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16th tale

・ある少女の回想  十二


 恐怖と無気力の狭間を揺れる、変わらない日常を過ごしていた私の世界に、ある日、変化が起きた。

 正確には、私から見える世界に。

 ベッドで丸まる私の耳に聞こえてきたのは、外から響く笑い声。

 子供の声だ。多分、私と同じくらいの年齢の、元気で、音の高い声。

 絶えず聞こえてくる声に頭を揺さぶられるのが嫌で、耳を押さえてみるけれど。もういいかな、と耳から手を離せば、まだ聞こえてくる楽しそうな響きが煩わしい。

 何がそんなに楽しいというのか。こうやって苦しんでいる人がいるというのに、本当に気楽なものだ。

 どれだけ経っても声は止まない。時刻は五時ちょっと過ぎ。もうそろそろ、みんな家に帰ってもいい頃だ。

 早くいなくならないかな、と鬱々として待ってみたのに、まだまだ声はなくならない。

 いい加減に苛立って、私は部屋のカーテンを乱暴に開けた。私に無自覚な嫌がらせをしているのがどんな奴らか、その顔を拝んでやろうと、窓から外の世界を覗いた。

 私を悩ませる声は、どうやら、私の家が建つ山の向かいにある公園で遊ぶ、子供たちの声らしかった。

 馬鹿みたいにはしゃぐ子供たちを見下ろして、しばらく公園の様子を観察していると、一人の女性の姿が目に入った。

 大人っぽい茶色の髪と、高校生の物と思われる制服の人。

 子供たちに混ざって遊ぶ、お姉さん。

 そうだ。

 あの時――――






 あの時、私は初めてあなたを見たんです。

 子供と一緒になって、楽しそうに笑うあなたの姿。いつも周りに目を向けて、一人で寂しそうに遊ぶ子にも、仲間外れの子にも声をかける。

 ガラス一枚の向こうにいるあなたは、とても明るく輝いて見えて。

 窓から離れてベッドに戻り、再び目を閉じようとしたのだけれど。どうしてか、遠目に小さく見えただけのあなたの姿が頭から離れない。

 頭の中で、あなたが私に笑顔を向けてくれる想像が浮かんできて。私は久しぶりに、恐怖を忘れて過ごすことができたんです。

 それから、毎日私は、夕方近くになると窓から公園を覗いて。大好きなぬいぐるみを抱えながら、公園にあなたが来るのを遠くから眺めていました。

 あなたと遊んでいる自分を想像して。子供たちが家に帰った後に、少しの間、公園の街灯下のベンチに座って本を読む、あなたの隣にいる自分を想像して。

 あなたなら、私のことを分かってくれると思ったんです。こんな風になってしまった私でも、真っ直ぐ見つめてくれると思ったんです。都合のいい幻想だと分かっていたけれど、本気で信じたくなってしまう暖かさが、聞こえてくる笑い声にはありました。

 だから、私はある日、ついに。

 子供たちがいなくなった公園で本を読む、あなたの所へ行きました。こっそり家を抜け出して、遠い世界だったはずの公園まで、走って。

 私は。

 あなたの、前に。


「あの……!」


 上ずった声でした。長い間使っていなかった喉は、声の出し方をすっかり忘れてしまっていたんです。


「ん?えっと……。私に、何か?」


 あなたの困った顔がこんなに近くで、私は急に恥ずかしくなって。

 折角会いに行ったのに、私は何も言わずに慌ててまた走り出しました。公園を出て、物陰に飛び込むなり、思い切り深呼吸をしました。

 面と向かってまともに話せない。

 綺麗な人だった。声も穏やかで、本当に、素敵な人だった。

 どうしたらいんだろう。どうしたら、ちゃんと話せるだろう。

 不思議と私の中に元気が湧いてきて、私は考えて、考えて。


 そして、私はあなたに手紙を出すことにしたんです。

 何度も家を抜け出して、手紙を書く準備をしました。

 公園にいた、私と同い年くらいの女の子にあなたの名前を教えてもらい。住所が分からなかったから、良くないことだと思ったけれど、あなたの跡をつけて家まで行き、直接郵便受けに手紙を入れて。

 家を抜け出すたびに、私は家族に見つからないようにあの家に戻りました。

 でも、手紙を出した日に、家に戻ったところを家族に見つかり、家を抜け出したことを、父には酷く怒られてしまいましたが。

 でも、あの時の私の胸の内は、不思議に充実した思いでした。

 だって、私の出した手紙、あなたはきっと読んでくれるから。

 七月十五日。二日後に、あなたに会いたいと記した、あの手紙を。


 私の、最後の希望を。







16th tale








 かつて現実に生きていた女の子。誰しもに愛された哉沢ホリーの心には、とある感情が芽吹いていた。

産まれながらに病弱な体を持ったホリーは、両親の愛を受け、心優しく成長していった。

 それ故に、小さいながらに人の痛みが分かってしまう。他人の苦しみを察してしまう。

 病弱である自身が、両親の負担になっていることにホリーが気付いてしまうのも、自然の摂理であったのかもしれない。

 通院や看病、娘が苦しんでいることに思い悩む両親の心は、次第に疲れの色を見せ始める。

 平和に思えた家族の日々には、不穏な影が付き纏っていた。影はやがて形となって、両親の仲に表れていった。

 気性の荒い父が陰鬱な日々に苛立ち、母に怒鳴る声をホリーは別の部屋で聞き続けた。当時、まだ赤ん坊であった弟は両親の険悪な様子に怯え、泣いていた。

 ホリーにとって、これ以上心苦しいことはなかった。父も母も、時折見せてくれる笑顔は疲れを浮かべて。

 何時からこんな風になってしまったのか、かつての笑顔が溢れていた日々は何処へ行ってしまったのか。

 父の怒声に恐怖した。母と弟の泣く声に罪悪感を募らせた。

 ホリーはずっと、怯え、胸を痛めて生きていた。


 そしてある日、ホリーに不思議な友人ができた。家族の怒声が聞こえてきても、目を閉じれば彼女を不思議な夢の世界へと連れて行ってくれる友人。

 哉沢家に代々受け継がれてきたおもちゃの一つ。城の模型のディリージア。

 何十年も人に大事にされてきたおもちゃは魂を得た。人の物と同様の心を手に入れた。後にホリーの願いに応え、ディリージアと同じ存在になったスティープスもそうだ。

 彼らを霊と呼ぶ人もいるだろう。怪物と呼ぶ人もいるだろう。

 奇跡とも言える現象により魂を得たディリージアは、自身の魂に備わっていた不思議な力で、ホリーの夢を現実とは違う別の世界に作り変えた。


 夢の世界での体験は、ホリーに辛い現実を忘れさせてくれた。

 けれど、月日を追うごとに苦しくなっていく体は、ホリーの心を追い詰めていく。ついに学校に行くこともできなくなり、寝たきりの生活となってしまったホリーは、現実を直視することもできなくなってしまった。険悪な家族の様を見聞きすると、罪の意識が彼女を蝕んだ。


 ホリーの無意識が生んだ、二匹の怪物。

 ヴァン・ヴァラックとヴァン・ヴァッケス。

 始めて夢の世界にやって来た時、ホリーは自身の影から這い出てきたヴァラックに身の毛をよだらせた。

 あらゆる物を破壊し、誰しもを殺すその怪物は、ホリーが現実で感じていた父への恐怖が形となって夢に現れたものであったのだ。

 恐怖は自分を守るためにある。そのために、何もかもを寄せ付けず、壊してしまう。

 ヴァン・ヴァラックは、人の心を映す夢という物に表された、恐怖というホリーの感情そのものだった。

 そして、ホリーが現実へ帰ることを拒否した時。ディリージアと仲違いをして、独り夢の世界を駆けたホリーは、紫の丘の上で罪悪感に飲み込まれた。

 家族への負い目と、自分を気遣ってくれていたディリージアへの負い目が重なって。ホリーの心は限界を迎えた。

 現実にも夢の世界にも心休まる場所がなくなってしまったホリーはその時、最後の逃げ場に気付いてしまったのである。

 すなわち、死ぬことが苦しみから逃れ得る、最後の逃げ道であるのだと。

 死んでしまいたいと願っても、小さな少女にそんな勇気があるはずもなく。だからこそ、彼女は心の何処かで、望んでしまった。

 自分に優しく、死ぬ勇気を与えてくれる、誰かの存在を。

 そうして、ヴァン・ヴァッケスはヴァラック同様、夢の力とホリーの無意識によって、夢の世界に生まれてしまった。人の心から消し去ることのできない罪悪感の象徴として、心の何処かで死を望む者に、死ぬ勇気を与える存在として。

 二匹の怪物は、何時の日か紫在の手によって、黒と白の色に表された。そして二匹は、紫在の夢の世界で黒色の怪物と、白色の怪物という形を得た。

 ディリージアの力で、人の心の一部を象徴する存在となったヴァッケスは、ホリーの夢だけでなく紫在や椎菜の夢にまでその姿を現した。

 ホリーにディリージアの奇跡の力を移されたヴァッケスは、誰かが夢を見た時に現れる。その人の恐怖と罪悪感の象徴として。

 心と夢がこの世に存在する限り、ヴァッケスは決して、完全に消えることはない。


 奇跡の夢の力で、人々の夢と夢を渡り歩き、夢で起こったことを現実にまで反映してしまう。現実でその人がどうなろうと、ヴァッケスには関心がない。

 ヴァッケスはただ、人が隠し持つ死の望みを叶えるために、夢の力を使い続ける。

 そう。

 ホリーの生んだ夢の怪物は、夢の中だけでなく、現実すら脅かす本物の怪物になってしまった。


 優しさを持たぬ人はおらず。後悔しない者もおらず。誰しもの夢に、彼は現れ得る。

 ヴァッケスはやがて、ホリーのように紫在も死なせてしまうだろう。最悪の形で、夢が終わる。

 だが、果たしてヴァッケスが死なせるのは紫在だけであろうか。

 この夢の中には、もう一人。




 もう一人、死への憧れを、隠し持つ者がいたのではなかったか。










 ――――ぐらりと、揺れる感じがした。


 まずは地面に足がついていることを確認し、次に自分の体を見渡して、おかしな所はないか見て置く。


 ――――問題ない。


 なら、次は今自分が何処にいるのか推測。

 周りには紫色の実をつけた植物が遠くまで生え並んでいる。そのずっと先に、黒いシルエットを浮かばせるのは紫在のいる城だ。

 振り返ると、小さな丘のなだらかな坂に、草が敷き詰められたように生えていた。

 見覚えのある紫色の景色に、恐らくそこがガレキアの街の近くであるとスティープスは理解した。


 ――――椎菜たちは今頃、城下町へ着いているだろうか。


 スティープスは自分が戻るまで、椎菜たちは城に入りはしないと思っていたが、彼は心配であった。

 身体が戻る前、意識だけが在る暗闇の中で、スティープスはディリージアにヴァッケスの話を聞かされていた。

 ヴァン・ヴァッケスはディリージアに自害させ、ディリージアを永久の暗闇に閉じ込めた。

 ディリージアはもう、この世界に現れることはない。

 今の紫在がディリージアに新しい身体を与えるとは思えないし、そもそも、夢の世界を操る力の大半は、ヴァッケスが握っているに違いない。

 もし、ヴァッケスが椎菜の死を望むなら、夢の力に依って、今、この瞬間にもそれは果たされることだろう。


「やあ。スティープス」


 突然背後から聞こえた声にスティープスは反射的に身を逸らし、回避行動を取った。

 ヴァン・ヴァッケスが、そこにいた。顔に掛かる霧は表情を浮かべることなく揺れている。

 スティープスもこの事態を予想していなかったわけではない。

 ディリージアを殺したのなら、スティープスのことも邪魔に思い、排除しに来てもおかしくはない。


「ディリージアから話は聞いたかい?ああ、答えなくてもいいよ。僕は人の心が読めるんだ」


「なら、初めから聞かないでくれないか」


 スティープスは激しい怒りを隠すことなく声に表した。

 紫在に付き纏う上に、ディリージアを殺したこの男を許すわけにはいかない。

 スティープスはかつてない程に怒りを感じていた。直立するヴァッケスはディリージアに聞いた通り、超然としてスティープスと対峙している。

 圧倒的な力を有するヴァッケスはスティープスに恐怖を抱かせ、また、ヴァッケスの余裕ぶった態度は、スティープスの怒りを更に燃え上がらせた。

 スティープスは怒りと恐怖を胸の奥に押し込んで、ヴァッケスの言葉を待った。


「僕を恐れているのかい?心配しなくていい。紫在は、君の死をまだ望んでいない」


 ヴァッケスに明確な敵意は見られない。スティープスにとっては、それがまた薄気味悪くもあった。


「僕は君を迎えに来たんだ。紫在が君を呼んでいる。哀れな無貌のぬいぐるみ」


「むぼう……?何だお前」


「紫在は僕に、君を連れてこいと言った。僕は連れてくると約束した。約束は守らなくてはならない」


 スティープスの存在を紫在が認識しているということを、彼はこの時改めて確信した。

 ヴァッケスが初めて現れた時に、紫在が見えない筈のスティープスを見ていたのは、決して気のせいではなかったのだ。

 ディリージアのことが見えるようになったのと同じに、紫在はスティープスの姿も見えるようになっていた。そして、スティープスには知る由もなかったことだが、紫在は、スティープスが今まで夢の世界でしてきた事を、ヴァッケスに全て知らされていた。


「いい加減にしろ!何言ってるのか分からないんだよ!!僕がそんな罠にかかると思ってるのか!?変態野郎!」


 紫在が何の意味もなくスティープスを呼ぶ筈がなく、意味があるのなら、それは必ずスティープスや椎菜に害をもたらす物に違いない。

 スティープスはヴァッケスの誘いを怒りを振りかざし、断ったものの、内心では現在の状況に酷く焦っていた。

 このヴァン・ヴァッケスという男には、一切の抵抗が通用しない。ディリージアから聞いた話から、スティープスはヴァッケスの持つ力の恐ろしさを学んでいた。


「お前の手口はディリージアに聞いているぞ!さあ、ナイフを出してみろ。叩き折ってやる!」


 ヴァッケスはスティープスを値踏みするように眺める。そして、さもどうでもよさそうに。


「君にはまだ、償う程の過去がない。君にナイフは渡せない」


 そう言った。


「……、お前の目的は何なんだ?紫在をどうするつもりなんだ?」


「目的……?そうか、目的か。そうだな……」


 ヴァン・ヴァッケスはスティープスの問いかけに深く悩み、答えを見つけると、雄弁に語った。


「人が心の奥底に閉じ込めてしまった、死への憧れ。本当にその人を救うことのできる、死の願いを叶えてあげること。そう、そうだ。どうしようもなく狂おしく、僕はそれを望んでいる」


「何を言ってるんだ、お前は……」


「さあ、行こうか。紫在の所へ」


 誘われるままに紫在の下へ行くのは無論、駄目だ。だがこのままヴァッケスがスティープスを見逃してくれるだろうか。


「僕が行くと思ってるのか?」


 スティープスがここで殺されてしまうこともあるだろうが、それ以前に。


「断っても無意味であると分かっていて、尚も断るのか。どこまでも君は、紫在を裏切り続けるんだね」


 ヴァッケスは、やろうと思えば力づくで、スティープスを紫在の下へ連れていけるのだ。


「裏切る……?僕が、紫在を?」


 スティープスの問いにヴァッケスが答える間もなく、二人の姿は紫色の低木林から消え去っていた。







 鉄の車輪が地面のへこみに合わせて、がたがたと音を立てている。

 城下町へと向かう馬車隊の内の一台。その荷台に乗っているのは、椎菜とレグルスだけである。

 一人と一匹は口数も少なく、半日に及ぶ馬車での移動を過ごした。

 彼女たちの心持ちを示すかのように、次第に空の霧越しに伝わる太陽の光が更に薄まっていった。城下町が近づいていることの証拠だ。

 城下町に常に降る雪を生む雲は、城下町上空に広がって陽の光を遮り、薄暗い世界を作り出す。

 ウッドサイドの街を出発するまで、城下町上空に浮かんでいたヴァッケスの笑顔は、何時の間にか消え失せていた。


 ――――あれは、一体何だったんだろう。


 椎菜はディリージアの安否に不安を寄せた。彼は紫在に会えたのだろうか。


 ――――もし会えていたなら、どうか、彼らの仲が上手くいっていますように。


 椎菜はそう祈りつつ、馬車の車輪の回転が穏やかになっていくのを聞いた。

 馬車から降りた椎菜は、世界中から集まった人々の様子に絶句した。

 姫への反乱を企てる者もいれば、物資の略奪を行う者も。

 ドラム缶の中で火を焚いて暖を取っているかと思えば、火を起こすのに使っていたのは本や衣服だった。

 人が一か所に集まり過ぎて、住める場所がないのだろう、雪が積もっているというのに、路上で生活している人々は、皆生気を失った顔で。

 そこかしこに、心の荒んだ人たちがいた。

 徐々にヴァッケスに壊滅させられていく他の街から逃げてきた人々は、この城下町で、安寧とは程遠い生活を強いられているらしかった。


「酷い……」


「世も末って感じだな」


 ――――痛む。痛む。胸が、痛む。ぐちゃぐちゃに、引き裂かれているみたい。


 椎菜は胸と頭を貫くような痛みに襲われた。

 道行く中で見える人の顔が、何処かからか聞こえてくる泣き叫ぶ声が、椎菜の胸を締め付ける。

 椎菜の足取りは重くなり、レグルスと椎菜の歩調は次第に離れて行って、レグルスがそれに気が付き、椎菜を呼ぼうと振り返ると。


「おい!」


 レグルスは、雪の中に倒れた椎菜を見た。レグルスの声に反応して、倒れた椎菜は、弱弱しく立ち上がる。


「どうした!?しっかりしろ!」


「ごめん。ちょっと、ふらってしちゃって……」


 明らかに、椎菜の顔色が悪い。

 レグルスは近くに休める場所がないか探した。

 しかし、どこも人でごった返している。椎菜にとって心休まる場所など、ここにはない。城下町は不幸で満たされている。見渡す限りの絶望。

 椎菜はまだ、責任を感じているのだ。いくら拭おうとしても、心の底から湧き上がる罪悪感。

 皆は、椎菜だけが悪いのではないと言ってくれた。けれど、だからこそ。

 椎菜は申し訳ないと思ってしまう。夢の世界の平和がここまで壊されてしまったことを。

 一か所に集められた絶望はずっと大きな物に変わり、椎菜の目に映る。彼女の心はもう、胸を刺す苦しみに耐え切れない所まで来ていた。


「行こう。スティープスが戻る前に、もう少し、街の様子を見ておかないと……」


 改めて歩を進め始めた椎菜に、レグルスが後ろからついて行く。

 レグルスは、もう一度椎菜が倒れるようなことがあったなら、迷わず彼女を休ませるつもりだ。人を追い払ってでも、椎菜が休める場所を確保する気でいた。


「止まれ」


 そんな時だ。

 椎菜とレグルスを呼び止めたのは、姫の力に怯え、従う衛兵たちであった。

 城へと続く道は薄暗く、街灯の橙色の光が、道を遮るようにずらりと並ぶ衛兵の群れを照らしていた。二十、三十人はいると思われた。

 レグルスは急いで椎菜の前に回って、椎菜と衛兵の間に入り、威嚇した。

 城下町の民衆はどよめいていた。衛兵たちを恐れている者や、このただならぬ光景に興味を持った者もいた。


「姫様がお前をお呼びだ。至急、城へ来てもらおう」


「……」


 衛兵の一人が、なかなか返事をしない椎菜を無理やり連れて行こうと近寄った。レグルスはその衛兵に、牙を剥き威圧する。


 ――――紫在さんが、私を呼んでいる。


 城下町へ来ていることも、紫在は既に知っていたのかもしれない。やり方はどうであれ、そのくらいのことは、紫在には容易くできても不思議ではなかった。

 椎菜は隣にスティープスがいないことが辛く思える。こんな時、スティープスは自分の背中を押してくれたに違いないのに。

 肝心のスティープスは、まだ戻ってこない。


「行ってくれないか。姫様の所へ」


 椎菜の一番近くに立っていた衛兵が口を開いた。彼の声は力がこもらず、揺れていた。


「もう、みんな限界なんだ。お前が行けば、全てが済むと姫様は言った」


 彼も城下町で苦しむ人々と同じく、弱り果てていたのだ。

 いや、よくよく見ればその衛兵だけではない。

 椎菜に立ち塞がる衛兵たち全員、鎧も汚れ、顔は蒼白で、弱っているのは明らかであった。


「頼む。行ってくれ。これは私たちだけではない。世界中の人の願いでもあると、分かってくれ」


「ふざけんな!勝手なこと言ってんじゃねえぞ!」


 庇ってくれるレグルスの後ろで、椎菜は街の様子に改めて目を向けた。

 苦しむ人たちがいた。

 心の荒れ果てた人たちがいた。

 紫在は何をするつもりなのだろう。世界を徐々に壊して、城下町に人を集めて、そして椎菜を呼び出そうとしている。


 ――――嫌な予感がする。


 けど、もし紫在を止めることができるのなら。ディリージアが言った通り、それが椎菜にしかできないことだというのなら。


「……、行きます」


「お前、いいのかよ。まだスティープスが……」


「大丈夫。紫在さんと会えるなら、行かなきゃ」


 椎菜が進み出ると、衛兵たちが椎菜を囲い、レグルスと椎菜を引き離してしまった。

 そして、衛兵の隊列は槍を構え、レグルスに槍先を向けた。


「レグルス!」


「おい……、どういうことだ!」


「連れて行くのは、この女だけだ」


 レグルスは、衛兵に槍で追い払われるように、雪の上を後退させられていく。

 怒りに唸るレグルスの口から強く噴き出る白い息が、その度合いを皆に伝えた。

 椎菜は、どんどん遠く離れて行くレグルスの姿を、舞う雪の中に見失わないよう、必死で腕を掴む衛兵の制止に抗って、レグルスの下へ行こうとした。

 けれど、衛兵は椎菜の腕を掴んで離さなかった。

 椎菜とレグルスの距離が大きくなり、互いの姿が見えなくなる前に、一人と一匹は叫んだ。


「大丈夫!私は、大丈夫だから!一人でも、紫在さんに会ってくるから!だから、待ってて!!」


「駄目だ!一人でなんて、行かせないぞ!!絶対に助けに行くからな!絶対に!!待ってろよ!!」


 掴まれた椎菜の腕に衛兵の鉄の小手が食い込んで、痛みに椎菜が悲鳴をあげると。それを聞いたレグルスは、もう一度大きく叫んだ。


「助けに行く!!あんたの所に、絶対追いつくから!!」


 衛兵の影に隠れて、レグルスの姿が見えなくなって。椎菜を一抹の寂しさが襲った。

 ついに椎菜は孤独となって、一人、紫在の下へ向かうのだ。

 城下町には、冷たい風が吹いていた。腕を乱暴に引っ張り、椎菜を連れていく衛兵たちの足音が響いていた。

 降る雪の強さが増していく。全てを白で覆い尽くしてしまうくらいに。

 椎菜は衛兵たちに連れられて、堀に囲まれた城へ続く、橋の前までやって来た。

 橋に立てられた大きな門は、深くひしゃげて、門扉は片方が取れてしまっていた。

 椎菜は恐々として、その壮絶な景色を通り過ぎた。

 何が起きたらあんな壊れ方をするというのか。ここで何が起こっていたのか。

 椎菜には、知る由もなく。ただ、橋の手前を通った時、前を歩く衛兵たちの足で退けられた雪の下に広がっていた、多量の血の跡と思われる赤色が、椎菜に更なる恐怖をもたらした。







 世界の果て、ディリージア城の入口が開く。

 衛兵たちは橋の中腹で立ち止まり、椎菜だけを扉へと向かわせた。

 すると、十メートルはありそうな巨大な扉が、重く引きつる音を立てながら一人でに開き、煌びやかな城の内部を見せた。

 紫在が待つ城の中へ、椎菜は覚悟を決めて足を踏み入れた。

 またも、一人でに閉まっていく扉の音を響かせて、危険な雰囲気が立ち込める城は椎菜を飲み込んだ。

 赤いカーペットが敷かれた広間は、無数の蝋燭の灯りを受けて、奥には階段が。椎菜が首を回して内部を見渡していると、彼女の顔の横を、白い霧の線が通った。

 椎菜の背後から伸びてきたその線は、そのまま階段の方へ伸びていき、階段を上がった先へと消えた。線は、明らかに椎菜を導いていた。

 紫在の仕業であろうことは明確で、椎菜はあえて誘いに乗って、線について城の中を歩いて行った。

 階段を上ると、その先には更に広い広間があった。床には赤と金のカーペットが目立つ、壁を埋め尽くす曲線の幾何学模様の場所。

 その奥には、またも階段が。上階へ続くと思われるその螺旋階段は、部屋の天井を突き破って作られていた。

 白い線は、クレヨンの線に見えなくもないその線は、螺旋階段の上へ伸びていく。

 椎菜は螺旋階段を上り始めた。すると、何処かからか、椎菜に語りかける声が響き渡った。


「紫在は“ホリー”を殺した。“ホリー”は死んだが、消えることなく、紫在の中へと還っていった」


 椎菜は辺りを見渡したが、誰の姿も見受けられない。

 優し気に、しかし、どこか嘲笑う色を含んだ声は、続ける。


「紫在の捨てた優しさが、紫在の中に戻ってきた」


 声を恐れながらも、椎菜は階段を上がっていく。


「だから、僕は再び形を得た。ずっと霧の中から見守っているだけだった僕が、こうして、世界に現れることができた」


 燭台の灯りに照らされた、暗い螺旋階段を、一歩一歩、踏みしめて。


「紫在は、優しさを取り戻した。だから紫在は、“それ”を思い出した」


 椎菜が階段の終わりに近づくと、その声は最後に、言った。


「罪の意識。そう、それは、優しさが生む絶望」


 そして、椎菜は螺旋階段を上がったその先で、階段の終わりを告げる扉を開けた。

 そこには、見覚えのある広間があった。煌びやかな装飾は、下の広間と変わらない。しかし、部屋に置かれた机のいくつかが壊れ、床には血の跡があった。

 椎菜はこの場所を知っている。ずっと前に来た場所だ。ここは、スティープスと騎士が戦った広間であった。


「お久しぶりだね。僕のことは覚えているかな?」


 何もなかった場所に突然現れたスーツの男。全身に白を纏うその男、ヴァン・ヴァッケスは、椎菜の正面に直立して、彼女に語りかけた。


「……。知らない」


 椎菜はヴァッケスを警戒し、後ずさりながら答えた。


「もう何度か会っているんだけどね。仕方がないか。夢というのは目覚めれば一瞬で忘れ去られてしまう物だ。そういうことには覚えがあるんじゃないかな?」


 このヴァッケスの言葉は椎菜を強く動揺させた。

 椎菜はヴァッケスに対峙する姿勢は変えずとも、内心では、いつか来たるこの夢の世界との別れの時への不安が押し寄せて。


 ――――夢が終わった時、私は、この夢のことを覚えていられるのだろうか。


 そんな心配がちらついて。


「あなたは、なんで紫在さんに付き纏うの?」


「紫在が望むことを、叶えるために」


「それは……、何?」


「何だと思う?」


「……、仲良くなること。誰かと仲良くなって…、独りじゃなくなること」


 ヴァッケスは笑った。

 白い霧に包まれた顔は、表情を隠されて窺がえない。

 しかし、確かに彼は笑っていた。不快な笑い声が広間に、城に響く。

 ヴァッケスは笑うのを止めると、言った。


「違う。違うなぁ。違う違う」


ヴァッケスは広間を無作為に歩き回る。直立の態勢を崩し、腕を組んで、取り留めもなく。


「君には分かるんじゃないかなぁ?箕楊椎菜。紫在と同じに、君も、ホリーも、ディリージアも。生きていくには優しすぎる君たちには、ね」


 椎菜が黙ったままでいることを確認し、ヴァッケスはまた笑った。


「君も望んでいることだ。そうでなければ僕は君の下に行くことはできなかったのだから」


「私も……、望んでいること……」


「君たちは、罪の意識を心の底に封じ込めている。償うことすらできなくなった罪に、君たちの心は追い込まれている。そしていつの日か、このままでは逃げることができないと気付いた時。君たちは生きることを諦め、そして――――」


「……」



「死を望む。それが最後の逃げ道だと、理解する」



 ヴァッケスの姿が、椎菜の視界から消えた。

 椎菜はざわつく心中でヴァッケスの言ったことを反芻しながら、揺らめく蝋燭の火を眺め。


「僕はね、君たちの余計な感情を取り払ってあげることができるんだ。死にたがる君を引き留める物を、全部。僕のおかげで、ホリーもディリージアも死ぬことができた」


「!?」


 まだヴァッケスは去ってはいなかった。椎菜は背後から聞こえた声に驚愕し、振り向いた。


「ディリージアが……、死んだ……?」


「ああ。そうさ。死んだよ。君も、その時は近いんじゃないかな?」


 椎菜の足が震える。

 夢の中だからとか、怪物だとか。そんな類の恐怖ではない。

 椎菜は、夢か現実かを問わず、心に根差した何かが、この男の力であると感じた。自分の心すらも、この男には見透かされているかに思えた。


「私は……、死なない。紫在さんだって……、死なせない」


 体の感覚を感じない。頭の中が乱雑な線でかき乱されるように恐怖で埋め尽くされていく。

 やっとの思いで言い放った椎菜の言葉も、ヴァッケスは平然と聞き止めた。


「哀れな人だ、君は。僕なら君を救ってあげられるのに」


「そんなの、救うとは言わない。ディリージアだって……、本当はそんなこと望んでなかったに決まってる」


 椎菜の前に、再びヴァッケスが姿を見せた。

 ヴァッケスは広間の奥、階段の上の大きな扉へと敷かれた、カーペットの脇に立って。重々しく開き始めた扉に手を掲げて、椎菜に先へ進むよう促しながら。


「違うな。彼は心の底でずっと望んでいたんだ。心の中にある、他の気持ちに邪魔されて、我慢するしかなかっただけで」


 椎菜は開かれた扉へと足を踏み出した。

 階段を上り、世界の果てで椎菜のことを待ち続けていた、紫在の下へ。椎菜は前を見つめて、力強く、ヴァッケスの前を通り過ぎ。


「さあ、行くといい。我らが姫が呼んでいる」


 ついに、箕楊椎菜は、哉沢紫在へと辿り着いた。







 ああ。どれ程の。

 どれ程の時間を待ちわびただろう。あなたがその足で、その意思でここまで来てくれるこの時を。

 そうだ。これこそが、私の思い描いた夢の形なんだ。随分と遠回りになってしまったけれど、あなたは私を迎えに来てくれた。

 私を想って、幾多の壁を乗り越えて。誰よりも優しい心を持って、私のために。

 さあ。今、私の下に。

 その想いを砕かれに、やって来る。






「来てくれたんですね。椎菜さん」


 不可思議な模様が部屋を彩り、壊れたシャンデリアが宙に浮いて、不気味に部屋を照らす。

 玉座に座る紫在は、感情を顔に浮かべず椎菜を迎えた。椎菜は一呼吸置いて、心を落ち着けてから、口を開いた。


「来たよ。あなたのことを聞いたの。スティープスとディリージアから」


 紫在が立ち上がる。苛立たし気にも聞こえる靴音を立てて、椎菜の正面に立った。

 そして、佇まいを整えて、小さな笑顔を作り、紫在は言った。


「じゃあ、私と友達になってくれますか……?」


 椎菜は驚き、それから喜んだ。

 紫在が椎菜と仲良くなる気があるのだということが、椎菜の緊張をいくらかほぐした。

 紫在は自分に敵意を持っているのではない。会ってすぐに殺されてしまうことも想定していたけれど、これならその心配も杞憂であったと。

 ただ、椎菜には、紫在に言わなくてはならないことがある。


「私でいいなら……、いいよ。でも……」


「……、でも?」


「私はあなたがしているのは良くないことだと思う。だから……」


「だから?」


 苦しむ人々の姿を、魔女の死に様を、騎士の死に様を、ホリーの死に様を。思い出して。


「せめて、謝ってあげて。あなたが傷つけた人たちに。もう、会えない人たちにも」


 このまま紫在を許しては、何の解決にもならないと、椎菜は思って。




「いや」


 紫在がそう答えることも、分かっていたけれど。それでも、これが唯一の紫在と分かり合う道であると、椎菜は信じている。

 本当に紫在と友達になるための、たった一つの道であると。

 椎菜は、紫在が憤るのを目を逸らさずに見つめている。

 紫在は救われなければならない。それが、椎菜が夢の中で出会ってきた人たちが望んでいたことなのだから。

 そして、紫在を救えるのは。ここにいない、死んでしまった人たちではなく。

 ましてや、ここにいる椎菜でもなく。


「私は謝らない。誰にも謝らない。絶対に」


 紫在。彼女自身だけなのだから。

 紫在本人が己の罪を知らぬ限り、過ちは何度でも繰り返されてしまうのだから。


「どうして……?可哀想だと思わないの……?死んじゃった人もいるんだよ……?」


「いいじゃないですか。死んだって。だってこれ、夢なんですよ?現実じゃないんだから、何したっていいじゃないですか」


 その言葉が、椎菜の中に押し込められてきた憎しみを沸き立たせた。

 紫在に殺されてきた人々の、傷つけられてきた人々の姿が思い出されて、椎菜は思わず叫んでいた。


「よくない!!!」


 椎菜の声が荒立つ。

 しかし、紫在は笑っていた。椎菜を可笑しなものを見る目で見ていた。


「あの騎士の人だって、魔女のお婆さんだって、あなたのこと、本当に大切に思ってたのに……」


「あっちが勝手にそう思ってただけです。私には、関係ない」


「普通の夢なら、それでいいのかもしれない。けど、ここは違うでしょ!?みんな生きてたのに……。あなたと同じように、いろんなことを悩んでたのに……」


「知りません。そんなこと」


 紫在は自らの非を認めない。ただ、笑うだけ。


「私が悪いんじゃないですから」


 椎菜が紫在の頬を叩こうと手を振った。しかし、椎菜の手は紫在の足元から這い出る白の線に巻き取られ。

 線が椎菜の腹を打ち、椎菜を床に倒れ込ませた。


「スティープスたちから聞いたんでしょ?私のこと」


 線が椎菜を打ち付ける。何度も椎菜の体を痛めつける。

 黒い花が椎菜を守ろうと、椎菜の周りに現れる。けれど、漆黒の魔法は、依然より遥かに強まった紫在の力の前に、意味を成さず。あっけなく白の線に砕かれて、何度現れても、すぐさま散っていってしまう。


「私がどんなことされてきたか、知ってるんでしょ?なのにそんなこと言うんですか?」


 紫在は怒りを露わにし、椎菜を執拗に線で打ち付けた。死なない程度に、気を失わない程度に力を抑え、できる限りの苦痛を与えようとしていた。

 黒の花弁は諦めずに椎菜を守ろうと現れるのに、紫在の力の前に、椎菜を守ることができなくて。


「まだ私は我慢しないといけないんですか?もっと辛い思いをしないといけないんですか?」


 散々傷つけられた末、椎菜は幾何学模様の上に転がされた。

 紫在に言い返すこともさせてもらえない。全身が痛みで熱い。

 しかし、恐怖が体を埋め尽くそうとしても尚、椎菜の目は強く輝いていた。

 まだ、椎菜は諦めてはいないのだ。

 紫在の言葉に胸を痛めつつ、彼女のことを理解しようと、椎菜は必死に頭を動かした。痛めつけるのを止めた紫在は、椎菜から目を離し、部屋の扉を開いた。


「来た」


 再び玉座に座り、紫在は城の中をやって来た、もう一匹を笑って迎えた。

 衛兵たちに追い払われた獅子が一匹、城の中を駆けてやって来る。

 壁を這い上がるのに、無理に使いすぎた爪は根本から血を流し、彼の四肢は痛々しくも赤く染まっていた。


「また忍び込んだんですか?ライオンさん」


「おい!おい!!大丈夫か!!?」


 紫在を無視して、レグルスは椎菜の様態を確認しに走った。息も絶え絶えに、力なくレグルスに反応した椎菜は、声を出すことも辛そうだ。


「痛いけど……、まだ……、大丈夫……」


 レグルスは紫在を睨みつけ、牙を剥く。

 怒りに囚われたレグルスには、紫在の力がどんな物かも気にさせない。

 笑う紫在に、レグルスの怒りは逆撫でられた。

 咆哮と共に、レグルスは紫在の首本にかじり付こうと、飛び掛かる。

 紫在は一つも恐れず、白の線を奮って、レグルスを床に叩き落とした。椎菜の時とは違い、紫在はレグルスを殺してしまう勢いで、レグルスに線を振り落としていった。

 床を崩し、血をまき散らして、レグルスの体が壊されていく。レグルスの息の根が止まる直前に、紫在は動きを止め、彼を解放した。


「レグルス……、レグルス……!」


 椎菜が叫んだ名前を聞いた紫在は、不愉快そうに玉座の手すりを指でつつく。


「それは……、ライオンさんの名前?へぇー、そう。そうなんだ……」


 椎菜は、紫在の言葉に、違和感が一つ。

 “ライオンさん”と、紫在がレグルスを呼ぶことが、椎菜には何処か引っかかる。


 ――――何だろう。なんで、こんなに気になるんだろう。


「私がいない内に、椎菜さんたちはまた仲良くなったんですね」


「お前なんかと……、誰が仲良くするんだ……」


 傷だらけのレグルスが悪態を吐く。彼は紫在の小馬鹿にした笑顔が気に食わない。だが、彼の言葉が、紫在の笑いに拍車を掛けた。


「変なの。あんなに仲良くしてくれたじゃないですか」


「誰がだ!!この屑野郎!!ホリーを殺したくせに、そんなことが言えるのか!!!」


 紫在は笑いを堪えきれず、噴き出した。


「ホリーって、私のことですよね?ライオンさん、もう私、そんな名前じゃありません」


 レグルスは激昂し、紫在を噛み砕こうと走るけれど。紫在は可笑しそうに笑いながら、線でレグルスを叩きのめして。

 傷付き倒れた椎菜とレグルスの様子を見渡してから、紫在は一つの事実を語った。


「まだ気付いてくれないんですか?あなたたちが言ってるホリーは、私なんですよ」


 レグルスの尻尾が一人でに動く。

 レグルスの意志ではなく、紫在の力に依って、尻尾の毛が形を変える。毛は精密に動き、尻尾には三つ編みが幾つも作られた。

 椎菜とレグルスが思い出すのは、いつの事だったか、ホリーが会話に混ざれなくて、レグルスの毛を弄る光景であった。

 椎菜たちは、信じられない物を見る目でその光景を見ていた。


「湖の妖精たち……、綺麗だった……。みんなと一緒にいるのは、楽しかった……。でも……」


 椎菜は、自分が感じた違和感の意味を知る。

 椎菜たちがホリーと呼んでいた女の子の、本当の末路を知ったのだ。


「私は死んで、元の私の中に帰って来たんです。みんなといた時のことも、ちゃんと覚えてる。けど、お姫様と一つになったら、なんかもう、全部どうでもよくなっちゃった」


 あんなに慕ってくれていたホリー。

 椎菜は、楽しかった時間を思い出す。

 確かに、楽しかったのに。ホリーだって、あんなに楽しそうにしていたのに。


「椎菜さんみたいになりたいって思ってました。でも」


「ホリー……?」


「私はあなたとは違うんです。あなたみたいに、幸せに生きてきた人とは、違うの」


「ホリーなんでしょ……?なんでこんなことするの……?」


「学校の奴らも、家の奴らのことも、許せない……!」


 スティープスのことも、ディリージアのことも、レグルスのことも。

 全部、どうでもよくなってしまったと言うのか。


 ――――あの、ホリーが?


 ひび割れた心から、紫在がずっと押し込めてきた怒りが漏れ出した。

 紫在の怒りはやがて、堰を切って溢れ出す。

 全ての過去に、椎菜の言葉と存在に、紫在の心は揺さぶられ。感情が爆発する。


「ホリー……!」


「私は……!」


「ホリー!!」


「私は、ホリーなんて名前じゃない!!!」


 紫在の顔から笑顔が消えた。

 紫在自身の歪んだ笑顔が、憎悪に染まる。彼女の怒りの矛先が向くは、一匹の獅子。

 レグルスにとどめを刺そうと、紫在の力が奮われる。部屋一杯に広がる無数の白線が、レグルスを貫こうと飛び交った。

 椎菜はレグルスを庇おうと、彼の前に身を投げた。紫在の力から椎菜を守ろうと、黒い花が現れる。

 かつていた、魔女の償い。紫在の幸せを願った魔女の魔法が、白い線に立ち向かう。

 椎菜の付ける髪飾りがひび割れた。魔女が娘へ贈った髪飾り。椎菜に魔法の力を授ける髪飾り。

 魔女の髪飾りが、持てる力の全てを以て、椎菜とレグルスを線から守る。


「逃げろ……!あんたは……、逃げろ!!」


「やだよ……、だって、あなたもホリーもいるのに……、私だけなんて……」


 レグルスの怪我は致命的だった。全身に深い刺し傷が開き、血が流れ、骨も折れて、レグルスの体は動かすことすらできなくなっていて。


「なんで?なんで……、私じゃないの?なんで、私じゃないやつと仲良くなるの!?」


 紫在は怒る。線の力に抗う魔女の力と、レグルスの声に。


「いらない……!そんなやつら、いらない!!」


 塵となって霧散しながらも、椎菜たちを守ろうと形を保つ漆黒の花に向け、紫在がより一層多くのの線を構えた。


「椎菜さん……。私、本気ですよ……?」


 急に床が無くなって、遠く眼下に地面が見えた。

 落下の恐怖に、椎菜は背筋を凍らせたが、すぐに自分たちが宙に浮いているのだと分かった。

 正確には、紫在の力で、城自体が透明となって、外の景色が見えるようにされていたのだ。


「何のために、城下町に人を集めたんだと思いますか?世界中の人が、こうやってすぐそこに見える場所にいるんですよ?」


 視界一杯に影が差す。椎菜が空を見上げると、そこには巨大な怪物がいた。

 ヴァン・ヴァッケス。

 羊の角を生やす丸い頭に、人間の物と似た両腕を提げて。空を覆うほどに肥大化した両手を合わせて、強く握り、高く高く、掲げていた。

 ヴァッケスの目線の先には、世界中の人が集まった城下町が。


「止めて……。お願い……、止めて……」


 椎菜が紫在のしようとしていることに勘付いて、懇願するけれど。紫在はそれを見て、口の端を吊り上げた。そして、紫在が左手で、軽くヴァッケスに合図を送ると。

 ヴァッケスの拳が、城下町へと振り下ろされた。

 城下町にいる人々は皆、御伽噺の通りの光景に恐怖した。

 立ち竦み、逃げ惑い、ヴァッケスの拳が落ちてくるのを見上げて。

 けれど、誰も逃げることは叶わず、一人残らず、平民も兵士も関係なく、平等に、全員が建物と共に、跡形もなく潰されてしまった。

 ヴァッケスが拳を上げると、かつての面影を欠片も残さぬ姿に変わってしまった城下町に、世界中の人々の真っ赤な血が、川となって流れていた。

 ぐしゃぐしゃに潰されていく街並みと、夢の住人たちを、椎菜はその目ではっきりと見届けてしまった。

 姫の警告に従い、世界中からヴァッケスの脅威に晒され、集められた人々は、皆、椎菜の目の前でその命を砕かれた。


「こうやって……、あなたに見せるためですよ?あなたの目の前で、私が本気で何でもするって、教えてあげるため」


 椎菜は眩暈がして、体のバランスが取れなくなって。元に戻った城の床に、椎菜は手を付いた。

 呼吸の感覚が速くなる。胸の痛みが喉から伝わって、椎菜に吐き気を催させた。警鐘を鳴らす頭は、思考できなくなるまでに追い詰められた。

 レグルスに向けて、紫在が白の線を構え直す。彼女が本気でレグルスを殺すつもりであることを、椎菜もレグルスも理解した。

 笑う紫在が涙を流す。涙を拭いながら、笑っている。泣きながら、笑いながら、夢幻の力をレグルスに向ける。

 四つの足で立ち上がり、椎菜へ血に塗れた顔を向け。死を覚悟したレグルスは椎菜に言うのだ。

 彼の最期、残された大事な人を想う、彼の願い。


「なあ……、なんでこうなったのか……、何が何だか、俺にはさっぱり……、分からないんだ……」


 椎菜はレグルスを抱き寄せた。

 一人と一匹には、紫在から逃げる力も残されてはいなかった。けれど、レグルスは椎菜に望む。

 別の世界からやって来たと言う、椎菜と過ごした長い旅路を、彼は想い浮かべた。

 それは不幸の多い時間だった。

 だが、後悔はなかった。

 彼は己が選んだこの道を、誇りを持って、最後まで進む。

 なぜならば。


「けどさぁ……。あんたは、生きててくれよ……。もうあんたぐらいしかいないんだよ……。俺に笑ってくれるのはさ……」


 レグルスは、この道を進んだ意味はあったのだと、確信しているからである。


「だから、頼むよ。生きててくれよ……。無茶かもしれないけど……」


 誇りを胸に逝けるだけの価値がある、尊き想いを。光り輝く覚悟と優しさを、己の最期まで、確かに見届けたからである。


「せめて、あんたはさ……。どっかで、笑っててくれよ………」


 白い線が空を裂き、漆黒の花に突き刺さる。花はやがて、髪飾りと共に砕け散り。

 無数の線は、レグルスを貫いた。彼の全身を突きぬけて、彼を串刺しにした。


「レグルス!!!」


 血を滴らせ、レグルスは痛みに体を動かそうとも、突き立てられた線に抑えられ。

 レグルスは身体に力が入らなくなっていくのを感じながら、椎菜やスティープス、ディリージアのこと、楽しそうに笑うホリーのことを思い出しながら、目を閉じて。

 楽しかったことを一つ一つ思い出しながら、ゆっくりと死んでいった。

 夢の住人でありながら、現実の世界から来た椎菜を見守り続けた、一匹の獅子の最期であった。







 聞こえてくるのは、心臓の鼓動。

 自分の命が在ることの証明。椎菜は静まり返った部屋で、レグルスの亡骸に泣きついていた。

 紫在は呆然と虚空を見つめ、ぼそりと声を漏らした。


「殺しちゃった……」


 一度口に出せば、心の枷も次第に外れ、紫在の声が弾んでいく。


「殺しちゃった!殺しちゃった!私、ライオンさんを殺しちゃった!!」


 椎菜には、冷たくなったレグルスに触れる感触が、どうしようもなく悲しかった。椎菜は服が血に濡れてしまうのも構わずに、レグルスの死を悼み続けた。

 紫在のはしゃぐ声が聞こえてきても、もう怒りが湧くことはなかった。ただ、悲しさだけが在った。


「……」


 椎菜は笑う紫在を、気力を失った目で見た。そして、自分の言葉は紫在には決して届きはしないのだと実感した。

 途端に、椎菜の目から涙が溢れ出す。

 自分を信じ、紫在の下へ送り届けてくれたスティープスたちの気持ちを想うと、紫在の幸せを願っていた魔女たちの気持ちを想うと、辛かった。

 締め付けられる胸の痛みは耐えがたく。椎菜は泣きながら、誰かの助けを求めた。

 皆死んでしまった世界で、椎菜は最後の希望である彼の名前を呼んだ。


「スティープス……。スティープス……」


「スティープス?」


 紫在は待っていたと言わんばかりに声を張り上げ、椎菜に答えた。


「ああ、スティープス。何時だって、あなたを助けてくれるスティープス?」


 紫在が右手を上げて合図を送る。誰に送ったかと言えば、当然。ヴァン・ヴァッケスに他ならず。

 他には、誰もいないのだから。この世界に、他に生きている者はいなくなってしまったのだから。

 何もない空間に、人間の姿を現したヴァッケスは何かを引きずって、その何かを椎菜の前に放り投げた。


「はい。これでしょ?」


 それは、ヴァッケスに瀕死に追いやられるまで痛めつけられた、スティープスだった。


「スティープス!!」


 大事な者たちが次々と殺され、傷つけられていく。

 逃げることは許されない。逃げ場も存在しない。

 椎菜は、粉微塵になるまで、身を裂かれる思いであった。誰も守れなかった自分の無力さが怨めしい。期待に応えることができなかったことが、申し訳なくて、悲しくなって。


「スティープス!!起きて……、ねえ、起きてよ……」


「椎菜……」


 消え入りそうに弱り果てた声ではあったが、スティープスが返事をした。

 椎菜は世界と己を飲み込む苦渋の中で、最後に残された安らぎにしがみつく。


「よかった……」


 自分の気持ちをどうすればいいのか。これからどうすればいいのか、椎菜には分からない。

 紫在が自分をどうするつもりなのか、想像するだけでも恐ろしく。


「レグルスが死んじゃったの……。ディリージアも……」


 溜まり切った弱音を吐こうとする椎菜に、スティープスは口を挟んだ。


「椎菜……、よく聞いて」


「え……?」


「落ち着くんだ……。どんなに辛くても、落ち着いて、自分がどうするべきか考えるんだ。そうじゃなきゃ、きっと、君はまた後悔することになる」


 今の椎菜にとって、これほど残酷な言葉もなく。

 何故、スティープスがそんなことを言うのか。椎菜は、一人取り残されてしまうかの不安に襲われた。

 スティープスに縋る椎菜の心は悲鳴を上げる。苦痛に耐え切れない。とことんの所まで、椎菜は追い込まれていた。


「スティープス……。でも、私……、もう……」


「ねえ」


 二人のやりとりを、紫在が黙って見ている筈がなく。

 二人に近寄り、スティープスを見下ろす紫在の目には、怒りが宿っていた。


「ねえ、なんでいつも私の邪魔するの?」


 明らかな害意のある線の一撃が、スティープスに振り下ろされた。スティープスは弾き飛ばされ、壁を壊す勢いで、壁に強くぶつかった。


「どうしてずっと椎菜さんと一緒にいたの?あなたばっかり仲良くなって、どういうつもりなの?」


 紫在の頭上に線が寄り集まって、線は白い剣となった。

 剣を掴んだ紫在は、その切っ先をスティープスに迷うことなく突き刺した。スティープスの悲鳴を気にも留めずに、剣でスティープスを乱暴に続けて切りつける。


「ねえ、ねえ」


 肉を抉り、血をまき散らせて、スティープスを切り刻む。


「そんなに私のことが嫌いなの?私、あなたを大事にしてたのに。そんなに私が嫌だったんだ」


「止めて!お願い!!お願い……」


 ――――こんな筈じゃ、なかったのに。


 スティープスは紫在の暴力を身に受けながら、一体自分はどうすれば良かったのか、悔やみ続けていた。


 ――――紫在を救ってあげたかったのに。また、優しかった頃の紫在に、毎日が楽しそうだった、あの頃の紫在に戻って欲しかったのに。


 椎菜やディリージア、レグルスまでを巻き込んで、最悪の結果を招いてしまった己をスティープスは呪う。

 全身の痛みが罰であると感じた。紫在のことを分かってあげられなかった罰だ。未熟すぎた己を裁く、紫在からの罰に他ならないのだ。


「どうせ、ホリーの方がよかったんでしょ?ずっとそう思ってたんでしょ?」


 スティープスの心臓に剣の先を当てて、紫在はスティープスを脅す。

 しかし、スティープスは慌てふためくこともなく、話を続ける紫在を見つめていた。

 スティープスの胸に渦巻く感情は、悲哀か。悔恨か。


「ホリーの方が良かったって、思ってたんでしょ?!」


「紫在……、僕は……」


 誰も彼もが、紫在とヴァッケスの前には無力であった。

 どんな想いも、どんな力も、決して彼女たちには及ばない。

 どういう形であれ、椎菜たちが破滅する事は決まり切っていた運命なのだ。紫在の気まぐれ一つで、その破滅はもたらされ得たのだから。

 仰向けに倒れ、紫在の剣から逃げようともしないスティープスに、椎菜は危険を感じ取る。

 スティープスは抵抗する気力を失ってしまっているのだ。剣が心臓を貫くのを、スティープスが黙って受け入れてしまいそうな危うさが、椎菜の口を動かせた。


「お願い……。何でもするから……、あなたがして欲しいようにするから……。もう、スティープスを傷つけないで……」


 紫在は表情を変えることなく、不機嫌そうなままで、椎菜の懇願に耳を傾けた。

 紫在の不機嫌な顔の裏では、悲しみと歓喜が混じる、狂った感情があった。

 紫在は、椎菜に課する新たな罰を思いついたのだ。もっともっと、椎菜の心を追い詰める、完全に破壊してしまえる見世物を。


「ふ~ん。なんでもするんですか?へぇ~」


 紫在はスティープスの心臓に向けていた剣を離し、椎菜の周りをぐるぐる歩き回り。


「良いこと思いついた」


 紫在が姿を消した。

 椎菜は怯えて、部屋を見渡して、紫在の姿を探した。しかし、紫在の姿は何処にも見受けられない。

 椎菜はスティープスを心配し、彼の様態を確認した。


「スティープス……!お願い、しっかりして……」


「椎菜……、ごめん……、君を守ってあげられなくて……」


 スティープスは、まだ死んではいなかった。あわや心臓を貫かれる所であった彼は、満身創痍といえども生きている。


「いいよ。いいの。よかった……、よかった……」


 椎菜の溜まり切った不安が、溜息となって声に乗る。椎菜はスティープスを肩で担ぎ、急ぎその場を離れようとした。

 逃げなくてはならない。そう思うけれど、紫在から逃げられる訳がないと椎菜にも分かっていた。

 けれど、分かっていても、椎菜はそうしなければ、いてもたってもいられなくて。

 玉座のある部屋を出て、螺旋階段に続く広間へ出た時。椎菜は遠くから鳴り響く地響きを聞いた。

 それは徐々に徐々に、近づいてくるような様子であった。音の正体を確かめるため、椎菜とスティープスは、広間の窓に近寄って。

 そこで。


 世界の終わる光景を見た。


 地平線の彼方からやってくる、巨大な何か。

 それは、地平線の端から端まで大きく口を開け、物凄い速度で夢の世界を噛み砕いていく、怪物の姿となったヴァン・ヴァッケス。

 夢の中で生まれた怪物は、その体躯さえも自在に変える。ヴァッケスの不揃いな歯が、夢の世界を壊していく。

 紫の丘が噛み砕かれていく。

 茶色の街が、灰色の街が、妖精の湖も紅葉燃える渓流も。

 真っ白で、羊の角を持ったヴァッケスは、世界全体を砕きながら、城の方へと向かってきて、やがて。

 世界ごと、椎菜とスティープスまでも飲み込んでしまった。













 目を覚ますと、そこには異常が広がっていて。

 見上げれば黒と白の入り交ざった不穏な空と、私のいる丘の下には見覚えのある鮮やかな紫色の植物が風に揺れてゆらゆらと。

 ずっと遠くに見える西洋風のお城は暗い空にシルエットになっていて、空に突き刺さりそうに尖っていた。

 私が見ている風景は、まるで夢を見ているかのような。体の痛みもなくなっていて、私は誰かいないかと辺りを見渡して。

 ここはどこ?

 私は分からなくて。分からなくて。

 どうしたらいいのかも、分からなくて。



 その場でぼぅっと、立ち尽くしていた。







16th tale Nothing








 自分が何処にいるのか、呆けていた椎菜は、少しずつ頭を動かしながら考えた。

 紫在がいなくなった後、ヴァッケスが世界を飲み込んでいく様を見た。それは、確かなことで。

 でも、今、椎菜が見ている景色は、初めて夢の世界に来た時と全く同じ物だ。砕かれていった筈の街も、ちゃんとある。


 ――――何が起きているんだろう?


 髪を束ねていた、魔女に貰ったダンエイの髪飾りがなくなっていた。ランケットで買った、スティープスに選んでもらった紫水晶のペンダントも。

 状況の整理をしている内に、椎菜はスティープスがいないことに気が付いた。世界が終わる瞬間まで一緒にいた、傷だらけの彼は何処に行ったのか。

 孤独になった椎菜に、不安が湧き起こる。

 まるで、何事もなかったかのように目の前に広がる世界が気味悪く。紫在が何処かにいるのではと、椎菜は怯えて、走った。

 丘を下り、紫の平野を駆け抜けて。薄く赤い屋根が並ぶ、ガレキアに良く似た街へと駆け込んだ。

 街には、夢の住人たちがいた。皆、普通に各々の生活を送っていた。

 世界を飲み込んでいくあのヴァッケスは、幻覚だったのか。

 そんな気さえしてくるくらいに、平然と夢の世界はそこに在った。椎菜は姿の見えないスティープスを探して、街の中を駆け回る。

 スティープスと出会った、ガレキアの街。

 見覚えのある景色ばかりだ。本当に、壊されてしまったガレキアの街そのままに。

 走る椎菜は、見知った店を見つけた。ついこの間にも入った店。人がいなくなったガレキアに残り、店を続けていた、あの喫茶店。

 椎菜は店の扉を開けた。扉に繋がれたベルの音が鳴って、店の奥から女店主が顔を見せた。

 椎菜は驚いて、声をあげてしまった。その人は、正に椎菜と話したあの女店主だったからだ。

 無事だったのだ。どうやって助かったのかは知らないが、あのヴァッケスから逃れ得たのだ。


「無事だったんですね!よかった……。あの、今、何がどうなってるんですか?私、気付いたら全部元通りになってて……。あの後、何があったんですか?」


 知った顔を見て、緊張が解れた椎菜は、矢継ぎ早に女店主に話しかける。

 けれど、女店主は、親しげに話しかける椎菜に首を傾げた。


「ごめんなさい、前にお店に来てくれたことがあるのかな?ちょっと覚えてなくて……。本当にごめんなさいね」


「え……」


 愕然とする椎菜を気の毒そうに眺め、女店主は椎菜に注文があるか尋ねた。

 椎菜の余りの様子に、女店主は気を遣って無料でいいと言ってくれたが、椎菜は断った。

 夢を見ているような気分であった。

 街には人が行き交って、馬車の蹄鉄が石畳に当たる音が平和に響いている。

 まるで、何もかもがなかったことになってしまったかのようで。

 椎菜の中の孤独感が強まっていく。

 同じ形をした別の世界に来てしまった感覚がして。誰も自分を知っている人がいなくて。今まであったことが、全部嘘だったのかと思えてしまって。

 椎菜は走る。自分を知らない、見知った夢の世界で、独り駆けていく。

 椎菜が向かう先は、一軒の建物。看板に書かれたぐちゃぐちゃの線を読み解くと、やはり、こう書かれていた。

 “宿 ガレキア五番街”。

 扉を開けて中に入り、椎菜は慣れた様子で、受付の精悍な老人に部屋を頼んだ。


「あの、今日一晩、お部屋お願いします。一人で」


「かしこまりました。普通の部屋と――――」


「普通の部屋でお願いします。あと……、えと……、五番の部屋で」


 指定した部屋は五号室。

 遠い記憶を手繰り、椎菜は前に泊まったのと同じ部屋を頼んだ。部屋の代金は、これもやはり、カーディガンのポケットに何時の間にか入っていた財布の中身で支払った。

 椎菜は木製の床を軋ませて、五号室へと歩いた。部屋に入り、扉を閉めて、深く深く息を吸った。

 誰もいない。何の音もしない。

 時間はまだ昼間。窓からぼんやりとした光が差し込んで、部屋の中を寂しげに照らしていた。

 ここは、スティープスと椎菜が初めて会った場所だった。

 あの時は夜ではあったけれど、この宿の、この部屋で、二人は出会ったのだ。

 椎菜が夢の世界に入り込んだばかりで 孤独であった時、ベッドの中で心細い思いをしていた所に、部屋の扉を叩く音が――――




 コンコンコン、と。




 音が、聞こえた。

 扉をノックする音だ。あの時と同じ、独りの椎菜の下へと、彼女を迎えにやって来る。

 椎菜は扉へ速足で向かった。


 ――――やっぱり来てくれた。


 ここに来れば、スティープスが来てくれると思っていた。例えはぐれてしまっても、思い出の場所で待っていれば、彼は必ず来てくれる。

 椎菜はドアノブに手をかけて、勢いのままに扉を開けた。

 やっと彼に会える。彼の胸に飛び込んで、幾らでも弱音を吐ける。強く抱きしめたなら、きっと抱き返してくれるに違いない。


 ――――もう、独りじゃない。


「こんにちわ。椎菜さん」


 そこに在ったのは、椎菜を見上げる笑顔だった。

 小さな少女が笑っていた。頬を吊り上げ、細まった目は薄く開き、口の両端も大きく吊り上げられて。悪戯に、害意が塊となって、顔に表れたと言える笑顔。それはとても不気味で、恐ろしい物であった。

 背筋に寒気が走って、椎菜は声にならない悲鳴をあげた。後ずさり、満面の笑みを浮かべる紫在から、少しでも離れようとしていた。


「あなたにお話しがあるんです?入ってもいいですか?」


 そう言って、紫在は椎菜の返事も待たず、決まり切っている事のように部屋へと入ってきた。


「なんで……。どうして……」


 怯える椎菜に、紫在が一歩一歩近づいて行く。余裕を持って、じわりじわりと、椎菜の心に踏み入るように。


「私と一緒に、この夢を調べに行きましょう?この夢のこと、知りたいでしょ?」


「来ないで……、来ないで来ないで……」


「この世界には、お姫様がいるらしいですよ。なんでもお願いを叶えてくれるお姫様。ねえ、会いに行きませんか?」


 紫在は笑う。

 はち切れそうに笑顔を作り、へたり込んだ椎菜の顔を、両手で掴んで近づけた。紫在は子供の力とは思えぬ強さで掴んでくる。

 椎菜は顔を逸らせず、紫在の笑顔が、息が当たるくらいに近くなる。

 視界一杯に狂気の笑顔が広がって。椎菜はあまりの恐怖に思考を閉ざした。


「行きましょう?今度は――――」




「私と」




「一緒に」








 空は、白と黒のクレヨンに塗り潰されて、薄まった太陽の光が世界を照らし出していた。

 恐怖と罪悪感で包み隠された世界は、主の思うがままに狂気で塗りつくされる。

 赤茶色の街を、椎菜は歩いていた。

 先を行く紫在に手を引かれ、椎菜は失意のまま街を行く。

 抵抗する気は起こらなかった。何をしても無駄だと分かっていた。

 椎菜の頭には、今まで出会ってきた全ての人に対する謝罪の気持ちだけ。

 椎菜は謝っている。何度も何度も謝っている。自分が何も成し得なかったことを。皆の頑張りを、無駄にしてしまったことを。

 ずっとずっと謝り続ける。

 ずっとずっと、後悔し続ける。


「椎菜さん」


 紫在の呼び声に、椎菜は生気のない目を向けた。

 全てを諦めた目だ。はしゃぐ紫在とは、真逆の顔をしていた。

 二人がやって来た広場には人だかりが出来ていて、何か催し物をしているらしかった。


「ほら、ほら。見て見て。これから何かやるみたいですよ?」


 紫在が指差す方には、木でできたステージがあった。

 人が多くて、小さくちらりと見えただけだったが、椎菜はその光景に見覚えがある。

 ここで行われていることが、椎菜には分かっていた。以前と同じ、この広場で行われているのは。そう、処刑。

 紫在は椎菜の服を引っ張って、今度は人混みから離れた所にいる女性を指差して、言った。


「聞かなくていいんですか?」


 聞くまでもないことだ。これから行われるのは、処刑。人が殺されてしまうということ。


「何をやるのか、気になりませんか?」


 確か殺されてしまうのは、女性。子供と遊んでいただけの。兵隊に掴まって、殺されてしまう。


「誰が殺されちゃうのか、知りたくないんですか?」


 紫在の言葉に、椎菜は最悪の予感に顔を上げた。

 椎菜は悪寒と動悸に背中を押され、人混みをかき分けて、ステージの前へと進んでいった。

 迷惑そうに睨まれても気にしない。椎菜の全身が緊張し、息が荒く、鼓動が速く。

 人混みの最前線に出ると、椎菜はステージの上の断頭台に縛り付けられた、彼の姿を見つけた。


「スティープス!!!」


 仮面を被り、黒い執事服を纏う男が、そこにいた。

 スティープスは椎菜に仮面を向けて、弱弱しく返事をした。


「椎菜……。僕は、取り返しのつかないことをしてしまった……」


「スティープス!スティープス!!」


 椎菜は叫ぶ。

 椎菜はステージへ登ろうとして、衛兵たちに捕らえられても、スティープスの名を呼んだ。

 群衆は衛兵を恐れ、椎菜から遠ざかる。

 スティープスの下へ行こうとする椎菜を余所に、ステージに一人の兵士が上がっていく。死刑を執行する兵士だ。

 兵士は、ギロチンを吊るす縄を断ち切るための斧を握り、処刑台に着いた。

 椎菜の背後に現れた紫在が、椎菜と衛兵の周りを、ぐるぐる歩き回って。


「もう、この人はいらないの。邪魔だから、いなくなってもらうんです」


「止めて……。お願い……」


 椎菜はまたも、紫在に懇願した。聞き届けられる物ではないと分かっていても、椎菜にはそうすることしかできない。


「椎菜さんと仲良くなるのは私。なのに、恋人になって愛し合うなんて、良い訳ないの」


 紫在が笑う。

 椎菜が嘆く。

 スティープスは、嘆き悲しむ椎菜の姿を見て、何を思うのか。


「それじゃあ」


 断頭台のギロチンを吊るす縄を切るよう、紫在が目線で兵士に合図を送った。

 兵士は斧を振り上げて、狙いを定めて。


「愛し合う……。ああ、そうか……。椎菜、僕は……」


 最期の瞬間、スティープスが静かに。はっきりと、椎菜に言った。




「僕は、君を愛していたんだね」




 斧が振り下ろされて、縄が切られた。

 ギロチンが空気を切り裂き、落ちてきて。

 スティープスの首を、切り飛ばした。

 椎菜はその様を見届けていた。見届けてしまった。

 恐怖に囚われ、何も考えられなくなっていた椎菜は、目を塞ぐことも忘れ、スティープスの首が飛ぶのを目に焼き付けた。

 落とされたスティープスの頭が椎菜の目の前に転がって、赤い血をまき散らしていた。


「いや……。いや……、こんなの……。もう、いや……」


 こうして、椎菜は全てを失った。

 ただ、椎菜の隣には、紫在がいるだけだった。

 周りにいた人々は、紫在が手を挙げただけで、皆、文字通り消え去ってしまった。

 誰もいなくなったのだ。広場だけでなく、世界中から。

 椎菜は何も言わず、紫在に怒りをぶつけるでもなく。ずっと泣いていた。石畳に膝を付け、ひたすら泣きじゃくっていた。

 紫在はそんな椎菜を見て、笑っていた。

 泣く声だけが響く世界に、空の上から怪物が一匹、降りてきた。

 狂気の笑顔が降りてくる。何もかもを諦めた椎菜に、紫在とヴァッケスは笑顔を向ける。

 世界を埋め尽くそうと広がっていく、白いクレヨンの線が椎菜の周りにまで現れて。

 やがて、その線は椎菜を飲み込み、彼女を夢の奥底へ。



「これで、ずっと一緒にいられますね。椎菜さん」



 どこか遠くへ。遥か遠くへ。遠い遠い夢の彼方へと、連れ去ってしまった。




















16th tale End



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