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Last tale 1/2

・ある少女の回想 十三



 朝日の温もりが部屋に差し込んで、私は布団から顔を出し、慣れない眩しさに目を眩ませた。

 約束の日がやって来た。

 七月十五日。私の誕生日。

 箕楊椎菜さんに、会う日。

 来てくれるだろうか、あの人は。

 きっと気味悪がっていると思う。私だって、知らない人から突然手紙が来たら不気味に感じるに決まってる。

 もしかすると、来てくれないかもしれない。けど、それも仕様がないことだと思う。

 例え、あの人が来なくても、私は行こう。

 決めたのは私。手紙を送ったのも、私なのだから。

 ベッドから降りようと体を動かす。すると、自分の体に違和感を持って。

 腕や足を動かすと、内側に響く痛みを感じた。全身の関節が軋む痛みが、私の力を奪っていく。

 体が熱い。まともに立ち上がれない。流れる汗が止まらない。

 ふらつく体を引きずりながら、私はドアへと辿り着く。ドアノブを握ろうとしたのに、力が入らず、私は肩から思い切り床に倒れて。

 窓際に置いておいたぬいぐるみが振動で落ちてきて、私の顔の横に転がった。

 床にぶつけた頭が痛い。立ち上がろうにも力が入らなくて、遂には、気分すら悪くなってきて。

 熱で朦朧とする意識のせいか、床に転がり落ちたクマのぬいぐるみ、スティープスのプラスチックの両目が、私を見ているような、そんな気がした。

 部屋のドアがノックされ、慎重に開かれた。

 私が大きな音を立てて倒れたものだから、お母さんが心配して、様子を見に来たらしい。

 お母さんが倒れた私を見て悲鳴を上げるのを聞きながら、私はぼんやりと、自分の体がおかしいことを実感していった。

 それから数時間のことを、私は記憶していない。

 私がもう一度ベッドの上で目を覚ました時、時刻はもう、午後五時半を回っていた。

 焦りに汗が滲みだした。約束の六時まで、もう時間がない。仕度をしなくてはいけない。着替えをして、公園に行かなくては。それに、心の準備も。

 昨晩中考えた、何を話すかということもちゃんと考え直しておかなくてはいけない。

 なのに、なのに。

 もう、時間が無くて。体が熱くて、重たくて。

 私はベッドから這い出し、クローゼットから服を引っ張り出した。吐き気がしたけれど、無理やり堪えて、座りながらだけれど、服を着替えた。

 脱いだパジャマは放ったままで、頭痛に頭を押さえつつ、部屋を出る。

 公園までは、家を出て坂を下ればすぐに着く。普通なら一分足らずで行ける距離。この調子では少し遅くなってしまうけれど、今から行けば、まだ余裕で間に合う筈。

 私がやっとのことで玄関まで辿り着き、なんとか靴を履き替えた時だった。


「紫在!!」


 不運なことに、丁度買い物から帰ってきたお母さんが、血相を変えて私を止めた。私は抵抗しようとしたのに、だるっこい私の体はあっさりと、お母さんに靴を脱がされて。


「こんなに熱があるのに……。寝てなくちゃ……」


 お母さんに抱きかかえられて、部屋へ連れ戻されそうになって。


「やだ……、いや、いやだ……」


 階段を上ってしまう前に、私はお母さんを突き飛ばして、その腕から必死で逃れた。

 時間がない。時間がない。

 あの人が、箕楊椎菜さんが来てしまう。悪戯だなんて思われたくないのに。本気で、あなたに宛てて書いたのに。

 会いたい。

 あなたに、会いたい。

 どうしても、会いたい。


「紫在!どうして……!」


 お母さんが引き留める手が煩わしい。こうしている内にも、約束の時間が迫っている。

 騒ぎを聞きつけて、仕事に行っている筈のお父さんが、どういう訳か、玄関に顔を出した。必死になって家を出ようとしている私を見て、機嫌を悪くしたのだろう。乱暴に足を踏みならし、私の腕を強引に掴み取って、引っ張った。


「部屋を出るな!じっとしていろ!!」


 私は、お父さんに無理矢理部屋に入れられた時、床に落ちていたボールペンを手に取った。


「何をしてる!早くベッドに――――」


 そして、私は。

 お父さんの肩に、ボールペンを思い切り、突き刺した。


「ぐ……、あ……、紫在……?」


 お父さんが痛そうに呻くと、後ろに付いて来ていたお母さんが悲鳴を上げる。

 体に力が入らなくて、先の方しかボールペンは刺さらなかった。でも、私はボールペンを放さず、お父さんの肩に、もっと深く刺さるように力を込め続けた。


「……、紫在……」


 お父さんに怒りを込めた瞳を向ける私を、お父さんは信じられない物を見るような目で見ていた。

 私を掴むお父さんの手の力が緩んで、私は床に倒れた。すると、お母さんが私を抱き起して、私はベッドに寝かせられて。

 お母さんは、肩に刺さったペンを見て呆然とするお父さんを連れて、部屋を出て行った。

 部屋のドアが閉じられる音を聞いて、私は壁にかかった時計を、頭だけを向けて確認した。私には、立ち上がる力も残っていなかったから。


「あ……」


 そして、時計はもう、六時目前を指していた。

 体の不調なんて関係ない。私は、行かなくてはならない。

 すぐにベッドから抜け出て、ドアを開けようとした。

 すると、ドアが一人でに開いて。私が驚き、見上げると、そこには兄が立っていて。


「お母さんが、見張ってろって言ってた」


「……」


「なんで出てくの?」


 また私の邪魔者が一人、現れたのだ。

 大きな体で私の前に立ちはだかり、道を塞ぐ。私は押し退けようとしたけれど、あいつの体はぴくりとも動かなかった。


「熱あるじゃん。ちゃんと寝てなよ」


「どいて!!放して!!」


 兄はお父さんと同じく、私を力づくでベッドに戻そうとした。私は声を張り上げて、掴む手を振り払い、玄関へと向かう。

 もう時間がない。心の準備もできていない。何を話せばいいかも分からない。

 最悪じゃないか。全部、あいつらのせいだ。全部、全部。

 あなたの困った顔を思い出す。あなたの優しい声を思い出す。私の体が、少しだけ力を取り戻す。もう一度、あなたに会いたいと、手足が動く。

 けど、家族はそれを許さなかった。

 父も母も、兄も。

 私に立ちはだかって、私を捕まえて。また私を部屋へと連れ戻し、閉じ込めた。

 今度はお母さんがベッドの横に椅子を置き、腰かけて私を見張った。

 そして、時刻は遂に六時を過ぎて。私は、何もかもが無に帰したことを悟った。

 泣きながら、ベッドに押し込められた私には、もう、何の希望も残されてはいなかった。

 悔しかった。腹立たしかった。

 家族が、私に呪いを残したホリーが憎かった。

 私は全てを呪って、体のだるっこさに微睡んでいく。

 意識が途切れてしまう前に、私は最後の力を振り絞って、窓から外の世界を覗いた。

 私の家が建つ、山の麓にある公園。夕暮れの赤味がかった世界で、私は公園のベンチに座るあの人の姿を、確かに見た。

 来てくれたんだ。あの手紙を見て、あの人は、本当に会いに来てくれた。

 私は無性に悲しくなってきて、力が抜けた体は、ベッドに倒れ込んで。

 私は、瞼を閉じた。

 薄まっていく意識の中、私は。あの人に、箕楊椎菜さんに、心の中でお礼を言って。



 不思議で、残酷な夢の中へと、堕ちて行った。





SIN-CIA






「まだだ」



「まだ、僕にはできることがある。このまま椎菜を見捨てるわけにはいかないよ」



「ディリージア。君がホリーにしたのと同じことを、今度は僕がするんだ」



「できるかどうかは分からない。でも、やってみるよ」



「………」



「ありがとう。ディリージア」



「……、どうしたの?」



「はは。そうかな?僕はそうは思わない。だって僕は、椎菜を信じているからね」



「椎菜は、こんな結末は望まない」



「また会おう、ディリージア。きっと……」



「またいつか、夢の中で」


 





Last tale





 夢の世界。ヴァン・ヴァッケスが見せる、紫在の夢。

 そこには、大勢の人がいた。現実とは違った仕組みの世界で、日常を送る人々がいた。言葉を話す動物だっていた。

 広大な世界には様々な文化が成り立っていて、夢の主と、夢に迷い込んだ少女を迎えた。

 様々な街があり、物理的法則も、実用性も伴わない物があり、非現実的な自然があり。

 そんな世界も、砕けて消えた。今、夢の中にあるのは、瓦礫で形作られたこの部屋のみ。

 そこは、調理場を備えたダイニングルームであるらしく、暖炉で煌々と燃える火が、部屋を照らす唯一の光源だ。光を取り入れる窓は無い。

 太陽も月も空もなくなって、窓がある意味もないのだから。

 夢幻の力で作られたその部屋には、二人の少女がいた。一人はいそいそと調理の準備を進め、もう一人は、ダイニングにぽつんと置かれた椅子に腰かけ、眠りについている。

 台所を思わせる大きな台の上には、多々の種類の摘み取られた植物が並べられ、両手一杯の大きさのすり鉢が一つ。

 さらに、すり鉢の隣には、何らかの生き物の物と思われる、表面がイボに覆われた巨大な肉が、まな板の上に置かれていた。

 調理の準備に奔走する少女、紫在は、一冊の本を部屋の隅に置かれた本棚から取り出した。

 無地の表紙が味気なく、その黄色の本は、紫在の手により、とあるページを開かれた。

 そのページには、奇妙な正三角形の葉っぱと、羊の角を持つ怪物の絵が描かれて。絵の上には文字があった。一見、気の向くままに引かれた落書きともとれる線は、夢の世界の魔法の文字だ。無茶苦茶に引かれた線は、こう書き表していた。

 “ともだちのできるくすりのつくりかた”。


「“まず、ヴァン・ヴァラックの舌とおやしらずの葉をつぶしてしっかりまぜます”」


 紫在が包丁で肉を細かく切り分けてから、正三角形の葉と一緒にすり鉢に入れ、すりこ木で押しかき混ぜて、すり潰す。


「“そこに水を加えてさらにまぜれば、完成です”」


 紫在は壺に貯められた水を一カップ分取り出し、すり鉢の中に注ぎ込んだ。緑色になった肉と葉のペーストは、水に溶けると、悪臭漂わせる濁った液体となった。


「“これを飲んだ人は、作ったあなたの言うことをなんでも聞いてくれるともだちになってくれるでしょう”」


 紫在は嬉しそうに、完成した薬の入ったすり鉢を持ち上げ、こぼれないよう気を付けながら跳ねまわった。そして、その薬をコップに分け入れ、ダイニングで眠りにつく少女、椎菜の下へと持って行く。


「椎菜さん、起きて」


 椎菜は紫在の呼びかけにも関わらず、椅子にもたれ掛かり、閉ざした目を開けない。待てども待てども、目を覚まさない椎菜に紫在は焦れて、薬と椎菜の顔に、何度も目を往復させた後。

 紫在は小さく開いた椎菜の口に薬を注ぎ込もうと、薬を椎菜の顔に近づけた。

 世界の果ては運命の果て。二人の少女の運命は、不思議な力に依って結びつき、けれど、互いの想いが交わることはなかった。

 ディリージアと呼ばれたおもちゃの城の力は、夢の中で生まれたヴァン・ヴァッケスという名の怪物に捧げられ、ヴァッケスはその力で以て、紫在の望みを果たすのだ。

 心の渇きに身をやつした哉沢紫在に、永久の安息を与えんがために。

 それは、紫在が本当に望んだ結末なのか。誰も彼女に問いかける者はいない。誰もいなくなった世界で、二人の少女がいるだけだ。   

 さあ、薬の入ったコップが、椎菜の口に運ばれる。

 仮初であろうとも。偽物であろうとも。

 今、紫在の願いが、果たされようとしていた。







「椎菜。椎菜」


 私を呼ぶ声がする。私の名前。

 私は声のする方へと歩いて行く。何処でもない、意識の中で私は歩き、声に導かれて、目を覚ました。


「椎菜。気が付いた?」


 視界を覆い尽くすのは、スティープスの仮面。丸い実をたくさん付けた、植物の装飾が施された彼の仮面が、私を見下ろしていた。


「スティープス……?」


 あれ?あれ?

 何故、彼がいるのだろう。どうして生きているのだろう。確かに、私の目の前で、殺されてしまった筈なのに。

 スティープスの組んだ脚に乗っけられた私の顔を見下ろす彼は、普段と変わらず穏やかで、心の落ち着く柔らかな声。

 私は、きっと、夢を見ている。

 だって、そうとしか思えない。スティープスは死んで、私は紫在さんに捕まった。

 だから、こんな光景は、在り得ない。


「椎菜。君は今、夢を見ている」


 ああ、ほら。やっぱり。

 夢の中で、夢を見る。

 今までだって、何度かあったこと。私は夢の世界で眠って、夢を見て。時間が経てば、目を覚ます。


「ここは、僕の力で君に見せている夢の世界だ。君は紫在の夢の中で、また夢を見ているんだ。……、分かりづらい?」


「……。そっか」


 あなたが言うことが私の空想なのか、本当のことなのか、判別はつけられないけれど。どっちだって構わない。

 だって、私は、あなたが傍にいてくれるのが嬉しくて。もう二度と会えないと思ったのに、こうしてあなたに触れることができるのだから。嘘でも本当でも、もう、どうでもいい。


「スティープス……」


「何?」


「ごめんね。私、紫在さんと仲良くなれなかった」


 私は、なんて幸せ者なんだろう。

 取り返しのつかない自分の不甲斐なさを、謝ることができるなんて。他の誰にもできないことだ。こんな機会が巡ってくることなど、本来在り得ないんだから。お婆ちゃんが死んでしまった、あの時のように。

 後悔は先に立たず、償うことすら許されなかった。

 なのに、今度は謝ることができた。お婆ちゃんの時にはできなかったこと。だから、あなたが幻かもしれなくても、今の私にはたまらなく嬉しい。

 これはあなたがくれた奇跡?ねえ、スティープス。

 ぬいぐるみの、なんだか可愛いお化け。

 私の大好きな、不思議なスティープス。


「……、君が悪いんじゃないさ。ありがとう、椎菜。僕の方こそ、君を現実に帰してあげられなくて、ごめんね」


「謝らないで、スティープス。私が上手くやれたら、こんなことにならなかったのに……。夢の世界の人たちも……、死ななくて済んだかもしれないのに……」


「椎菜……」


 もし、紫在さんのことをちゃんと分かってあげていれば、夢の世界を守ることもできたかもしれないのに。みんな、苦しまずに済んだのかもしれないのに。

 結局、私は何もできなかった。


「ディリージアに聞いたんだ。僕たちの力で見る夢は、一瞬を何年にも何十年にも引き延ばすことができるんだって」


 そんなに長い間いられるのなら、ここで暮らすのもいいのかもしれない。

 スティープスが一緒にいてくれるから、独りでもない。それどころか、彼とずっといられるなんて、願ってもいないことだ。


「つまり、紫在が君に何をしようとしていても、君が夢を見始めた時点で、時間は止まったままも同然ってこと。だから、君が眠って、こうして夢を見ている間は、ずっと安全だ」


「じゃあ、目が覚めたら……?」


「紫在が君に何かしようとしていた所だったなら、危ないだろうね」


「……、そう」


 私は思わず笑ってしまう。

 本当に、信じられないくらいに優しい人。こんな人と巡り合えたこと自体が夢のよう。

 どんな時も私を守ってくれて、最後の居場所まで用意してくれた。きっと目が覚めれば、紫在さんにいいように弄ばれるだけの世界が待っている。

 私はスティープスの膝から離れ、体を起こした。

 私たちがいる丘から見える景色は壮観な物で、新たな夢の世界を一望に見渡せた。上を見れば、雲一つない蒼天が。地上にはいくつか街が見えたし、鮮やかな色を付けた森や、青く澄んだ湖もあった。

 山々に遮られ、彼方を見知ることはできなかったけれど、私はあることに気が付いた。

 それは、何処を見ても、なんとなく懐かしさを感じるということ。

 当然、なのかもしれない。これは私の夢なのだから。紫在さんの夢と同じで、至る所に、私の思い出が散りばめられているのかも。


「楽しそう。ね、スティープス。私、ここで暮らしてもいいのかな?」


 丘の上には、何もない所に置かれた扉が一つ。

 なんでこんなところにあるのか、両開きの扉はぽつんと、扉としての役目を果たせる訳もない野外に、扉を閉じてそこに在る。


「……、いいさ。なんなら、君に僕の力をあげるよ。これ、は君の夢なんだから、君の好きな世界を作るといい」


「うーん……」


「どうしたの?」


「ちょっと、恐いかな。なんでも思い通りになるんなら、何にも意味がなくなっちゃう気がして」


「そっか……、そうだね。じゃあ、半分にしよう。二人で同じだけ。僕も君の言う通りだと思う。確かに、恐いね」


「うん」


 スティープスは私の手を握って、軽く念じた。


「はい。これでよし」


 私はスティープスの手を握り返す。

 何故だろう。どうにも胸がざわついているのを感じずにいられない。彼が隣にいてくれるのは嬉しい。でも、どうして。

 私は何が恐いんだろう。私は何かを恐れている。私の中の大切な物が、恐ろしい何かに追いまわされている。

 私は逃げる。

 私は逃げる。

 恐くて、恐くて仕様がなくて。私はぱっと、スティープスの手を放す。


「椎菜?」


「ごめん、スティープス。少し疲れちゃった。ちょっとだけ、一人になりたいかな……」


 放れた手が、冷たい空気に触れた。冷たさは腕を伝って体に登り、私の心に纏わりついた。

 途端に寂しさが押し寄せて、私はスティープスの方へ振り返る。

 けど。


「あ、でも、やっぱり……」


 そこに、スティープスの姿はなくて。


「……。スティープス……?」


 耳をつんざく静寂。

 自分以外に誰もいなくなってしまった世界で、私は独り、佇んだ。

 不思議と寂しさはなくなっていった。

 私の心の中が空っぽになっていく。

 悲しさはない。寂しさもない。でも、嬉しさもない。

 私が虚空に視線を漂わせていると。


「椎菜」


 また、私を呼ぶ声がして。

 今度はとても懐かしい、思わず目頭が熱くなる声だった。

 私の大好きだった声。

 もう、聞けなくなってしまった声。


「椎菜?早く来なさい」


「……。はーい」


 自然と、返事が出た。

 昔のように。お婆ちゃんが生きていた頃のように。私がまだ小さな子供だった時と同じに。

 私は小さな子供の姿になって、お婆ちゃんの下へと走った。

 辺りの景色が変わっていく。お婆ちゃんと歩いた紅葉並木の中に、私は入っていく。お婆ちゃんと一緒に、手を繋いで。

 段々と、私の頭の中からスティープスの姿が薄れていった。

 「嫌だな」って、思ったけれど、私の記憶はどんどん薄れて、思い出せなくなっていって。

 気付くと、私は全部忘れていた。

 何かを忘れたということだけが、私の頭の中に残っていた。

 私は恐くなったけれど、お婆ちゃんの手の温かさが、不安になった私を安心させていく。

 大事なことだった気がする。

 誰か、大切な人を見失ってしまったような、何か、やらなくてはいけないことがあったような、そんな気がした。

 でも、考える気力が湧いてこない。私はなんだか、とても疲れていた。

 私は逃げる。

 心休まる方へと、お婆ちゃんと一緒に、昔に戻っていく。


「椎菜さん。箕楊椎菜さん」


 私たちの前に、一人の女の子がやって来た。

 桜色の封筒を持った、可愛い女の子。綺麗な金色の髪が、落葉の中に浮かび上がるようで。その子には、この世の物とは思えない魅力があった。


「……?」


 その女の子は、手紙と思われる封筒を、ゆっくりと私に差し出して。


「お手紙ですよ」


 薄く浮かび上がる、綺麗な装飾の封筒。やはり中身は手紙であるらしく。私は手紙を受け取って、その子にそれが何なのか尋ねようとしたのに。


「どうか、どうか。妹のこと、どうかよろしくお願いします」


 女の子は深くお辞儀をして、私に頼みごとをした。

 何のことか私には分からなくて、私が言葉を失っている内に。女の子の姿は、消えていた。

 葉を散らす楓の赤が、燃えるように鮮やかで。私はお辞儀をした女の子を紅葉の海に探したけれど、ついに見つかることはなく。

 私は楓の葉を一枚手に取って、お婆ちゃんにかざして見せた。私に返してくれたお婆ちゃんの笑顔が、なんでだろう。


 とても、寂し気に感じた。








 夢の奥へと歩む椎菜から少し離れたところで、スティープスは彼女を見守っていた。

 スティープスが力を使ったのではない。椎菜に受け渡したスティープスの力の半分を、椎菜は無意識に使ってしまったのだ。心安らぐ頃に戻りたいと思うあまりに、思い出に浸ることを椎菜は選んだ。

 舞い散る紅葉の懐かしさと美しさに、次第に椎菜の気は逸れていく。

 思い出の中に帰っていく椎菜は、子供の姿となって、幸せそうに歩を進めていた。椎菜の服のポケットからは、一枚の手紙が覗いている。

 椎菜に手紙を渡した女の子が誰なのか、スティープスには分かっていた。

 誰よりも優しかった女の子。生きていくには優しすぎた女の子。

 哉沢ホリーの亡霊。夢の世界をたゆたう、哉沢ホリーの償い。その形である。


「僕の邪魔をする亡霊も、今、遂に消え去った」


 不意に聞こえてきた声は、スティープスの背筋を凍らせた。


 ――――まさか。何故ここに。あの怪物の声が、どうして聞こえてくる。


「哉沢ホリーの亡霊も悟ったという訳だ。もう、諦めるしかないと」


 ヴァン・ヴァッケスが姿を現した。白いスーツを着込み、顔には白く霧がかかって。椎菜を見守るスティープスに対峙する。


「なんで……、お前がここにいるんだ。どうやって僕らの夢の中に入ってきた」


 平静を装うスティープスを、ヴァッケスは看過する。ヴァッケスは嘲る声で、スティープスの最後の望みに懸ける努力を見下した。

 雲一つなかった蒼天には、暗雲が立ち込めていく。雲を形作るのは、白と黒のクレヨンだ。

 白と黒が幾重にも混じり合う、灰黒の空へ。紫在の夢の世界と同様の空模様へと、椎菜の夢の空が変貌する。


「箕楊椎菜が、僕を望んでいるからだ。僕を望めば、僕はその人の夢の中に現れる」


「椎菜に付き纏うな」


「分からない人だな。時が来たんだ。箕楊椎菜が、心の底に隠し続けてきた望みを叶える時が」


「彼女を傷付けるつもりなら、容赦はしない」


 スティープスはヴァッケスに怖気づくことなく言い放つ。そんな威勢も、ヴァッケスには刹那の強がりに過ぎないのだが。


「ここは僕の夢の中だ。お前に勝ち目はない。ディリージアから奪った力も、ここじゃ意味がないぞ。そうだろ?お前はやられに来ただけだ」


「まあ、確かにそうなんだけどね。そう思うならやってみなよ。僕を捕らえるのかな?それとも、殺すのかい?」


 挑発に乗ったスティープスは、空に世界を覆うほどの数の光の矢を現出させた。遥かな高みから降りかかる光の矢は、全方位からヴァッケスめがけ空を切る。

 スティープスはヴァッケスを本気で殺すつもりであった。そのくらいの気概無しには、この男は止められない。そう感じていた。

 光の速さで迫った矢はヴァッケスに肉薄する寸前に、ヴァッケスに届くことなく弾け飛び、次々と飛び掛かるも、全て塵となって散っていった。


「どういうことだ……」


「どうもこうも」


 あっさりと打ち消された矢に、スティープスは愕然とした。ヴァッケスはスティープスの胸倉を掴み、軽々とスティープスの体を投げ飛ばす。

 スティープスが投げ飛ばされた先は、とある民家の庭先であった。

 見知らぬ家。

 ヴァッケスの姿を探すスティープスの耳に、女の子が泣いている声が聞こえてきた。

 ただならぬ泣き声に焦り、スティープスが声の主を探すと、庭に面した縁側の横に置かれた、園芸棚の陰に隠れるように座り込む、一人の女の子がいた。

 泣いているのは、その女の子のようだった。


「大丈夫!?」


 スティープスは、急ぎ女の子に駆け寄った。ヴァッケスの魔の手にかかったのではないかという大きな懸念が、スティープスを慌てさせる。

 しかし、スティープスの更なる動揺を誘ったのは、その女の子の容姿であった。


「椎菜……?」


 スティープスの心配する言葉に耳を傾けず、顔も向けずに泣き続ける女の子は、スティープスにとって一番大切な人にそっくりの顔をしていた。

 その女の子こそ、思い出の中に浸る椎菜本人であった。

 子供の姿へと戻り、安らぎの時代に帰っていった椎菜には、スティープスの声が届いていないようだ。

 スティープスが泣き止まぬ椎菜の頭を撫でてあげようと、手を伸ばす。けれど、彼の手は椎菜の頭をすり抜けてしまった。

 もうスティープスには、椎菜に触れることもできなくなってしまっていた。

 椎菜には、スティープスの姿すらも見えてはいまい。声も聞こえず、姿も見えず。手をとってあげることもできず。


「彼女が僕を望めば望むほど、僕は夢の中で力を得る。君の力は、既に殆どが僕の物だ」


 ヴァッケスが椎菜の隣に姿を現す。ヴァッケスの姿も、椎菜には見えていないらしかった。


「ディリージアも君も、実に哀れだ。心の隙間を埋めるのに使われて、用が済めばあっさり捨てられる。君たちは、所詮おもちゃでしかない」


 椎菜が顔を上げた。

 自分に気付いてくれたのだとスティープスが喜んでしまったのも、仕方のないことで。そんなスティープスの期待はあっさり裏切られ、椎菜はスティープスの体をすり抜けて、庭にやって来た彼女の祖母の下へ。

 祖母と接する椎菜は、切なくもあり、幸せそうでもあり。

 スティープスはそんな椎菜を見て、無性に寂しくなってしまう。


「彼女はもうじきに、最悪の思い出に辿り着くだろう。思い出に逃げた所で、彼女は必ず思い出す。後悔が、罪悪感が、最悪の思い出を呼び起こす。そしてその時、彼女は僕のナイフを受け取るだろう」


 椎菜はもう帰っては来ないのか。この思い出が作る夢の世界に、彼女は深く埋もれて行ってしまうのか。


「そして、箕楊椎菜は死に。その次は、紫在の番だ」


 過去を振り返り続けて、嘘で身を固め、前に歩を進めることもなくなってしまうのか。


「箕楊椎菜が死んだ時、紫在は己の罪に気付く。隠し続けてきた罪の意識に、紫在は逃げ場を求め……」


 尊き想いは、もう全て。失われてしまったのか。


「最後には、逃げ場などないことを悟り、紫在もナイフで身を貫くこととなる」


「全ての罪が、死を以て償われる」


「それが真実。紛うことなき、彼女たちの願いであり――――」



「彼女たちが望む、結末だ」







 色々な色に透き通る、小さなビーズを一つずつ手に取って、色の順番を考えながら紐に通していく。間隔を開けて大きなビーズを入れたり、形の違うビーズを入れたり。

 私が首にかけた時、大きめになるくらいの長さにまでそれを繰り返して、最後に紐の両端を結んだら、ビーズの首輪の完成。


「上手にできたねぇ」


 私が首輪を手に持ってはしゃいでいると、お婆ちゃんも楽しそうに私を褒めてくれる。

 私は、そんなお婆ちゃんの首にビーズの首輪をかけてあげた。


「くれるの?ありがとう、椎菜」


 お婆ちゃんが嬉しそうに笑ってくれると、私も嬉しくて笑うんだ。

 い草の香りがするお婆ちゃんの部屋。畳が敷かれた陽だまりの和室で、私たちは笑ってる。

 お婆ちゃんにじゃれついて、お婆ちゃんの温かさを感じていると、段々私は目蓋が重くなってきて。私は心地よさに身を任せ、お婆ちゃんの背中で眠りについた。

 目を開けると、まだ、私はお婆ちゃんの背中に乗ったままで。私たちは家から出て、外にいた。

 私が育った街を、お婆ちゃんが私を背負って歩いていく。何処を見ても思い出深い、私の故郷。二人で遊んだ場所が周りの景色となって、お婆ちゃんの歩く揺れに合わせて、次々に移り変わっていく。

 雪が降り、雨が降り、季節が移り。

 私たちは進んで行く。やがて、移り変わる景色に人影が現れ始めた。

 お婆ちゃんの背に揺られ、景色を眺めていた私に見えたのは、近所の公園。

 そこには多くの子供たちが遊びに来ていて、私たちは公園を横目に通り過ぎる。公

 園で遊ぶのは、私の読書を邪魔する悪ガキたちに、私によく懐いてくれている、少しぼぅっとした女の子。

 何が気になるんだろう。皆がこちらを見ていた。

 私は何故だか恥ずかしくなってきて、お婆ちゃんの背中に顔を埋めて。お婆ちゃんが、私の様子を窺がうように首を後ろに回し、立ち止まる。


「早く、早く行こう」


 私は早くその場から離れたくて、背中に乗ったままお婆ちゃんを急かす。私の駄々に、お婆ちゃんはゆっくり歩き出す。

 私はほっとして、また背中に身を預け。


「椎菜。ほら、佳代ちゃんたちだよ」


 はっと顔を上げ、お婆ちゃんの目が向く方へ、私も顔を向ける。

 佳代と美琴。私の一番仲が良い友達。

 高校の制服を着て、学校指定の鞄を持つあの二人を見るのも随分、久しぶりな気がした。こちらに手を振る二人の姿に私が見入っていると、お婆ちゃんは私を背中から降ろした。


「佳代ちゃんたちが呼んでるよ」


 佳代たちは私が降りたのを見るや、手の振りを大きくし、私を呼ぶ。

 けど、私は。

 子供の頃の姿のままの私は、佳代たちの所に行くのが恐くて。縋るように、お婆ちゃんの手を握り。


「行こう。早く、早く!」


 困った顔で、お婆ちゃんは私の手を握った

 。そして、また私たちは歩き出す。思い出の中へ、もっともっと深くへと。

 私が恐る恐る振り向くと、佳代たちはまだ、手を振っていた。

 けれど、私を呼んでいるのではなく、さよならをする手の振り方に変わっていた。







「お前はここで、殺しておかなくてはならない!!!」


 スティープスの拳を、ヴァッケスはかわすこともなく片手で受け止める。手応えはあった。充分な勢いと力を乗せた一撃が命中したと、スティープスは確信した。


「スティープス。君にとって、僕がここまで来れたことは誤算だったみたいだね」


 既にヴァッケスは、夢の作り主であるスティープスに拮抗する力を得ていた。それは、椎菜が心の奥に沈んでいってしまっている証拠であって。


「僕には、君の焦りが手に取るように分かるよ。可哀想に。君からしてみれば、何もかもが上手くいっていないんだろうね」


 距離を取ったスティープスに、ヴァッケスが詰め寄っていく。ヴァッケスにとってスティープスは、今や邪魔でしかなく。


「でもね、スティープス。そろそろ鬱陶しいんだよ」


 ヴァッケスが怪物の姿に変わる。

 怪物と化したヴァッケスの振り上げる拳は、山より大きく。それはスティープスめがけ振り下ろされた

 。轟音立てて噴き上がる砂煙が止むまで、ヴァッケスは拳を地面に押さえつけた。


「……」


 ヴァッケスが拳を上げると、建物も街路樹も押し潰されて、見る影もなく。しかし、そこにスティープスの残骸はなかった。

 スティープスは遠く離れた建物の上にいた。

 ヴァッケスはスティープスを見つけると、人間の姿に戻り、スティープスを追い詰めにかかる。

 ヴァッケスは念じるだけで地面をせり上げさせて、スティープスの行く手を阻み。スティープスに追い付くと、ヴァッケスは何もない所から細長い剣を作り出し、スティープスに切りかかる。


「いい加減、察しなよ。君が彼女に期待を寄せれば寄せるほど、苦しくなるのは彼女なんだ。それは最早、君のエゴだよ」


 ヴァッケスの剣から、スティープスは持てる限りの力を用いて逃れる。

 足場を崩してはヴァッケスの動きを止め、炎を立ち上がらせては距離を取る。

 まだ、互いの力に絶対的な差をつけられている訳ではない。まだ、スティープスにも力は残っているし、ヴァッケスがスティープスを捕らえるのに手をこまねいているのを見ても、夢の力は移り切ってはいないのだ。


「エゴ……?エゴってなんだ?どういう意味だ!!?」


 スティープスも剣を作り出し、応戦する。

 人も自動車も通らない道路にて、二人の男が剣を交わす。

 無音の住宅街に響く金属音は、矢継ぎ早に空気を揺らし、二人の足裏が道路に擦れる音が、空気を張り詰めさせていく。

 勢いよく剣を振りかぶったスティープスの足が何かに掴まれ、彼を転倒させた。

 スティープスが見ると、足首に巻き付くのは、白い霧の線。線はいくつも宙に伸びていて、スティープスを刺し貫かんと襲い掛かる。

 スティープスは地面を盛り上げて作った壁に、迫る線を妨害させつつ、足首に巻き付いた線を剣で切り離す。

 スティープスが手間取る隙に、距離を詰めたヴァッケスはスティープスを剣で突く。スティープスは辛くも逃れたものの、腕にヴァッケスの剣をかすらせてしまい、傷口を押さえて後ずさった。


「しぶとい奴だな、君は。少し弱らせなくてはならない」


 ヴァッケスは剣を捨て、その身を怪物の物に変えていく。

 地を這う姿はおぞましく、手足と首だけが長くなってしまった、白い霧でできた赤子のようなその体には、口は吊り上り、歪んだ目が血走って。

 狂った笑顔を浮かばせた、罪の意識が作り出した怪物だ。大切な物を奪っていく怪物だ。

 全てを消し去る、ヴァン・ヴァッケス。


「スティープス。君の妄執で誰かが苦しむのを見過ごすことは僕にはできない」


 四つんばいで大地に跨ったヴァッケスは、スティープスの真上から小さな彼を見下ろした。

 影を纏った笑顔は細かく震え、体を構成する白い霧は薄気味悪く蠢いて。

 黒い執事服に仮面の男は、一歩も引くことなく世界を包む巨大な怪物の前に仁王立つ。


「さっきからお前が何を言っているのかいまいち分からないが、僕にも分かることがある」


 ヴァッケスが長大な腕で天を衝く。そして、天に伸びる白い腕が、スティープス目掛け振り下ろされた。

 咄嗟にスティープスはその場を大きく離れたが、ヴァッケスの腕は道路を砕き、地面を深く抉って地形を変える。瓦礫が空高く飛び散って、崩壊した街に降り注ぐ。


「お前を椎菜に近づかせてはいけない。それは確かだ」


 ヴァッケスがにやりと顔をひくつかせると、宙を舞う瓦礫がスティープスの周りに集まっていき、彼を瓦礫で固めてしまう。

 ヴァッケスは 巨体に似つかわしくない速度で再び腕を振り、スティープスが捕らえられた瓦礫の塊を叩き潰した。

 その一撃は、スティープスを世界の端から端まで殴り飛ばす。

 スティープスはコンクリートに強く叩きつけられ、大きく跳ねて、緑が茂る平原に転がった。

 ヴァッケスは首を伸ばし、スティープスが落下したであろう地点を覗き込む。風に揺れる雑草の上に倒れる男の姿を認めると、ヴァッケスは間断なく、目にもとまらぬ速さのもう一撃を加えた。

 ヴァッケスの拳に地面は大きく抉られ、衝撃に大地が割れた。

 だが、そこにスティープスの影はない。


「椎菜に手を出すな!!」


 スティープスはヴァッケスの頭上にいた。

 土に塗れた、ひび割れた鎧を着込んだスティープスの姿は、一見では彼とは違う別の人物を思わせる。

 スティープスは瓦礫に包まれてしまう前に、自身に鎧を纏わせ、その後のヴァッケスの攻撃を凌いでいた。

 紫在の夢の中でかつて生きていた、とある騎士の姿を模した、夢幻の力が作るその鎧は、ヴァッケスの常識を超えた力を受け止めた。

 崩れていく鎧を脱ぎ捨て、スティープスはヴァッケスの後頭部に目掛け、光り輝く巨大な槍を作り出し、構える。


「そんなに人を殺したいのなら、お前がここで死んでしまえ!!!」


 曇天を突き抜ける長さを持つ槍は、スティープスの動きに合わせヴァッケスの頭に深々と突き刺された。

 ヴァッケスの体を構成する白い霧が散っていき、ヴァッケスが人間の姿へと戻っていく。巨体に刺さった槍が抜け落ちて、街へ倒れる前に、スティープスは槍を消した。

 街の方には椎菜がいる。椎菜が戦いに巻き込まれぬよう、スティープスは注意していた。


「無駄なことをするなよ。スティープス」


 霧が空へと舞いあがる中、ヴァッケスが立ち上がる。その体には傷一つ付いておらず、弱った様子もなかった。


「箕楊椎菜が堕落を望む限り、君は僕を超えられない」


「超えるさ!僕はお前に、ここで勝つ!!」


 二人は再び剣を作り出し、その手に掴んだ。切っ先を向けるスティープスに、ヴァッケスは剣を構えることもなく。


「無駄だよ。無駄。何もかもが、無駄なのさ」


 霧が覆う空の色は。絶えず濃さを増していき、その様は世界の終焉を思わせる。


「無駄かどうか………」


 暗く閉じていく世界で、スティープスは剣を強く握りしめ、人の形をしたヴァッケスに迫った。


「今、ここで試してやる!!!」


 剣が剣を弾く音が、尋常ならざる速度で空気を揺らす。

 スティープスもヴァッケスも、常人とは違う力を持つ故に、その剣を振る速さは、避ける速さは。目にも留まらず、間髪入れず繰り返されて。

 スティープスは、背後と足下から突き迫る白の線を避けながら、ヴァッケスに切りつける。

 ヴァッケスは、宙に現れる光の矢を線で弾きながら、スティープスに向け剣を振る。

 夢幻の力を使っても、なかなか治らない腕の切り傷の痛みを意志の力で押し潰しながら、スティープスは剣で薙ぐ。

 すると、ヴァッケスの剣は弾き飛ばされ、空手となった。

 スティープスは最大の好機を逃さない。肘を曲げて剣を引き、剣を失い、体勢を崩したヴァッケスの腹部に、勢いをつけて突き刺した。

 腹を貫かれたにも関わらず、ヴァッケスはスティープスの胸倉を掴んだ。

 スティープスが危険を感じ取ったのも束の間に、白の線が彼を襲った。肩を貫かれながらも、スティープスはヴァッケスの手を振り解き、ヴァッケスに刺さったままの剣を手放し、二歩下がる。

 肩の激痛に呻いても、スティープスの意志は挫けることなく。

 スティープスが新たに何かを作り出し、手に取った。長い鉄の筒を持ったそれの引き金に指を掛け、狙いを付けたその先には、ヴァン・ヴァッケスの額があった。

 スティープスは狙いが合った瞬間、銃の引き金を彼は引き。発砲音が弾け、弾丸がヴァッケスの額を打ち抜いた。

 倒れたヴァッケスは、腹部と頭部の致命傷を物ともせず、再び立ち上がる。

 銃を投げ捨て、剣を作り出し、スティープスが走る。ヴァッケスはとめどなく線を動かし、スティープスを追わせている。

 スティープスは八方から迫る線を振り切り、再度ヴァッケスとの間合いに入り込み、深く足を踏み込んだ。

 スティープスがヴァッケスを蹴り飛ばす。倒れたヴァッケスの喉元に突き立てようと、スティープスは剣を躊躇なく振り下ろした。


「無明の男よ。君には理解し得ないか」


 剣を素手で受け止めたヴァッケスは、その手から血を垂らし。刃を掴む力はスティープスがいくら引こうと、押そうとも、動かせない程の物で。


「お前の言うことは……!」


 勝利を確信したスティープスは、念じてヴァッケスに掴まれた剣を粉々に砕き、新たにもう一本の剣を作り出して。


「意味が分からないんだよ!!」


 ヴァッケスの心臓に、深く突き刺した。

 体を貫いた剣はアスファルトの道路まで貫通し、ヴァッケスの体を地に固定した。

 ヴァッケスから離れ、スティープスは血を流すヴァッケスが痛みに呻くのを聞いた。

 流石に効いているらしく、ヴァッケスは痛みに身をよじり、必死に自身を貫く剣を引き抜こうとしている。


「お前はみんなを惑わせた。ホリーもディリージアも、お前が殺したんだ!」


 スティープスは足掻くヴァッケスの手を掴み、動きを制した。


「僕は信じている。どんなに追い詰められたって、みんな、まだ生きていたかったんだって!!」


 スティープスは自分の体ごと、ヴァッケスの体を炎で包んだ。立ち上る炎の中で、スティープスは更に剣を作り出し、ヴァッケスに突き刺した。

 血の匂いも消し飛ぶ強さで炎が上がる。

 ヴァッケスが動けなくなったところで、スティープスは炎から飛び出で、手を高く空にかざした。曇天の空に現れたのは、星の数にも匹敵する無数の光の矢。

 光り輝く矢は空を埋め尽くし、その矢先はヴァン・ヴァッケスへと向けられた。

 スティープスが手を振り下ろすのは、一斉掃射の合図。

 天高く、無数の矢が焼き尽くされんとするヴァッケスに降りかかった。刺さった先から矢は消えていき、次々に、ヴァッケスへ降る矢が襲い掛かる。

 矢は全てヴァッケスの体に突き刺さり、彼の体を破壊していく。


「死にたいくらい辛くたって……、それでも……。絶対、生きていたかったんだって……」


 ヴァッケスが炎にもがき苦しむ。身を焦がし、身を貫く剣と矢に呻いている。

 スティープスは徐々に活力を失っていく炎の中の人影に、虚しい想いを胸に感じた。

 炎が自然に沈下していく。燃え尽きたヴァッケスの残骸である灰を、スティープスは沈痛な心地で見つめていた。

 自分と似た存在であったヴァッケスの死を、スティープスは少なからず悼んでいた。

 椎菜が何時かしていたように、スティープスはヴァッケスに祈りを捧げた。

 ホリーやディリージアを死に追いやったヴァッケスを許すつもりはないが、スティープスの心の隅に生じた感傷がそうさせた。


「僕くらいは、覚えておくよ……。君のことをね……」


 黙祷を済ませ、スティープスが椎菜の様子を見に行こうと、その場を立ち去ろうとした時だ。

 ヴァッケスの遺灰に、変化が起きた。


「僕を望む声がする……。誰かが僕を呼んでいる……」


 まず、声が聞こえた。

 ヴァン・ヴァッケスの声だ。たった今、死んだ筈の男の声だ。


「ああ、箕楊椎菜。君なのか」


 次に、遺灰が一人でに集まり、形を成した。

 人の形に固まった遺灰は、塗りたくられるように色を得て、ヴァッケスの体は元通りに作り直されてしまった。


「まだだ。まだ、僕は死ねないよ。彼女の心が叫んでいる。助けを求めて、必死で」


 ぼろぼろと崩れながらも、その体は何度も崩れた部分を集めて再生する。

 ヴァン・ヴァッケスが蘇る。


「箕楊椎菜が記憶の果てに近づいている……。僕に力が流れ込んでくる……。ああ、スティープス。無駄だと言ったのに。僕はこうもあっさり蘇る。彼女が僕を蘇らせる」


 ヴァッケスの力は抜けていくどころか、増していく。

 スティープスは、ヴァッケスから途方もない力を感じ取る。威圧感がスティープスを警戒させる。

 やがて、体が崩れずに形を留めるまでに再生し、ヴァッケスはスティープスに悠々と近寄った。


「さあ、時は近い。彼女が僕を呼ぶ頃だ」


 スティープスの首に白い線が巻き付いて、動きを止めるために、スティープスの体を何本かの線が刺し貫いた。

 悲鳴を上げるスティープスを宙に吊るし、ヴァッケスは彼を見下すのだ。

 無駄な抵抗を続けたスティープスを完全に抑え込み、一切の自由を奪って。


「……!」


「思い出は人の心を縛る。縛られた心は暗闇に沈むだけだ。そう思わないかい?スティープス」


 返事はない。

 激痛に襲われるスティープスには、声を出す気力すら残ってはいない。


「会いに行こうか。夢に逃げ込んだ彼女の下へ」



「優しさと思い出の狭間で苛まれる、箕楊椎菜という孤独な少女を、僕が救ってあげるよ」







 巡る思い出は優しく、私の全てを温かく包み込む。

 お婆ちゃんがいる毎日は、穏やかで、平和な日々だった。

 そう、こんな風に。

 お父さんとお母さん、それに私の向かいに座るお婆ちゃん。

 私を含めた四人で囲む食卓は、和気藹々として温かく。私は大好きなお婆ちゃんの言いつけをしっかり守って、食事の挨拶を忘れない。

 食事の準備だって手伝うし、後片付けも自分でやる。

 私が良い子でいるから、お婆ちゃんが私を褒めてくれた。

 そうだ。私はお婆ちゃんの言いつけを守るんだ。

 面倒くさがらずに誰かのために頑張れば、こうして、お婆ちゃんが笑ってくれるのだから。

 お婆ちゃんが私に教えてくれたことは、みんな人のためになることだったから。煩わしく思うなんて、とんでもないこと。

 私が人に平気で迷惑をかけるような人間になれば、お婆ちゃんは悲しむに違いない。私は、お婆ちゃんを悲しませたりしない。絶対に。

 ここでなら、私は失くしたはずの大切な人と一緒にいられるんだ。今度こそは、悲しませてはいけないんだ。

 今度こそ。今度、こそ。

 今度……。

 今度って……、どういうこと?

 なんだっけ。前にこんなこと、会ったっけ。

 まあ、いいか。

 だって、今ここにお婆ちゃんがいるんだから。気にしたって仕様がない。


 私は、瞬きを一つ。暗闇の幕間が過って。


 また、場面は移り変わり、私とお婆ちゃんは紅葉並木を歩いていた。

 ついさっきも来た場所。ついさっきと同じ思い出。

 手を繋いで、二人で歩く紅葉の世界で、私ははしゃぐ。

 私は既視感を持ちながらも、心の奥に押しやって、必死に今見えている物に意識を向ける。お婆ちゃんは、変わらず楽しそうに笑ってくれる。私がかざす落ち葉の向こうで、お婆ちゃんは微笑みかける。

 ずっとこうしていられればいいのにと、私は思う。

 いつか、私が大きくなってしまったなら。きっと、私たちはこのままではいられないと分かっているから。ずっと私が子供のままでいれば、私たちは幸せに笑っていられるんだ。いつまでも。

 そう、いつまでも。


「こんにちわー」


 向かいから歩いてきた高校生のお姉さんたちが、挨拶をしてくれた。お婆ちゃんも私も、明るく返事をして。

 お姉さんたちの、落ち葉を手に取り会話を弾ませるその様は、季節を満喫して、はしゃいでいるように見えた。


「椎菜もいつか、あんな風になるのかなあ……」


 お婆ちゃんが私の手を放し、私から少し離れて、空を見上げた。お婆ちゃんは振り返りもせずに、徐々に徐々に、歩き離れていく。


「お婆ちゃん。椎菜が立派な大人になったところ、見たいねぇ」


「……、お婆ちゃん?」


 なんで。なんで、そんなこと言うの?

 このままでいい。ずっと子供のままでいい。

 時が過ぎれば、私たちが離れ離れになってしまうのなら。私は、大人になんてなりたくない。

 胸がずきりと痛みだす。私の中で、私の大切な何かが縮こまり震えている。

 私は空を見るお婆ちゃんの顔が見たくて、一生懸命に見上げるけれど、どうしても見えなくて。

 やがて、私の中に、一つの感情がはっきりと形を成して、心に滲み出していく。私の心をかき乱して、底にこぞんでいた思い出が、脳裏に過る。私はぎくりと、身を強張らせた。


 胸に広がっていく感情の中で、私は全てを思い出す。


 あの日の後悔、お婆ちゃんの亡骸に、枕元のお守りを。

 胸が痛い。私は恐い。

 私の中にある感情が、私を押し潰していくのが鮮明に伝わってきて。私の心の色が塗り替えられていってしまう。

 私は、私を飲み込む、どうしようもない恐怖を取り戻してしまった。

 逃げ場なんてない。

 だって、これは私の中で起こっていることだから。私の頭の中で、私は自分を食い殺す、罪悪感という名の怪物に追われているのだから。

 逃げることなど、叶わない。

 私はお婆ちゃんの服を掴んで、しがみついて。

 「行かないで、行かないで」、と懇願する。

 私の決して拭うことのできない罪の意識を、これ以上、思い出させないで。

 “それでいいの?”と声がする。

 私の心の中に浮かぶ声。

 それでいい。だって、だって。もう、私は頑張れない。

 私はお婆ちゃんを苦しめて、みんなの期待を裏切って、紫在さんと友達になれなくて。

 だから、私はもう何もしない。私には、何もできない。


“それでいいの?”


 思い出の紅葉の中に紛れ込む記憶たちが、私に問いかける。

 そこには、死んでしまったレグルスの姿が在った。

 魔女のお婆さんの姿が在った。

 騎士の彼も、ディリージアも、夢の住人たちがそこにいて、私を見ていて。

 現実であったことも、夢の世界であったことも、思い出が次々と私に問いかける。


“それでいいの?”


 それでいい。それでいい。それでいい!

 私は――――



“本当に、それでいいの?”



 何もかもを諦めて、思い出と、夢の中で生きていく。









 私の願いとは裏腹に、閉じ込め続けてきた記憶が目を覚ます。

 困った顔で私を見るお婆ちゃんの姿が消えてしまって、私の次の記憶を、夢の世界が映し出す。映る像は形を持って、私の前に、当時の我が家が現れた。

 私の目線が高くなる。何かと思って自分の体を見ると、私の姿は元に戻っていた。

 視界に広がるのは、胸の底にこぞんだわだかまり。私が心の奥底にしまい込んだ罪の記憶。永遠に消えることのない、私の脳に刻まれた思い出だ。

 瞬きすると、形を変えた夢の世界で、私は家の中で、居間に立っていた。

 初めは、耳に被いが被せられたかのように音がくぐもっていたけれど、段々と周囲の音がはっきりし始めて――――

 怒声が、聞こえてきた。

 ああ、これは私の声だ。

 私の目前には、昔の私と、お婆ちゃんがいた。昔の私は何がそんなに気に入らないのか、自分にも分からずに、感情のまま喚き散らしている。

 次に聞こえてきたのは、お婆ちゃんの声。お婆ちゃんの、怒った声。

 堕落した感情を声に出す私を、お婆ちゃんは叱りつけ、言い返す私にお婆ちゃんがまた怒鳴る。

 二人の声は、互いの怒りを駆り立てて、膨らんでいく。次第に言い返せなくなり、自分の立場が悪くなると、昔の私は自室へと逃げ込んだ。

 過去の自分の様を私は見つめる。無知で愚かで、恩知らずな自分を睨む。

 辿り着いてしまった、あの頃の記憶に。

 どうして。思い出したくなんてなかったのに。ずっと、私の中で眠っていて欲しかったのに。

 甘い夢の旅は終わり、罪の過去が形を成して、始まってしまう。

 これは紛れもなく私の思い出。私と、お婆ちゃんの過去。

 罪の記憶を私は進んでいく。

 もう、お婆ちゃんは私の隣にはいない。今や、お婆ちゃんは私の行く先々で、昔の私と怒鳴り合うだけ。

 高校生の姿に戻った私の足取りは重く、ゆらりゆらりと揺れながら、何度も何度も発せられる怒声の中を歩んでいく。

 胸の痛みが酷くなる。

 進めば進むほど、私は身を裂かれる想いに苛まれる。でも、この足は止められない。

 私は自分の意志で歩いているのか、勝手に動いているのかも分からなくなって。

 どんなに辛くても。どんなに嫌だと思っていても。あの後悔を思い出さずには、いられなくて。

 奥へ奥へと。

 底へ底へと。

 忌まわしいあの日にまで、遡って。

 私は遂に、あの日、あの時へ。

 高校受検の前日、お婆ちゃんの部屋のふすまの前へと、辿り着いたのだった。


「……」


 暗がりの廊下に視界が揺れる。

 夜の闇が家の中にまで染み渡り、白いふすまが重苦しく灰色に染まる。ふすまの隙間からは、向こう側から溢れ出す光が漏れていた。

 このふすまの向こうには、きっと、あの時と同じ光景が待っている。

 見たくない。思い出したくない。

 なのに、私の手が動いた。私の意思じゃない。私の体が、記憶の通りに勝手に動く。

 嫌だ、嫌だ。

 お願い、お願いだから、これだけは。この思い出だけは、どうか眠ったままでいて。

 記憶の通りに、ふすまの取っ手に手を掛けて、私は。

 私は最悪の思い出の扉を、開いてしまった。


「さっきは……、ごめんね。椎菜。お婆ちゃん、昔の人だから、ああいうのはどうしても気になっちゃうからね」


「……」


 ふすまを開けた先には、昔の私とお婆ちゃんがいた。

 お婆ちゃんは布団に寝て、上体だけを起こし、昔の私がお婆ちゃんの前に立っていて。

 私は昔の私の後ろから、目前で話す二人を見つめる。釘を刺されたかのように体を固めて、じっと昔の私とお婆ちゃんの会話に目を凝らす。

 私の息が、自然と速くなる。動悸が収まらなくて、頭が揺さぶられる感覚に襲われる。

 それでも、目を逸らすことができなくて。


「それで……、何?お父さんが行けって言うから来たんだけど」


 私は睨む。目の前にいるこの恩知らずに、確かな殺気を纏わせて、強く。


「明日、高校受験だろう?これ、持って行きな」


 悲しそうな顔を隠しきれないお婆ちゃんが昔の私に差し出したのは、紫色のお守り。“合格祈願”と錦布に糸文字が縫い込まれたそれは、お婆ちゃんが私にくれようとした、最後の贈り物。


「……、いい。いらない」


 私はかけがえのない人に平気で悪態を吐く、この女の胸の内を知っている。

 注がれる数々の愛情を無下にしながら、内心ほくそ笑んでいたこいつは、どういうつもりでお婆ちゃんに背を向けたのだろう。

 一生許すことのできない存在が、永遠に私を苦しめる存在が、今、目の前で大切な人を傷つけている。

 私自身が、箕楊椎菜という人間が、私には、たまらなく憎く思えた。


「椎菜は……、お婆ちゃんのこと、嫌い?」


 これから昔の私が何を言うのか、私には分かるから、私は過去の自分に横から迫る。

 絶対にお婆ちゃんに言ってはいけないことを言わせたくなくて、憎くて憎くて、仕様がなくて。

 私は力の限りに、昔の私の首を絞めた。

 けれど、過去の形は変わらない。どんなに力を込めても、昔の私はびくともしない。

 首を絞められ、少しだけ上を向いた過去の私が、私の向こうにいるお婆ちゃんを見下しながら。


「黙れ!!黙れ!!黙れ!!!」


 昔の私が口を開く。私が何をしようと、あの一言が発せられるのを止められないと分かっていても、私は。



「好きな訳、ないでしょ。馬鹿みたい」



 うるさい。うるさい。うるさい――――


 強く目をつぶって、私がこんなに叫ぶのに、過去の一言は私の声を掻き消して、静かに部屋へと響き渡る。


「黙れ!!!」


 過去は変えられない。

 思い出は変えられない。

 決して、変えてはいけない。

 だから、その一言はお婆ちゃんに聞かれてしまう。それが私には悔しくて、後悔が胸に湧き出すのが、苦しくて。

 叫んだ私が目を開けると、そこにはまた、白いふすまがあった。

 先程と同じふすまだけれど、これは違う思い出だ。

 これは、次の日。

 高校受検の日。受験を終えて家に帰った私が、お婆ちゃんの部屋に入る時の思い出だと、私はすぐに気が付いた。

 動悸は収まらず、依然、私の視界と体を揺らし。玄関からの微かな日差しは空気に溶けて、ふすまの形を私の視界にぼんやり浮かばせていた。


「椎菜……」


 あの時と同じに、後ろからお母さんが私に声を掛ける。

 お母さんの弱弱しい声は、私に当時の緊張を思い出させ、ふすまを前にして、私は体を震わせる。

 私はふすまの黒い取っ手に手を掛けた。そして、後悔が後押しするままに、それを開けた。

 ふすまの向こうには、布団に寝かされたお婆ちゃんの姿があった。

 昔の私の姿はなくて、私が、昔の私として、そこにいた。

 もう二度と動かない、血の気が失せた皺だらけの腕。

 白い布が掛けられたお婆ちゃんの顔は、隠されて見えないけれど。私は確かに感じ取る。しっかりと理解する。

 お婆ちゃんから、すっかり生きている時の気配というか、生気とかいった物が、全て抜けてなくなってしまっていることを。

 そこに在ったのは抜け殻だった。私たちの思い出ごと、魂が抜けきった、それは美しく彩られた塊でしかなかった。

 これから先、二度と私とお婆ちゃんが出会うことはないという現実が、最悪の形で証明された。

 姿はあれど、心はなくて。

 もう私に笑いかけてくれることも、怒ってくれることもないのだと、理解して。


“椎菜は……、お婆ちゃんのこと、嫌い?”


 どんな想いで、お婆ちゃんは私に尋ねたのだろう。何故、私はあの時、大好きだと言えなかったのだろう。

 どんな想いで、お婆ちゃんは死んでいったのだろう。


 私は両手で顔を覆う。

 指の間から伝う涙は溢れ出し、一つずつ床へと落ちる。あの時ほど泣いたことは人生の内になく。今でも、それは変わらない。

 思い出を前にして、私は泣いた。あの時と同じくらい、深く泣いた。

 ここが終わり。

 ここが私とお婆ちゃんの思い出の終着点。

 亡骸を前にして、私は泣きじゃくり、跪く。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい――――

 謝ることしか、できなくて。償いたくても、できなくて。

 あなたは後悔と、私の罪の証であるお守りを私に残し、この世を去った。








 そして、思い出の世界は終わりを告げた。

 懐かしき安息と後悔の景色は、はりぼてのように崩れ落ちて、私は独り、真っ白な世界に跪く。

 見渡す限り何もない、白の世界。

 地平線が遠くに影を背負って、広がるだけのまっさらな大地。

 空は白く、太陽もなければ、月もなく。

 泣きじゃくる私の胸が、最期の悲鳴をあげた。

 もう、無理だ。

 私にはどうすることもできなくて、私の大切な全てに手が届かない場所まで、帰ることができない所まで来てしまった。

 私の思い出が、途方もない罪悪感を生み出して、私を飲み込んでいく。

 胸の痛みは限界を超え、私は止まらぬ涙を更に溢れさせ。こう思う。

 この痛みは、お婆ちゃんへの償いが果たせない限り、永遠に続くのだろう。

 これは、私の罪なんだ。私が招いた運命だ。

 逃げることは許されない。

 目を逸らすことは許されない。

 けど、けど。私にはもうできることは何もない。

 お婆ちゃんへ償うこともできなくなって、今では、現実に戻ることさえできなくなった。

 最早、私には過去も未来も、何も残されてはいない。


 どんなに頑張っても償えないのなら。

 心身を引き裂くこの痛みが永久に消えないのなら。


 いっそのこと、死んでしまいたいと。


 そう、思って――――





「そうか、なら」




「なら、叶えよう」




「僕が背中を押してあげるから。その願いを叶えよう」









 真っ白な世界で私の前に現れたのは、白いスーツの男性だった。

 彼の顔を覆う白い霧には、世にも恐ろしい笑顔が浮かぶ。

 充血した双眸に、吊り上った口端。

 狂気と呼ぶに相応しい顔とは真逆に、とても優しい声は私の耳から、心の奥に滑りこんでくるようで。

 その人に見覚えが在ったけれど、私の興味はそのことには届かず。

 彼が静々と差し出した純白のナイフに、私の目は釘づけにされてしまう。

 暖かな輝きを備えたナイフは、柄の部分をこちらに向けられ、妖しく光っていた。


「泣いても、いいんだよ」


 私の手がナイフへと伸びていく。

 自分のことなのに、私は自分の手を恐々としながら、じっと見つめている。


「逃げ出しても、いいんだよ」


 こんなに怖いのに。体は自然に、当然のように手を伸ばす。


「諦めても、いいんだよ」


 この時を待ちわびていたかのように、手を伸ばす。指の先が柄に触れて、ナイフの冷たさにぞっとして。


「違う……」


 これはきっと、私を狂わせると、直感した。

 私はその男性が何者であるかを思い出した。

 夢の世界でのことも、何がどうしてこうなったかということも、全てを思い出した。

 そして、思い出すと同時に怯えはじめた。

 私はナイフを掴もうとする手を、必死に引っ込めようとするけれど、私の手は少しも言うことを聞いてくれなくて。


「いらない……!そんなのいらない!!」


 ヴァン・ヴァッケスに向け、私は叫んだ。手も足もいうことを聞かなくて、できることは声を出すだけ。

 恐い。恐い。恐い。

 どしてこんなにも、恐ろしい。ヴァッケスとナイフが、私の心の奥にあった後悔を引きずり出して、私の思考は、その後悔を認識することから逃げ回る。

 死にたくない。死ねばそれまで。後には何の未来もない。そんなのは嫌。嫌。


「君は十分頑張った。これ以上苦しむ必要もない」


 嫌なのに、なんで。どうして、私は。


「死ぬのは確かに恐ろしいことかもしれないね。けど、君の運命は死よりも過酷だ」


 この人の声に、耳を傾けてしまうの。この人の言葉に、安心してしまうの。


「君は優しい人だ。だからこそ、苦しみから救われるべきなんだ」


 お母さんもお父さんも、佳代も美琴も、私が死ぬことを絶対に望まない。

 スティープスだって、そうに決まっている。

 生きていなくてはいけない。また、皆に会いたい。

 駄目だ。駄目。死んでは、駄目。

 お婆ちゃんだって、死んでは駄目だと言うに決まっている。

 お婆ちゃんだって。お婆ちゃんだって――――

 私は逃げ回る。

 頭の中でどんなに言い訳を加えても、自分の気持ちを誤魔化しても。何処まで行っても苦しくて、胸は痛みを増していくだけ。

 逃げて逃げて、その先に。


 苦しみと心の痛みから逃げるため、確かに死にたいと思う私がいた。ずっと隠し持っていた、死への憧れに、気が付いた。


 すると、あんなに死にたくないと念じた私は、じわじわと頭に広がっていく安堵感に気を緩め。どうしたことだろう。恐怖が薄まって、心の淀みが、逆に心地よくなってきて。


「大丈夫。僕が手伝ってあげるから」


 私は、その男性が差し伸べる純白のナイフを。


「さあ、これを」


 救われた想いで、受け取った。


「――――菜!」


 私はナイフの刃を首に当てる。

 鋭い刃は冷たくて心地よく、私はナイフに愛おしく首を曲げ、頭を寄せる。


「椎菜!!椎菜!!!」


 何処からか、誰かの声が聞こえた。

 私を呼ぶその声は、弱弱しく掠れて、虚しく白い世界に響き渡る。

 ずっと私の隣にいてくれた声。聞き覚えのあるその声は、ああ。

 きっと、スティープス、あなたの声。


「駄目だ!!椎菜!!!」


 ごめんね、スティープス。ごめんね。

 何も、あなたの役に立ってあげられなくて。


「君の……!君の思い出は!!」


 ごめんね。ごめんね……。


「君を苦しめるだけの物じゃ、ない筈だ!!!」


 ごめん……、なさい……。

 私の周囲の地面が激しく揺れて、地面から壁が立ち上る。

 私の周りを囲むように、天高くそびえたった壁は、私とスーツの男性だけを残して、あらゆるものから私を遠ざけた。


「さあ。どうする?」


 私は最期に、空を見上げた。何もない、真っ白な空だった。


「君は、どうする?」


 そして思い出すのは、今まで生きてきて出会った人たちの顔だった。

 お母さん、お父さん、お婆ちゃん。佳代、美琴。スティープス、レグルス、ディリージア、ホリー。

 それに、紫在さん。


「さあ」


 きっと、私たちは夢の中でずっと一緒にいたんだね。ホリーという名前で、紫在さんは、私と一緒に夢の世界を巡ってきたんだ。


「さあ!さあ!!」


 優しいあなたを知った。残酷なあなたを知った。

 あなたはいろんな顔を私に見せてくれていた。

 空を見上げていた顔を下ろして、私は俯く。ナイフの刃をぐっと、喉に当てる。


「恐れることはない!これは!!」


 ごめんね。私は、あなたを助けてあげられなかった。

 夢を通して、私にずっと語りかけていたあなたを、私は分かってあげられなかった。


「これは、お前が望んだことなのだから!!!」


 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 私が出会ってきた、全ての人に謝って。

 そして、私はナイフを握る手に力を入れて。


 白く輝く罪悪感のナイフを、自分の喉に突き刺した。



















 空は白く。大地は白く。

 その中で、白の世界のしじまを破る、小さな小さな音がした。

 箕楊椎菜がそれを聞く。ヴァン・ヴァッケスがそれを聞く。

 椎菜は、己の喉がまだ無事であることに驚いた。

 確かにナイフで貫いたと思った喉は、かさりと音を立てて、地面に落ちた“何か”の存在に唾を飲んだ。

 ナイフを喉に突き刺す寸前、椎菜は無意識にその手を止めていた。俯いた彼女の視界の隅に、ふらり舞い過った“何か”を捉えたからである。

 異常な緊張が在った。

 ヴァッケスは地面の“それ”を見つめ、異様な存在感を放つ“それ”の正体に思考を走らせ。

 椎菜はナイフを下ろし、地面の“それ”を。

 薄く浮かぶ装飾が美しい、“桜色の封筒”を拾った。

 微かに震える手つきで封筒を開け、中に入っていた一枚の便箋を取り出して。

 手紙の内容に、目をやった。



“私のお友達、箕楊椎菜さんへ。”


 それは。


“最近暑い日が続いていますね。お体の調子は大丈夫ですか?折角の夏なのに風邪で寝込んでしまっては大変です。外はこんなにきれいな青空なのに、ずっと家の中にいなきゃならないなんて、つまらないですもんね。”


 それは。


“私はといえば、実はちょっと風邪気味です。あまり体の強い方ではないので、珍しいことではないのですが、やっぱり外に出られないのは寂しいです。”


 一通の手紙であった。一生懸命に書かれた、気持ちのこもったそれを、椎菜は読み進めていく。


“でも、家にいるとき私はいっぱい本を読むんです。いろんな本を集めて、いろんなお話を読むの。暗いお話はあんまり好きじゃありません。だって、読んでて辛くなっちゃうんです。怖いお話も苦手。私の兄は怖がる私をいつも馬鹿にします。ひどいですよね?”



「椎菜さんって、お姉ちゃんみたい」


「みんな、私じゃなくてホリーを見てる!私だって頑張ってるのに!!」


「椎菜さんが、何処かに行っちゃうような気がして……。椎菜さんだけじゃなくて、みんな何処かにいなくなっちゃう……」


「どうして私じゃないの!!??私がいるのに!!」


「ありがとう。お姉ちゃん」



“私は一人で家にいることが多いので、もしかしたら窓の外からお化けがこっちをのぞいてるんじゃないかとか想像しちゃって、もう怖くてしょうがないの。子供っぽいって思われちゃうかもしれないけど、怖くてぬいぐるみに強く抱きつきすぎて、大好きなぬいぐるみがボロボロになっちゃったりもしたんですよ。”




「ホリーみたいにしてる……、私が好きだったんでしょ……?」


「その子のことも助けてあげたいって思います」


「椎菜さん。お城まで、来てくれるんですよね?私、待ってますから。ずっと……」


「私……、私!ずっと信じてます!」


「ずっと、あなたのこと、信じていますから」




「椎菜さんなら、私がどんなことになっても絶対に助けに来てくれるって、信じてます!」




“だから私は、楽しいお話や、ハッピーエンドのお話が大好き。やっぱり、大好きになった登場人物たちには幸せになってほしいから。みんなが幸せそうにしているのを想像すると、私まで幸せを分けてもらったような気分になるんです。”


「それは……?それは、何だ?」


“あなたも本がお好きなんですか?よく公園のベンチに座って本を読んでいるのを見かけます。周りで遊んでいる子供たちに読書を邪魔されて、困った顔をしたりしているあなたを見て少し笑ってしまいました。”


 紫在の中には、椎菜たちと過ごしてきた“ホリー”が確かにいる。

 紫在はまだ、優しさを持っている。

 捨て去ることなどできはしない。それは残酷さと同じく、心の一部なのだから。

 物を放り投げるのとは訳が違う。そうでなければ、誰がこんなに苦しむものか。


「それは……、何だと聞いているんだ!!!」


“いえ、バカにしているんじゃないんです。ただ、本を読んでいるときの真面目なあなたの顔と、子供たちの相手をしているあなたの困ってるけど楽しそうな表情は、全く別の人みたいで。いろんな顔をするあなたが羨ましくて、私にはとても素敵に見えるんです。”


 ――――これ?


 ――――これが、何かと聞かれれば。


“それと、実は私もうすぐ誕生日なんです。私の誕生日は、七月十五日。多分、この手紙があなたに届く次の日になると思います。もしよければ、この日に公園のベンチに来てください。いつもあなたが本を読んでいるあの場所です。時間は夕方。六時頃に。突然こんな手紙を送ってしまってごめんなさい。でも、私あなたに伝えたいことがあるんです。”


 その問いに答えるとするならば。椎菜はこう答えるだろう。

 これは勇気だ。

 心に絡みつく絶望の暗闇の中に在って尚、希望を掴もうと、優しさを持って進む勇気。

 己の弱さに負けぬ、尊き想い。行く手に輝く星を望む――――


 “誠実さ”であるのだと。


“箕楊椎菜さん。”


 恐怖も罪悪感も撃ち晴らす、哉沢紫在の輝きであるのだと。


“私、”


 闇の中煌めいた、一つ輝く星であるのだと。




“あなたに会いたい。”








「……」


 椎菜は思う。

 一通の手紙を手に、己の弱さを叱咤する。


 ――――私は何をしているんだろう。何を眠っているんだろう。私には、やらなくちゃいけないことがあるというのに。孤独なあの子が、私が迎えに行くのを、待っているに違いないのに。


 ナイフを握る手が死を求めて、未だ震えていることを、椎菜は恥じた。

 気を抜けばすぐにでも、喉でも心臓でも貫こうとする、己の弱さを憎んだ。

 椎菜は純白のナイフを高く、高く、振り上げた。煌めくナイフは美しく、死へと彼女の心を引き付ける。


「どうした!?さあ!やれ!やれよ!!」


 椎菜の脳裏に浮かぶのは、現実の家族と友達、そして、夢の世界で出会った人々だった。


 ――――死ぬもんか。誰が死ぬもんか。こんな所で、何もしないままで。


 椎菜には、やらなくてはいけないことがある。皆が椎菜に道を示してくれている。

 なのに、椎菜の心には、未だ死への渇望がとめどなく湧き上がる。


「それでお前は、救われるのだから!!」


 椎菜は震える手に、思い出を自分で穢している自分に、無性に苛ついて。

 すぅっと息を吸い込んで、椎菜は――――

 ナイフを左手の甲に、突き刺した。

 椎菜が脳を貫くような痛みに呻く。余りの痛さに目をつむって、涙が出ても、椎菜はナイフで手を抉る。

 これは、椎菜が自分に課した罰だった。

 何をしているのだと。

 何を泣いているのだと。


「これは……、紫在さんが私にくれた手紙。私にくれた、あの子の勇気」


 そして、ナイフは思い切り手から引き抜かれ。

 椎菜が痛みに顔を歪めながらも、その双眸は開かれた。

 ナイフから滴る血が地面に落ちて、椎菜を囲む壁が壊れていく。

 ヴァッケスと椎菜以外を隔てた心の壁が、ひび割れ、轟音沸き立て、崩れだす。


「私がもう一度、自分と闘えるように、ホリーさんが届けてくれた……」


「……!?」


 ヴァッケスの表情が苦悶に歪む。己の理解を超えた光景に圧倒される。

 ヴァッケスは自身から抜け出ていく白い線に気が付いた。

 だが、もう遅い。ヴァッケスには、もうどうすることもできない。

 ナイフの力は薄らいでいく。夢の力は在るべき場所に、椎菜たちの下へ戻っていく。


「紫在さんの、本当の気持ち!!私に進む道を教えてくれる、あの子の!!!」


 椎菜は己の足で立ち上がる。ヴァッケスに向き合い、力強く。

 瞳に限りなき力を取り戻した椎菜に、ヴァッケスは恐れ、気圧された。


「たかが一枚の手紙が、何が、お前をそこまで動かす!?あんなに苦しんでいたのに!!確かに僕のナイフを取ったのに!!!今だって!!!!」


 椎菜の手には、血に染まった純白のナイフがしっかりと握られていた。

 手にした者の罪悪感を剥き出しにさせるナイフを、椎菜は握りしめ、けれど、瞳は強く前を向く。


「思い出させてくれたの。駄目な私を心配してくれた人たちのこと。このままじゃ駄目だって、教えてくれたの」


「償おうとは思わないのか!?お前の犯した罪はどうする!?全て忘れて生きるのか!?その恐怖は!?その罪悪感は!??」


「持って行く。全部持って、私は生きていく」


「そんな馬鹿な……!そんな馬鹿な!!!」


 そうだ。

 これまで犯してきた幾多もの罪。とりかえしのつかないそれを。

 もし、自らの命一つで償えると言うのなら。どうしてこんなにも、苦しむだろうか。

 楓の葉が一枚、風に乗り、後方から椎菜の前に落ちる。椎菜が振り返れば、そこには、懐かしき祖母の姿が在って。

 一つ、思い出を。祖母の言葉を、椎菜は思い出す。


「泣いてもいいよ」


 頭を撫でてくれる皺くちゃの手は、優しくて。温かくて。


「怒ったっていいよ」


 椎菜の思い出。大事な大事な、かけがえのない思い出。


「だから、ずぅっと、元気でいてね」


 大事だから。自分で守らなくてはいけない、思い出だ。


「ありがとう……。お婆ちゃん……。私、あなたのこと――――」




「大好きだった……」




 穏やかに微笑んで小さく手を振る祖母に、椎菜も手を振り返す。背筋を伸ばし、凛として。今度こそ、本当に、お別れを。


「いくら誤魔化そうとも無駄だと知って……!まだ足掻くのか!!」


 ヴァッケスの体から白い線が抜け出ていく。ヴァッケスの体から、純白のナイフから、夢の力が失われていく。


「これは、誤魔化しなんかじゃない。だって、だって……、私の思い出は……!」


 左手の痛みが椎菜の頭を叩く。叩けば叩くほど、彼女は強く目を開く。

 そうだ。椎菜は。

 スティープス。愛しき彼の言う通り。


「思い出は、私を強くしてくれるから!こんな所で立ち止まっちゃいけないって、私に教えてくれるから!!」


 思い出がくれるのは、罪悪感だけではないと。

 そんな感傷をも撃ち晴らす、もっと尊き想いをくれるのだということを。椎菜は、ようやく知ったのだ。

 左手の痛みが言っている。

 数々の思い出たちが言っている。

 椎菜をただ苦しめているのではない。その痛みは、未来を示す標となった。

 さあ、思い出せ。

 愛を持って叱る顔を。紅葉の中の微笑みを。


「私、覚えてる……!何度も、何回も、私に……、お婆ちゃんが……!!」


 さあ。さあ――――


「ずっと!ずっと!!私に!!!」


 さあ、今こそ――――


「逃げちゃいけないって……、お婆ちゃん……、ずっと、言ってくれてた!!!」


 その罪悪感を、撃ち晴らせ。




「こんな夢、終わらせてやる!!!」






 壁が完全に崩れると、夢の世界が色を取り戻す。

 椎菜の思い出が象られた、広大な世界が再び姿を現した。夢の世界の空を覆っていた暗雲は消え去って、青空が突き抜ける。

 椎菜は、背中に誰かが寄りかかる感触を噛み締めた。

 それが誰か、椎菜にははっきりと分かる。

 背中合わせで、向かい合わずとも、彼の優しさが背中の感触から伝わってくるようだ。

 椎菜が背中を預けると、彼は意外と逞しい背中で支えてくれる。

 ずっと椎菜を支えてきてくれた、スティープスの与えてくれるこの安心感が、今、もう一度彼女を笑顔にした。


「やっぱり君は、笑っているのが一番似合うよ」


「見てもいないのに、分かるの?」


 可笑しそうに椎菜は言った。スティープスは背中合わせのままで、血を流す椎菜の手を、そっと握る。


「分かるよ。分かるんだ、君のこと。嬉しいよ」


 握り返す椎菜は、恥ずかしそうに身を小さくよじり、スティープスの背中に頭をつけて。

 そんな二人の前に、白く巨大な影が湧き上がる。

 白い線の塊の中から、ヴァン・ヴァッケスが、怪物の姿を取りながら現れる。苦悶の表情を浮かべて、二人に迫る。


「ねえ、スティープス。私のお願い、聞いてくれる?」


「いいよ。何だって言ってくれ」


「紫在さんにもう一回会いたいの。だから、手伝って」


「分かった。誰にも君の邪魔はさせないよ。これから何処に行けばいいのか、分かるかい?」


 椎菜から見える夢の世界の景色には、遠目になだらかな丘が見える。その丘の上には、ぽつんと置かれた扉が一つ。


「あのドアを開ければいいの?」


「そういうこと。あとは君次第で、夢から覚める筈さ」


「スティープス」


「何?」


「私、あなたに会えてよかった。また、きっと会えるよね?」


「ああ。会えるさ。絶対に」


 白の怪物が、完全に姿を取り戻す。ヴァン・ヴァッケスが、残された力で襲い来る。


「僕も、君に会えてよかったよ。君はやっぱり、優しい人だった」


 二人は背中を離して、互いに別の道を進みだした。何時か、再び出会えることを信じて。


「さようなら、さようなら!スティープス!!」


 駆け出す椎菜はその場に残り、ヴァッケスに相対するスティープスへ叫んだ。

 スティープスは背中を向けたまま。そんな彼に、椎菜は心の中で繰り返す。


 ――――ありがとう。さようなら。ありがとう。


「さあ!」


 ――――また。


「行くんだ!!!」



 ――――また、何時か。夢の中で――――








Last tale See you next dream








 夢の中を椎菜が走る。舞い散る紅葉の中を、真っ直ぐに。

 ヴァン・ヴァッケスは怪物の姿で、スティープスに巨大な腕を奮う。

 ヴァッケスの全力のそれを、いとも容易く片手で受け止める仮面の男。

 既に白の怪物の力は、スティープスに遠く及ばず。どんなに巨大な体躯であろうとも、体格差を補って、余りある力量差が彼らの間には存在していた。

 力の差に後ずさったヴァッケスは叫ぶ。


「人は恐怖する!夢は恐怖を形に変える!なれば、そこに奴は現れる!!」


 椎菜の行く手に黒い影が現れた。影は大きく広がり、固まって、羊の角を持つ巨大な黒い獣の姿を成した。

 恐怖の獣、ヴァン・ヴァラックが椎菜の夢に顕現する。


「彼女は恐れない!恐怖することに恐れない!!」


 スティープスも叫ぶ。椎菜を知り、理解した彼の信頼は決してゆるがない。

 椎菜は紅葉並木の続く、煉瓦造りの街道を真っ直ぐに、道を塞ぐヴァラックを恐れることなく直進する。


「彼女の優しさは、そういう物だからだ!!優しさは恐怖も受け入れる!!何が待っていたとしても、その足は止まらない!!!」


 ヴァラックの牙が、椎菜を砕こうと開かれた。

 だが、届かない。

 椎菜を守る漆黒の花が、彼女の周囲に花開く。

 ヴァラックの牙を弾く強固な花は、ヴァラックに椎菜の歩みを止めることを許さない。

 椎菜を包み込むような大きな花弁は、時に盾となり、時に細まって槍と化す。

 それは、かつてとある魔女が、椎菜に与えた魔法の力にとてもよく似ていた。

 魔女の生きていた夢の世界はもうなくなって、魔女の魔法の力も失われてしまったけれど。

 椎菜の夢の力によって生まれ変わり、新しい夢の世界でも、魔女との思い出はこうして椎菜を守る。

 魔女の想いの形が、椎菜の道を切り開く。


「御目出度いぞ!!救いがたい程に、スティープス!!!」


 人間の姿になったヴァッケスが、スティープスに殴りかかる。

 しかし、スティープスはヴァッケスの動きを遥かに凌駕した速さで、ヴァッケスを殴り飛ばす。勢いよく転がるヴァッケスは、体勢を立て直し、再びスティープスに向かう。

 スティープスがそれを殴る。殴る、殴る殴る。

 最後に一撃、スティープスがヴァッケスの腹に拳を打ち込んだ。衝撃がヴァッケスの体を突き抜け、空気を揺らす。


「立つな。喚くな。このままここで、死んでいけ」


 スティープスの言葉を聞きながら、ヴァッケスは地に跪き、呻きながらも怪物の姿へと戻っていく。

 巨体を振り回し、まだ荒れ狂うヴァッケスを、スティープスは叩き伏せた。

 それでも立ち上がるヴァッケスは、未だ椎菜の後を追う。


「生きている限り、人は必ず僕を望む!どんな人間でも!それは、確かなことなんだ!!」


 大地を這う巨体を、己が足一つで蹴り抑えたスティープスは、ヴァッケスの首根っこを掴んで投げ飛ばす。

 平原を抉って沈んだヴァッケスを、スティープスは見えざる力で持ち上げる。

 満身創痍のヴァッケスの体が宙に浮かばされ、同じく宙に浮かぶスティープスの前に、その巨体がぶら下げられた。

 ヴァッケスは恐怖に染まった狂気の顔で、スティープスを睨む。


「お前たちのせいで、紫在は一生苦しみ続ける!!己の罪の重さに耐えきれず、必ず僕を呼ぶ!!何度でも!何度でもだ!!」


「いいさ、かかってこい!何度だって、僕がぶっとばしてやるよ!!」


 怒ったヴァッケスが、浮かされたままでありながらも、巨大な拳をスティープスに打ち込んだ。

 スティープスは真正面から拳で拳を打ち返し、それを打ち砕いた。

 地面に落とされたヴァッケスはすぐさま立ち上がり、スティープスに襲い掛かる。


「後悔するぞ、スティープス。お前は何時か、必ず……!苦しむ紫在の姿に、己の過ちを知るんだ!!」


 恐れることなく、スティープスはヴァッケスの前に立つ。

 ヴァッケスは堂々たる仮面の男に、今一度、巨大な拳を振り上げ、在り得ざる速度で何千、何万の拳をスティープスに打ち付けた。

 スティープスはポケットに手を突っ込んで、仁王立ち、全ての拳を微動だにせず身に受けた。


「都合の良い夢を見ていたのは、お前の方だ。ヴァン・ヴァッケス。椎菜がそれを、証明したんだ」


 スティープスの体は傷だらけだ。しかし、その傷は全て以前に受けた物。今や、ヴァッケスは彼に傷一つ付けられない。


「スティープス!!!」


 ヴァッケスが走る。全力で、勢いを乗せて、拳を振り上げる。

 同じくスティープスも構えた。恐れる物は既になく。自信だけがそこにある。


「夢から覚める時間だ!!ヴァッケス!!!」


 打ち込まれる巨大な拳をもう一度、スティープスは真正面から拳で打ち返し。

 その衝撃がヴァッケスの全身に伝わって、白い線で作られた体が砕かれて。

 ヴァッケスの体が、大きな振動と共に崩壊した。

 ホリーの罪の意識が生んだ罪悪感の怪物は、白いクレヨンの線となり、霧散して。

 スティープスの心に寂しさを残し、今度こそ消えていったのだった。


「後は、君と紫在次第だ。椎菜」


 傷だらけのスティープスが空を見上げると、暮れなずむ空の色が切なくて。

 終幕の橙色の中に、スティープスは一つだけ、強く輝く星を見つけた。







 椎菜は漆黒の花で、執拗なヴァラックの追撃を防ぎ、走る。走る。

 街を抜け、平原を駆け抜け、丘を登った。

 夢の出口である扉に辿り着き、椎菜はふと、振り返る。

 雲一つない空が、夕暮れの色に染まっているのが見えた。

 世界中に点在するいくつもの街が見えた。

 そして、一番向こうにそびえ立つ西洋風の城を見つけ。その天辺。一番高い屋根の上。そこに。

 一人の男の姿を見つけた。

 仮面を被った男、執事服を纏った全身傷だらけの彼。

 長い闘いでぼろぼろになったスティープスは、遥か遠い城の上で、屋根に腰を下ろし、椎菜を見送っていた。

 椎菜は見送るスティープスに笑顔で応え、扉を押した。

 扉が開き、光の中へ椎菜は入っていく。


「ありがとう、椎菜。きっと、上手くいく。君のお蔭だ、何もかも」


 紫在の夢へと戻っていく椎菜へ。スティープスはゆっくりと、大きく、手を振った。








 崩壊した世界に浮かぶ、世界の瓦礫で出来た小さな部屋。

 窓も扉もない部屋は、火が揺れる暖炉の灯りだけが、たった一つの光源だ。

 橙色の部屋の中、椅子に座る椎菜の口へ、紫在が作った薬を入れようとしていた。

 コップが椎菜の唇に触れる寸前、椎菜の目は開かれた。

 目覚めた椎菜が見たものは、薬を自分の口に注ごうとする紫在の姿だった。

 立ち上がった椎菜が、紫在を押し退け台所へ歩く。

 そこに置かれた本には、“ともだちのできるくすりのつくりかた”と書かれていて。

 椎菜はコップを紫在の手から引っ手繰り、その濁った色から薬の味を想像し、覚悟を決めた後。

 驚きのあまり後ずさった紫在の目の前で、一気に薬を飲み干した。

 始めに感じる酸味は強く、思わず顔がひくついた。

 口から鼻に感じる香りは、刈られた草のように青臭い。舌に絡みつく苦みがしつこく残り、後味は最悪だ。

 夢の世界で食してきた、どの料理よりも酷い味だった。これを飲む相手の気持ちを、何一つ想っていないのではないかと思える味だった。

 椎菜は自分の手に握られていた純白のナイフを椅子に置いた。

 椎菜が目覚めた時、彼女の手の中に現れた、彼女が自身の夢から持ってきたナイフだ。

 そして、椎菜の左手の甲には、深く、痛々しい傷跡ができていた。できたばかりの傷跡からは、少しではあるが、血が出ていて。

 コップを投げ捨て、椎菜は紫在へ歩み寄る。

 紫在は予想だにしていない事態に困惑していた。突然目を覚ました椎菜に気を押され、紫在は事態の把握ができないままで。椎菜の振り上げた手にも気づかずに。

 勢いよく、張り手の音が鳴った。

 呆然自失の紫在へと振りぬかれた、椎菜の張り手が紫在の頬を思い切り打ち付けて、気持ちの良い音を立てた。

 自分の頬を押さえて見上げる紫在を、椎菜は真っ直ぐ見つめた。

 椎菜はもう、これから何を言うか決めている。紫在の苦しみを、自分も背負うことを決めている。

 自分を愛してくれた祖母のように、一生を懸けて。命を懸けて。


「手紙、ありがとう。あなたがくれた手紙、嬉しかった」


 紫在も見つめている。じっと、椎菜の目から目を逸らすことができずにいる。泣きだしそうな顔で、椎菜を見ている。


「あなたが酷い目に会ってきたこと、聞いたの。スティープスとディリージアから。二人とも、あなたのことずっと心配してた」


「あの……、椎菜さん……。私と……、私と……」


 うわ言のように、紫在は訴える。椎菜に向けて、椎菜の言葉に耳を傾けず。


「あなたがまた元気になれるように、あなたのために、私を手伝ってくれてたの」


「私と……、友達に……」


 紫在は続ける。椎菜の言葉を受け入れず、ただただ、己の感情を口に出す。


「紫在さん、聞いて?私はね……」


「私たち……、友達ですよね……?」


 泣きそうな顔で、へらへらと笑う紫在の顔を、椎菜がもう一発平手ではたいた。

 紫在の体が傾くくらいに強く、左手で。

 紫在の頬に血がついていた。椎菜の左手の傷から出た血だった。

 よろけた紫在の肩に、椎菜は両手を置いて、大きく息を吸い。


 そして、大喝した。


「私は!!あなたの辛いことも、悩んでることも、これからは!!全部、私が一緒に背負ってあげる!!!」


 びくりと身を震わせた紫在は、目を丸くして椎菜を見た。


「あなたがしてきたことだって、全部許してあげる!!誰かを虐めてたことだって!夢の中でしてきたことだって!!全部許してあげる!!」


 紫在は手を握りしめ、椎菜の感情の全てを込めた声を聞く。


「私があなたの、友達になってあげるから!!!」


 紫在はじわりと熱くなる目頭を押さえ。悲しみからか、恐怖からか。涙を溢れださせて、椎菜の瞳を見つめ続ける。

 紫在は顔を逸らそうとしたけれど、椎菜が両手で紫在の顔を押さえ、向き合わせて。


「何時までも、ウジウジ眠ってるんじゃない!!」



「目を覚ませ!!!!」



 瓦礫の部屋に響く声は、紫在の耳にも確かに届いた。

 それはほんの数秒の間であったけれど、椎菜には、長い長い時間に感じられた。

 静まり返った部屋で、暖炉の火が燃える音だけが聞こえてくる。やがて、暖炉の音に、少女の嗚咽が混じり始めた。

 紫在が泣いていた。

 その涙は、決して喜びからくるものではなかった。

 紫在は悲しみに暮れて、泣き出したのだ。自分の思い描いたシナリオ通りにならなかったからと、駄々をこねて泣きだしたのだ。

 椎菜は鳴き喚く紫在から目を離さず、真剣に見つめ続けていた。

 紫在のこの反応も、椎菜には予想できていたことだ。

 紫在の全てを受け入れる、その覚悟を決めて、椎菜はここへ戻ってきたのだから。

 紫在を救うためには、紫在自身が強くならなくてはいけないと分かったから。

 椎菜は、紫在と向き合い続けることを決めた。

 例え、己の身を犠牲にしてでも。

 ひとしきり泣いた後、紫在の中に怒りが湧き上がる。

 思い通りにならない椎菜へと、紫在の怒りは向けられて。紫在がよろよろと椎菜を横切り、椎菜が座っていた椅子へ近寄った。

 そして、紫在は椅子の上に置かれていた、純白のナイフを拾い上げ。

 紫在は振り向きざまに、ナイフを椎菜の腹に突き刺した。

 刺された腹部の痛みに、椎菜はよろめき、紫在の肩に頭を乗せる形でもたれかかった。

 椎菜は流れ出す血を止めようと、傷口を手で抑えるけれど、意味がないことを悟り。

 椎菜は汚れていない方の手で、紫在の頭を優しく撫でた。

 紫在は暴れて逃げようとしたが、椎菜の温もりを感じて、動きを止めた。

 椎菜はじっと動かない紫在を、愛おしそうに抱きかかえた。


「泣いてもいいよ」


 紫在の頭を撫でる椎菜の手は、ゆっくりと、優しく。


「怒ったっていいよ」


 紫在は椎菜の手の温かさに、心を次第に落ち着かせて。



「だから、ずぅっと、元気でいてね」



 椎菜の体から力が失われ、椎菜の体の重さに耐えきれず、紫在は椎菜を床に寝かせた。


「椎菜さん……?」


 紫在は名前を呼びながら、椎菜の体を揺さぶった。


「椎菜さん……、椎菜さん……」


 息も絶え絶えの椎菜に、紫在はまた泣き出した。

 紫在は自分のしたことの重大さに気付き、恐怖した。紫在は部屋の隅へと逃げ、縮こまりながら、倒れる椎菜を震えながら見つめた。


 ――――これでいい。


 そう、椎菜は思う。

 かつて、亡き祖母がしてくれたように、例え命を失くすと分かっていても、紫在を叱ってあげなくてはいけなかったのだと。


 ――――これは、私にしかできなかったことだから。


 ――――紫在さんに、紫在さんを想う人たちの気持ちが、どうか、届きますように。


 瓦礫の部屋が崩れていく。

 夢の世界に残された、最後の空間が形を失っていく。

 紫在は夢の中、たった独り残されてしまった寂しさに包まれた。

 何をしたっていいのだと、そう思ったから。

 好き勝手にし続けた結果、紫在は夢の中でも孤独になって。

 何故だったであろう。もう、紫在は夢の力を使おうとは思えなかった。

 紫在の泣く声だけが、世界の全てだった。

 自分以外何もかも無くなって、紫在は夢の世界で延々と、泣き続け。

 そして。



 そして――――





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