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15th tale The White of Guilt

・ある少女の回想 十一



 視界一杯に広がる紫色と、灰色に黒と白が入り混じる重たい空が、私に居心地の良さを感じさせた。

 ここはどこだろう。

 足を一歩、二歩。

 小高い丘の上を、私は歩く。

 丘の下に広がる紫色が、私の家の庭に生える、背の低い植物の実の色と同じものであると分かるのに、そう時間はいらなかった。

 私は芝の上に腰を下ろして、見知らぬ世界を見渡して。


 ――――どうして、こんなところにいるんだろう。


 そんな疑念を抱いたりして。

 倦怠感を身に纏わせて、私は抵抗も無く地面に寝転がった。


 ――――ここは、世界の終わりなのかもしれない。


 誰も彼もがいなくなってしまった、全てが終わってしまった世界。誰もいない、何も起こらない世界。

 私の心は安らいでいた。

 私を苦しめるものから解放された、きっと、これは束の間の夢なんだ。

 せめて目が覚めるまで、私はこの楽園を満喫すると決めた。

 一つの苦しみもない世界で、たった一人の時間を過ごせるのだと、私は笑う。

 優しい風が吹き、丘の下に広がる木々の揺れる音が、耳に心地よくさざめいて。


「素敵な絵だ。君の気持ちがよく表れている」


 不意に聞こえた声が、私の平静を打ち砕く。

 心に滑り込んでくるような、穏やかな声。

 奥底に隠し続けていた、私の一面が内側から引き上げられていく、そんな心地がした。

 私の傍に現れたその男性は、真っ白なスーツに身を包み、顔には白い霧がかかって、その顔は見ることができない。

 その人は、手に一枚の灰色な紙を持ち、興味深気にそれを眺めまわしている。

 それは、私の描いた絵だった。

 白と黒で塗りつぶし、丸めて捨てた筈の絵だった。

 私は彼の異様に恐怖し、叫び声も出せずに、身を震わせて。

 けれど、どうしてか、私は逃げ出せなかった。

 いや、逃げ出すことはなかった。

 体が動かなかった訳ではない。逃げ場がなかった訳ではない。私は、自分の意思でその場にいた。

 私は、直立する男性から目が逸らせなかった。

 何故だろう。何故だったのだろう。

 スーツの彼の言葉を、あの時、私はきっと待ちわびていた。まるで、その人を、私自身が待ち望んでいたかのように。

 彼は私をしばらくじっと見据えた後、何処からともなく彼の手の中に現れたナイフを、私にゆっくり差し出した。

 真っ白なナイフ。彼と同じ。刃の先から柄尻まで白一色で、見惚れるくらい美しく、煌めいて。


「このナイフは君を正直にしてくれる。君が本当にしたいことを、君が我慢していることをできるように背中を押してくれるんだ」


 柄を向けて、私に差し出されたナイフは私の心を吸いつける。美しいだけでなく、それは見ているだけで心が安らぐ、不思議な魅力を持っていた。


「さあ、どうする?」


 私はそのナイフを手に取った。

 握ったナイフの柄から私の手を通じて、何かが伝わってくる気がした。人によれば、それは勇気と言うのかもしれなかった。

 けれど、私には伝わってくる力に、途方もない恐怖も感じられて。勇気と恐怖が混ざり合い、やがて、勇気は恐怖を後押しし始める。

 私はその事自体がもっと恐ろしくて。自分が別の何かに変わっていってしまう。そんな感覚に囚われて。

 ナイフが煌めく。

 私は、このナイフが何のために現れたのか知っていた。

 私の本能と、隠し続けてきた感情が悟らせた。

 このナイフは、あの絵を描いた後、私の中にあった物だ。心の痛みから逃れるために、私の手で、私自身を貫くために生まれたナイフに違いない物だ。


「さあ。君は、どうするんだい?」


 スーツの男が私を急かす。ナイフに役目を果たさせろと、私に手を動かさせる。


「刺せ」


 刺せ。


「その心を!命を!貫け!!さあ!!」


 貫け。


「これは、お前が望んだことだろう!!!」



 私はナイフの切っ先を、自分の心臓の位置に当てた。

 どうしてそんなことをしたのか、自分でも分からない。

 ナイフから流れ込んでくる勇気が、私にそうさせたのかもしれない。私がずっとしたかったけれど、恐くてできなかったことをするために。


「本当に、それでいいの?」


 ふと、背後から聞こえた声に我に返った。

 すると、私は自分が自害しようとしていたことに気が付いて。

 私は慌ててナイフを捨てようとしたのに、何故かナイフを握る手は、力を緩めることができなかった。

 スーツの男性は、私をずっと見ている。霧に隠された顔は見えないけれど、確かに私を見ていた。

 息が苦しい。

 心臓の音が聞こえてきて、私はまたナイフの力に囚われて。

 そして、そして。私は。

 ナイフを持ち直し、その切っ先を再び心臓に向けて構えたけれど。

 結局、私に自分の命を懸けることなんてできなくて。

 誰かへの償いのために、命を捨てる覚悟なんて、ある訳がなくて。

 死を促す男性は、私がナイフを手放すことを許さない。こちらを見据えて、ナイフが血を帯びるのを、今か今かと待ちわびている。私が躊躇っているのを感じとり、一歩一歩近づいてくる。

 私は彼が恐くて、怖くて怖くて仕様がなくて。男性が促すままに、ナイフを振りかぶり、私は。


 心臓ではなく、私の左手の甲へ、白いナイフを突き刺したのだった。


 世界がぼやけ、夢が終わる。

 目が覚める直前に、私は左手に突き立ったナイフを見た。

 現実に戻って、ベッドの上。

 汗で湿った体を感じた。強く脈打つ鼓動を感じた。

 そして、左手がずきりと痛んで、目を向けると。

 私の左手の甲に、刃物が刺さったかのような、深い傷跡ができているのを見つけた。







15th tale The White of Guilt








「ディリージア!ねえ、ディリージア!」


 今日もまた、お前はこの世界へやって来る。

 俺もまた、何時の間にか体を得て、この世界に降り立っていて。

 いつも通りの夢が始まる。

 日に日に変わる夢の世界を、俺達二人は見て回るんだ。いろんな所へ行って、いろんな物を見て、遊んで。


「今日ね、体育で競争したの!私、一位になった!すごいでしょ!?」


「そうか、よかったな」


 こんな風に話すのも、いつも通り。

 ホリーは少しやかましいが、別に嫌じゃない。でもまあ、他の人と話すときのように、あと少しでも落ち着いて欲しいとは思う。


「今日は何して遊ぶ?」


「釣りだな。湖のある町があっただろう。あそこで釣りがしたい」


「釣りー?つまんない。それよりお腹空いたー。なんか美味しい物食べたいなあ」


「我慢しろ。いつもお前言ってるだろ、不味い不味いって。何食ってもそう言うんだから、いい加減諦めろ」


「やだ。ディリージアがそんなこと言うから、もう決まり。早く街まで連れてって。おんぶして」


 そしてまた、ホリーが起きるまで、俺達は遊んで回る。

 今日は誰に出会うのか。どんな出来事が起こるのか。

 俺の背中に飛び乗るこいつを連れて。

 さあ今日も、遊びに行こう。







 あの頃は、どいつにも俺の姿が見えていて、話すこともできて。

 悪い気はしなかった。

 幸せ、だったのだろう。当時は、そんな言葉を知りもしなかったが。今ではあの日々がどれだけ尊いものであったのか、嫌になる程実感させられる。

 ホリーが死んでしまったあの日。

 ホリーと見た最後の夢で、どうしてあいつがあんな目に会わなくてはならなかったのか。

 俺は、責任の所在を求めずにはいられない。何がいけなかったのか。誰が悪かったのか。

 俺が辿り着いた答えは、あいつを守ってやれなかった俺にこそ、誰よりも大きな罪があるに違いないということだ。

 体に刺さったナイフに苦しむあいつの姿を思い出す度に、俺の心は悲鳴を上げる。何度も何度も、思い出しては怒りに駆られる。己を殺してやりたいくらいに、苦痛を感じる。

 この後悔を、この罪の意識を。俺はどれだけの月日を越えても忘れることができないでいる。忘れるつもりも、毛頭ないが。

 これは、俺が永遠に背負って行かなくてはならない感情なのだと分かっている。

 そうだ。

 だから、紫在。スティープス。お前たちには、せめて、お前らにだけは。

 こんな思いを、決してさせたくないんだ。






 椎菜たちはへとへとになった足が痛むのに耐えつつ、薄暗い街並みに、懐かしさを覚えながら細い道を行く。

 共に城下町行きの馬車を探すレグルスは、椎菜を気遣い、彼女の歩幅に合わせて隣を歩く。

 ガレキアから、約三時間の道のりを経て辿り着いたこのウッドサイドは、椎菜にとってもレグルスにとっても、思い出深い土地であった。

 彼女たちが初めて出会った場所でもあるし、レグルスにとっては、人間の姿でいた時代に暮らしていたこの街は、第二の故郷にも等しい。

 椎菜は短い路地裏を通る時、一枚の張り紙を見つけた。

 子供一人分の大きさがあるそれは、注意喚起のポスターだ。描かれているのは戯画化された、森に住んでいた魔女。

 絵の下に引かれたぐちゃぐちゃの線が、椎菜の頭の中で自然に翻訳される。


 “森の魔女に御用心”。


「まだ張ってあんのか、これ」


 レグルスが落ち着いた口調でポスターを見上げた。彼は何を思うのか。ポスターに描かれた魔女に、故郷の森を壊され、仲間を失った彼は。

 椎菜にはレグルスが怒っているようには見えなかった。

 レグルスは魔女のことを許したのだろうか。それとも、単にどうでもよくなったのか。

 もしくは――――


「なんだかね。どう思えばいいのか、分からんなぁ。正直」


「嫌いなんじゃなかったの?」


「嫌いだよ。殺してやりたいくらい嫌いだった。でも、いくら嫌いでもさ、死なれちまったら、好きも嫌いもないんだなぁ」


 散々魔女に人生を狂わされたレグルス。魔女がしたことは簡単に許されていいことではなかった。

 椎菜たちが、今までできるだけ避けてきた話題。椎菜はレグルスが、魔女にどんな気持ちを抱いているのか想像できてしまう。

 分かり切ったことだ。だから、お互いにわざわざ話す必要もない事としていた。


「思い出すだけでもむかつくのに、もう仕返しもできないんだな」


「……」


 椎菜にも、魔女が犯した罪の重さは分かっていた。

 分かってはいたけれど、椎菜は魔女を嫌いになれない。

 もし、あの時魔女が死ななければ、彼女の償いが何時か報われて、皆に受け入れられたかもしれないと、淡い想像をしたりもした。

 レグルスは、そんな椎菜をどう思っているのか。


「あんたはさ、あの魔女のこと気に入ってたんだろ?」


「……、うん」


 椎菜には、レグルスに対して申し訳ない気持ちがあった。

 けれど、椎菜は魔女への親愛も捨てたくはなくて。レグルスが何を言うのか椎菜は恐くて、彼から目を逸らして、青い髪飾りに手を添えた。


「まあ、そういうことなんだろうな。嫌なやつでもあったし、良い奴でもあったんだ。あんたがあいつを好きでも俺は気にしないよ。だからさ、あんたもあんまり気にすんなよ」


 言うことを言うと、レグルスはそそくさと先に行ってしまった。

 椎菜は暫し、レグルスの言ったことの意味を、その場で必死に考えて。

 そして、レグルスが椎菜の気持ちを汲んでくれたのだと考えが至り、微笑むと、ゆっくりと彼を追いかけた。

 ウッドサイドの街は人気のなくなっていたガレキアとは違い、いくらかの人が集まっていた。

 前に来たときとは比べ物にならない人の少なさではあるが、道を行けば一人や二人すれ違えるというだけでも、大分印象が違う。

 ウッドサイドへ集まった人たちは、やはり皆、城下町へ避難しようとする人たちばかりらしかった。

 レグルスは自分を見て慄く人々を意に介さぬ様子で歩いていき、それに椎菜もついて行った。

 やがて馬車が並ぶ広場を見つけ、まだ席の空いている馬車がないか、一人と一匹は探して回った。


「もうほとんど、ここに集まった人たちは避難させたから、空いてる馬車もあるんじゃないかね。けど悪いね。うちは満員だ」


「そうですか……。ありがとうございます」


 御者が馬に鞭を入れ、馬車が重たそうに音を鳴らしながら、人を乗せて走り出した。

 ウッドサイドに停まっている他にも馬車はたくさんあった。椎菜とレグルスは三つ目の馬車で乗車させてもらえることができた。

 城下町へ向かう手段を確保し、出発の時間まで広場で休むことにした彼女たちの前を、夢の世界のあちこちからやって来た人々が歩き去って行く。

 皆、一様に、正にこの世の終わりといった暗い表情を携えていた。


「いらんこと考えるなよ?」


 行く人々をじっと見つめていた椎菜に、レグルスは言った。彼の思っていた通り、椎菜は夢の世界の住人たちの絶望に心を痛めていた。


「うん……」


 返事をしたはいいものの、椎菜の心に渦巻く罪悪感は消えることなく。

 何処かで子供が泣いている。重たい溜息が吐かれる音が聞こえてくる。

 どうして気にせずにいられよう。椎菜は己のしてきたことが本当に正しかったのか、疑わずにはいられない。


 ――――もし、私が紫在さんに会おうとさえしなければ。現実に帰りたいと思わなければ。こんなことにはならなかったのかもしれない。


 そう、思ってしまう。


「おい!見ろ!あれだ!!城の方だ!!」


 誰かが、突然叫びだした。

 その人が指差すのは、皆が向かおうとする城下町の方角。不気味にそびえる城の上空へと、狂気に笑うヴァン・ヴァッケスの顔が移動していく。

 ヴァッケスは城下町の真上へつくと、げらげらと醜く笑いだした。


 ――――何かが、城下町で起こってる?


 椎菜に浮かぶ予感があった。先に紫在の下へ向かったディリージア。

 ディリージアは今、きっとあの城下町にいるに違いない。ヴァッケスが移動したことと何か関係があるのではないか。

 ディリージアは、無事なのか。


「ディリージア……」


 遠くに見える城と、狂気の笑顔が世界中を震えさせる中。椎菜とレグルスは、ディリージアの無事を祈った。







「おい!何をやってたんだ!家にいたなら飯ぐらい作っておけ!」


「仕様がないじゃないですか……。ホリーの面倒もみないといけないのに……」


「お父さん……。お母さんは……」


「うるさい!お前はじっと寝てろ!悪化したらどうするんだ!!」


 怒鳴り声と、怯えた声が聞こえてくる。

 俺に見えるのは、ホリーとその両親。怒鳴られたホリーは落ち込んだ様子でベッドに入り、母はおずおずと父の後ろについて部屋を出ていった。

 何時の間に、ここはこんな家になってしまったのか。

 穏やかで幸せであった家庭は、娘の病気一つで崩れ去ってしまったのか。

 もうすぐホリーが眠りにつく。今日も遊んでやるとしよう。あいつに無理のないように、気を遣ってやらなくては。


「こんばんわ。ディリージア」


「……。体は、大丈夫か?苦しそうだったじゃないか」


「大丈夫大丈夫。ねえ、今日は何処に行く?」


「ホリー……」


「あ、そうだ。この前言ってた湖に行こっか?今日は釣りをしよう!ほら、ディリージア」







 時間は昨夜に戻り、ディリージアが椎菜たちと別れてからのこと。

 夜の空を飛ぶディリージアは、昔の事を思い出していた。冷たく音のない空気の中を進む彼の胸に去来した、感傷であった。


 ――――何故だろうか。


 ――――ここ最近、一人でいることがなかったから、騒がしい椎菜たちと離れて、俺は寂しくでもなったのか。


 ――――夜風を切って、空を行く。世界の果ての城までは、まだ遠い。まだ、時間もかかるだろう。


 ――――なら少し、思い出に浸るのもいいかもしれない。


 ――――思い出そう。せめて、俺の中からだけは消えないように。お前の存在の証明が、なくなってしまわないように。







「なあ、まだ起きなくてもいいのか?もう一ヶ月は経つ。今までこんなに夢の中にいたことはなかったじゃないか」


 あれは、最後の夢でのことだった。

 俺はあの時ホ、リーの様子がずっとおかしいことが気になって仕様がなかった。楽しそうにはしていても、何処か焦っているというか。怯えているようにも見えたホリーは、俺の質問を聞き流す。

 俺はそれが気に入らなくて、機嫌を悪くした。


「ねえ、魔女のお婆さんの所に行こう?ホリーに会いたい!」


 しかし、仕方のないことだとも思えた。

 現実では家族の間に軋轢が生まれ、家の空気は甚だ心臓に悪い。自分の看病が負担となって家族の仲が悪くなっていく様を見せつけられるのは、ホリーには辛すぎることに違いない。病気で臥せっているホリーには、家から出ることもできず。そんな彼女にとって唯一の逃げ場と言えるのが、この夢の世界であった。


「またか……。さっき行ったばかりだろう」


「“さっき”って……、前に行ったの、先週くらいでしょ?」


 夢の中でできた、ホリーの友達。

 同じ名前で、見た目もそっくりの。魔女の娘でありながら、当の魔女とはてんで似ていないあの女子。

 ホリーは魔女の娘が大のお気に入りのようだった。そっくりなのは性格に関しても同じで。そんな二人は、自然と気が合っていたのかもしれない。

 ウッドサイドの街。

 名前の通り、大きな森がすぐ隣にあるその街の入口を通り過ぎ、鬱蒼と茂る森の中へと俺達は入っていく。

 目指すのは、森の奥にある巨大な樹。その樹の太い枝の上に作られた、魔女の家だ。

 木材を重ねて作られた足場へとホリーは梯子を使って登り、魔女の家の扉の前へやってきた。


「こんにちわー!」


 ホリーが元気よく挨拶をしながら、ノックを軽く繰り返す。

 数秒置いて開いたドアからは、鏡に映る像とも思えてしまう程、ホリーとそっくりの女子が出てきた。

 その女子はホリーを見るや、満面の笑みを浮かべてホリーの手を握る。


「お母さん、お母さん!ホリーが来た!遊びに行ってもいい!?」


 はしゃぐ女子に呼ばれ、家の奥の部屋から出てきたのは、古びたローブを纏った老婆だ。

 今は亡き、在りし日の魔女の姿。

 あの頃から悪い噂はあったが、本格的に巷で嫌われ始める前の魔女。

 娘を失う前日の、魔女。


「ああ。いらっしゃいホリー。うちの子をよろしくね」


「こんにちわ。ほら、ディリージアも」


 横で他人事の如く眺めていた俺に、ホリーが怒る。俺からすれば、子ども扱いされている気がして、あまりいい思いではなかった。だが、あのまま何も言わないでいると、後々ホリーの機嫌が悪くなることが分かっていたから、俺は挨拶をすることにした。


「……、どうも」


「こんにちわ。ごめんなさいね。この子の面倒見てもらっちゃって」


「いえ……」


 時折情緒不安定になることを除けば、あの魔女は至って雰囲気の良い人だった。特に、娘が亡くなるまでは。

 二人のホリーと共に、俺は魔女の家から離れていく。

 俺が振り返ると、樹の上の家から、魔女が嬉しそうにこちらを見送っていた。

 嫌われ者の魔女。

 現実のホリーの母親が元になっていることは、その容姿や態度からすぐに勘付くことができた。夢の中で生きていた魔女は、現実の母親と同じに、娘が可愛くて仕様がないらしかった。


「今度ね、お母さんに髪飾り作ってもらうの」


「髪飾り?あ、ひょっとして前に言ってたやつ?」


「そうそう。ダンエイって木の実で作るの。ほら、あれ」


 魔女の娘が指差す方には、青い果実を実らせる、幹がぐねぐねと曲がってがっしりした枝が伸び出た、背の高い木が生えていた。

 魔女の娘は枝に足を乗せ、その木に器用に登り始めた。子供が登るには、至って都合の良い枝揃いの木だ。

 ホリーも木を登り、魔女の娘が腰かけた枝に乗った。


「ディリージア!ディリージアも登ってきなよ」


 俺は宙に浮かんで、二人のいる枝の高さまで上がっていった。手も足も使わずに宙に浮けば、あんな木を登ることくらい、何の事はない。


「……」


 だが、あの時の俺を見る二人の冷めた目は、思い出すだけでもぞっとする。


「これが木の実。綺麗でしょ?」


 魔女の娘が、実った木の実に優しく触れる。

 青く透き通った色をした殻は、中の粒状の種子の形を薄っすら浮かべていた。

 魔女の娘が、枝から取れてしまわないよう気を付けながら木の実を陽に当てると、水色の光がホリーの顔に揺れながら映されて。

 その鮮やかな水色は、晴天の青空を思わせた。ホリーと見ていたあの頃の夢の世界にも確かにあった、現実と同様の美しい空の色だ。


「空の色みたい……。なんか、切ない感じ……」


 ホリーも同じことを思ったらしい。うっとり見惚れる瞳は煌めいて、小さく物憂げに目を細めた。

 もしかしたら、ホリーは何かを思いだしていたのかもしれない。空の色がどうして切ないのか、俺には分かりはしなかったが、どうも人というのはそういうものらしい。


「この実はね、一本の木に一つしかならないんだって」


「これだけしかないってこと?」


「他の木を見つければ、そこにまた実がなってるかもしれないけどね」


 楽しそうに話す二人の間に入っていけず、隣でぼけっと浮かんで見ている俺がどう見えたのか。二人は可笑しそうに笑って、二人の間に座るよう俺に勧めてきた。

 俺の顔がなかったことが幸いした。もし俺に表情があれば、ぼうっとしている俺は、さぞかし馬鹿みたいな顔をしていたに違いない。


「ディリージアは普段どんなことしてホリーと遊んでるの?」


 枝に座った俺に、魔女の娘が尋ねた。

 同じ顔で、同じ声の人間が右と左に一人ずつ。どちらも俺をじろじろ眺めまわすのが、とにかく居心地悪かった。


「何って言われてもな……。観光か?」


「観光って……、旅行!?いいなぁ。私遠くに行ったことない……」


 魔女があまり遠出をしたがらないのだろう。魔女としては、娘を一人で遠くに出すのは望まぬ所のはず。

 魔女の娘は、森かウッドサイド辺りまでしか行ったことがないようだった。


「じゃあじゃあ!今度私たちと何処か行こう?」


 ホリーの提案に、魔女の娘は喜んで頷いた。

 声のする方に合わせて、顔を動かす度に同じ顔が見えるせいで、俺は若干眩暈がした。


「いいの!?」


 魔女の娘は、上目使いで俺の顔を恐る恐る覗いていた。

 俺が快く思わないかもしれないと思っていたのではないか。これは、多分合っている。


「ああ。一緒に行くか。行くときには、あの婆さんにちゃんと言っておかないとな」


 パッと明るく、笑顔に輝いた魔女の娘の反応が、その証拠だ。

 ホリーは興奮して身を乗り出し、俺の膝の上に体を寝かせる形で、魔女の娘に顔を近づける。木の枝が揺れて背筋が凍ったが、丈夫で太めな枝は折れることなく、俺達三人を載せて健在だった。


「早速明日にでも遊ぶ?どんな所がいい?」


「あ……。明日は大事な用事があるから……、ごめんね。明日じゃなければ、何時でも」


「そっか、じゃあしょうがないね。明後日あたりに、また来るから」


「うん。楽しみ」


 残念そうにしている割に、ホリーは魔女の娘の大事な用事とやらの詳細を尋ねない。

 ホリーが聞かないのなら俺が自分で聞くまでだ。


「大事な用事ってなんだ?」


 魔女の娘は恥ずかしそうに口ごもった。ホリーが俺の腹を指でつつくのが何気に痛くて、俺は膝の上に寝転がるホリーを無理やり起こした。


「明日はダンエイの実がなる日なの。だから、実を探したくて……」


「ここにあるだろう。まだ要るのか?」


「うん……」


 穏やかだが、大きな風が吹いて、森中の木々がざわめいていた。


「お母さんとお揃いの髪飾りが欲しいから、二つ要るの」


 その音は、木々が何かを恐れているように聞こえた。木々の枝の一本一本が、怯え震えているのかと思えた。


「私たちも手伝う?」


「ううん。自分で探したいから。ありがとう」


 その後、魔女の娘と別れて街に戻った俺達は知ることになる。

 ヴァン・ヴァラックが、街の近くで見つかったことを。

 あの時はまだ、魔女の娘があんなことになるとは、思ってもいなかった。

 俺達は翌日、ヴァン・ヴァラックがウッドサイドの森に入っていったという話を聞いた。

 ホリーは魔女の娘が心配で仕方がないようだった。ろくに食事も口にしない。何をしていても上の空で、何度も思い至っては森の中へ行こうと言い出した。

 当然、俺はそれを止めた。危険すぎるからだ。


「ヴァラックをなんとかしないと……、このままじゃ……。私がやらなきゃ……」


 けれど、ホリーは納得しない。ヴァラックの事となると、捨て置けない理由がホリーにはあった。

 それは。


「私のせいで、ヴァラックが出てきたんだから」


 紫在の夢とホリーの夢は、ほぼ同一の世界を作り出した。

 俺の見つけられた違いは、細かな紫在の人生に沿った文化や景観の変化と、姫を守ろうとする騎士の存在だけだった。

 他の物は、全てホリーの夢から引き継がれていると言っていい。

 魔女とヴァン・ヴァラックも、引き継がれた物に含まれる。

 魔女は紫在の母を。ヴァン・ヴァラックは父を象っているのだと分かった。

 ヴァン・ヴァラックは、夢の世界で特に異質な存在だ。

 ホリーが夢の世界に来るようになってからすぐに、ヴァラックは現れた。

 ホリーの影から湧き上がるように姿を現したヴァラックは、家屋を壊し、人を傷つけ、暴れ回った。

 ヴァラックが他の夢の住人と違う所は、俺の力が一切通用しないということだ。

 どれだけ攻撃を加えようとも、逃れられた。厳重に閉じ込めたにも関わらず、平然と別の場所に現れた。

 夢の中の脅威となったヴァラックは、思い出したかのように現れては、世界を脅かしていた。


「なんとなくね、分かるの。あれがお父さんだって。お父さんは優しいよ。なのに、私が恐がってるから、あんなやつが……」


 ホリーはヴァラックが現れた原因が、自分にあると思っていたらしかった。ヴァラックが暴れているという話を聞く度に、ホリーは笑顔を陰らせた。


「私たちでヴァラックを人のいない所に引き離そう!」


 ホリーの決断を易々と受け入れることはできなかったが、ホリーは本気だった。

 必死なホリーに押され、二人でではなく、俺だけでヴァラックをおびき出すということで話をまとめた。

 そうして、俺たちは実際にヴァラックを森から引き離すことには成功したのだが。

 問題は、その後に判明した事実だった。


「ホリーとお婆さん、大丈夫だったかな……」


 ヴァラックを追い払った翌日だ。

 ホリーは魔女と魔女の娘の安否が気になるようで、魔女の家へと二人で様子を見に行ったのだ。ドアを開けて、姿を見せた魔女は憔悴し切った様子で俺達を出迎えた。

 そして、魔女は俺たちにこう告げた。


「いないよ……。死んだの……、ヴァン・ヴァラックのせいで……」


「え……」


 あの時、どれだけホリーは失望してしまったのか。

 唖然としたまま、必要以上のことは言わずに扉を閉めてしまった魔女に、俺達は取り残されて。魔女の家の前にしばらく立ち尽くし、日が傾き始めると、俺は顔を俯かせたままのホリーを連れて街へと戻った。

 俺は、何も言えなかった。

 俺はショックを受けるホリーに何を言ってやればいいのか、見当もつかなかった。

 俺が捧げる一言が、ホリーにどんな影響を与えてしまうのか。

 もしも、更にホリーを追い詰めてしまうことになってしまったら。

 俯くホリーは余りにも危うげで、俺は恐くなった。ホリーが二度と元通りにならないくらいに壊れてしまう、そんな気がして。

 だから、俺はホリーに言った。

 俺よりもホリーのことを知っていて、ホリーを慰めることができる人物がいる場所へ帰るべきだと。

 夢から、覚める時が来たのだと。


「帰りたくない……」


 しかし、ホリーは嫌がった。

 今思えば、当たり前の反応だった。現実に帰ったところで、果たしてホリーの心が癒されることがあっただろうか。

 あるはずがない。

 現実で傷付いていたからこそ、ホリーは夢の中にずっといたというのに。


「やだ……。帰りたくない……。ずっとここにいたい……」


「俺じゃ、お前に何もしてやれない。お前は現実に帰った方がいいんだ。あの母親なら、お前のことを分かってくれる」


「いや!!」


 俺はホリーのことを何も分かってやれなかった。

 俺は自分の無力感にばかり意識を取られ、ホリーの気持ちを微塵も考えることはなかった。

 俺の目の前で、あんなに苦しんでいたのに。

 俺を求め続けてくれていたのに。


「ホリー!!」


 叫んですぐに、涙を流すホリーの顔が見えて。

 俺は自分が過ちを犯したことを理解した。

 顔を濡らし、嗚咽するホリーの体がいつも以上に小さく見えた。

 そこにいたのは元気で心優しい、皆が賞賛する立派な女の子ではなく。

 何も頼れるものがなく、心の痛みに為す術もなく泣き続けることしかできない普通の女の子が一人。

 何か言わなくてはいけないと、俺は思った。今、何か言ってやらないと、もう永遠にホリーが笑ってくれない気がして。


「なあ、ホリー……。そんなに泣くな……。俺には……」


 “俺には”、何だ。

 “俺には”?

 “俺には何も分からない”、か?

 ホリーが本当に言って欲しかったことを考えもせず、俺は自分の無力をホリーに伝えるだけなのか?

 最後の最後に、俺を信じて頼ってくれた、ホリーに?


「……っ!!」


 美しい金色の髪をひるがえし、ホリーは何処へか駆け出した。

 俺にホリーを追いかけられる程の器量があったなら、あいつは死なずに済んだのかもしれない。

 街を出て、駆けていくホリーの後ろ姿を呆然と見続けることしかできなかった己を、どうして許せるだろう。

 俺はホリーが帰って来るのを、街で一人待ち続けた。

 探しに行こうと考えもしたが、もう一度ホリーに会ったとしても、自分が何もできないということは分かり切っていて。

 俺はホリーと向かい合うのを恐れた。

 人あらざる身であるこの俺に、人の心が分かるはずがない。

 そう、思い込んでいた。

 俺は街の入口が見渡せるベンチで、何時間もホリーの帰りを待った。

 街に入ってくる人々は、仮面を被り、明らかに異質な服を着た俺を珍しそうに見るでもなく、各々の用を抱えてやってくる。

 一人一人が、確かに毎日を生きている。

 なんとなく、不思議に感じた。

 まぬけなことに、その時やっと、夢の世界の存在の得体の知れなさを俺は思ったのだ。

 俺にとってホリーと過ごすための空間でしかなかったこの世界が、実は神秘と謎に満ちた要素の塊であると悟った。

 ホリーと心身共に離れて、俺は初めてホリーと遊び回ってきた夢の世界が、こうして在ることを喜ばしく思った。

 その喜びを分かち合いたくなったのだ。

 俺を好いて、共にいてくれていた彼女と。

 今、何処かで独りで泣いている、哉沢ホリーという少女と。

 そうだ。


 俺は、今すぐに、全身の力を以て、彼女を追いかけなければならないと、悟ったのだ。


 街を出て、世界中を飛び回り、ホリーを探した。

 ホリーが行きそうな場所はいくらでもある。だが、まだそう遠くへは行っていない筈。街の周辺を探せば、必ずホリーはいる。

 森の魔女の家に行く。

 ガレキアの街でホリーが好きそうな場所へ行く。

 一緒に見てきた場所へ行く。

 けれど、ホリーは見つからない。

 行く当てもなくなり始めた頃。途端に辺りが暗くなった。

 何かと思って空を見上げると、ウッドサイドから南の空に、大きな雲が立ち込めているのを見つけた。

 その白い雲は影を作り、不穏な様相を見せながら、小高い丘の上にだけ渦巻いていた。

 あそこで、何かが起こっている。

 俺は直感した。ホリーはあそこにいるに違いない。

 あの時、あの場所で何が起こっていたのか。俺は何も知らない。

 今回の夢が始まってから、その手がかりを求めようとしたが、誰にも知覚されなくなってしまったこの身では、結局何の成果も得られなかった。

 知っているのは結果だけ。あの丘の上で、俺の知らない内に何かが起こり、そして。

 ホリーは、誰かに殺されたのだ。

 俺が丘に着いた時、倒れ伏すホリーを見た。

 ホリーの下へ俺は駆け寄り、その体に突き刺さった純白のナイフを見つけた。


「しっかりしろ!今、医者の所へ連れて行ってやる!」


 ナイフの刺さる傷口からは、もう既に多量の血が流れ出ていて。

 俺はナイフを抜いてやろうと思ったが、すぐに思いとどまった。

 これを抜けば、それこそホリーの体から血が無くなってしまいかねない。一刻も早く医者に診せるべきだと、ホリーを抱きかかえようとした時だ。


「ううん、いいの……」


 ホリーが口を開いた。

 苦しそうに声を掠らせて、ホリーは俺の手に自分の手を重ねた。


「ねえ、ディリージア。覚えてる?私に妹ができること」


 ホリーは強く、俺の手を握る。そして、最後の力を振り絞り、俺に言った。


「もし、もしもね」


 最期に残す、その言葉は。


「今日で、これで最後だったとしたら。あなたに、お願いがあるの」


 ホリーの願い。俺に託す、ホリーの想い。


「私は、きっとあの子に会えないと思うから。だからディリージア。私のお願い、聞いてくれる?」


「聞くよ。聞くさ。俺がお前の頼みを、断る訳がないじゃないか……」


 ホリーの声は、次第に力を失くしていく。


「もしも私の妹が、こんな風に夢であなたと出会ったら。妹と仲良くしてあげて。世界中の人たちと仲良くなれるように、迷子になって寂しくならないように、守ってあげて」


「ああ……。約束する」


 握っていたホリーの手が、するりと落ちそうになって。俺は手を握り返した。

 離れないように。俺がそこにいることを伝えるために。


「今までごめんね、ディリージア。これからあなたにも、きっと友達が一杯できるよ。すぐに、寂しくなんてなくなるから」


 ホリーの目は、もう何処も捉えてはいない。目は俺に向いていても、その焦点はずっと遠くを見ているようで。


「だから、お願い。もう……」


 ホリーは握っていた手を解き、もう一度手を上げて。でも、少しだけしか上げることが出来なくて、俺はその手を取った。

 微かなホリーの腕の力は、俺の頬へと向かっていた。

 俺の力を借りて、ホリーの手が、俺の仮面へ辿り着く。

 そして、指だけで優しく仮面を撫でると。ホリーは。



「もう……、泣かないで……?」



 そう言い残して、ゆっくりと目を閉じた。


 夢が終わり、現実に戻ると、そこには動かなくなってしまったホリーがいた。

 ホリーの体は、確かに快復していたはずなのに。

 如何に辛い環境にいるのだとしても、生き続けることはできた筈だった。

 けれど、夢の中で死んだホリーは、現実でも死んでしまった。

 俺は、泣いていたのだろうか。

 ホリーが最後に伸ばしてくれた手は、俺の頬を確かに撫でた。

 涙なんて流せる訳がない。俺には目がない。口もない。鼻だってないし、何もないなら、表情だってないのだから。

 だがホリーは、俺に泣くなと言った。ホリーは、幻でも見たのだろうか。

 いや、ホリーはきっと、俺の気持ちが分かっていたのだ。自分が人ではないと言って、ホリーの気持ちを考えることを放棄していた俺とは違い、ホリーはずっと俺のことを考えてくれていたのだ。

 例え顔がなくても。俺の声が、俺の全てが伝える感情を、ホリーは受け取ってくれていた。

 俺は約束を守る。

 これはホリーに対するたった一つの償いだ。

 苦しくて辛くて、けど、どうしようもなくて。死んでしまいたいと思うこともある。

 それでも、俺はやらなくてはならないと分かっている。

 俺の未熟さが招いたホリーの死を、永遠に忘れないために。

 ホリーという存在が消えてしまわないよう、それは、俺が成さなくてはならない約束だ。






 数か月後、ホリーの妹である女の子が産まれた。

 その子は日本名で、“紫在”と名付けられた。

 姉のホリーが、日本で生活するのに、名前が外国の物であることを深く気にしていたのを、家族は知っていたからだ。何処に行っても目立ってしまうその名前を、ホリーは気に入ってはいなかった。

 ホリーが嫌がったことをこの子にも感じさせまいと、紫在の名前は決められた。

 幸せになって欲しいという願いを込めて、“幸せ”から一部の文字を貰ったのだという。

 俺が守るべき女の子は、やがて俺にとって大事な人へと変わっていった。

 かつていたホリーの影に苦しめられながらも、己の優しさを守ろうとする紫在は、俺にホリーとの約束を守る力をくれた。

 俺は、紫在が絶対に守らなくてはならない子であると思った。

 だからこそ、紫在がこんな形で夢の中に来てしまったことを、俺は残念に思う。もっと早く、夢で会えればよかった。

 しかし、紫在が限界まで追いつめられるまで、この世界が現れることはなかった。

 ホリーの時とは違う。かつてはホリーや俺が望めば現れた夢の世界は、紫在に会いたいと願う俺の心を聞き入れなかった。

 夢が始まっても、俺の姿は愚か、声すらも紫在には届かなかった。

 だがしかし、今は紫在に俺の姿が見える。声だって届く。

 ホリーとの約束を果たすため、ついに力を尽くす時が来た。

 今度は救ってみせる。


 ――――必ずや。







 ディリージア城、城下町にて。

 ディリージアは降り積もる雪を踏みしめ、城へと向かう。長方形の石で舗装された道路は黒く、積もった雪の白さが際立った。

 ディリージアが雪の街を行く。

 世界中から、人々が姫の言うとおりにここへ集まっている。街は人で溢れかえり、ディリージアが歩けるのは、わずかで細い裏通りばかり。

 何故、ディリージアは空を飛んで行かないのかといえば、街に集まった夢の世界の住人の様子を見たかったのと、心の準備を整えたかったからで。

 城下町では、人々が怒り猛っている。

 住む場所も、食糧も足りる筈がないにも関わらず、世界中から人を集めた姫に対する怒りだ。

 元より城下町に住んでいた人は、人が増えたことによる生活の不便化と治安の悪化に不満を露わにし。城下町に避難してきた人たちは、寒さを凌ぐ場所を求め、雪を避けられる橋の下や公共の建物に無理やり住んでいる。

 そして、衛兵はそれを黙認している。兵たちも姫の真意を知らず、ただ姫の力に従わざるを得ないのだ。

 城を明け渡せと言う者もいる。革命を叫ぶ者もいる。

 だが、誰も現状を変えられない。

 姫は民衆に応えず、民衆は姫を恐れ、行動に出られないままだ。

 民衆は怯えて、辛い生活を送るしかない。

 姫が何故、城下町に人を集めたのか、その理由すら分からぬまま。

 ディリージアは衛兵が見張る城の門を飛び越して、かんぬきが掛けられた大きな城の扉に向かい、城を囲む堀に架かった石橋を行く。

 そんなディリージアの前に、一人の男が立ち塞がった。


「君が来ていいのはここまでだ。ディリージア」


 白いスーツの男だ。顔に白い霧がかかっているその男は、何もなかったディリージアの目の前に、突然姿を現した。

 それは、紫在の下に現れ、怪物へと姿を変えたあの男。紫在が呼んだ名前は確か、ヴァン・ヴァッケス。


「お前は何者だ」


「前にも言わなかったかな?君たちの持ち主たちが望んだ怪物さ」


 ディリージアは走り出す。雪を踏みつけ、ヴァッケスへと。


「ホリーと」


 悠然と構えるヴァッケスは、全力で走りくるディリージアを恐れもせずに。


「紫在が望んだ、怪物だ」


 突き出されたディリージアの拳を、ヴァッケスは白い手袋のはめられた右手で軽く受け止めた。


「邪魔をするなら、殺してやる」


「短気だな、君は。実に余裕がない」


 距離を取ったディリージアは、拳を強く握りしめる。

 なんとも余裕で受け止められたものだ。直立の態勢を崩さないヴァッケスの力は、ディリージアの想像を超えて、相当な物であると思われた。

 紫在が座す城を前に、白い二人が対峙する。

 ディリージアとヴァッケスが、己の存在を懸けて。


「紫在は君の死を望んでいる。故に、僕は君をここで殺す」


 再び、ディリージアがヴァッケスに迫る。静かな怒りを拳に乗せて、一撃目を受け止められながらも、流れるように二撃目に移行する。ディリージアの追撃も、ヴァッケスは余裕を持ってかわした。

 ディリージアが一旦後方に下がり、また突撃する。


「必死に足掻く、哀れなディリージア。君は、僕に勝てない」


 懲りずに真正面から迫るディリージアに、ヴァッケスは反撃せしめんと直立の態勢を崩した。

 ディリージアがヴァッケスへと、残り数歩で届くという瞬間、橋に積もった雪が、風に巻き上げられてヴァッケスを包んだ。

 すると、ディリージアは右に進路をずらし、雪に包まれたヴァッケスを全速力で通り過ぎた。

 ヴァッケスの視界が閉ざされた。ヴァッケスは今にもディリージアの一撃がくることを恐れ、後ろに大きく飛び退いた。

 しかし、今、彼の後ろにはディリージアがいる。

 ディリージアの全身全霊の蹴りが、ヴァッケスの背広の背中に突き刺さった。

 ヴァッケスは石畳の上を勢いよく転がり、体が軋む痛みに呻く。


「怪物でも、びびるんだな」


「少し……、油断してしまったよ。喧嘩がお得意のようだ」


 ヴァッケスの周囲に白い霧の線が現れた。

 何本もの線は、ヴァッケスの背後から生え伸びて、先は尖り、鎌首をもたげてディリージアを威嚇する。

 空中に引かれる白いクレヨンの線が、ディリージアに襲い掛かる。咄嗟に逃れたディリージアは、貫こうとする線の突きこそ避けられたものの、限りなく伸びる線は、避けられた後も伸び続け。次々に襲いくる線に翻弄されるディリージアを、ヴァッケスは線の腹で叩きつけた。

 叩き飛ばされたディリージアは門に当たっても勢いを緩めず、門を突き破って街中に落下した。


「……っ!?何で、門に当たった……?俺の、体が……!」


「君を痛めつけるためには、その方がやりやすいと思ってね。君の体が地面以外の物にも触れられるようにしてあげたよ。嬉しいだろう?」


 空から降りてくるヴァッケスは、ディリージアを見下ろしながら。両手を広げ、静かに語る。


「宵に昇った明星は、夜闇に飲まれ消えるだろう」


 ヴァッケスが、倒れるディリージアに歩み寄る。舞い散る雪に、白のクレヨンの線を揺らめかせ。


「明けに輝くはずの明星は、朝焼けの空に既に無く」


「ああ?」


 ディリージアの姿は、城下町の人々には見えていない。

 しかし、でっぃり―ジアの頭と腹部から流れる血は、彼の存在を皆に知らしめた。

 ひしゃげて外れてしまった門と、突如、道の真ん中に発生した衝撃と血の色が、城下町に恐慌をもたらした。

 人が逃げ去って行く中、ヴァッケスは立ち上がったディリージアに、言った。


「命なき心よ。君自身が言ったように、もう既に。尊き想いは失われてしまったと、知り給え」


「どうしても話がしたいなら、俺に分かる言葉で話すんだな」


 彼らのいる道の脇に停められていた、二台の馬車の馬の足もとに小さい火柱が上がった。

 馬は突然起こった火に驚き、興奮して暴れ始める。馬車の一台は馬に引きずられ、ヴァラックとディリージアの間を通って走り抜けた。

 馬車がヴァッケスの視界を遮った時、ディリージアは裏通りに走りつつ、馬車がヴァッケスにぶつかるように、火柱を上げて馬を誘導した。

 自身の何倍もの大きさを持つ馬車を、ヴァッケスは白の線で掴み上げ、ディリージアの行こうとしているであろう、隣の大通りへその馬車を高く投げつけた。

 その狙いは正確で、ディリージアが裏道を出ようという所、危うく彼は空から落ちてくる馬車の下敷きになるのをかわした。


「君は僕に勝てない。分からないかなぁ?」


 馬車に続くように空から降りてきたヴァッケスは、霧の線でディリージアに襲い掛かる。

 ヴァッケスはディリージアに、逃げる隙も、攻める隙も与えない。ディリージアが石造りの倉庫に隠れようとも、壁を砕かれ、空に上がろうとも、逆にディリージアは霧の線に追い詰められそうになるばかり。


「君はこの夢が、君が見せている物だと思ってはいないかい?」


 霧の線がディリージアの足首を掴んだ。線に引きずりおろされ、ディリージアは冷たい石畳に叩きつけられた。


「紫在に力を与えたのは僕さ。この夢を見させているのも、僕だ。この僕。君じゃない」


「何抜かしてやがる!!」


 足を捕らえられたディリージアは、怯まずヴァッケスに殴りかかる。しかし、拳はヴァッケスに届くことなく、腹に一撃をもらったのはディリージアの方であった。


「おかしいとは思わなかったかい?君がいくら望んでも、夢の世界が現れなかったことを。この世界で、君にほんの少しの力しか残っていなかったことを」


 抑揚が抑えられてはいるが、ヴァッケスの声には些かの嘲りが。それを察知したディリージアは、腹の痛みと合わさり怒りを抱いた。


「君とスティープス、そして箕楊椎菜。紫在の無意識に呼ばれた君たちがここまで来れたことは、正直驚いたよ」


 足首に巻き付いた線がディリージアを持ち上げて、弱らせようと石畳に彼を叩きつけた。


「しかし、箕楊椎菜はともかく、君とスティープスがこれ程希薄な存在になるとは思わなかったね。君に至っては、物にも触れられないとは。ぬいぐるみと城の模型じゃ、注がれていた愛情も違うということか」


 何度も何度も、ディリージアが潰れてしまいそうな程強く、彼を振り回し、街灯や家屋にぶつけさせて痛めつける。

 ディリージアが力無く逆さに吊るされた。その様を見て、また嘲ったヴァッケスの背後から、先ほどの、暴走したもう一台の馬車が迫ってくる。


「スティープスの存在が不安定なのは当然だ。元々、夢の中で動ける体を持っていた君とは違って、彼の体は紫在が無意識で作った朧気なものだからね」


 ヴァッケスは白の線でディリージアの体を振り飛ばし、暴走する馬車にぶつけ、横転させた。馬車は破片を飛び散らせて真っ二つに折れ、傷付いた馬は倒れたまま、立ち上がることができずに足掻いている。

 白い線で馬を刺し殺し、ヴァッケスがディリージアに近づいてくる。


「だが、君は?」


 馬車の荷台の残骸の中、力無く倒れるディリージアは動けない。

 傷は全身に刻まれ、度重なる痛みは蓄積し、体の動きを鈍らせる。


「君がどうして、そんな幽霊のような体になってしまったのか、分かるかい?」


 歩いてくるヴァッケスに悟られぬよう、ディリージアは足に力を込め、動かせるか確認した。


「それはね、君が力をなくしてしまったからだよ。君の力は何処かに行ってしまったんだ。君の中に、出がらしの力だけを残して」


 ヴァッケスが一呼吸置いたのを、ディリージアは見逃さなかった。

 ディリージアは瞬時に立ち上がり、余裕綽々で目前まで迫ったヴァッケスの顔に纏わる霧の中に手を入れ、ヴァッケスの顔を掴んで、頭から地面に押し倒した。


「ごちゃごちゃと、調子に乗るな」


 地面に伏したヴァッケスは、落ち着き払って、言った。


「力は、何処へ行ったと思う?」


「くたばれ!!」


 焦りが隠せない声で叫んだディリージアは、ヴァッケスの顔を握る力を強く、ヴァッケスの頭を焼き尽くさんと、掴んだ手ごと火柱を上げた。

 立ち上がる炎がヴァッケスを包む。何度も何度も、火は噴き上がり、薄暗い街を不気味に照らす。

 無我夢中でヴァッケスを焼いたディリージアは、体力の限界まで火を上げ続けた後、立膝の態勢から立ち上がり損ねて、背中から雪の上へ倒れた。

 ディリージアは立ち上がることもできず、力を使い果たした体を休ませた。

 冷たい雪が、舞い積もる。

 ヴァッケスは焦げた臭いを発して、ぴくりとも動かなくなった。

 ディリージアの焼けた手が、鋭い痛みを発している。どうにか治せないものか。このままでは、到底動かせるようにはならないと思えた。

 ディリージアは焦げ臭い空気を避けようと、体を引きずり、民家の壁際へ移動した。

 そして、それを見た。

 ヴァッケスの体は、解けた雪がまた凍り始めた石畳に倒れている。その顔には、未だ気味悪く、白い霧がかかっていた。

 そして、辺り一帯に影が差した。何かと思い、ディリージアが空を見上げると、そこには。


 血走った双眸と剥き出しの歯列。

 狂気の白い笑顔が、上空の黒い霧の奥底から、浮かび上がっていた。


「力は――――」


 空から伸びる白い線は、地上のヴァッケスの体に集まって霧となり、広がって辺りを包む。

 霧がヴァッケスとディリージアを覆っていき、やがて、ディリージアの視界が一変した。


「力は、ここに。夢の世界を総べる力は、この、ヴァン・ヴァッケスの中に」


 真っ白な世界。

 見渡す限り続く白い大地には何もなく。ただ、地平線が影を背負って、遠目に在るだけの景色が広がっていた。

 ディリージア以外、そこには誰の姿も在りはしない。冷たい雪と空気の感触もなくなって、無機質な世界は、無音を張り詰めて。


「泣いても、いいんだよ」


 静寂を裂く穏やかな声。

 世界を見渡すディリージアの背後に、ヴァッケスが現れた。顔にかかった霧には、空に在った筈の笑顔が浮かび、振り返ったディリージアの仮面をじっと見据えている。


「逃げ出しても、いいんだよ」


 誰かが望んだ怪物だ。誰かの優しさが生んでしまった怪物だ。



「諦めても、いいんだよ」



「全く……、しぶとい……」


 ディリージアは自身の怪我で、あとどれほど動けるのか苦慮した。

 ヴァッケスに弱った様子は欠片もない。ヴァッケスを焼くのに犠牲にした腕は、最早指一本動かないというのに。この場所には隠れる場所も、使えそうな物もない。

 あるのは、ディリージア、己の体のみ。


 ――――屠らねばならない。こいつだけは。この先、こいつがスティープスたちの障害となることは、目に見えているのだから。


「君の闘志には敬意を表する。だが、僕に君の力は届かない」


「黙れ」


「ディリージア、僕に力をくれたのは誰だと思う?」


 無音の世界に、ヴァッケスの声が低く染み渡る。顔に霧がかかり、だらりと直立するヴァッケスの姿は、至って不気味で。

 そんな人の姿をした怪物に、ディリージアは問答無用に殴りかかる。

 もう、ヴァッケスは防御することもなくなった。ディリージアの拳を全て身に受け、痛がりもしなければ、体勢一つ変えもせずに。


「ホリーだよ。君とずっと一緒に遊んでいた、哉沢ホリーさ」


「……、何だと……?」


「教えてあげるよ。知りたいだろう?ホリーがどうして死んだのか。僕は優しいんだ」


 ディリージアが驚いたことを確認すると、微かに上機嫌の様子で、ヴァッケスは話し始めた。


「最後の夢を見ていたホリーは、どんな気持ちでいたと思う?辛かったんじゃないかなぁ。現実では雰囲気の悪い家族が待っているし、夢の中では、ヴァン・ヴァラックがいた」


「お前に……、何が分かる」


「それに、彼女は分かっていたんじゃないかな。そもそも、何故家族の仲が悪くなったのか。何故、ヴァン・ヴァラックが現れたのか」


「黙れ!!」


 諦めずにヴァッケスに迫るディリージアを、白い線が捕えた。

 首に巻き付いた線がディリージアを締め付け、必死に逃れようとする彼の動きを止める。

 ヴァッケスは微動だにせず話し続ける。ディリージアに見える真っ白な世界で、動いている物は、ヴァッケスの顔に揺らめく白い霧だけだった。


「全部、ホリー自身のせいだ。それを、彼女も分かっていた」


「違う!!あいつに責任はない!あいつはただ、周りに振り回されていただけだ!!」


「彼女にとっては、それも罪だ」


 線がディリージアを高く持ち上げる。

 もがくディリージアの抵抗も意味をなさず、線に振り下ろされるままに、ディリージアは真っ白な地面に叩きつけられ、ぐったりと倒れ伏した。

 そんなディリージアにヴァッケスが差し伸べるように手を伸ばすと、その手の中に純白のナイフが現れた。

 身構えるディリージアを余所に、ヴァッケスはナイフを弄びながら続けた。


「ホリーはね、誰かに殺された訳じゃない」


 ヴァッケスの口が吊り上がる。

 言いたくて言いたくて、仕様がなかった一言だ。

 慈悲無く告げられる真実は、ディリージアにとって、耐え難い物であった。



「ホリーは、自分で自分を殺した。自殺したんだよ」






 ディリージアは、驚きはしなかった。

 有り得なくはない。そう思える話だった。

 ホリーなら、そういうこともあったかもしれない。積み重なった自責の念から、自害に至ったとしても、不思議ではない。

 いや、むしろ。


「お前の話を、俺が信じると思っているのか?」


 それが、一番有り得る話だ。


「君がホリーを見つけた時、周りに誰かいたかい?ホリーが加害者のことを少しでも口に出したかい?」


 あの見晴らしの良い丘の上で倒れていたホリーは、ただただ、誰かの心配をするばかりだった。

 ホリーは、誰を恨むこともなく、死んでいった。


「お前なら、すぐにその場から姿を消すこともできただろう」


 ディリージアは立ち上がり、ヴァッケスに踏み寄った。

 全身を痛みが貫いて、満足に力も入らない。それでも、動かずにはいられない。殴らずにはいられない。

 どうして堪えられようか。

 この怒りを、無念を、何処に捨て置けば済むと言うのか。


「もう止めたらどうだい?君は既に、分かっているじゃないか。僕には君の心が見えるんだ」


「黙れ!!」


 最後の力を振り絞って振り出された拳は、ヴァッケスの手にあっけなく阻まれた。

 ヴァッケスに拳を押し戻された勢いのままに、ディリージアは力尽きて地面に倒れ、思い出す。

 ホリーと過ごした最後の夢のこと。

 ホリーはどんな顔をしていたか。ずっと隣にいた自分は、何をしてやるべきだったのか。

 何かできることは、あったのか。


「僕はね、君やスティープスと同じなんだよ。ホリーが強く、強く望んだから生まれた、心なんだ」


「ホリーが……、お前みたいなやつを……、望む訳が……」


「ホリーは自分を殺す勇気がなかった。彼女はそれを恥じ、背中を押してくれる存在を望んだ。それが僕。紛れもなく、ホリーの望みだ」


 ディリージアは立ち上がる。立ち上がり、ヴァッケスに迫る。


「ホリーの心の底からの願いは、僕に力をくれた。夢の世界を自由にできる存在、夢そのものにしてくれた」


 覚束無い足取りで、一歩一歩、進むけれど。


「きっと、それは元々君の力だったんだね。ホリーが君の力を、僕の物にしてしまったんだ。紫在が君の力を吸い取ったのだと思っていたんだろう?違うよ。僕さ。僕が君の力を手に入れて、紫在に分け与えているんだ」


 けれど、ヴァッケスに辿り着くことは叶わずに、力尽きてしまう。


「君はお払い箱だったという訳だ。同情するよ」


 ディリージアは、立ち上がることも、言葉を発することも出来なくなっていた。

 微かに残った力も、もうディリージアを進ませることはない。彼の擦り減った心は、ついに限界に達していた。


「君は苦しんでいるね。君の優しさが、君自身を追い詰めている」


 ヴァッケスはディリージアにナイフを差し出した。

 柄から刃まで白一色の美麗なそれは、ディリージアには見た目以上の美しさを孕んでいるように思えた。


「その苦しみは永遠に続くことだろう。君が生きていく限り」


 ディリージアは戦慄した。

 目前のこの男は、間違いなく敵である。目的すら分からないが、それは確かなことである。

 なのに、この男が差し出したナイフに、ディリージアの手が伸びた。動けなくなってしまった体が、自然に動いた。


「そうだ。それでいいんだ。命はなくとも心がある。ならば、君も僕を求めることがあるのだろう。このナイフが君を救う。君から余計な感情を取り除き、死への憧れを後押ししてくれる」


 ディリージアには止められない。

 心の底から湧き上がる後悔が、ディリージアの今を蝕んで。

 胸の痛みは、己の破滅を望んだ。

 罪を償おうとしてのことか、罪から目を背けるためか。

 白い執事服に身を包み、仮面を被る彼は優しすぎたのだ。

 だから、死を招く。優しさ故に破滅する。白いナイフは、彼に自害する勇気を与える。心の隙間に入り込む、不気味な力で。


「本当に?」


 声が聞こえた。

 可愛らしくも、悲しそうな声だ。


 ――――何時以来だろう。この声を聞いたのは。聞いているだけで心が落ち着いていく、心地よい声だったのに。


 ――――どうして今は、こんなにも、俺の胸に突き刺さる。


「本当に、それでいいの?」


 何時の間にか、ディリージアの背後に一人の少女が立っていた。

 ディリージアは知っていた。その少女が、誰なのかを。

 かつて、共に夢の中を駆け回った女の子。何よりも大事だった女の子。

 その正体は、罪の意識に苛まれ、自らの命を絶った哉沢ホリーであった。

 己がヴァッケスを産んでしまったことに対する償いの形。夢の世界にたゆたう、ホリーが最後に望んだ、己の残留思念であった。


「もう、君に邪魔はさせない。塵のような夢の力で、未練がましくもこの世界に居座る亡霊よ」


 ヴァッケスは、ホリーの姿をした想いの形を見やる。

 亡霊と呼ばれたそれは、既に薄ぼんやりと体の色を薄めて、消えゆく陽炎のようにゆらめいていた。


「その様子では、もう長くは持つまい。何も成せぬまま、消えるがいい。最期まで、己の願いを受け入れきれなかった、哀れな君」


 地面が揺れ、ディリージアと女の子の間に高い壁が生え立った。

 二人は引き離され、女の子の声は、ディリージアに届かなくなってしまった。


「ホリー……?ホリー!!!」


 ディリージアの頭を埋め尽くすのは、何時かの思い出。後悔。

 そして、罪悪感。

 負の感情に囚われたディリージアを救える者は、最早誰もいない。ついに、ディリージアを救えるのは、彼自身のみとなったのである。


「俺は……、まだ死ねない……。死んでいい訳がない……!」


 抗う心は気高く、たった一つの約束を糧に立ち上がる。

 哉沢ホリーと交わした最後の約束。

 この夢の世界で、未だ孤独にさ迷い続ける紫在を。ホリーとは違う別人だけれど、尊き想いを胸に、現実で必死に闘っていた哉沢紫在を、まだ。

 ディリージアは、助けてあげられていないのだから。


「君は充分に頑張った。もういいんだ。紫在はもう、君を望んでいない。君は紫在に会うべきではないんだ。紫在が今、君と会って喜ぶと思うのかい?」


「まだだ!!」


 ディリージアは咆哮と共に、ナイフを投げ捨てた。

 諦観と恐怖に塗れていく心の中で、彼の理性が足掻いている。

 泥の中で、藁にもすがる思いで手足をばたつかせるが如く。必死に自分を保つ理由を探して、記憶の海を駆け巡る。

 死を求める自分を拒むため、大事な人たちのことを思い出す。


「俺は死なない!そんなことは望まない!!」


「そうかな?」


 ヴァッケスに迫ったディリージアは、左手の感触に、ぞっと背筋を凍らせた。


 ――――何か重たい物が、手に握られている?


 ディリージアは、恐る恐る自分の左手を見た。

 確かに、何かを握っている感触のある左手を。

 何かをしっかり握っている、左手を。

 そこには――――

 そこには、純白のナイフが在った。自分を死へと導くナイフが、煌めいていた。

 ディリージアの頭を、自害している自分のイメージが埋め尽くす。胸にナイフを突き刺すイメージが、鮮明に、心を魅了しようと湧き上がる。

 ディリージアは恐怖し、ナイフを再び投げ捨てた。地面を滑り、金属音を奏でるナイフから後ずさった。


「何を……、何をした!!?」


「何って」


 ヴァッケスへ食って掛かったディリージアは、またも感じるは左手に。重みと冷たさが、それが何なのかを彼に悟らせる。


「何も?」


「何で……、何で俺の手に!!」


 またナイフを投げ捨てる。ナイフはディリージアから数歩離れた場所に滑り落ちる。


「何でって……」


 ヴァッケスは、狼狽えるディリージアを可笑しそうに見ながら、口の端を吊り上げて、ディリージアを指差した。



「君が拾ってるんじゃないか。さっきから、君が捨てて、自分で拾ってるんじゃないか」



 そう言われたディリ―ジアは、何時の間にかナイフの下に這いずり寄って、ナイフを拾っている自分に気が付いた。

 げらげらと、気色の悪い笑い声が響き渡る。狂気の笑顔が喜びに打ち震え、心の底から笑っている。


「なん……、何で……。俺は……、何で……」


 ディリージアは、ホリーの死にゆく顔を思い出した。

 泣きながら、自分を見ていた紫在を思い出した。

 守るべきだった人たちを。

 大好きだった人たちのことを、思い出して。彼は。


「終わりだ。ようやく、自分に素直になれたんだね」


「あああああああああああああああああああああ!!!!」


 ディリージアは心の底から急速に沸き立つ衝動に耐え切れず、その死への衝動に身を任せた。彼の中に明滅する無数の記憶たちが、ナイフを握る彼の手を振り上げさせる。

 ホリーと過ごした、幸せだったあの頃。

 紫在を見守ることしかできなかった、あの頃。

 椎菜やスティープス、ライオン、そして、もう一人のホリーと過ごした、あの頃。

 全てがディリージアの心を痛ませた。彼は頭の中で、何度も何度も謝った。

 大事な者たち、全てに謝った。

 ホリーを守れなかったことも、約束を守れなかったことも。何もかもが、心の痛みへ変わっていく。

 優しすぎる彼には到底耐え切れぬその痛みは、死への憧れは、罪悪感は。


 ディリージアの手を。ナイフを。

 彼の心臓へと、突き立たせた。











「例え、心の臓が刃で貫かれようとも、消えることはない。君には命がない故に。ただ、体を失うだけさ」


 ディリージアが自身にナイフを刺したのを見届けると、ヴァッケスは、血を流して倒れるディリージアを見下ろしていた。

 景色は真っ白な世界から戻って、雪が積もる城下町。

 大通りの真ん中で倒れるディリージアの血が、石畳と雪に広がっていく。止まらない血は彼を絶命させるだろう。周囲に人気はなく、静かな街中に二人の白い男がいるだけだ。


「安心するといい。すぐに、スティープスも君の下へ行くだろう」


 雪を踏み、足跡を残しながら、うつ伏せのディリ―ジアのすぐ傍にヴァン・ヴァッケスは歩み寄る。


「君たちは体のない、心だけの存在へと戻り、遥かな天上からこの世界をただただ、見守り続けるんだ。紫在が死ぬ時まで、ずっと」


 ヴァッケスはディリージアの体を仰向けに起こして、ディリージアの胸からナイフを引き抜いた。

 ナイフが抜かれた傷口からは、脈々と真紅の血が溢れだした。


「恐怖と罪悪感の夢の中で。永遠の傍観者となり給え」


 ディリージアを残し、城の方へと歩き去るヴァッケスは、血を纏ったナイフをまじまじと眺めた。彼の顔にかかる霧からは、既に狂気の笑顔は消えており、その表情は窺がえない。


「ははっ」


 そして、後方から吹いた風に乗せられてきた声に、ヴァッケスは振り向いた。


「……。何を笑う?」


 小さな小さな、笑い声。

 弱弱しく発せられた笑いは、ヴァッケスにはどうにも気味の悪い物に聞こえた。


「紫在が死ぬなんて、誰が決めた。なんでも思った通りになるなんて、それこそ、夢なんだよ」


「僕が存在することが、紫在が死を望む証明だ。君も分かっている筈だが?」


 ヴァッケスは肩透かしをくらった思いで答えた。何かと思えば、下らない意地を張っているだけだと、そう思った。


「ああ、そうだ。でもな」


 ヴァッケスの姿が消えていく。白い霧の線となり、再び空へと昇っていって。

 そんなヴァッケスに、ディリージアは言った。


「それでも、いつか夢は覚めるのさ。どんなに続いて欲しいと思っていても……」


「……」


 ディリージアの言葉に、ヴァッケスは答えはしなかった。

 完全にヴァッケスの姿が消えて、ディリージアは全身の痛みに気を移した。

 血は止まらずに、流れ続けている。

 痛みに意識も薄れ始めて、ディリージアの肉体が死を迎えようとしていた時だ。

 ディリージアの仮面を覗き込む、ヴァッケスに亡霊と呼ばれた女の子の姿が、彼の傍に在った。

 冷たい風と雪の中で、徐々にその体温を失っていくディリージアと、彼に寄り添う女の子の姿は、何時かの、楽しそうに夢の一時を過ごしていた頃の二人の姿。

 二人の存在は変わり果ててしまったけれど。

 もう二度と、あの頃のように話すことも、できなくなってしまったけれど。


「……、ごめんな。何時まで経っても、駄目なままで」


 白い執事服を身に纏い、顔全体を仮面で覆う、尊大な男がその体を永遠に失う時がきた。

 ディリージアの最後の言葉を聞いて、女の子の姿をした想いの形は。

 彼のために涙を流して、その最期を看取った。

















15th tale End





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