13th tale Domestic Violence
・ある少女の回想 九
部屋のドアがコンコンコン、と叩かれて。
無心にゆらゆらと漂っていられた心地良い静寂が砕かれるのを、ご飯もろくに食べていないからか、嫌に重たい自分の体で実感した。
「うるさい……!」
私はベッドの中で悪態を吐く。
また、お母さんが呼びに来た。
朝から何度も部屋にやって来ては、部屋から出てこいと声をかける。
一昨日くらいまでは、あの手この手で私を誘い出そうとしていたあの努力も、今に至ってはなくなった。
きっと、諦めたのだろう。
お母さんも私に出てくる気がないと分かって、どうでも良くなったに違いない。
形だけの気遣い。母親としての義務。
自分が悪者になってしまうのが嫌で、嫌々こうして何時間か置きにドアを叩いている。
部屋に秘密で鍵を付け、内側から鍵を掛けて、部屋にこもり始めたのは、一週間程前のことだったと思う。
その間、学校へは一度も行っていない。
「紫在……。ご飯ここに置いておくから……。お風呂入りたくなったら言ってね……?すぐに入れるようにしてあげるから……」
お母さんが私の返事を待っているのが分かる。
返事なんてしない。
もう私は、誰とも口を聞きたくない。誰の目にも触れたくない。だって、辛いだけだから。
「それじゃあ、お母さん行くね……?お休み、紫在」
廊下を歩く足音がして、階段の軋む音がして。
やっとお母さんがいなくなった。
私は誰に聞かせるわけでもなく、思い切り溜息を吐く。威嚇するように喉を鳴らせて、深く重い息を。
ドアの向こうに置かれた夕飯を取りにも行かずに、私はベッドの上でぬいぐるみを転がした。
何をするでもなく、こうして何も考えずに過ごす。それが私の最近の一日。
ご飯だって、食べる気がしない。食欲がわかないのだから、仕様がない。
放って置けばいい。食べなかったら食べなかったらで、勝手にお母さんが片付けるだろう。
ぬいぐるみを窓辺に置いて、布団を被った。
瞼を閉じずに、空気の静寂を聞く。
外の世界から、ほのかに響く虫の声が届いてきた。
ああ、もうすぐ夏が来る。
去年はどんなにあの燃える季節を楽しみにしていたっけ。
私はどんなことを考えていただろう。
空気の香りすら変える陽ざしの中を走って、夕暮れの川の冷たさに寂しさを感じて。
何処に行こうか、何をしようか。私は――――
吐き気を感じて、私は考えるのを止めた。
また、いらないことを考えてしまった。
止めよう。
季節が変わろうと、私にはもう関係のないことだ。このまま何もしないで、これからを過ごそう。ゆっくりとゆっくりと、死んでいくのも、悪くない。
「紫在!!!」
家全体を揺らす怒声に、飛び起きた。
階段を踏みつけ、上る乱暴な足音が鳴り響く。
何よりも恐れる人がやって来た。
怒声と暴力を振り撒き、恐怖で私を飲み込む父の気配が、私の部屋に近づいて。
鍵を砕き、無理矢理開かれたドアが、静寂の終わりを知らせた。
「いい加減にしろ!!学校にも行かないで、何時まで家にいるつもりだ!!!」
父は私をベッドから引きずりおろして、胸倉を掴んで怒鳴りつける。
恐い。私は恐い。
父の吼える顔が、血管浮き出る両手が恐い。
父の腹の虫の居所が悪い時、家の空気は一変するのだ。
父には兄もお母さんも逆らえない。
怒鳴り散らし、怒りのあまり家の物を壊すことだってある。
誰が逆らえると言うのだろう。
この家で一番力のある者は誰か。世の中のことを一番理解しているのは誰か。
この家に住む私たちを支えているのは、誰か。
逆らえるはずがない。逆らっていい筈がない。
だから、私は父が私に怒声をぶつける間、ただ震えて。返事なんて、できる訳もなくて。
「なんとか言え!!」
ついに、父が私を押し飛ばした。
私の体は思い切り棚にぶつかって、棚の上に置かれていたお城の玩具が落ちてきて、私の頭を強く打って床に転がった。
開こうとした目に入り込む何かに、私は驚いて、目をこすると。
自分が頭から出血していることに気が付いた。どくどくと溢れ出す血は 私の顔を、床を、お城の玩具を濡らして。
あの時、倒れた私に駆け寄った父の目は、何処を見ていただろう。少なくとも私には、私の目には。
「す……、すまない!すまない、紫在……!」
お城の玩具の方を見ていたように、思えた。
13th tale Domestic Violence
この世界に伝わる御伽噺があった。
地域によって微々たる違いはあれど、その本筋は何時だって、とある怪物の恐ろしさに定まるのだ。
曰く、生きとし生ける全てを砕き。
曰く、死して第二に来たる罪を呼ぶ。
幼少、物心がついた頃。あまねく誰もがその御伽噺に恐怖を植え付けられて育つのだ。破壊の限りを尽くす、異形の怪物に。
羊の角をかざし、漆黒の爪と真紅の双眸を持ち、比類なき力を奮うヴァン・ヴァラック。
偉大なるヴァン・ヴァラック。
逆らう者など在るものか。在ろうはずがない。
なのに。
なのに。これは、どうしたことだ。
今、自分の目の前で起こっている事は、何だ?
かの怪物、ヴァン・ヴァラックに襲われた我が商隊は、確かに壊滅の未来を約束されたはずではなかったか。連なる馬車は一つ残らず破壊され、一人残らず、食い殺される運命にあったはずでは。
既に壊された先頭車両とその後続二台を除き、ランケット商隊馬車は健在だ。
壊された馬車に乗っていた人間も大小の傷はあれど、信じられないことに死人は出ていない。
それもこれも、ヴァラックを引き付けてくれている“彼ら”のお蔭だ。
始めは何が起きているのか理解することができなかったが、暫くすると、信じられないことに我々に見えない誰かが、あの怪物と戦っているのだと分かった。
宙に浮き、一人でに動く剣がヴァラックの動きを牽制し、何もない所に突然噴き上がる炎や、意志を持つかのように舞い上がる木の葉が、ヴァラックの視界を奪う。
「今の内に逃げてください!早く!!」
今しがた、ヴァラックの牙にかかろうとしていた少女が、獅子ともう一人の少女を連れて、何かと戦うヴァラックに見入っていた商隊の所へやって来た。
彼女たちはそれぞれ一人ずつ怪我人を担いで、場所の空いた馬車に乗せていく。
我が商隊の面々は、死にかけていた仲間を運んできてくれた彼女たちに感謝したが、ヴァラックに対抗し得る不思議な力で守られていた彼女たちを不気味に感じもしていた。
「早く!急いで!商隊の人たちが襲われる前に、行って!!」
「そ……、そうだ!ここから離れるぞ!こっちの道はもう駄目だ!最後尾の馬車から道を引き返せ!!」
叫ぶ彼女の真剣さに気圧されて、私はとっさに指揮を取る。商隊長である私に従い、商隊は車体の向きを変え、馬を走らせ、順に逃げ出し始めた。
「あの、この子たちも乗せてあげてくれませんか?」
その女性、椎菜の頼みに何と答えた物か、私は思考を強張らせた。
怪しげな力を使う椎菜が、今や気味の悪い存在に思えて仕方がなかったのだ。私にとって、商隊に不審な者を加えるのは仲間の安否に関わることであって。
椎菜の素行が良いことは感じていたし、彼女の後ろで不安気に顔をうつむかせる小さな少女を見るや、私の良心は痛みに痛んで。
「この馬車に乗んな!荷物の上に乗っても構わんよ!」
私は腹をくくって、彼女の頼みを聞くことに決めた。椎菜は背丈の足りないホリーを馬車に乗せてあげて、ホリーがライオンに馬車に乗り込めるよう仕切りの布を上げた。
けれど、椎菜自身は馬車に乗ろうとしなかった。
「ほら、お嬢ちゃんも乗りな!」
「いえ、私は残ります」
「何言ってんだ!死にたいのかい!?」
「大丈夫です。私は、手伝わなきゃ」
ヴァラックが暴れ、投げ飛ばされた木が馬車の近くに突き刺さった。
これ以上はもう、ここにいることはできない。命がいくつあっても足りはしない。
「行け!おっさん!どうせもう腹決めてんだ、こいつは!」
「手伝うって……、何を?!」
「怪物退治を。あの人たちが、やろうとしていることを」
椎菜は服をひるがえして、怪物の方へと戻っていく。私は勇敢な彼女の後姿を唖然と見送って。戦いの轟音に我に返ると、慌てて馬車を走らせた。
「椎菜さん、気を付けて!」
声をかけたホリーは馬車の中から心配そうに、見送る椎菜に手を振った。
恐らく、もう彼女たちは生きて再会することはできないであろうと思うと、胸が痛かった。
空気を引き裂き、岩を砕く爪をかわして、木をなぎ倒す尾を避けて。
スティープスはヴァラックに剣を肉薄させていく。何時か彼と真っ向から戦った騎士のように、間髪入れずに切り続けた。
剣先が強靭な筋肉へ突き刺されば、ヴァラックは痛みに吼えもした。それでも、ヴァラックを倒すことは叶わない。どれだけ多く傷つけても、如何に複雑に傷を付けようとも、黒き怪物、ヴァン・ヴァラックの無尽蔵な生命力で数秒の間に傷は塞がってしまう。
それならば、とスティープスは、ディリージアが起こす風やら炎に、ヴァラックが注意を引かれている隙に、背後へ回った。
そのまま剣を大きく振りかぶり、体重を乗せて勢いよく、剣をヴァラックの背中へと突き刺し、暴れるヴァラックに振り落されまいと刺さった剣を握り、張り付いた。
ヴァラックは痛みにのたうち回り、そのまま渓流の水の上に転がって。
スティープスは剣でヴァラックの肉を抉り、ヴァラックが水の深さのある場所に落ちるまで暴れさせた。
そして、遂にヴァラックが滝の下、地面が掘り下げられてできた、渓流の水が溜まる深みに落ちた時だ。
「ディリージア!!」
スティープスはヴァラックの背から離れて水から上がり、ディリージアに大声で合図を送った。
すると、ヴァラックが落ちた辺りから水が急速に凍り始めて。水の中で手足をばたつかせ、身動きが取れないヴァラックごと川を凍りつかせた。
ディリージアがずぶ濡れになったスティープスの後ろにやって来る。
しかし、そんなディリージアとは反対に、スティープスはまだ戦う姿勢を緩めてはいなかった。
スティープスの見つめる先には、氷に包まれたヴァン・ヴァラック。怪物を固めた氷は滝から落ちる水を表面に滑らせ、木々の生える地面にまで川の水を浸していた。
「まあ、ざっとこんなもんだろう。ざまあないな」
氷漬けにされたヴァラックを、ディリージアはそのすぐ上に浮かんで見降ろしていた。
一方、スティープスはとある音を聞いていた。
びしりびしりと、亀裂の生まれる音だ。ヴァラックを閉じ込めた、凍った川が砕かれていく音だ。
「下がるんだ、ディリージア!!」
スティープスが叫んだ刹那、巨大な氷は粉々に砕け散り、飛び散る氷の破片の中に黒き獣が力強く宙を舞っていた。
ヴァラックは跳び上がるように氷を砕いた勢いのままに地面に着地すると、鋭敏な五感でスティープスたちの位置を感じ取った。
そして、ヴァラックが背後にいるであろうスティープスへと、筋肉張り詰める尾を振るう。
尾はスティープスの体を横から強く叩き、彼を木々の中へと弾き飛ばした。
「スティープス!」
木の幹をへし折る程に強く打ち飛ばされたスティープスに、ディリージアも彼の安否に焦りを持った。
スティープスに追い打ちをかけようとするヴァラックが、渓流の水へと足を落とした時を見計らい、ディリージアはヴァラックの足を凍らせる。
動かない足に一瞬戸惑ったヴァラックだが、すぐに力づくで足を氷ごと持ち上げた。足に付いたままの巨大な氷を近くの岩で叩き割ると、ヴァラックは二人の居場所を探るため、じっと周囲の気配に感覚を向ける。
水の流れる音と、木々のざわめき。
その中を走る風を切り裂く音を、研ぎ澄まされた聴覚が聞き取った。
それは、鉛の弾が空を裂く音だ。
ヴァラックは咄嗟に動くことすらできず、弾丸はヴァラックの目を深く打ち抜いた。
「当たった!」
スティープスは地面を這いずりながら、倒れた馬車から落ちていた商隊の商品である銃を拾い、ヴァラックの目を狙って引き金を引いたのである。
スティープスが自分で思った以上に上手く当てることができたその弾丸は、見事にヴァラックへ突き刺さり、急所であろう頭部は脳に届いたはずだ。
川岸にヴァラックは倒れ、尾は力なく水の流れに揺れている。
「見たかいディリージア!今の見たかい!?一発で当たったよ!これすごいんじゃない!?僕、才能あるんじゃない!??」
「分かった分かった」
ヴァラックに勝ったことへの興奮と、予想外の大当たりに騒ぐスティープスをあしらいながら、ディリージアはヴァラックの死体へと近寄った。
「現実でも夢の中でも、胸糞悪いやつだった。できることなら、現実の本物の方をこうしてやりたかったよ」
ディリージアは風を操り、渓流に流れていた花を一輪、ヴァラックの頭へと落として。
ディリージアが離れていこうとした、その時。
ヴァラックが手足をばたつかせ、呻きながら立ち上がった。
怒りのままにヴァラックは暴れ回り、岩も木も、地面もお構いなしに殴り壊していく。
いきなりのことにディリージアは反応することができなかった。
ディリージアはヴァラックの狂乱に巻き込まれ、もろに怪物の腕に殴られて、川岸の小石を穿って土に埋もれた。
スティープスが暴れるヴァラックに銃を撃つ。
当たりはしても、先程のような致命傷は与えられない。全て表皮と筋肉に弾かれ、一つとして通用しない。
ヴァラックの目、スティープスが打ち抜いた目から、鉛弾がぽろりと落ちた。
脳を潰したはずの弾丸である。
ヴァラックは例え脳が壊されても、何の問題もなく再生してしまうのだ。
脳も心臓も、この怪物には弱点には成り得ない。圧倒的な暴力と生命力で、あらゆる物を破壊する。
スティープスにヴァラックが襲い掛かろうとした、その時、その間に割って入ってきたのは、椎菜であった。
ヴァラックへと黒い花弁の槍が突き伸びた。
椎菜が、スティープスへ迫るヴァラックを止めようと出したその槍は、ヴァラックの体に突き刺さると思われた直前に、頑強な顎に受け止められた。
顎の力で、鋭い牙が深々と槍に食い込んで、形を保てなくなった花弁は空に散っていく。
舞い落ちる枯葉を吹き飛ばし、続けざまに伸ばされる槍から逃れようと、ヴァラックはスティープスから離れた場所へ距離を取った。
流れの速い渓流を隔て、椎菜らとヴァラックの距離は広い。
「椎菜……、どうして……!」
「こっち!」
その隙に、椎菜はスティープスの手を引き走り出す。
椎菜は振り返り、ヴァラックが追ってくるのを確認しつつ、助けに来るまでの間に見つけたとある物が在る場所へと向かった。
椎菜がスティープスを連れてやって来たのは、馬車がいくつも倒れている川岸だった。
ヴァラックが現れた時、怯えた馬が暴れて倒されてしまった馬車たちである。
椎菜は商隊と別れた後、スティープスたちの下へと戻るまでの間にこの惨状広がる岸を見つけた。
息も整えずに、馬車の内の一つを指差して椎菜は言った。
「見て。あの馬車、油を積んでたみたい。あれ、使えない?」
馬車の荷台から転げ落ちたと思われる樽が、蓋の取れてしまった口から油を川に垂れ流している。馬車に近寄ってみると、荷台の中には、木の柵で厳重に固定された樽がいくつも残っていた。
「ああ、なるほど」
椎菜の考えていることが、スティープスにも伝わってくるようだった。
そしてそれは、現状の打開に丁度いい策であるとスティープスは気付いたのだ。
つまり、どれだけ傷を付けても意味がないのなら、今度はあの怪物を回復が追いつかない程に傷付け、燃やしてしまおうということだ。
「これで、ヴァン・ヴァラックを倒すってことか。御伽噺……。この前の、劇みたいに」
通って来たのとは違う街道を、馬車の列がひたすら走る。
紅葉の森に作られたこの道は、街道とは言え、お世辞にも立派な物ではなくて。ヴァラックと出くわした際の恐怖が残っているのか、随分速めな速度で走る馬車たちは、ひどい揺れを伴っていた。
列の後部、商隊長の操る馬車に乗るホリーは、保険の護衛としてついてきてくれたライオンにしがみつき、商品の山の上に座っていた。山が崩れる揺れに耐えながら、怪物と戦うために残った椎菜たちを、案じることしかできない自分に、ホリーは不甲斐なさを感じずにはいられない。
「私、ついてきてよかったんでしょうか……」
「え!?何?聞こえねーよ!」
しがみつくホリーとは対照的に、ライオンは余裕のない様子で騒音の激しい、不安定な荷台の山と格闘していた。
「私、みなさんの邪魔になってませんか!?」
大声で言い直したホリーの言葉は、雑音混じりにライオンに届いた。
ライオンの後ろ足を乗せていた箱の山が崩れ、体勢を立て直しながら、ライオンは返答を考えた。
「気にすんな!このぐらい、邪魔の内に入らんからさぁ!!」
無力な少女は、ライオンの答えに納得がいったのだろうか。
たてがみを掴む手はさらに力がこめられて、その瞳は何処か遠くを見ているようだった。
商隊は、未だ紅葉の世界から抜け出せないでいる。
怪物から逃れようと必死に走り続ける馬車は、どんどん椎菜たちから離れていった。
もうすぐ森の出口というところに、馬車がさしかかった頃だった。一際酷い揺れが馬車を襲い、車輪の上げる悲鳴が耳を刺して、馬車が急停止したのである。
「今度は何だ?」
箱からこぼれ落ちた果物に埋まっていたライオンが、異変に勘付き、果物の山から顔を出した。
ライオンにつかまっていたホリーも顔を出す。
止まった馬車の外から話し声が聞こえてくる。
ただ事ではない様子だ。
慌てふためく声と、嘆き悲しむ声がする。
ライオンは馬車の中から外で何が起こっているのかを覗き見た。
そこには。
「ごぉーお、よぉーん、さぁーん、にぃーい、いーち。ぜろ」
不可視の衝撃に砕かれた人体は、血を吹き出しながら地面に倒れて、その向こうには、一人の女の子が立っていた。
細かな装飾の散りばめられたドレスに身を包み、終末の数を数えていた声は、少女らしく可愛らしさを含んでいた。
――――あれは、誰か。
ライオンはその人物を知っていた。ついこの間にも、彼のいない間に椎菜たちを襲ったこの世界の支配者。
今、向かっている城下町で、かつて憎き魔女を椎菜の目の前で処刑した、暴君。
ヴァン・ヴァラックと並んで恐れられる、見えざる彼らの言うところの、現実から来たという絶対の力を奮う姫であった。
「ねえ、本当?本当に知らないの?女の人と、ペットのライオンを連れた私と同じくらいの女の子」
ライオンの心臓が跳ね上がった。
今、姫が商隊の人たちに尋ねた特徴は、明らかに自分たちのことを指していた。
ライオンは覗き見るのを止め、荷馬車に身をひそめて、耳だけで外の音を聞いた。
「どうしたんですか?」
「いや、大したことじゃない。とにかく、今はじっとしてろ」
ホリーに外の惨状を見せる訳にはいかない。
姫が自分を追ってきた挙句に、無関係の人間が犠牲になってしまったと知れば、ホリーは深く傷つくに違いない。
どうしてこちらの居場所が分かったのだろう。
今まで、姫が自らホリーを追ってきたことはなかった。知ろうと思えば、何時でも居場所を知ることができたとでも言うのだろうか。
「向こうの方の街で見たって人がいたんだけどなぁ。まぁいいや」
姫は、一向にまともな答えを返さない商隊に尋ねる気を失くし、彼女の興味は別の事に移っていった。
「私も作ろうかな、ペット」
馬車の外から、大きな悲鳴が上がる。
ライオンはその悲鳴の壮絶さに、外の様子を再度確認せずにはいられなかった。
丁度、姫の一番近くにいた商隊員の男が、黒い泥に思える何かに足を取られていた。
胸を掻き毟り、苦しそうに倒れたその男の顔は、みるみるうちに蒼白に変わって。
男の足元で、黒い何かが蠢きだした。影のようにも見えたそれは、男の体を綺麗に包み込み、彼を真っ黒に覆い隠してしまった。
「何にしようかなぁ。猫か、犬か。鳥も欲しいし……」
黒い粘塊の中で、骨が砕ける音が響きだした。
ぐねぐねと形を変えて中身を変形させていくそれは、捕食する生き物の咀嚼を連想させる。
「できた」
粘塊の動きが止まり、姫は満足気な声で、卵の形に姿を変えた黒いそれを指でつついた。すると、黒いそれを脱ぎ捨てて、中から一匹の白い大きな鳥が現れたではないか。
恐怖の色に染まる観衆の前で、鳥は自分の体を見渡しながら、悲しそうに鳴き声を荒げた。
「ほら、ほらほら。こっちおいで」
姫が猫なで声で呼びかけるのが、その鳥には聞こえているのか、いないのか。
鳥は鳴き喚きながら、商隊の人たちにすがろうと小枝程の太さになった足で歩いた。
そんな鳥から、皆は酷く気味悪い物であるかのように目を逸らし、後ずさった。
鳥は何を思ったのだろう。
尚も呼び掛ける姫に耳を貸さずに、鳥は飛び立とうとした。
けれど、機嫌を損ねた姫の見えざる暴力が、彼の両翼をもぎ取ってしまった。翼を失った鳥は哀れにも地に落ちて、動かなくなった。
「……、失敗」
ぼそりと呟いて、姫は顔を商隊員たちに向けた。
黒い霧に覆われた顔には、まだ例の狂気に満ちた表情は浮かび上がって来てはいない。しかし、皆の恐怖を煽るには、この姫が眼前に存在するという事実だけでも充分に過ぎる。
馬車の陰に隠れて、様子を見ていた女性がいた。
その女性の足下に、先ほどの男の所に現れたのと同じに、黒い粘液が湧き上がって。
体を包み込もうと口を広げる黒塊に、女性が悲鳴を上げた。
「どっちがいい?」
姫の問いかけに、女性は声を発することもできない。その顔は恐怖に染まり、がちがちと歯を鳴らして。
「犬か猫か。どっちがいい?」
女性には、答えることなんて、できなくて。
女性が黒塊に覆われてしまいそうになる。
その光景を、ライオンの覗いている隙間から、ホリーも見ていた。見てしまっていた。
馬車から飛び出していくホリーを、ライオンは体に触れた風と、視界の端に映る姿に感じ取った。
あってはならないことが起きたことにライオンが気付いた時には、ホリーはもう姫の前に立っていた。
商隊を庇うため、姫の狂気を正面から受け止める、最悪の位置で。
「ん?んー……。あれ、あれぇ。なんでここにいるの?」
「もう、この人たちには手を出さないでもらえませんか」
「あなたがここにいるってことはぁー……」
「私を……」
馬車の陰の女性に纏わる黒塊が、その場にいた全員の足元に現れた。
うねってうねって、全てを覆うべく、伸ばされて。
「この人たちが、私に嘘吐いたってことだよね?」
「私をどうしたっていい!だから!もう、何もしないで!!」
黒塊の動きが止まった。
震えながらも、涙ぐみながらも姫に強い眼差しを向けるホリーを、姫はしげしげと見つめた。
「どうしたっていい?何でも?何してもいいの?へぇー」
そして、何か悪いことを思いついたと言わんばかりに、楽しそうな声でそう言って。何時の間にか後ろに回り、後ろから姫の首元に噛みつこうと、飛び掛かったライオンを動作も無しに黒い霧で弾き飛ばした。
「待て!おい、待て!待てよ!!おいっ!!!」
姫は自分を本気で殺そうとしたライオンを意にも介さず、ホリーの首を絞めるように掴んで。
姫がホリーとともに消えていく。
ライオンの爪が姫を切り裂こうと振るわれたのを、ホリーは見た。
爪は消えていく姫の体をすり抜けて、全身の体重を爪に乗せていたライオンは倒れ、ひたすらホリーの名前を呼んでいた。
その声を聞きながら、ホリーは今まで椎菜たちと過ごした時間に、感謝を送る。
短い間ではあったけれど、確かに自分は幸せであったと。
絞められた首に、苦しさを覚えながらもゆっくりと、目を閉じて。
――――ありがとう。
心の中でお礼を言って、ライオンの前から、ホリーは姫と共に姿を消した。
渓流にて、スティープスと椎菜はヴァラックを待ち構えていた。
油の詰まった樽がいくつも載せられた馬車にヴァラックを近づけるため、馬車の倒れる岸に突き刺さった巨岩の陰に潜み、なぎ倒される木々の音に耳を澄ます。
ただ一つ残った問題は、ヴァラックに油を被せた後に、どうやってその油に点火するのか、ということで。
椎菜たちはこの問題を解決することができるディリージアを、ヴァラックから隠れながら待つことしかできない。
「どこ行っちゃったの、あの人……」
「多分、まだ地面に埋まってるかも……」
「……」
水が岩の隙間を流れる音がする。風に揺れる木々の音がする。
それらに混ざって、椎菜たちはヴァラックの息遣いを聞いていた。
こちらの居場所を探るよう、一歩一歩近づいてくる。
緊張が空気を重くして、息をするのも辛くなって。それでも、気を強く持とうと椎菜は自分を叱咤して。
ここにいない筈の、誰かの声を聞いたのだった。
「見つけた」
空気にぬめる、気味が悪いいたずらな声。
それは、誰の声か。
椎菜は知っていた。
川の向こう岸に立つ、一つの人影。
顔は黒い霧に隠されて、御伽噺のお姫様の風体をした少女。
黒き霧に浮かびあがったその顔は、醜く戯画的であり。激しく吊り上がった口の両端は笑みを、白目に血を迸らせて見開かれる双眸は、どこまでも怒りと悲しみに軋んでいる。
椎菜は背筋が凍る思いが湧き起こるのを自覚した。
この世界の狂気だ。
この世界の源だ。
見ているだけで気が触れそうになる、剥き出しの感情である表情を浮かばせる彼女こそ。
そう。
正しく彼女が、夢の主。哉沢紫在に他ならない。
椎菜の心臓が大きく高鳴った。
ついに、この時が来た。
ずっと探し続けてきた哉沢紫在と向き合う時が。この姫を、哉沢紫在と知って向き合う、運命の時が。
どくんどくんと心臓の跳ねる音を聞きながら、椎菜は姫をじっと見つめた。
向こう岸で椎菜を見やる姫は、傍らに黒く大きな卵のような物を置いていて、椎菜の視線を受け止めて、姫は一層口を吊り上げて笑うと、椎菜の背後を指差した。
姫の指差す方には、岩の上から椎菜を見下ろす巨大な影が。
ヴァン・ヴァラックが、そこにいて。
ヴァラックは黒く鋭利な爪で椎菜を引き裂こうと飛び降りる。真っ直ぐに、椎菜へ向かって落下した。
スティープスが椎菜を連れてその場から離れ、襲い掛かる怪物から椎菜を守る。
渓流に水飛沫を上げるヴァラックの体は、未だ傷一つなく、健在であった。
水の深みに体を浸けて椎菜の行方を目で追うヴァラックに、姫は言った。
「死ねばいいのに」
笑っている顔に似つかわしくなく、姫の声は酷く暗かった。
「ねえ!スティープス、今の……。どうして紫在さんがここに……?」
「分からない!けど、今はとにかくあいつを何とかしないと!!」
ヴァラックから逃げれば逃げるほど、油を載せた馬車は遠ざかる。
河原の足場は悪く、椎菜の足はスティープスに遅れた。
肩で息をし始めた椎菜を見て、追いつき始めたヴァラックを、スティープスは迎え撃つ。
自身が見えないことを活かし、スティープスがヴァラックの顎を蹴り上げる。一瞬怯みはしたものの、ヴァラックはすぐにスティープスの存在に勘付き、暴れ始めた。
岩を砕き、水を裂く怪物の爪は、スティープスを切り裂こうと振るわれる。
水に体を取られて動きの鈍るヴァラックに、水の上を舞い、ヴァラックに打撃を入れ続けるスティープスは、手ごたえのなさに内心焦りを持った。
ここまで何の効き目もないと、勝ちの目も見えはしない。
ヴァラックの尾がスティープスを叩き、スティープスが流れのある水の底、砂利の溜まった所へ突っ込んだ。
気泡と碧色の水の向こうから、水中を迫りくるヴァラックの牙を見た。水の中、スティープスは泳ぎ来るヴァラックの牙をなんとかかわす。
そしてそのまま、水中であるにも関わらず、スティープスはヴァラックの頭を掴み、その頭に足を乗せて、自身を水上へ蹴り上げた。
「物は試しだ」
水上へ上がったスティープスのすぐ隣の宙を、誰かが通りすぎた。
その人の背後から何かが、水中から口を大きく広げ、そのまま噛みつこうと顔を出したヴァラックに向かって飛んで行く。
椎菜の見つけた、油の詰まった樽である。樽はヴァラックの口に入り、噛み砕かれて、ヴァラックは喉の違和感に目を見開いた。
彼が、ディリージアが油に火を灯した。
火は瞬く間にヴァラックの体の中に回り、強靭な体を内側から焼いていく。
かつて感じたことのない苦しみに、ヴァラックは悶え、のたうち回った。
水の中に落ちていったヴァラックは、息苦しそうになんとか顔を水上へ出す。
効果は確かにあるようだ。
「椎菜の言うこともあながち間違いではないらしい。このまま殺しきれるか?」
「まだ足りない。一つだけじゃ、あいつの体が治る方が速いみたいだ」
水から上がってきたヴァラックの体は一部が焼けただれて、はがれた皮膚が痛々しくぶら下がっていた。
しかし、そんな重症も目に見える速度で治癒していく。体の内側にも損傷を与えたはずだが、おそらくもう治り始めているだろう。
「数がいるな」
「どうやる?」
ディリージアは尋ねた。
「君が今やったようにやればいいじゃないか」
「全力で風を起こして、やっと一つ飛ばせたんだ。今度はお前が頑張れ」
「……。やるしかないか」
二人は馬車の下へと駆け出した。
ヴァラックは二人が移動したのを、鋭敏な耳と鼻で感じ取った。巨体を飛び跳ねさせて渓流を進むヴァラックが着地する度に、大地が震えた。
「スティープス!こっち!!」
椎菜の呼ぶ声に応え、馬車の下へと戻った二人は、椎菜の声を聞いたヴァラックがこちらへ向かってくるのを視認した。
「私ができるだけ食い止めるから、その隙に!」
おびき寄せられたヴァラックが、馬車の前までやってくる。
ヴァラックは目に入った椎菜の姿に威嚇の咆哮を吐き出して、飛び掛かった。
椎菜を守る漆黒の花は再び現れる。
重い打撃に少しずつ崩れながらも、ヴァラックの進撃を阻んでいる。
スティープスとディリージアが油の下へ辿り着いた。スティープスは樽を手で掴み、ディリージアは風を起こして樽を飛ばした。
腰の高さほどはある大きさの樽だ。彼らが常人よりずっと強い力があるとは言え、油の詰まった樽は相当な重さがある。
ヴァラックに投げつけられるのは精々一つずつだ。彼らは椎菜に襲い掛かるヴァラックへと、次々に樽を投げつけた。
ヴァラックに直撃した樽は、割れて油をまき散らし、ヴァラックの体を浸していった。自身に纏わりつく油の感触に、ヴァラックは危機感を覚えた。
ヴァラックはその場から離れようと巨体を動かそうとすると、手足が急に機能しなくなったことに気が付いて。
ヴァラックが痛みに喚く。怪物の手足には、花弁の槍が突き刺さっていた。
椎菜がヴァラックを逃さぬよう、目前で暴れるこの怪物が逃げ出す瞬間を待ち構えていたのだ。
スティープスとディリージアが、馬車にあった樽を全て投げつけた。
ヴァラックが油に身を包まれたのを見計らって、ディリージアが油に着火した。
炎がヴァラックを焼いていく。
身を振り、炎を消そうともがくヴァラックの体に槍を突き立て、椎菜はヴァラックが川に入らぬよう動きを封じた。
魔法の花に、炎は通らない。
串刺しになったヴァラックは、苦しそうに炎に身を焦がされながらも、魔法の槍を構え続ける椎菜に、少しずつ近づいて行った。
だが、椎菜は逃げ出さない。凛と立ち、迫るヴァラックに対峙する。
「椎菜!もういい!もういいから、逃げるんだ!!」
まだだ。まだヴァラックは生きている。
ここで逃せば、またこの怪物は元通りに体を再生してしまうだろう。
――――止めを刺さなくちゃいけない。今、ここで。
ヴァラックが椎菜へと辿り着き、勢いを付けて、噛みつこうとかま首をもたげた。
「椎菜!!」
椎菜が逃げないであろうことを予見して、ヴァラックを止めようとしたスティープスは、背後に叫ぶ大勢の声を聞いた。
スティープスの後ろから、彼を追い抜くように飛んでいくのは、何本もの矢であった。
背後から雨の如く飛来する矢をかわし、木に身を隠したスティープスが見たのは、川の下流に並ぶ人々だ。
それは、そう。
既に逃げおおせたはずの、ランケット商隊の馬車と、ここに戻ることを志願した男たちだ。
「ぼけっとしてんな!!」
矢の連射が止まった隙にヴァラックへと走り、椎菜を背に怪物に立ち塞がる獣が一匹。
ホリーと共に、商隊とこの場を離れたライオンだった。
ライオンは連れ去られたホリーのことを伝えるために、椎菜たちの所へと商隊の精鋭を連れて戻ってきたのだ。
邪魔なライオンを睨みつけるヴァラックの腕が、ぼとりと地に落ちた。
ヴァラックの全身に回った火が、ついにその体を焦がし、炭化させた。
最早、死を目前にしたヴァラックは、椎菜を道連れにするつもりだ。
燃えるその身を椎菜にぶつけようと、槍の刺さった部分を自ら切り離し、ライオンに促され、離れようとしていた椎菜へと這いずった。
「終わりにしよう」
剣を構える男が一人。椎菜を守る、仮面のスティープス。
馬車に積まれていた新たな剣を一振り持って、その剣には、ヴァラックを燃やすのと同じに油が塗られて。
ディリージアがスティープスの剣に火を灯した。
火は油に沿って燃え上がり、剣を一筋の炎に変える。
「剣先を上げるなよ。火傷したくなかったらな」
剣を持ち直し、スティープスがヴァラックへと向かう。
地面を揺らし、椎菜に飛び掛かったヴァラックに、炎を従えた剣は振りかざされて、強く、深く、怪物の頭に突き立てられた。
「やれ!!スティープス!!殺すんだ!!!そいつだけは!!」
熱された剣は脳を焼き、ヴァラックの動きを完全に止めた。
動くことも、思考することもできなくなって、ヴァラックは。
「そいつだけは!!生かしておくな!!!」
渓流に立ち上る一柱の炎の中で、絶命の叫びを上げて、黒い霧を爆発するように噴出させながら、一塊の炭へと姿を変えたのだった。
「大丈夫かい?お嬢ちゃん」
ヴァン・ヴァラックの脅威が消え去り、一段落して、落ち着いた椎菜に商隊長は声をかけた。
河原の石に腰掛ける椎菜は、彼らが助けに戻ってきてくれたことに驚き、お礼を言った。
「助けてくれて、ありがとうございます。どうして……、戻って来てくれたんですか?」
「いやぁ……、そのね……」
商隊長は申し訳なさそうに口ごもり、椎菜に謝った。
「あのー、君たちと一緒だったあの子、ホリーだっけか……。あの子が……」
「ホリーが姫にさらわれた。すまない。俺が付いていながら……」
商隊長の言葉を遮って、ライオンが謝罪した。
その報せに、椎菜は全身の力が抜けていくのを感じる。けれど、椎菜は悲観にくれようとする己を立て直した。
椎菜が落ち込んではいられないと思う程、ライオンの落ち込んだ様子は深刻な物であった。
「……、あなたのせいじゃないよ。だから、そんなに落ち込まないで?」
「……」
ライオンは返事をしなかった。
彼はホリーが連れて行かれてしまったことに、強く責任を感じているらしかった。
「あの子は私たちの代わりに、姫に身を差し出しました……。本当に不甲斐ないのは、私らです」
「あんたたちは元々無関係なんだ。それこそ、気にすることじゃない」
ライオンの言う通り、姫を商隊に合わせてしまったのは椎菜たちが原因だ。
姫が向こうから探しに来るとは予想していなかった椎菜は、姫に惨く殺されてしまったという商隊員を想った。
「ごめんなさい。こんなことになってしまって。商隊の人たちに御迷惑を……」
「いやいや、あんたらが気に病むことじゃないよ。なんか事情があるようだが、あの姫様のすることだ。別に珍しいことでもない。みんな被害者さ」
商隊長の気遣いが、今の椎菜たちには嬉しかった。
人が死んでしまったことを思えば、どれだけ憎まれても足りない程である。
椎菜はヴァラックがいなくなって、静けさを取り戻した渓流を眺めた。
また、椎菜の前からいなくなってしまったホリーの姿を、無駄だと知りつつも、この紅葉の中に探し求めて。
ヴァラックの燃えかすを前に、二人で話していたスティープスとディリ―ジアが戻ってきて、ぼうっと朱と黄の景色に目をこらす椎菜に並んだ。
ホリーを想う椎菜たちの目の先にある、その美しい景色の中に、異物が一つ。
黒い霧に覆われた顔を持つ、物語のお姫様然とした恰好の少女がそこに。
対岸の小砂利に立つ姿は、霧に浮かぶ狂気の顔を伴って、どこまでも気味悪く。
姫は傍らに、黒い大きな卵のような物を携えていた。
その卵の大きさは、子供一人が丸々収まる程度であった。
「……!」
「あいつ……!」
椎菜たちが自分の存在に気付いたことを確認すると、姫は黒霧に浮かんだ顔を満足気に歪ませた。
そして、姫は隣の卵を、手でコンコン、とノックした。
姫のノックに応じて、中から何かが卵の殻を強く叩く音がし始めた。何度も何度も殻を揺らすその音は、必死さを感じさせる。
まるで、内側から誰かが、外に出たいと足掻いている風に受け取れた。
「なんだ……?あれは……」
その場の誰しもが感じていた疑問をディリージアが漏らした。
姫の傍らで騒音を発し続けるあの卵は、何なのだろうか。
困惑する椎菜たちを心ゆくまで観察した後、姫は卵の中の誰かに話しかけた。
「皆が見てるよ?ほら、何か言わなくていいの?」
卵の中の誰かが、姫の言葉に反応して、殻はさらに強く叩かれた。
騒音の中に、少し違った響きを持った音が混じり始める。
それは、人の声。
悲観に暮れた叫びが――――
「……けて!……すけて!!!」
スティープスに、ディリージアに、ライオンに。あの子の声が。
「助けて!!椎菜さん!!!」
ホリーの声が、椎菜に、届いて。
ライオンが姫に向かって飛び出した。川に背を出した石の上を飛び移り、対岸の姫の下へと降り立った。
「駄目だ!!」
スティープスが叫ぶ。
姫の喉元に喰らいつこうとしたライオンは、微動だにしない姫が操る、不可視の衝撃に殴り飛ばされ、地に転がった。
「あなたはこいつとばかり一緒にいる。私は間違ってた。最初から、いらなかったんだ。こんなやつ」
姫は椎菜を見ながらそう言うと、卵を空に浮かべ、自身の正面に持っていいった。
すると、卵の中から聞こえるホリーの悲鳴が大きくなった。
「くそっ!どうする!どうする、スティープス!!」
「椎菜!!」
ディリージアもスティープスも動けない。
彼らの声は姫に届かず、何よりも、姫が紫在であるという事実が、彼らの足を止めてしまう。
今、姫と話すことができるのはただ一人。
箕楊椎菜、ただ一人。
「連れてって!スティープス!」
流れの強い川を越え、対岸まで椎菜を送るため、スティープスは椎菜の手を取った。スティープスはそのまま椎菜を抱きかかえ、空を飛んで川を渡る。
スティープスたちの姿が見えない姫は随分驚いたらしく、何処からともなく真っ黒な杖を取り出し、威嚇するように構えた。
姫のいる岸に椎菜を下ろし、スティープスは姫から椎菜を守れるよう、彼女たちの間に立った。
「椎菜。君に任せる」
「うん」
姿の見えない誰かと話す椎菜を見る姫は、苛立っていた。
姫の頭にある予感。
自分の傍にいてくれた“見えない誰か”が、今そこにいるのではないかという不安。
虚空に伸ばした姫の手をいつも取ってくれたあの人が、今、己の隣にいる邪魔な失敗作を助けようとしているのではないか。下らない優しさに騙された憧れの人と共に、自分に相対しているのではないか。
「何時もあなたは……、私のいない所にいる」
歩み寄る椎菜に、姫は冷たい口調で語り始める。段々近寄ってくる椎菜を突き放すように、黒霧の奥から発せられる声色は重く、強く。
「どうして私じゃないの?どうしてこいつなの?折角、夢の中に出てきてくれたのに……」
姫の声から次第に冷たさは失われ、熱が込められていく。諦めに満ちた声が、怒りの色に染まっていく。
「あなたも、他の人たちと同じなの?」
周囲に張り詰める異常な緊張は、椎菜の心にも染み込んでいった。
挫けず姫と対峙するものの、既に椎菜は囚われている。この緊張に、哉沢紫在の怒りに。
「あなたも私じゃなくて、ホリーを選ぶの?」
「私は……」
哉沢紫在の問いに、椎菜の答えは。
「私は……、どっちも選べないよ……。だって……」
スティープスたちが見守る中、哉沢紫在と、椎菜が――――
「ホリーのことが大事だよ。でも、あなたのことだって、私は嫌いになりなたくない」
本当の意味で、ようやく、初めて言葉を交わしたのであった。
「私と友達になりたいって伝えてくれた紫在さんとだって、私は仲良くなりたいよ……」
「だから、もう、止めよう?こんなこと、もうしないで?これ以上……」
「誰のことも……、傷付けないで……」
「いや」
「止めない。私は、止めない!私は我慢しない!!」
紫在がそう叫ぶと、河原の岩が空に浮かび上がった。
岩は椎菜に向けて急速に落下する。椎菜の側にいたスティープスが、椎菜を連れてその場を素早く離れた。
「なんで私ばっかり我慢しなきゃいけないの!!?なんで私ばっかり嫌な目に会わなきゃいけないの!??私のこと馬鹿にしてる人たちのために!!なんで私が!!!」
姫が高く手を掲げる。卵の周りに、いくつもの槍が現れた。
卵を囲んで、槍先は鋭利に尖り、卵に向けられた。
「あなただって……。どうせ、他の人を助けたいからそう言ってるだけなんでしょ……?」
姫の嘆きは、椎菜の胸に深く突き刺さった。
姫の事情を知った椎菜には、その一言がどんな意味を持っているのか分からないはずがない。
椎菜は自分という存在が、哉沢紫在という人間の心を救うには、余りに未熟であることを悟った。
「みんな、私じゃなくてホリーを見てる!私だって、頑張ってるのに!!ねえ、なんで?みんな、あいつみたいになれって私に言う!!!知りもしないあいつみたいに優しくなんて……、私にはなれないのに……!!!」
「私じゃできないのに……。私じゃあ……、誰にも好きになってもらえなかったのに……」
姫の手が力無く倒れると、槍が卵に突き刺さり。
槍は全て、中にいる誰かもろとも卵を貫いて。突き立った槍の隙間から、卵の中に溜まった血が流れ出した。
卵の殻が消えていく。
刺さる槍と共に、黒い霧となり、霧散して。
中にいたホリーを、変わり果てた姿になった少女を、白日の下に晒した。
「ホリー……?」
椎菜が名前を呼ぶ声が、紅葉の渓流に溶けていく。
「ホリー。ホリー…」
返事はない。何度呼ぼうと、返事をするホリーは。
「ホリー……!」
姿あれども、そこにはもう、優しいあの子は、スティープスの友達だというあの子は、一緒に湖の妖精を眺めたあの子は、自分のことを慕って、信頼してくれていたホリーは、もう、いなくて。
ホリーの亡骸に身を寄せて、椎菜は泣き崩れた。スティープスもディリージアも、ライオンもやって来て。
誰も、何も言わなかった。体中に槍で貫かれた跡のある、ホリーであったそれを前に、言葉無く佇むことしかできなかった。
「ほら、やっぱり……。あなたも好きだったんでしょ?そいつのこと」
姫の声に、怒りはなくなっていた。その代りに、深い深い悲しさがあった。
姫の顔を覆う黒い霧には、既に表情は浮かんではいなかった。
「ホリーみたいにしてる……、私が好きだったんでしょ……?」
姫は虚空に手をかざした。
誰かが掴んでくれるかもしれないと、淡い期待を持って。
見えない誰かが、自分の知らない誰かが、またこの手を掴んでくれると。
そんな希望は、叶わないと分かってはいても。
姫は想った。
強く、強く想った。
醜く歪んだあの城で、あの玉座で自分といてくれた誰かのことを。
諦観に、何もかもが意味を失くしていく姫の心の中、椎菜という希望を失った彼女が最後にすがるのは、夢の中でただ一人、手を取ってくれた彼のこと。
姫は思った。
――――あの人こそ、本当に友達だと呼べる人だったんだ。何時の間にかいなくなってしまった、あの人。私に愛想を尽かしてしまったのかもしれない。私は優しくなんてないから。ホリーのように、誰かに好きになってもらえないから。私とずっといてくれたのに。私はどうして、あの人に何も言ってあげなかったのだろう。私は、お礼の一つもあの人に言ってはいなかった。
――――そうだ、あの人こそ。
――――あの人こそ、本当に私を大事に想ってくれていたに違いない。
姫は椎菜に向けていた期待を、別の誰かに移していった。
姫を余所にホリーの死を悲しむ椎菜ではなく、何処かできっと、自分を想ってくれているであろう、見えないあの人に。
すると、姫に見えている世界に変化が起きた。
姫の目前、姫の嫌いな、自分の分身に涙を流す椎菜の後ろに、白い執事服を着た男が見えたのだ。
姫は我が目を疑った。
幻覚を見ているのではと恐怖もしたが、次第に姫は理解した。この人が、自分の会いたかった見えないあの人であるのだ、と。
そして、姫は絶望したのである。
「え……」
突然現れたその男は、ディリージアは、ホリーの亡骸を見ていた。
少し離れた位置からでも分かる程、ディリージアはホリーの死を悲しんでいることが姫に見受けられた。
彼も、ディリージアもまた、ホリーを選んだ一人だったのだ。
姫はとぼとぼと、ディリージアに近寄った。手を伸ばし、彼の服を摘まんで、引っ張った。
「……?」
ディリージアは驚いた様子で振り向いた。
姫が自分の後ろに来ていたことはもちろん、姫に自分の姿が見えているらしいということに、ディリージアは驚いて。
「見えているのか……?俺が……」
ディリージアの言葉に、皆が顔を上げた。
その中の、椎菜の顔を見て、姫は怒りを持った。
悲しみに打ちひしがれた顔だ。
姫ではなく、ホリーを選んだという何よりの証拠だ。
しかし、姫の興味はすぐにディリージアへと戻った。
「あなたも……、ホリーがいいんだ……」
「紫在……。違う……。俺たちは……、スティープスだって、お前のことを……」
姫はディリージアから手を離した。
もう何も、姫は信じられなくなっていた。
空を見上げて、独りで姫は泣きだした。
近くに椎菜たちがいたとしても、彼女は独りだ。
現実でも、夢の中でも、姫は誰とも心を通じさせることはできなかった。
未だ悲しみに暮れる椎菜たちは、死んでしまったホリーの体が、黒い霧に変わっていくのに気が付いた。
姫の泣く声に応えるようにホリーの体が黒霧となって、姫の方へと集まっていく。
「何……?」
椎菜は消えていくホリーの亡骸に、事態の異常さを感じ取った。
ホリーの体が全て霧に変わり、姫の下に集まると、ホリーだった黒霧は徐々に姫の体に溶けていった。
すると、姫は頭を抱え、悶え苦しみ始めて。
そして。
そして、その場にいた者たちは、夢の奥に潜み続けていた“何か”の声を聞いた。
「泣いてもいいんだよ」
「逃げ出してもいいんだよ」
「諦めても、いいんだよ」
姫の背後に、一人の男が現れた。
優し気な口調で姫に言葉を捧げるその男は、直立不動でぴくりとも動かずに。
男は白いスーツを着込んで、スティープスたちと同じように手足が長く、姫と同じように顔には霧がかかっていた。
ただ姫と違うのは、彼に纏わりつく霧は、黒色でなく、白い。
「君は……、誰だ……?」
椎菜に寄り添っていたスティープスが立ち上がり、突如現れた白い男に話しかけた。
男は指一本動かすことなく、スティープスの問いに答えた。
「怪物さ。君の持ち主たちが、望んだ怪物」
その間に、姫の顔から黒い霧が全て取り去られた。
黒霧は全て姫の体に溶け込んでいき、姫の顔が、紫在の顔が、夢の世界に晒された。
少女の顔であった。
どこまでも無表情で、欠片の感情も浮かばぬ顔であった。
そして、その顔は、ホリーと全く同じ形をしていた。
紫在に苦しんだ様子は既になく、黒い髪を揺らすその佇まいは、以前より凛としていて。
「ごめんなさい……、椎菜さん……」
酷く震えた声で、紫在は一言発した。
それから、紫在は空を仰ぎ見て、“それ”の到来を祝福した。
紫在の背後に立っていた白い男は、自らの足元に現れた白い霧に身を溶かしていく。
男が完全に白霧に変わると、白霧は空へと昇り、空を覆う白色に混ざった。
すると。
空から降りてくる何かが、とても大きな体をした何かが、全身白色で、あのヴァラックより遥かに大きく、山が小さく見える怪物が、どろりと空から、落ちてきた。
大きな、全身真っ白の、それは赤子のような姿。
白い体にヴァラックのような爪はなく、人間の手に似た両手を巨体に提げて、丸い顔には、羊の角が生えていた。
顔。そう、その怪物の顔には。
姫の顔を覆っていたあの黒い霧と同じく、何時も世界を嘲笑っていた、あの醜い顔が浮かんでいた。
血走った目で世界を見下ろす。吊り上がった口端は、恐怖に怯える人々を笑う。
天に伸びる巨体の白き怪物は、優しげに言う。
「ようやく、この時が来た。君が優しさを取り戻して、僕を思い出してくれる、この時が。さあ、始めよう。君が君の願いを受け入れられるように、僕が導いてあげるよ。紫在」
夢の世界の住人たちは、その怪物の姿を見て、こう言った。
“ヴァン・ヴァッケス”、と。
ヴァッケスは紫在に目を向けて、何か言いたそうに首を傾げた。
「いいよ」
紫在の返事に、ヴァッケスは狂喜した。
ヴァッケスは巨大な拳を振り上げ、地面へと叩き下ろす。地面が大きく揺れて、地割れがいくつも起きた。
「危ない!」
スティープスは椎菜を抱きかかえ、空へと飛んだ。
ライオンもディリージアも、それぞれ退避したようだ。
椎菜はスティープスと共に、空から夢の世界を見下ろした。
そこで、ヴァッケスが拳を振り下ろしたのは、ランケットの街であったことを知った。
ランケットの街は跡形もなく潰れ、街全体に広がる崩れた地面に、建物は変わり果てた姿を横たえていた。
「何……?何なの……、あれ……」
恐怖に震える椎菜は、ヴァッケスと目が合った。
ヴァッケスは椎菜をじっと見つめて、醜い顔を楽しそうに歪めた。
スティープスは危険を感じ、すぐさま地上へと降り立った。
スティープスは椎菜を放そうとしたが、彼女が服を掴んで離そうとしないことに気が付いた。
「スティープス。椎菜さん」
紫在はホリーと同じ声で、スティープスと椎菜に呼びかけた。
感情はなく、無機質に。
「ヴァン・ヴァッケスは、この夢を壊します。全てを壊します。少しずつ、壊していきます」
スティープスはあることに気が付いた。
紫在がスティープスの名前を呼んだ時、紫在は確かにスティープスの方を見ていた。
ディリージアのように、スティープスのことも、紫在には見えるようになったのかもしれない。
けれど、紫在は誰の返事も待たず、姿を消した。
ヴァッケスは空へと戻っていき、再び空の白に混ざっていって。
蠢く黒色をかき分けて、空に、大きく醜いヴァッケスの顔が現れた。
ヴァッケスは何時でも降りてくるのだろう。紫在が命じれば、何をもするのだろう。
椎菜は哉沢紫在の夢の中、紫在の心が捉えきれなかった絶望と、世界を見下ろす終末の笑顔の孕む狂気に耐え切れず、気を失った。
「椎菜さん。お城まで、来てくれるんですよね?私、待ってますから。ずっと……」
薄れていく意識の中、椎菜は。
「ずっと、あなたのこと、信じていますから」
死んでしまった筈の、大好きだったホリーの声を聞いた気がした。
・
・
・
・
・
13th tale End
・
・
・
・
・
SIN-CIA - Domestic Violence - End
to
SIN-CIA - Stardust struggles -