼はすっかり弱り切っていて。
「入んなさぃ……。ドアが壊れたらどうするの」
つぎはぎだらけで裾がぼろぼろのローブを着こんだ小汚い姿の老婆が、フードで殆ど隠れて見えない陰気な顔を覗かせた。
家の中は、本と怪しげな植物が好き放題に散らかっていた。
ドアの開いた奥の部屋に見えるのは、絵本にでてくるような魔法の薬を作る大きな壺。
魔女に通された部屋の棚には、気色の悪いオブジェと自作と思われる濁った色の薬が入った瓶が並べられている。
見覚えのある瓶だ。
ライオンの変身を解く薬もここで作られたものなのかもしれなかった。
「ここに人が来るのは久しぶり……」
魔女は皺だらけの手で部屋に積まれた本の山を指差した。ここに座れと言うことらしい。
「急にお邪魔してすみません。私、あなたに聞きたいことがあって……」
「さっき聞いた。で、この私から何を聞くつもり?」
椎菜が座る場所から、椅子を幾分離して魔女はその椅子に座る。警戒しているのは分かるが、魔女の露骨な態度に椎菜の心は少し傷ついた。
だが、ここからが肝心だ。
ただでさえ他のことに警戒して過敏になっている相手に、どう城への侵入法を尋ねるべきか。
「あの……、お城にどうしたら入れるのか教えて欲しいんです」
「あのお城に?」
途端に魔女の顔は険しくなり、椎菜を睨む。けれど椎菜は動じない。視線を魔女の睨む眼から逸らさずに。
「どうして?あなたみたいな子供に用事があるとは思えないけれど」
魔女の態度は目に見えて悪くなっていた。椎菜は理由を頭の中で探る。
――――もしかすると、城の話はタブーだったのかも。
想定していた質問ではあったけど、答えを選び直す必要があるかもしれない。
これ以上魔女の機嫌を損ねることは避けたい。だが、下手なことを言っては状況は増々悪くなるだろう。
椎菜はスティープスに目配せして意見を仰ぐ。魔女の後ろで椎菜に見えるように待機していた彼は力強く頷いて見せたが、頷いただけで椎菜の求める返答はしてくれない。
――――どうせ聞こえないんだから、声に出せ。
「そうです。私たち、その……」
椎菜が予め考えておいた、お城に入りたがる子供が言いそうな、相手に警戒心を抱かさないような、稚気じみた答え。
「あの……、お姫様とお話ししてみたくって」
するとどうしたことか、魔女の表情は。先ほどまでの険しさを全く感じさせない明るさに満ちていた。
「そうなの、あの子にねぇ!」
魔女は上機嫌に食卓に料理を並べていく。袖がボロボロの怪しげなローブを纏い、軽い足取りできびきび椎菜をもてなす老婆は至って不気味だ。
「ええ、まぁ……」
ころりと変わった魔女の様子に椎菜は調子を掴めない。
スティープスはこのまま様子を見るといいと言ったきり、どこかへ行ってしまった。
ライオンは椎菜の足下でテーブルの上から頂戴した魔女の料理にがっついている。彼は何をしにきたのだろうか。
「あの子は乱暴なところもあるけれど本当はとってもいい子なの!」
「そ、そうなんですか……」
魔女が水の入った壺から何カップ分か水を汲み出して、ボウルに水を入れると、火も無いのに水が沸騰し始めた。魔女はそのお湯を木でできたポットに入れる。
「すごい……、これどうやったんですか?」
椎菜が興味本意で尋ねると、ポットにお湯を注ぐ魔女の手元が狂い、ポットに入り損なったお湯が床に飛び散った。
「いたっ!」
魔女が突然、悲鳴を上げる。椎菜は驚いて魔女に駆け寄った。
「ごめんなさい!大丈夫ですか……?」
「大丈夫大丈夫、なんでもないの……」
お湯が手に当たってしまったのだろうか。
魔女は椎菜から右手を隠すように左手で覆って、カップを取りに部屋を出て行ってしまった。
どこからか、物が溶けるようなじうじうとした音が聞こえた気がした。
そして、鼻に突き刺さる香りを漂わせる魔女特製のお茶が淹れられた。透明度の低い、紫色のそのお茶は正直美味しそうには見えないのだが。
しかし、先程魔女の邪魔をしてしまった手前、椎菜としては文句を言える立場ではない。
黙って啜る。
「あなたの口に合えばいいんだけど」
「……、美味しいです」
美味しくなかった。
酸味が、独特な苦みのハーブと噛み合い胃酸の味を連想させて。紅茶と呼んでいいのかも判断つかない代物のそのお茶は、如何に嫌がらせしてやろうか試しているように思えてならない。
出された物は残さず食べきる、飲みきることに情熱を見出す性質を持つ椎菜は、どれだけ不味かろうと完食せしめんと身構える。
いくら魔女のお茶とはいえ毒が盛られていることはないだろう。
そう思いたい。
自分に思い込ませながら、リズミカルにカップの中で揺らめく液体を飲みきった。
すかさずお代わりを淹れる魔女を迷惑そうに見つめながら、椎菜はそろそろ本題に入らねばと切り出した。
「あの、さっきの話なんですけど……、お城の兵隊さんに入れてもらえなくて……」
「本当に気が利かないやつら。女の子一人くらい入れてあげたらいいのに」
それから魔女は、良いことを思いついたと言わんばかりに笑いながら。
「だったら、もう内緒で入ってしまいましょうか!」
それは一番待ち望んでいた言葉だった。だが余りにとんとん拍子に行き過ぎではないか。椎菜は嬉しさ以上に警戒心を持つ。
「内緒でって……、それ危ないんじゃ……」
出来る限りわざとらしくないよう振る舞って、魔女の出方を見た。
「夜になったらね、地下の下水道から入れば見張りも少ないし簡単なの」
こんなにも、あっさり。
魔女が言っていることが本当なら、これはあの子を見つけ出すチャンスに他ならない。
これで、これであの子を助けてあげられる。
あとはお城の中のことが分かれば完璧である。今の協力的な魔女なら答えてくれそうだった。
「あ、あとできたらお城の地図とか……」
「ああ、そうだ。簡単に描いてあげるからちょっと待っててね」
そして、魔女が描いて持ってきた地図には簡略化されたお城の全体図。そこには下水道から玉座までのルートが赤い線で示されていた。
まさかここまで教えてもらえるとは。
しかし、まだ肝心なことが分からない。
肝心の牢屋の場所が分からないのだ。なんとかして聞きださなくてはいけない。気取られないように、遠回しに聞いていく。
「この通り行けば、玉座にいるあの子の所まで行けるから」
「あの、ここには何があるんですか?」
怪しい部屋に続く階段を目だけを動かして探し、赤いルートから外れた下り階段の絵を指差す。
「その階段の下?物置だったような……」
「えっと、じゃあここは?」
さらに別の階段を指差した。
「そこは牢屋。危ない人が入れられてるところだから、絶対に近づいちゃ駄目。あなたみたいなかわいい女の子が行くところじゃない」
――――ここだ。
ここにきっとあの子がいるはずだ。心の中で椎菜は、上手いこと聞き出せたと喜びを噛み締めた。
「それにしても、あの子に会いたいなんて……、あなたが初めて」
「……。初めて?」
魔女が言うあの子とは、椎菜たちの言うあの子とは違う人のことで。
「そう。お姫様はわがままな人だから……、噂くらいは聞いたことあるでしょう?」
椎菜は聞いたことがあった。逆らう者は皆、消してしまうお姫様の話。
「こう言うのは失礼ですけど、怖い噂の多い人ですね」
びくつきながらとは言え、正直に言い切った椎菜を魔女は見込んだようで。
「噂は噂だけどね、でもほとんどは本当のこと」
そして、魔女はちらりと胸の裡を晒す。
「ねぇ、よかったら、あの子と友達になってあげてね」
その言葉は椎菜に重たく、後ろめたいものを残した。
慈愛に満ち満ちた魔女の言葉にどう答えるべきか。まだ、椎菜には分からなくて。
だから椎菜は、困った顔で俯くことしかできなかった。
「そういえばあなた、随分顔色が悪いんじゃない?」
「え……、そうですか?」
言われてみれば、体が重いような気がして。
「ここに来るまでに怪物に襲われたんです。それでかな、ちょっと疲れちゃったみたいです」
「そう……。恐かったでしょう?今日はうちで休んでいきなさい」
「ありがとうございます……」
素直にありがたい申し出だった。まだヴァン・ヴァラックがいるかもしれない夜中の森を帰るのは危険すぎる。
「私もね、あいつに追いかけまわされたの」
魔女は自分と椎菜のカップを片付けながら、自分が襲われた時のことを椎菜に語った。
「恐くなると何も考えられなくなって、どうしようもなくなっちゃう。たまに、そんな自分のことが嫌になる」
「分かります。それ」
椎菜は、自分と魔女が似ているように感じた。
臆病な自分が嫌いで、なのに変われない。
魔女も自分と同じ悩みを持っている。
恐れが自らを駄目にする。己の可能性が消えていってしまう。気にしすぎなだけだと皆は言うけれど、気にせずにはいられない。
――――だから、悩む。
「おかげ様で、その周りは大迷惑だけどな」
テーブルの下からようやく這い出てきたライオンが魔女に悪態を吐く。
魔女の所為で何年もの時間を人間の子供として過ごすことになってしまった彼には、彼女への恨みが溜まりに溜まっていた。
「……、あなたは……」
「覚えてなんていないだろうがな。ずっと前にお前に人間のガキに変えられたライオンだよ」
「そんな……、まさか……。元の姿に戻れたの……?」
魔女は大層驚いていた。
この様子だと、ライオンのことを忘れていたわけではないようだ。信じられないと言った顔つきで口の周りに食べかすを付けた彼を見つめている。
「人間相手にもあの怪しげな薬を使ってたらしいな。街の衛兵が持ってた解毒剤をそこの姉ちゃんに借りてきてもらったのさ」
「……、そうだったの……」
椎菜ははらはらしながら二人の会話を見守っていた。ライオンの気持ちが分からないわけではないが、魔女を怒らせてしまっては一体何をされてしまうことか。
「私がしたことを許してとは言わない。けどね……」
魔女が立ち上がり、ライオンへと歩み寄る。
ライオンと椎菜は身構えた。
「元に戻れて、よかった。あなたにはひどいことをしてしまって」
「あん?」
「元々人間だった人たちには、解毒剤をあげることができたけど……。あなたは行方が分からなくて……」
意外。魔女はライオンへと申し訳なさそうに佇んだ。
「はぁ?なんだそりゃ。こっちは三年も棒に振ったんだぞ。どうしてくれんだよ!」
しかし、そんなことで収まる程ライオンの怒りは浅くはない。強い口調で魔女を責め立てる。
何を言い返すでもなく、魔女はライオンの怒声をただただ受け入れていた。
「……」
「だんまりか。ずっとそうやってやり過ごしてきたんだろうな」
怒りは収まるどころか勢いを増していって、ついにはライオンは魔女に向け牙を剥いて威嚇した。
「聞いてんのか!お前なんか、噛み殺したっていいんだぞ!!!」
「……」
ライオンの言葉に、魔女は恐怖に身を震わせた。上下の顎に並ぶ牙は荒々しく、怒気を含んだ唸りを漏らして並んでいて。
「お前がそんなんだから!!お前の子供だって――――――!!!」
「ちょっと待って!!」
今にも飛び掛かりそうなライオンと、うな垂れる魔女の間で椎菜が叫んだ。
怒りと後悔で重くなっていく空気に耐えられず、思わず出てしまった一言だった。
「あのー……、その……」
一人と一匹の視線が向けられて、椎菜は割って入ってしまったことを悔やみながら、何かいい台詞はないかと考える。
何か言おう。何か、何か。
何か有るはず、無いと困る。それはもう、ひどく困る。
「私……、体が辛くて、その……」
考えて。考えて。
「どこで休めばいいのかなー……、って」
浮かんだ答えが、これだった。
魔女は、椎菜を埃の被った部屋に通してくれた。
眠る場を用意してくれたのは嬉しいのだが、不潔さが過ぎる。長い間掃除されていないのが目に見えて分かる程、本やらぬいぐるみやらが床に転がっていた。
「ぬいぐるみ?」
椎菜はぬいぐるみを一つ拾い上げる。埃を被って色もくすんだそのクマのぬいぐるみは、ところどころ縫い直されてボロボロだ。
「この部屋は昔、私の娘が使ってたの。片付けてないままで悪いけど、ここを使ってくれる?」
「いえ、ありがとうございます」
今、その子はどうしているのか。
聞こうか止めようか迷った椎菜だったが、魔女の辛そうな顔を見て尋ねる勇気はあと一歩の所で出てこない。
「さっきは、ありがとう」
「あ、いえ……」
「優しい子ね。あなたは」
「そんなこと……、ないです」
魔女にとっては思い出したくないことなのかもしれない。それでも、椎菜は気になって。
「それじゃ、私は自分の部屋に戻るから。何かあったら言って」
出ていこうとする魔女に、椎菜は尋ねた。
「あの、娘さんのお名前……。なんていうんですか?」
魔女は振り向いて、重く笑顔を作って答えた。
「……。ホリーっていうの。あの子は、あんまり気に入ってなかったみたいだけどね」
魔女が部屋を出ていくと同時に、椎菜は窓を全開にして換気を行った。
埃舞う空間に突如現れた空気の通り道は、部屋中の淀んだ空気を吹き飛ばす。これで少しはマシになったと手をはたいて満足気に。椎菜はバッグを外して一息ついた。
ふと、部屋の隅に置かれたクマのぬいぐるみと目が合った。
魔女の娘のぬいぐるみ。
随分長い間ほったらかしにされていたらしい。部屋とぬいぐるみの汚れ様がそれを物語っていた。隣に置かれた西洋風の城の模型に積もった埃も、また汚らしい。
ベッドに飛び乗って、椎菜は思い切り伸びをした。
なんだか、あの魔女とは仲良くなれそうな気がした。
最初は恐がられていたけど、話している内に打ち解けられた気がして、椎菜は嬉しくなった。
――――優しいお婆さん。
椎菜はもう死んでしまった祖母のことを思い出す。優しくて、いろいろなことを教えてくれた人。
微笑みながら自分に話しかけてくれた魔女が、かつてずっと一緒にいた祖母と重なった。
魔女の娘は魔女を置いて、どこに行ってしまったのだろう。そんなことを考えつつ、ベッドの形を整えて。
さてどうしようかと、もう寝てしまおうか、それとも魔女のお婆さんともう少し話でもしようかと悩んでいる椎菜の下に、いつの間にかどこかに行って、戻ってきたスティープスが窓をノックして部屋へと入ってきた。
「ヴァン・ヴァラックはもうどこかへ行ったみたいだ。明日は安全に帰れそうだよ」
どこに行っていたのかと思えば、あの怪物の様子を見に行っていたらしい。
それはそれでありがたいのだが、温厚そうとはいえ得体の知れない魔女と、事実上二人きりで話していた自分の不安を顧みてはくれなかったものか。
「魔女から話は聞けたかい?」
「うん。お城の入り方と、牢屋の場所。これだけ分かれば十分じゃないかな」
ついにここまで来た。後はあの子を迎えに行くだけ。
「念のため、城下町まで行ったらあの子のことを聞いて回ってみよう?無事かどうか気になるし」
「ああ、そうだね。そうしよう」
どうか、あの子が無事でいますように。そう祈りながら。
椎菜は窓から体を乗り出して、黒と白の混じり合う淀んだ夜空を眺めていた。
だから、椎菜は気付かない。
魔女の家に近づく酷く不気味な影に、彼女は気付けなかった。
それは何処か、鬱蒼と茂る木々の中に立つ、一際大きな一本の木。
その上に建てられた家の中で、一人の女性が座っている。
彼女は魔女だ。
いつからそう呼ばれているのか彼女自身でも思い出せはしないが、誰もが彼女をそう呼んでいる。
久方ぶりに客人を迎えた彼女はいつになく機嫌が良い。椅子に座り嬉しそうに何かを眺めている。
彼女の目線の先には一枚の肖像画。そこに描かれた、彼女にとってとても大切な人。その人が喜ぶ姿を思い浮かべて、魔女の顔は穏やかに緩んで。
カタン、と。
部屋のどこかで、何かが動いた音がして、魔女は部屋を見渡した。
音が聞こえてきた方を見ると、そこには青く輝く髪飾りが置かれていた。
その髪飾りは元々そこにあった物だ。何もおかしいことなどない。
けれど、魔女は髪飾りから目が離せない。それは、かつて一緒にこの家で暮らしていた人の物。
かつて魔女が最も愛していた、誰かの物。
物陰に揺らめく影があった。魔女の背後で不気味に揺れるその影は、醜く歪む笑顔を覗かせて。
魔女の心に何かが芽生える。それは人を疑わせる不安の芽。
今日迎え入れたあの客人は、本当にあの子と友達になってくれるのだろうか。本当に、あの子と友達になりたいと思っているのだろうか?
地図を見せた時、椎菜がお城の中のことをいろいろ聞いてきたことを思い出す。
不安が思考を歪ませて、魔女の理性は崩れていった。
そこに道理は無く、感情が頭を埋め尽くし、決断を。どんなに残酷で不条理であろうとも、下させる。
本当の目的は、あの子に会うことじゃないのかもしれない。
(私からお城のことを聞きだして、中に忍び込むつもりなのかもしれない。何をするつもり?あの子に、あの子のお城に何を。あの子に何かの仕返しをするつもりかもしれない。あの子を傷つけるかもしれない。あの子を悲しませるかもしれない。そんなやつを、信用してもいいの?)
(騙されるものか、いや、騙されていようとそうでなかろうと、万が一でもあの子を苦しませる可能性を残してはいけない、絶対に)
(行かせてはいけない。あの城に)
魔女は誰かの笑顔を思い出した。
既に失ってしまった、かけがえのない笑顔。
忌まわしきあの日は、未だ薄れず記憶に刻まれて。その時の想いが、魔女の中に蘇って。
故に、魔女は――――
「ねぇ、思ったんだけど」
「え?なに?」
「あなたが一人でお城に入ってあの子を助けてくればいいんじゃないの?」
姿が見えないのだから見つかる心配もない。この前の騎士のような人が他にいないとも限らないが。
「うーん。確かにそうは思うんだけどね……」
部屋にたくさん置かれているぬいぐるみを弄りながら、スティープスは困ったように口ごもる。それらのぬいぐるみは、床に転がったままでは忍びないと、椎菜が全部拾って棚に並べたのだ。
「やっぱり君がいたほうが上手くいく気がするんだ。そもそも僕は君以外の人と話すこともできないしね」
「……。じゃあ、あの子にも見えないんだ。あなたのこと」
見えなくて話もできないのに。どうやって友達に?
「……」
「……」
スティープスはぬいぐるみを置いて、一つだけ大きくて異彩を放つ城の模型を見つめた。
「……、いつか全部話すよ。約束する。僕にも何を話せばいいのか、整理が付いてないんだ。だから、もう少しだけ……」
「さっきから何やってんの?」
「うわぁっ!?」
窓からライオンが部屋の中を覗き込んでいた。椎菜は素っ頓狂に悲鳴を上げ、慌ててスティープスの前に立ち、彼を隠す。
「あんた、たまに一人でぶつぶつ言ってない?」
「うん?まぁ、まあね」
椎菜はスティープスを隠しながら、そもそもライオンには彼が見えていないことを思い出した。
「さっきのことだけどさ」
やはり、ライオンは怒っているのだろうか。事情もろくに知らないのに、椎菜が話に割り込んでしまったことを。
「ありがとな。ちょっと頭に血が上っちゃってさ。あんたが止めてくれなきゃ大変なことになってたよ」
ライオンは前足で床をひっかきながら、椎菜にお礼を言った。
どうやら、もう落ち着いてくれたようだった。
「気にしないで。私も、余計なことしたかなって思ってたし」
「……、そうか」
人間の顔とは違い表情の変化が乏しいせいかはっきりとは分からなかったけど、ライオンは小さく笑ったらしかった。
ライオンから、すっかり怒りの色は失せている。
椎菜はほっとした心地になって、ライオンに気になっていたことを尋ねた。
魔女と実際に話して、椎菜が感じたことを。
「ねえ、あの人ってそんなに悪い人なの?」
ライオンは返す言葉に困りながらも、答えてくれた。
「悪いっていうか……、なんていうかな……。やることがいつもいきなりで、極端なんだ」
「どういうこと?」
「俺を人間に変えたみたいにさ、自分の身に何かあるとすぐに暴れ始めるんだよ。魔法とか、妙な薬とかたくさん持ってやがるからな。やられる側は大抵ひどい目に会うって訳だ」
「薬の実験台にされたんでしょ?一体何したの?」
「えー、あー……」
しばし答えようか考えて、ライオンは。
「夜中に忍び込んで食い物漁ってたら、あいつを食いに来たと勘違いされた」
素直に白状した。
呆れた目を椎菜に向けられたライオンが、部屋の隅に丸まって座り込んだのを見て、椎菜もふらっとベッドに倒れこみ体の力を抜いた。
急に疲れを感じて、そのまま目を閉じる。
恐い思いもしたけれど、意味はあった。体中から溢れる疲れに身を漂わせ、微睡んでいく。
けれども、ドアをノックをする音が、嫌に不気味に部屋に響いたのだった。
そこにいたのは、魔女。何も言わず、ドアを開けた椎菜の前にじっと立っている。
「どうかしたんですか?」
魔女の様子がおかしいと気付いた椎菜は魔女に近寄った。
「ねえ、本当にあの子に会いたい?」
「あの子?」
――――あの子。あの子って、どの子?
「本当にあの子と友達になりたい?」
「えっと……、それって……?」
それは一体誰のことなのか。椎菜はすぐに思いつかない。その間が、魔女の不信感に最後の一押しを与えてしまう。
「やっぱり……」
長考する椎菜に、魔女は右手を突き出した。
「嘘吐き」
魔女の左の手の平にどこからともなく短剣が現れて、魔女の右手から黒い霧の波が噴出した。
波に押し倒された椎菜に、魔女は短剣で襲いかかる。
不意を突かれ、動けない椎菜は迫る短剣に目を瞑った。
しかし、痛みは来ない。
椎菜が目を開けると、スティープスが椎菜を庇い、短剣を手で直接握り受け止めていて。
その手からは、真っ赤な血が滴っていた。
「逃げよう!」
魔女を突き飛ばし、スティープスが椎菜を抱えて走り出す。ベッドの脇に置いたバッグを咥えて、状況が全くつかめていないライオンも後に続いて部屋を飛び出した。
居間を駆け抜け、いくら押しても引いてもびくともしない玄関のドアを蹴る。
鍵がかかってるというよりも、ドア自体が固定されてしまっているようだった。
バッグを椎菜に投げ渡し、ライオンがドアに体当たりを仕掛けた。それでもドアは開かない。
「魔法か?!」
「多分……」
椎菜の代わりにスティープスが返事をした。ライオンには当然聞こえない。
逃げ場はない。
魔女はすぐに椎菜たちの前に現れた。物言わず椎菜を指差して、指の先に集まる黒い塵が、大きな針と化して椎菜に向けられた。
「どうして……」
スティープスが魔女に近づいて行く。彼の腕が魔女の腕を掴もうと、ゆっくり伸びる。
どうして、どうして。
ついさっきまで、あんなにあなたは優しくしてくれていたのに。
「どうして、こんなこと……」
魔女と椎菜が対峙する横で、ライオンが何かに気付く。それは水の入った壺と桶。
スティープスが魔女の腕を掴み、捻り上げる。
腕の痛みと理解の及ばぬ事態に魔女は悲鳴を上げてうずくまる。
瞬間、ライオンは桶を咥えて、壺の中の水を器用にすくいとり、魔女へと勢いよく振りかけた。
すると、水が魔女に当たった所から煙が吹き出し、魔女が悲鳴を上げた。よくよく見れば、魔女の体が水に急激に溶かされているのだと分かった。
「あ、あぁ、あ……」
椎菜の目の前で、魔女は悲痛に呻きながらかけられた水に体を溶かしていく。泡を立て、煙を出しながら溶けていく魔女の体は見るも無残に爛れていた。
魔女の目は椎菜を見ていた。
その視線には、椎菜には信じられない位の憎しみが込められて。
動かなかったドアが開く。
木を駆け下りるライオンに続こうと玄関から外に出た椎菜は、足を止めた。
そして、未だ悶え続ける魔女を見た。
どうして、こんなことになってしまったのか。ライオンや町の人の話からして、決していい人というわけではないのだろう。しかし、椎菜にとっては、少なくとも悪い印象を持つ人ではなかったのに。
――――だから。
「ごめんなさい……」
椎菜は謝った。
何故こうなってしまったのかはわからないけれど。苦しむ魔女を見て、木から降りようと体を動かしていても、椎菜はそうせずにはいられなかった。
椎菜たちは森の中をまた走る。暗くなって足下の見えない森は走る椎菜を責め立てる。
――――私は、お婆さんに何をしてしまったんだろう。
椎菜はずっと考えて、足がもつれて。
森の植物が、椎菜の進む足を絡め捕る。
優しかった魔女の微笑みが思い出された。
そして、その笑顔によく似た祖母の笑った顔を思い出し、椎菜の胸は締め付けられて。悲しみと恐怖がごちゃ混ぜになった頭に、魔女の憎しみがこもった目が浮かんで離れない。
どうして、どうして。
仲良くなれると思ったのに。なんで、こんなことに。
「おい!上を見ろ!」
先を走るライオンが空を見上げて椎菜に言った。
空には暗闇よりもずっと黒い何かが蠢いている。それはどんどん広がって、森を覆っていく。
「あいつ、家の周りをまとめて潰す気だ!今まで見た中でも一番でかい!皆殺しにする気なんだ!!」
空に延びる黒から逃げる。逃げる。
どこまでも森の中を、走る。心の中に浮かぶ悲しみを一つ一つ振り払い、走る。
森の入口近くまで来て、椎菜たちは立ち止まった。
魔女の出したらしい黒い何かは、森全体を覆ってしまうくらいの大きさで空に浮かんで。
「狂ってる!やっぱりあいつは、どうかしてやがる……!」
息絶え絶えにライオンが声を漏らすと同時に、空の黒は粒になって森に降り注いだ。
黒い粒は弾丸の如く森を貫いて、地面に落ちて液状になるとそこにある全てを包み、ぐちゃぐちゃに潰してしまった。
木々がへし折られていく音が聞こえた。森にあったあらゆる物が砕かれ、黒い何かに圧壊されていくのを見た。
夜闇の中行われた魔女の凶行は、ウッドサイドの森を見る影もなく潰してしまったのだった。
潰された森と、そこに住んでいた命の残骸を椎菜は呆然と眺めた。
たくさんの動物が、木々が、原型を留めず惨たらしい姿へと変貌していて。
これを魔女がやったことだと認識し直して、その魔女を突き動かしたのが自分であると自覚して。
そして、椎菜は血を流すスティープスの手を取った。
「なんで……、なんで……?」
スティープスの手を両手で優しく包んで、泣きながら。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
何もかもが壊れ行く、音が鳴りやまぬ森を前に、暗闇の中、椎菜は。
泣きながら、何度も何度も謝り続けていた。
・
・
・
・
・
3rd tale End




