Last tale 2/2
箕楊椎菜は、目を覚ました。
夕焼けの色に染まった公園、木製のベンチに腰掛けて眠っていた椎菜は立ち上がり、あたりを見渡した。
公園の時計が示す時刻は、六時半。
椎菜はほっとして、ベンチに腰を戻した。
しかし、椎菜は大切な物を失っていたのである。
ベンチに落ち着いた瞬間、椎菜は自分が何にほっとしたのか考えた。
まるで、何処か遠い所から帰ってきたかのような、安堵を感じた。
――――たった、ほんの数分、眠ってただけなのに?
椎菜は、ぼぅっと茜色の空を見上げていた。何か大切なことを忘れてしまったような。そんな気がしていた。
「おーい!みよしー!」
頭の隅に引っかかる、何かを思い出そうとした所に、私を呼ぶ声がして。
公園の外、道路沿いの歩道から呼びかけるのは、私の友達二人。
佳代と美琴。
なんでだろう。なんだか、久しぶりに会うような。不思議な感じ。
さっき、別れたばかりなのに。
「用は済んだ?私たちも帰る所だからさ、一緒に行こ?」
「え?あ、ああ。うん」
そういえば、手紙の待ち合わせはどうなったんだっけ。なんで私、寝てたんだろう。
「あーあー。明日からまた勉強かぁー」
私、何してたんだっけ。
あれ?あれ?
なんだっけ、何か。何か思い出さないといけないこと、あった筈。
そう分かってはいるけれど、頭の中で明滅する記憶は、水に溶けて薄まるように消えていく。
「この前さぁ。図書館でさー、男連れのやつが目の前でいちゃつきやがってさぁー。こっちは勉強してんだよ。べんきょー」
「それ私も一緒に行った時のやつでしょ?お前、あの時寝てばっかだったじゃん」
「だって実際眠くなるし。勉強したくねー」
勉強……。そうだ、勉強。しなきゃいけないんだ。受験の準備していかないと。
紅葉を待つ木々が植えられた歩道に、生暖かい風が吹いた。まだ、季節は夏半ば、暑さのこもる空気のせいか、その風は酷く気持ちが悪く感じられる。
「私も……、勉強しないとなぁ」
「うわ、やべー。みよしーもそっちサイドに旅立ってしまう……」
「お前も勉強しろってことだよ」
今日は全然勉強しなかったし、今夜からしっかりやらないと。
「勉強しなくてはいけないとしてもだよ?他のことをしてはいけない訳ではないと思う訳ですわ」
「他のことって……、絶対男の話始めるよこいつ」
「彼氏とか彼氏とか彼氏とか」
今日は……、今日は、何してたんだっけ。朝起きて、二人と遊びに行って、それから。
それから――――
「もう適当に作ればいいじゃん。クラスのやつとか、誰かいるでしょ」
「えー、違うんだよぉ。そういうのじゃなくてさぁ」
誰かといたような気がする。
一人じゃなくて、いろんな人と。それから、誰かを探して。
私の左手が、ずきりと痛んだ。
左手を見ると、手の甲には深い刺し傷ができていた。
私の頭に浮かんだのは、ナイフと手紙。そして、一人の女の子。
そう。
そう。
手紙だ。
私は、あの手紙の差出人に会おうとして、公園に来て、それで。
それで、眠ってしまって――――
「訳わかんないんだけど……」
あなたに出会った。優しくて、背が高くて、おかしな仮面を被っていて。
「みよしーも言ってたじゃん。ねー?」
「え?」
「好きな人。いないって言ってたでしょ?本当、ろくでもないやつしかいないねー、って話したじゃん」
私の、好きな人?
ううん。
いるよ。いる。
名前は……、名前、名前……。
彼の名前。また会おうと約束してくれた、また会えると言ってくれた、あなたの名前。
「あれ!?返事ないんですけど!!?」
「いるの!!??」
美琴と佳代が驚き、私に顔で迫る。
私はびっくりして、その拍子に思い出す。
初めて会った時のこと。あの人が、名乗ってくれた時のことを。
「スティープス……」
「は?」
「は?」
夢の中で共に過ごした、愛しい彼の名が、思わず口から出てしまう。
すると、目から溢れる涙と共に、頭の中に、次々と思い出が蘇り始めた。
夢の中で出会った人たちのことも、美味しくない料理も、綺麗な景色も、何もかもを思い出す。
思い出した。
思い出したよ、みんなのこと。
夢の中であったこと、全部。全部。
私は片手で涙を拭う。私が急に泣き出すものだから、二人が心配そうに、おろおろと鞄のハンカチを差し出して。
私たちの横を、仲好さそうに子供たちが追い抜いて行った。楽しそうに笑う子供たち。
でも、あの子は。
あの子は今も、公園を独りで眺めているのだろうか。家の中で、部屋に閉じ込められて。
「私、行かないと」
「お?」
「何処に?」
「私に手紙くれた子の所。多分、私のこと待ってるから……」
鞄に入っていた手紙を取り出して、二人に見せた。
二人ともしばらくぽかんとして、私と互いの顔を見合わせた。
「まだ会ってなかったの?」
「待ち合わせ失敗してたの?寝てたから、てっきり、もう全部済んだのかと思ってた……」
美琴も佳代も驚いている。
それはまあ、そうだろう。あれだけ勇んで行ったのに、当の差出人に会えないまま、公園で呑気に昼寝しているとは思うまい。
けれど、二人の表情は至って真剣で。
はっきり私が言わずとも、やんごとなき事情を、こちらが抱えていると察してくれているらしかった。
「ほら、あの山の上にある家。あそこの子なんだって」
目で指し示すのは、この辺りに一つだけある山の中腹に建つ、洋風の屋敷。二階建てで、薄紫色の屋根と壁が特徴的な屋敷は、私たちを見下ろすように建っていた。
「ああ、あそこかぁ」
「行くの?一人で?大丈夫?」
「大丈夫。きっと、会わせてくれるから」
不安はなかった。あの家にいる人たちも、少しだけれど知っている人たちだから。
それに、あの家には、彼らがいる。
「会いに行くって約束したから。行かなきゃ」
偉そうではあったけど、なんだかんだで助けてくれたディリ―ジア。
それに、また会えるって行ってくれた、大好きなスティープス。彼らに会うためにも、私は行く。
「……。よし、分かった!」
佳代が私の背中を叩く。それに便乗して、美琴も私の背中を思い切り叩いてきた。
「私も分かった!」
「おばさんには私が遅くなるって言っとくから、行ってきな!」
「そうだ行ってこい!」
「ありがとう……」
二人は笑って私を送り出す。
私は来た道を戻って、公園を抜けて、山に敷かれた道路を走る。
私が坂の途中振り返ると、まだ、二人はこちらを見ていた。
私に手を振る二人の姿を目に焼き付けて、私は再び走った。
大きな門の前に、私は立つ。
高い柵の向こうの庭には、紫色の実がなった低木が、何本も植えられていた。
威圧感のある豪華な屋敷。
私はインターホンに指を伸ばす。ボタンを深く押し込むと、門につけられたスピーカーから声が聞こえた。
「はい。どちら様ですか……?」
弱弱しい声。その声を聞いた時、私は思わず涙ぐんでしまった。
聞き覚えのある声だ。夢の中で出会った、魔女のお婆さんの声だった。
紫在さんの母親の声は、あのお婆さんと全く同じで。私はつい黙ってしまったけれど、気を持ち直して、言った。
「先日、紫在さんからお手紙を頂きました、箕楊椎菜と申します。哉沢紫在さんは、今、おうちにいらっしゃいませんか?」
「手紙?紫在がですか……?」
怪しまれるのは仕方のないこと。
今日が駄目なら、明日。明日が駄目なら、明後日。
何度だって、私は紫在さんに会いに来る。
「紫在さんと待ち合わせをしていたのですが、紫在さんが来られなかったので。何かあったのかと思いまして……」
何があったのかも、どうしてこれなかったのかも知っているけれど。怪しまれないためにはこう言うしかない。
スピーカーから聞こえる声が途絶えて、しばらく何の音もしなくなり。
やはり駄目かと、私がそう思い始めた頃。
がちゃりと音を立て、門の鍵が外された音がした。柵の向こうにある玄関から一人の女性が出てきて、小走りで、急ぎ私を迎えにやって来て。
「紫在と……、待ち合わせを……?何時頃に……?」
急いできたからか、その女性は金色の髪を崩れさせ、疲れて肩で息をして、私に尋ねた。
「あ……、えっと……、六時に麓の公園で……」
すると、女性は。
紫在さんの母親であろう、魔女のお婆さんにそっくりのその人は、ぱっと顔を明るくして。
「会いに行ってあげてください!そうだったんだ……。あの子も、行こうとしていたんですが……、あの子、ひどい熱で……」
紫在さんのお母さんは、私の手を掴んで頼み込んだ。必死に頭を下げて、私を家へと引き入れた。
家に入れてもらう時、紫在さんのお母さんの疲れ果てた後姿を見て、私は。
夢の世界で、私を信じて力を貸してくれたあの人のことを、思い出さずにはいられなかった。
玄関をくぐって入った家の内装は、外見に見合った豪華さで。
広すぎず、けど、きらびやかで上品な雰囲気が漂っていた。
「紫在の部屋は二階にあるんです。どうぞ、お上がりになってください」
綺麗な内装に目を奪われていた私が、そう言われて靴を脱ごうとしたその時、廊下の横にある階段を、壮年の男性が降りてきた。その人は肩に怪我をしているらしく、血の滲んだガーゼが肩に当てられていた。
その男の人は、私を見るや否や、怒り怒鳴り散らした。
「誰だそいつは!!こんな時によそ者を入れるんじゃない!!!」
紫在さんのお母さんは、怒鳴られると、驚いて体を縮こまらせてしまう。
顔のほりが深いその男性は、私を睨みつける。
私は、怖気づく自分を感じた。敵意を剥き出しにするこの人は、恐らく紫在さんのお父さんであると思われた。
紫在さんのお父さんは、私が家に上がるのを、無言で拒絶していた。
退くものか。ここで帰る訳にはいかない。私には、やらなくてはいけないことがある。
「紫在さんに会わせて欲しいんです。どうしても」
「……」
物言わず睨み続ける彼の目に、私も真っ直ぐ視線を向ける。一歩だって引くつもりはなかった。
「私からも……、お願いします」
「何?」
紫在さんのお母さんが、びくつきながらも前に出る。私をかばうように間に立って、頭を下げるその姿に、流石の彼も鼻を鳴らして、廊下の奥の部屋へ歩き去って行った。
「ありがとうございます」
「いいえ。ごめんなさいね。失礼な人で……」
私は靴を脱ぎ、階段を上がる。
二階に上がると、廊下に一人の男の子がいた。訝しんだ顔でこちらを見る少年は、私にこう言った。
「誰……?」
「こら、ちゃんと挨拶しなさい」
お母さんに怒られても、彼は挨拶しようとはしなかった。
この子が紫在さんのお兄さんなのだろう。
私の前に立って道を塞ぐ、小さな姿に私は少し驚いた。夢の世界の騎士の姿のせいで、もっと大きな人だと思っていたのに。まだ彼も小学生だったなんて。
私はしゃがんで、彼と同じ高さに目線を置いた。私を見る目は少し、怯えていた。
「こんにちわ。ちょっとだけ、紫在さんとお話させて欲しいの。紫在さんにもらった手紙のお礼がしたいから」
「……」
「……」
沈黙の末、お兄さんは退いてくれた。話を聞くと黙って応える彼の姿が、私とスティープスを追いまわした、あの夢の騎士とようやく重なった。
最期だけだったけれど、私の手を取ってくれたあの騎士は、私たちと分かり合えたのだろうと確信した。
「ほんとにごめんなさい。うちの人たちが失礼ばかり……」
「いえ。気にしないでください」
紫在さんの部屋に連れられて、目の前を通り過ぎる時に、私はもう一度お兄さんと目が合って。
私は、小さな騎士に微笑んだ。
すると、お兄さんは顔を赤くして、階段を急ぎ降りて行ってしまった。
「あの子、照れちゃって……」
可笑しそうにお母さんが笑う。
初めて見た笑顔がまた、姫の話をする魔女のお婆さんにそっくりで。
あの人たちにも、二度と会えないのだと思うと、私は寂しくて。
寂しく感じるからこそ、あの人たちの分まで、紫在さんと向き合わなくてはいけないのだと、改めて気を強く持った。
廊下を照らす窓の光が、丁度途切れる場所に、その扉はあった。
影の差した扉は重たく、固く閉ざされているように感じられた。
「紫在、お客さん。紫在に会いに来てくれたよ」
紫在さんのお母さんが、扉を軽くノックしてから、扉を開けて、私に目を向けた。
私と紫在さんの、二人きりで話をさせてくれるということなのだろう。
私は小さく会釈して、暗い部屋の中へと入った。
私の後ろで扉が閉められると、部屋の暗さは一層増して。窓から入る光は、夕焼けの終わりを告げる青みがかった橙色で。
僅かな光が、窓際にいる女の子を照らしていた。
ベッドの上で、体を起こし、クマのぬいぐるみを抱いてこちらを見やる、一人の女の子を。
「あ……」
女の子はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて、気まずそうに顔を伏せた。私はベッドに近づいて、ベッドの横に置かれていた椅子に腰かけた。
この子は夢のことを覚えているだろうか。
覚えていたとしても、忘れたふりをするのは簡単だ。ここで私に言う言葉を選べば、また、いくらでも嘘が吐ける。
さあ。
あなたは、どうする?
「私ね、さっき、夢を見たの。すごく、不思議な夢」
私がそう言うと、紫在さんがはっと顔を上げた。
私は驚いている紫在さんのその顔と、抱きかかえられたぬいぐるみを見て、はっきり分かった。
この子は、覚えている。夢の中であったことを、しっかりと。
「夢の中でね、あなたの友達だっていうぬいぐるみと、お城のおもちゃに、あなたを助けて欲しいってお願いされたの。私が、紫在さんの夢の中に入っちゃったんだって。それで、みんなで夢の中のあなたに会いに行ったの」
部屋の隅にある棚の上には、大きな西洋風のお城のおもちゃが置かれていた。そして、紫在さんの胸には、可愛いクマのぬいぐるみ。
彼らも、きっとあなたを見てる。あなたもそれを分かってる。
でも、紫在さんは夢のことを信じ切れていないのだろう。だから、あなたはそんなに言葉を詰まらせて。まだ、私の言葉を待っている。
「嘘みたいだけど、私は信じてる。あれは、本当にあったことだったんだって」
後は、あなた次第。
ここから先の道は、あなたが決めること。これは、あなたが踏み出さなければならない一歩。
本当にただの夢なら、深く考えるべきではないんだろうけど。でも、あの夢は間違いなく、もう一つの現実だった。私たちは確かに理由を持って、自分の意志で行動していた。
あなたは何て言う?あの世界での出来事を、ただの夢だと済ませてしまう?
それとも。
「私……」
それとも――――
「私も……」
「私も、覚えてます……。私も、信じてます……」
あなたも。
あなたも信じると、言ってくれたから。
私は嬉しくて。あなたがたまらなく愛おしくなって。
私は、あなたを思わず抱きしめる。痩せ細った体に、少し冷たい体がか弱くて、私は抱きしめる力を一層強くした。
勇気のいることだったに違いない。途方もない自分の罪を受け入れるのは、こんな小さな子には、辛すぎることだった筈なのに。
「私……、恐い……。これから、私……、どうしたらいいんですか……?なんで、私……、あんなことしちゃったんですか……?」
肩の震えと消え入ってしまいそうな嗚咽に、私も一瞬恐くなる。
この子の心が、罪悪感に押し潰されてしまうかもしれないと。あの白い霧を纏う男が、この子の心に蘇るのではないかと。
「大丈夫。これから、あなたがいろんな人に一杯優しくしてあげればいいの。一遍に受けいれようとしないで。少しずつ、少しずつでいいから」
「ライオンさんもスティープスも……、私が……」
あなたの流す涙は、間違いなく本物。みんなの声が届いた証拠。
「ディリージアも……、お母さんもお兄ちゃんもお父さんも……、他にも一杯、一杯……。私、ひどいことばっかり……」
けど、か弱い心は今にも壊れてしまいそう。
「私……、私が生きていてもいいんですか……?私、あんなにひどいことしたのに……」
「大丈夫。これからちょっとずつ、ちょっとずつ、謝っていこう。レグルスも、ディリージアも、あなたのこと恨んだりしないよ」
紫在さんの震えが、紫在さんを抱きしめる私にも伝わってくる。
私は怯えるその姿に、あの白い霧を思い出す。
これから先、何度も紫在さんは、この罪悪感に苦しめられることになるのだろう。
それはもう、死んでしまいたくなる程に。
それが、この子に課せられた罰なのかもしれない。
「みんなあなたの中にいる。もう会えなくても、ずっとあなたの思い出に残ってるから。あなたに元気でいて欲しいって、みんな思ってるから」
皆が皆、あなたを許してくれる訳ではないのだろうけれど。
それは、あなたが少しずつ気付いていくべきことだから。今は、これでいい。
あなたは、一番辛い一歩を踏み出した。
だからきっと、あなたは段々と乗り越えていける。あなたを取り囲む問題を、少しずつ解決していける。
「私がずっと一緒にいてあげる。あなたがどうすればいいか分からなくなったら、私も一緒に考えてあげる。だから、心配しないで」
「椎菜さん……」
「それに、私だけじゃない」
私は、紫在さんが抱きしめていたぬいぐるみを手に取った。
すると、ぬいぐるみに付けられているタグが目に留まって。
“STIEPS”
タグに掘られた文字は、そのぬいぐるみに付けられた、私にとっても慣れ親しんだ名前だった。
スティープス。
あなたはずっと、こんなに近くでこの子を見守っていたんだ。
「あなたには、スティープスだっている。まだ、スティープスは生きてるから。あなたには、一杯助けてくれる人がいる」
「スティープス……、生きてるんですか?本当に……?」
「本当。私、またスティープスと会うって約束したの。ほら、今だって、きっと私たちの話、聞いてるよ?」
紫在さんの顔色が、少しだけ明るさを取り戻した。スティープスを掲げて、紫在さんは嬉しそうな色を顔に浮かばせた。
これなら、きっと大丈夫。
これから先、紫在さんはたくさん悩むことになるに違いないけれど。私が、紫在さんの力になってあげよう。
この子が罪の意識に、押し潰されてしまわないように。それが、私にできる、あの世界の人たちに対するたった一つの手向けだ。
それに、そう。お婆ちゃんに対しても。
「椎菜さん。私、椎菜さんやお姉ちゃんのようになれますか?」
「え?」
「お父さんも、お母さんも、私にお姉ちゃんみたいになって欲しいって思ってる。でも、私……、全然そんな風になれなくて……」
「……」
「お父さんもお母さんも……、きっと私のこと、駄目なやつだって思ってる……」
布団をぎゅっと握りしめ、紫在さんの目がうるんでいく。ホリーさんのことをどう思えばいいのか、紫在さんは分からないんだ。だから、ずっと苦しんできた。
「どうして、そんな風に思うの?」
「だって、私が頑張っても誰も私のこと褒めてくれないし……。みんなお姉ちゃんのことばっかり良く言うから……」
紫在さんが抱えてきた、誰にも言えなかった悩みだ。ずっと、紫在さんが一人で抱え込んできた、途方もない悩み。
「私じゃ……、駄目なのかなって……」
私は、紫在さんに抱きかかえられた、スティープスの頭を撫でる。
夢の中で、紫在さんのために、戦い続けたスティープスたちを見てきた私には分かる。彼らが紫在さんをどう思っていたか。
本当に、紫在さんは必要とされていなかったのか。
「スティープスたちはね、みんなあなたのこと大好きだった」
外から差しこむ夕陽はもうすっかり薄まって。夜の時間がやってくる。暗い世界がやってくる。
「あなたが、本当は優しい子なんだって、スティープスたちは信じてた。なんでだと思う?」
「……。分かりません……」
けれど、現実の空には、光り輝く星がある。雲に覆われ、見えなくなることだってあるけれど、また、必ず私たちを照らしてくれる。
希望は潰えず、ここにある。
「紫在さんが頑張ってたことを、スティープスたちは知ってたの。ホリーさんのようにしていたって、あなたは言ってたけど、でも、頑張ってたのは紫在さん。ホリーさんの物じゃない。それは、あなたの優しさ」
紫在さんは俯きながら、けれど、こちらを見上げて、私の話に耳を傾けていた。
だから、私は続けた。彼らの戦う姿を見てきて、私に分かったこと。
きっと、みんながあなたに言いたかったことを。
「あなたが頑張ったから、スティープスたちは紫在さんのことを好きになったの」
「椎菜さん……」
「私もあなたのこと、大好き。私に手紙を書いてくれて。私に応えて、夢の世界から出てきてくれたから。頑張ってくれたから、私はあなたが好き。ホリーさんに負けないくらい、あなたはあなたの素敵な物を持ってるよ」
これが、夢の世界での日々がくれた、私からあなたへの答え。
私に会いたいと手紙を書いてくれた、あなたへの。
私に抱き付いてきた紫在さんの体は、びっくりするほど小さくて。でも、涙を浮かべるか弱さの中に、ほのかな明るさを確かに感じた。
私たちが夢の中でホリーと呼んでいた、あの紫在さんの優しさが、ようやく紫在さんの中に帰って来たのだと、私には思えた。
私たちは、その後もしばらく、他愛のない話をして。紫在さんが落ち着いてから、私は紫在さんの家を出て行った。
帰り際、私は紫在さんのお母さんに、何度も何度もお礼を言われた。私が「また来てもいいですか?」と尋ねると、紫在さんのお母さんは快い返事をしてくれた。
家を出てすぐ、坂道を下る時に私が振り返ると、窓からスティープスと共に、私を見送ってくれる紫在さんが見えた。
手を振ってくれる紫在さんとスティープスに、私は手を振り返して。
心の中で“またね”とつぶやいて、私は久方振りの家路に着いた。
椎菜が哉沢宅を出た後、紫在は暗い部屋でベッドの上に寝転んで、スティープスをいじくりながら物思いに耽っていた。
――――椎菜さんはああ言ってくれたけど、本当に、私はこれからも生きていていいの?あれだけ悪いことをしたのに。これからどんなに善いことをしたって、私が殺した人たちは、帰ってはこないのに。
悩んで悩んで、紫在は、自身の中に芽生えた感情に恐怖した。
紫在の心を追いまわす、その焦りにも似た感情は、そう。
罪悪感。
紫在は思い出す。夢の中で出会った、罪悪感から生まれた怪物を。ヴァン・ヴァッケスの姿を思い出す。
紫在は布団に潜り、頭を抱えて身を震わせた。あのナイフの輝きが、頭の中に蘇るようで。また、あの声が聞こえてくるようで。
恐くて恐くて、どう仕様もなくなった時。
誰かの声が、何処かからか聞こえてきて。
そして――――
部屋の電気が点けられて、ぱっと、部屋が明るくなった。
部屋の灯りは布団の中にまで入ってきて、紫在は何事かと顔を出す。
すると、そこには。
父と母と、兄の姿があった。紫在を嫌っているに違いない人たちが、何か大きな箱を持って、部屋に入ってきたのだった。
「紫在、寝てる所にごめんね。これ」
母が体を起こした紫在に見せたのは、箱の中身。それは、大きなケーキだった。
「お誕生日おめでとう。紫在」
飾りのチョコレートには、“お誕生日おめでとう 紫在”。
そう、書かれていて。
「……。体の調子は……、辛くないか?」
尋ねる父は、普段より声を小さくして、ベッドの横に屈む。父の肩に当てられたガーゼには、血が滲んでいた。
紫在は何が起こっているのか分からなくて、気の抜けた返事をした。
「……、うん……」
「そうか……。誕生日、おめでとう。紫在」
ぶっきらぼうに父が手渡したのは、綺麗にラッピングされた箱。
紫在はそれを受け取って、半ば呆然としながら箱を開けると、中にはうさぎのぬいぐるみが入っていた。
「ずっとお古の物ばかりだったからね、お父さんができるだけいいのを探してくれたんだよ」
父は固い表情で紫在を見ていた。彼には、きょとんとした紫在が、喜んでいないように見えてしまって。
父は、これは失敗だったかと、思ったけれど。
「……、かわいい」
紫在がうさぎのぬいぐるみを手に取って、嬉しそうに微笑むと、父は顔を赤くして、そっぽを向いた。
後ろで恥ずかしそうにしている兄を、母が呼ぶ。母は、兄を紫在の前に立たせて、兄の背中を押した。
「ほら、草貴」
「……、おめでとう。誕生日……」
顔を赤くして、ちょっとだけ聞き取り辛いくらいくぐもった声でそう言った兄を、紫在は目を白黒させて見ていた。
ケーキに蝋燭が立てられて、部屋の灯りが消され。母が言うままに、紫在が蝋燭の火を吹き消すと、また灯りが点けられて。
紫在は家族たちの姿を、改めて見つめた。
今までとは、まるで家族の印象が違って感じられた。自分のことなんて、誰も気に留めていないと思っていたのに。
どうして、どうして、こんなにも――――
スティープスと一緒に、新しくもらったうさぎのぬいぐるみを抱きしめて、紫在は泣き出した。
心が温かくなって、不思議な感覚がして。
もう何か月ぶりか、紫在は、心の底から安心したのである。
ずっと何かに恐れていた。ずっと孤独を感じていた。けれど。
みんな、ずっと紫在の味方だったのだ。当然、紫在を理解できず、紫在に辛く当たることもあったのは事実だけれど。
でも、みんな、様々な形で、紫在を想っていたのだ。
久しぶりの、心と家族の温かさに紫在は安心して。明るい部屋で、母の胸に抱かれながら、家族に囲まれて。
紫在は自分が取り戻した“何か”を確かに感じながら、甘えるように思い切り、泣き続けた。
公園から幾らか離れた住宅街。
夜道を一人歩く椎菜の足は自然と、祖母と手を繋いで歩いた紅葉並木へ向いていた。
椎菜は澄み渡った虫の鳴き声を聞きながら、ゆっくり、一歩一歩。まだ、紅葉にはいささか早い並木道を進む。
祖母との思い出を暗い景色に重ねながら、椎菜は歩く。その表情は穏やかで、何処か楽しそうでもあった。
並木道の途中、椎菜はふと、空を見上げた。雲一つない夜空には、満天の星が輝いて。
「綺麗……」
無数の星々がそこにあった。真っ黒な空、暗闇の中で、誰かの光を受けて輝いて、自分の力で輝いて。
椎菜は鞄からお守りを取り出した。それは、祖母にもらったお守りだ。
祖母の手から、そのお守りを直接受け取らなかったことを後悔し続けることに変わりはない。けれど、椎菜は既に、その思い出にも、後悔以外の意味を見出していた。
椎菜はお守りを夜空にかざし、祖母との思い出を想い浮かべて。
夢の中、自分の背中を最後まで押してくれた、その思い出たちに感謝した。
「ありがとう……。お婆ちゃん……」
椎菜は、心の中に残り続ける祖母にお礼を言った。
お守りを下ろすと、椎菜の視界には光り輝く星々が見えた。
星が作り出す数々の星座が、空を埋め尽くす。
椎菜は、冬になれば現れるであろう、獅子の星座に想いを馳せる。
椎菜は胸が締め付けられるのを感じながら、獅子座の一等星が見られる日を、楽しみにしていようと決めた。
「忘れないよ……。何度だって、思い出すから……」
夢の世界で出会った人たちのことを、椎菜は夜空を見上げる度に思い出すのだろう。暗闇の中、輝く星々が彼らの墓となり、椎菜の中に消えることのない思い出として、ずっと残り続ける。
夢は終わった。
箕楊椎菜の長い旅が、物語が、その幕を下ろしたのだ。
椎菜はお守りを握りしめ、溢れてくる涙に身を震わせた。
やり場のない悲しみが、椎菜に夢の住人たちのことを思い出させる。
夢の中、共に過ごしたスティープスや、レグルスたちのことが恋しくて。
椎菜は服の裾を握って、涙を堪えようとしたけれど、やっぱり、我慢できなくて。
「ありがとう……。さようなら……。……、ありがとう」
椎菜の頬に、一筋の涙が伝い。
震える声は、暗闇に消えていった。
「どういたしまして」
「……、え?」
気付けば、椎菜の両隣りには、先に帰った筈の友人二人が立っていて。
独りで涙を流していた椎菜に、ハンカチを差し出す佳代がいた。震える椎菜の肩に、甘えるように、優しく顎を乗せる美琴がいた。
「いや……、なんていうかね……。やっぱり迎えに来ちゃった」
「泣かないでー?ほら、みよしー」
椎菜は、夢の中で過去に囚われていた時に見た、幻の二人を思い出した。
現実を捨てて逃げ出そうとした時の椎菜に、手を振る二人の姿。
「さようなら」と言われてしまった気がした。もう、会えないと思った。
それでもいいと、思ってしまった。
けれど今、この現実で、椎菜は佳代と美琴がいてくれることに、心の底から感謝を送っていた。
「来てよかったよー。なんか、こんな予感がしたんだー」
椎菜は佳代から受け取ったハンカチをぎゅっと握りしめ、二人に抱き付いた。
そして、椎菜は二人に包まれ、思い切り泣きだした。
「あっはは。本当に泣き虫だなぁ、みよしーは」
「よしよーし。泣け泣け。好きなだけ泣いとけ。何があったのか、知らないけどさ」
椎菜は二人の友人を、強く、強く抱きしめて、現実に生きている喜びを噛み締めていた。
現実に帰って来られたのだと、帰って来られて良かったと。
「気が済むまで泣いて、そしたら、帰ろう」
諦めてしまわなくて、本当に良かったと。
「あんたの家に、帰ろう」
「……、うん」
そう。
夢は、終わったのだ。
箕楊椎菜は生きていく。思い出を積み重ねて、みんな愛して生きていく。
いろんな人に囲まれて、いろんな想いを胸に抱き。己の弱さに立ち向かう。
椎菜は、暗闇の夜空に煌めく星屑のように、生きていく。
友人に連れられて思い出の場所を去って行く椎菜は、立ち止まって、振り返り。
優しく、穏やかに微笑んで――――
最後に小さく、手を振った。
・
・
・
・
・
・
・
・
Last tale End